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越境の映画監督 日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】 2009年4月14日
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*伊藤大輔(映画監督1898〜1981) 代表作に『女人曼陀羅』「丹下左膳」 「映画評論」 1934年(昭和9)4月号より引用 |
![]() 1934年4月号 |
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古式に塗り潰された「旧劇」を、高い水準にまで引き揚げた伊藤さん! いまさらに、このひとの作品目録を繙かなくたって、伊藤さんの存在は時代映画を論ずる場合、あまりにも大きい。またそれはとりも直さず、日本映画の歴史を舒べる場合に於ても。 伊藤さんの、物事に関する述べ方は、最早、われわれが口を挿む余地なき迄に完璧であろう。 それは兎も角、強力的な製作支配下に於て、偶々伊藤さんは自身が拵え上げたところの倜確な範疇の中に安住しているかのように見受ける。月を俟たずして踵に次ぐ現在の製作状態では勿論一本一本のフイルムに、新しい意気込と芸術を探求することは不可能なことであろう。 (省略) 先づわれわれは伊藤さんの作品から、情熱を感ずることが出来る。 だから伊藤さんの作品には、荘厳な嘘の中にも細部の真がほの見えて居り、また芸術の上で描かれる有りの儘の真というものの成り立たないものを、自然をして芸術の諸条件に適合させ成り立たしめている。有りの儘の真は、何故成り立ち得ぬか? 伊藤さんの場合は、現れて来る人間(代表的な存在としては大河内傳次郎)が、伊藤さんの理念(イデ−)による仮構物(フイクション)であり、一概念の具象化されたロボットであるが、而し意匠を施し、綿密に構成され、血肉を興え、魂を吹込む創造力をいつの間にか完成する。 が、実在と象徴とを具備した可成り人間化された人間である。 こゝに、その人間の行為の、範囲の狭隘さがありはしまいか?
日本映画が文化の波に乗って、世界の隅々まで影響する日があるならば、風俗史を、社会史を、更に大きな世界へ向けて貰いたいのが、われわれのこれからの伊藤さんに対する翼望であらねばならぬ。 幾分か鬼面人を暍するような気味のある圧倒力は、ネバリ強いこの人の思考の力量感から来るであろうし、万事大袈裟で誇張した一面は、この人のシヤルラタニズムから来るのであろう。 ― が伊藤さんの想像力は、その叡智と観察と情操と空想と追憶との総合の融和されたもので、その驚くべき想像力は、可能を忽ち現実に見たり、見るものと見たと信じたものとを混淆し、往々真実らしくないものまで現実と見る為に、伊藤さんの作品にはわれわれが幻覚と称するような真実らしくもないものと不可思議な交渉も亦自然の中に存し、錯覚も実在の如くなりすべては純主観的となっている。
さらに、想像の世界もその独特な形式に於ける現実の世界であり、内面の世界も他の世界の延長であり、自然の中の新たなる自然となっている― のではあるまいか。 われわれ近代人の主知的傾向は、最早人間の固形化した明らかな典型や、輪郭の鮮明な、行為の単純な人間が描かれるのを不自然に感じ、伊藤さんの描く人間を嘘と感ずる場合もあるが「現実は狭いが可能は広い」ように、それらはまた伊藤さんの場合、宏大な想念上の可能な範囲にある人物なので、ここに伊藤大輔に於けるロマンチシズムとレアリズムとの混淆の秘密があるのであろう。 ― 3 ・ 3 ―
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1934年4月号 | |
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