越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

    

                  ☆ 日夏英太郎のお墓参り       2011年6月5日更新


  さて、2004年11月20日、 ついにジャカルタ行きが実現することに
なりました。                                     

プタンブラン墓地

 

 2004年11月20日の夕刻、私達を乗せた飛行機がジャカルタのスカルノ・ハッタ空港に到着いたしました。 

 夢にまでみた父・日夏英太郎が呼吸をしていた国・足跡を残したジャカルタへ、私は緊張の面持ちで第一歩を踏み入れました。
 空港内は壁に飾られた装飾品といい、木々といい色あざやかで、それでいて落着いていて、私はインドネシアが素晴しい南国のセンスあふれる国であるということを感じ ました。
 
 空港の外に出て、迎えの車に乗り込む間に見た夕刻の5時半ごろの景色は、家々のオレンジ色の屋根が夕闇に浮立ち、とても綺麗でした。
そして私は、素朴な原色の美しさというものに心が惹きつけられてしまいました。

 インドネシアの人口は約2億1千万人で世界で4位だそうですが、1200万人がジャカルタに住んでいるとのガイドのハットさんの説明でした。
人口の9割がイスラム教で、今はイスラム教の30日間の断食が済み、続く10日間のラマダン(日本の正月にあたる)も終わり、明日から仕事が始まるので、みんな家にいて今日は交通渋滞がないとのことでした。

 車はスイスイと走りも軽く、ものの30〜40分で私達が宿泊するジャカルタ市内のアメリカ系ホテルの敷地に 入りましたが、すぐにストップさせられて、ホテルのガードマン数名に車中で怪しい手荷物がないかをチェックされてから、やっとホテルのエントランスへ到着しました。

 ここでも私たちはボディチェックをされた後、空港と同じ金属探知機の下をくぐり、ブザーが鳴らなかったお蔭でホテルの建物に入れましたが、ジャカルタのテロ組織、ジェマー・イスラミアの自爆テロを恐れてのことでしょう。

 ホテル内は、南国の鮮やかな緑の木々を背景に、素敵なシャンデリアと美しい大理石で装飾が施され、2階のフロントに続く階段は、きらびやかで、まるで私は夢の世界にいる様な気分になりました。

 私達は、夜の7時頃、ホテル内の西洋レストランで厨房の白い湯気がたち、コックさんたちが立ち振舞う姿も見える席で和気あいあいと、彩りもきれいな食事に舌鼓を打ちましたが、私は、明日はいよいよ念願のお墓参りが実現するのだという思いで心がいくぶん高揚しているように感じました。

 その晩はホテルの部屋で、父・日夏英太郎の眠る同じ土地にいるのだと思うだけで、私はそわそわして、なかなか寝つけませんでしたので、明日父に対面して話したいことをメモにして心を落着けました。

 2004年11月21日の午前10時ごろ、私達は専用のバスで都心のホテルから40分程のジャカルタ市近郊住宅街にあるプタンブラン墓地に到着いたしました。
 
 私は緊張と喜びの面持ちで緑の墓地の門をくぐりました。
すぐ左手にある管理事務所でドクトル・フユンのお墓の場所を尋ねたときは、所在がつかめず一体どうなるのかしらと不安になりましたが、私たちの現地ガイドのハットさん、墓地の係の方たちが額を寄せ合い必死に台帳をめくり探してくださったお蔭で、事務所からものの4〜5分も行かない所にある父のお墓が判明しました。

 墓地の管理人さん3〜4人が父のもとへ、ゆっくりと私達の足元を気遣いながら案内してくれました。                                              

 『シネアスト許泳の昭和』で見た通りの、屋根つきの キリスト教のお墓でした。                                 
 プタンブラン墓地はイスラム教徒以外の、仏教徒やキリスト教徒を祀るお墓ということでした。
 先ほどまで、激しく降っていた雨もすでに小雨に変わっていました。 墓の周囲は朝の静かで、しっとりとした空気で包まれていました。

