越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

                                                     2009年4月14日


  伊藤大輔論  

日夏 英 (26歳)


*伊藤大輔(映画監督1898〜1981) 
代表作に『女人曼陀羅』「丹下左膳」
 

「映画評論」 
1934年(昭和9)4月号より引用  

1934年4月号

 古式に塗り潰された「旧劇」を、高い水準にまで引き揚げた伊藤さん!  
  詩情を盛り、芸術を載せて緻密な網を織り上げた伊藤さん!

  いまさらに、このひとの作品目録を繙かなくたって、伊藤さんの存在は時代映画を論ずる場合、あまりにも大きい。またそれはとりも直さず、日本映画の歴史を舒べる場合に於ても。

 伊藤さんの、物事に関する述べ方は、最早、われわれが口を挿む余地なき迄に完璧であろう。
 或る時代或る社会に生活している人間を、明確な恐らくその時代の人達より遥かに明確な自発性と真率性とを持った個人として、それを或る歴史過程の生々しい具現とし、或る社会的意味として強烈に刻印し、而も自身の夢みた性格として必要な総てだという調子で描いている。例えばその偏執狂を描く場合に先づ本源になる意思をとり、その情熱を要素とした上で具体的事実を蒐め、それを有るが儘に描いて目に見える行為で社会に接触させ闊歩させる故に、その人物の思想は常に生活の言葉に置き代えられ、その行為には常に精神的基礎があり、ある観念に隷属せしめられている。その行為には何ら矛盾もなく、その「流れ」も細緻に述べられて、倜確な範疇を拵え上げた。
 その流儀を「話術」と解釈するひとに対して、伊藤さんはそんなものでないと主張する。

 それは兎も角、強力的な製作支配下に於て、偶々伊藤さんは自身が拵え上げたところの倜確な範疇の中に安住しているかのように見受ける。月を俟たずして踵に次ぐ現在の製作状態では勿論一本一本のフイルムに、新しい意気込と芸術を探求することは不可能なことであろう。
 が、われわれが渋滞を感ずるとすれば、正しくここに論趨するものであろう。

 (省略)

 先づわれわれは伊藤さんの作品から、情熱を感ずることが出来る。
 一つの映画に作者の情熱が感じられぬこと程、侘しいものはなかろう。
 伊藤さんの優れた良さのひとつは、観る者をしてその情熱の中にひたぶらせることだ。
 情熱こそ、人間の総てであり、芸術の意思(ヴオロンテ)である。そして情熱の根本には、その行為を決定する要素としての神経体― 一人毎に違うが、人が物事を思考する場合、筆を執る場合、構成する場合、キャメラを据える場合、モンタアジュする場合、それを如何使い分けるかゞ問題となろう。
 伊藤さんの場合は、問題を必ず行為に照らして、この意思を持った人間を更に探求している。

 だから伊藤さんの作品には、荘厳な嘘の中にも細部の真がほの見えて居り、また芸術の上で描かれる有りの儘の真というものの成り立たないものを、自然をして芸術の諸条件に適合させ成り立たしめている。有りの儘の真は、何故成り立ち得ぬか?
それは既に統裁権に依る制肘を無視し得ぬことと更に実在の事物の大部分が怖ろしく退屈なもので、真のうちからも詩的となり得るものを把える― この才能が自然を精神化する芸術であるからである。
 

 さらに、時代映画の存在価値をより高い観点から考察するならば、山上さんの「リアリズムの新しい解釈」即ち細部の現実性のほかに、典型的な環境に於ける典型的な性格の完璧な表現並びに山上さんの仕事の本質―
社会的な現実をたゞ有りの儘記述するだけで満足せず、「その現実が如何にして発生し、如何に成り行くかの深い洞察と認識とをもって」、現実の底に横わる普遍的真理と法則を究めその哲学を築き上げ、そこから解剖学の如く物質的なその真理を、形而下に具体的な言葉で置き換える為に、その哲学や思想を例証すべき人物や布置を空想によって創造し、再現し、何よりも強烈に明確に表現するのである。われわれは山上伊太郎脚本集を読了して、等しくこれを感じた。
 それは、個人の中の群衆を、群衆の中の社会を、社会の中に人類を見て、その芸術は事物の精神を― 換言すれば個体を全体に結び、瞬間を永劫に結びつけた表現であると思う。

 伊藤さんの場合は、現れて来る人間(代表的な存在としては大河内傳次郎)が、伊藤さんの理念(イデ−)による仮構物(フイクション)であり、一概念の具象化されたロボットであるが、而し意匠を施し、綿密に構成され、血肉を興え、魂を吹込む創造力をいつの間にか完成する。
 それは、空虚に跨った抽象的な類型でもなく、物質的な個性でもない。

 が、実在と象徴とを具備した可成り人間化された人間である。
 且つ、その人間は総て連帯関係を有し、孤立した自発的の現象としての個人ではなく、士農工商その他の或る階級に於てのみ描かれるものである。

 こゝに、その人間の行為の、範囲の狭隘さがありはしまいか?

   日本映画が文化の波に乗って、世界の隅々まで影響する日があるならば、風俗史を、社会史を、更に大きな世界へ向けて貰いたいのが、われわれのこれからの伊藤さんに対する翼望であらねばならぬ。

 しかし、その物事の表し方で、すべての人が伊藤さんに及ばないことを、われわれは悉知している。
 何故か?
  伊藤さんの作品を見ると、百人力の頑力で引摺られているようで、描写の自然不自然を唱える余裕など興えられぬほどの圧倒力を持っている。

 幾分か鬼面人を暍するような気味のある圧倒力は、ネバリ強いこの人の思考の力量感から来るであろうし、万事大袈裟で誇張した一面は、この人のシヤルラタニズムから来るのであろう。
 また、話を本当らしくしようとして、不必要な挿話が夥しいまでに乗り出してくる無遠慮さは、磊落な明るさから来るのでもあろう。

 ― が伊藤さんの想像力は、その叡智と観察と情操と空想と追憶との総合の融和されたもので、その驚くべき想像力は、可能を忽ち現実に見たり、見るものと見たと信じたものとを混淆し、往々真実らしくないものまで現実と見る為に、伊藤さんの作品にはわれわれが幻覚と称するような真実らしくもないものと不可思議な交渉も亦自然の中に存し、錯覚も実在の如くなりすべては純主観的となっている。

 さらに、想像の世界もその独特な形式に於ける現実の世界であり、内面の世界も他の世界の延長であり、自然の中の新たなる自然となっている― のではあるまいか。
 そして、その想像力は、過去の記憶の総ゆる形象によって働くのではあるまいか。

 われわれ近代人の主知的傾向は、最早人間の固形化した明らかな典型や、輪郭の鮮明な、行為の単純な人間が描かれるのを不自然に感じ、伊藤さんの描く人間を嘘と感ずる場合もあるが「現実は狭いが可能は広い」ように、それらはまた伊藤さんの場合、宏大な想念上の可能な範囲にある人物なので、ここに伊藤大輔に於けるロマンチシズムとレアリズムとの混淆の秘密があるのであろう。

           ― 3 ・ 3 ―

 


1934年4月号

  
     一時期、日夏英太郎は日夏英の名を用いていました。


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