“母の命日によせて”

お母さんと呼んでみたい時がありますよね・・・
 

 

      ハナコ18歳の頃? 

2007年11月18日更新

 

今年も73日に43回目の母の命日がやってきます。

43
歳という、あなたの早すぎる死でした。

高校三年になったばかりの私ひとりを残して、さぞ、切なかった最期だったと思います。

腎不全でしたね。

あなたが、かえらぬ人となって数年で人工透析が出来るようになっていました。

私は、残念でたまりませんでした。

昭和11年頃の今は亡き父とのあなたの京都での出会い。

そして兄の誕生。

第二次世界大戦中の昭和
17年に私が生まれて一週間後の父の南の国への出征。

この頃までが、あなたの平穏な日々だったのではないでしょうか。

戦果は昭和18年ごろから次第に日本軍に不利になっていきました。

昭和208月の日本の敗戦、そして復興の時代に移りましたが、父は帰国しませんでした。

食糧事情も悪く戦後の困難な時代に、女性が二人の子供を抱えて生きていくことがどんなに大変だったか今の私にはわかります。

あなたは、ひたすら働いて兄と私を育ててくれました。

しかし、運命は過酷で兄は十歳でプールで溺死しました。

あなたは中学生の私に「半狂乱になったのよ」と、その時の胸中を話してくれましたね。

短い人生での苦労と悲しみを背負い、あなたの楽しみはあったのでしょうかと、不肖にも私はつい考えてしまいます。

でも、人も羨む天性の美貌に恵まれ、私が路頭に迷わないだけの物を残してくれたあなたには、今も頭が上がりません。

平成1212月。ふとしたことから、私に父の情報がもたらされました。

父は戦後、南の国で生きていたこと。

私が十歳のときに病死したことなどが。

衝撃的でした。

父が戦後しばらく生きていてくれたことが嬉しくて、私は涙が止まりませんでした。

父が帰国しなかった、或は帰国できなかったのは父なりの苦しい決断があってのことだと思います。

近頃、私はふと思います。

あなたは父が生きていたことを知っていたのではないかと。

期せずして、ともに母43歳、父43歳の最期でした。

2003.6.24記

日夏もえ子

 

         

          高等女学校卒業の頃

      

 

トップ頁へ