  プタンブラン  

 
 2004年11月21日の、ジャカルタ市近郊にあるプタンブラン墓地での父との対面は、幼少のころより望むべくもないと諦めていた私にとって、私の人生における最大の感動と、ここに静かに眠る父をみて、ほんとうに良かった! という大きな安堵感をもたらしてくれました。

 小雨そぼ降るなか、私は息子とローソクに火を灯し、日本から持ってきたお線香を焚き、 清楚な日本のお花と南国インドネシアの色鮮やかな明るいお花を墓前に献じました。                                          それから、母・花子と、父が愛してやまなかった兄・憲之 介(10才で溺死)の写真を墓前に捧げました。

 いまも私の自宅に残されている兄のアルバムには、父の字で、「憲之介とともに」というタイトルが書かれ、幼い兄を抱く幸せそうな父の笑顔があります。

 そして、兄の写真の横には、“笑っている憲坊。、ちょっと怒っている憲之介”などとの父の添え書きがあります。私はその兄のアルバムを手にするとき、父の兄に寄せる愛情の深さにとまどい、同時にわずか10才で生きるということに終止符をうたねばならなかった兄を想い、 切なくなるのが常でした。

 次に、私は、そっと『シネアスト許泳の昭和』を墓にたむけました。それから、私は父に深く深く合掌いたしました。                                                     

 「祖国朝鮮へも日本へも戻ることを断念せざるを得なかったあなたの気持を思うと胸がせつなくなります。でも苦難な時代を精一杯生きて、この色彩の美しい、純朴な人々がいっぱいいるインドネシアで、あなたの命ともいえる映画製作に打ちこむことができ、あなたの華が開き、ほんとうによかったですね」 と父に私は語りかけました。
 
 涙が頬を伝わりましたが、 こうして父の墓前で父との対話が叶い、私の心は幸せで充ちていました。

 この日のこの瞬間を実現するために4年間を費やしましたが、父に祈りをささげ、私は心が安らいでくるのを実感いたしました。

 息子の表情も爽やかでした。

 なにかと私達の世話をやいてくれた墓地の管理人さんたちの親切や、私たちを見るために どこからともなく集まってくれた、おばあさんや子供たちの明るく、人なっつこい笑顔や、きらきら輝く瞳も忘れられないものとなりました。 
 ― トゥリマカシ(ありがとう) ―  

 私たちは、心が充たされた、とても爽やかな気分で墓地を後にすることができました。

 私は、2005年の年賀状に次のような文面を記しました。
 
 昨年11月21日、62年ぶりに私は、ジャカルタ市のプタンブラン墓地に眠る父・日夏英太郎との再会を果たすことが出来ました。
 
 父「朝鮮名・許泳(ホヨン)」の足跡を克明にたどり、「シネアスト許泳の『昭和』」(1987年・凱風社)を著してくださった内海愛子・村井吉敬 大学教授(東南アジア研究)のお蔭でした。
 
 父は1941年11月、日朝合作「君と僕」のメガフォンを撮った後、陸軍報道班員(軍宣伝班)としてジャワに渡り、「豪州への呼び声」を撮影しましたが、1945年8月の日本の敗戦後は日本に戻らず、1952年9月に43才で他界するまで 黎明期のインドネシア映画界でドクトル・フユ『Dr.Huyung』として、寝食を忘れて、演劇指導・映画製作に打ち込みました。
 
 1951年に製作・監督した、対オランダ独立戦争下、自己のアイデンティティーを模索する混血女性(フリエダ)をヒロインに据えた 『天と地の間に』が1997年10月の「山形国際映画祭」と韓国の「釜山国際映画祭」で同時上映され、“アジアの夢アジアの遺産”と評価されたことを知り、【お父さん、良かったね】と、思わず私は小声でつぶやいてしまいました。

 


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