越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

 

  ― 日夏英太郎と花子・京都の出逢い ―  

                                                       
2011年6月15日更新

 


 

 

 

鎌倉山  コマーシャル撮影

 私は母から、京都の松竹下加茂撮影所見学に行って父に出逢ったと聴きました。

 しかし、撮影所内の何処で、どうして知りあったのかな・・・などと想像するだけでしたが、2006年12月に私は日夏英太郎と花子を知る徳島在住の私の
従姉の 麻子(花子の長兄の娘)さんから突然電話をもらい、以後文通や京都での再会を得て両親の巡り逢いのことを具体的に知ることが出来ました。

 花子は森永スイ−トガ−ルの同僚2人と当時人気絶頂の高田浩吉さんの下加茂撮影所内楽屋を訪れた時、浩吉さんと仲が良くて、助監督をしていた日夏英太郎と逢ったということでした。

 花子は、1934年(昭和9)春に東京の女学校を卒業して森永スイートガールになっていますが、2人の出会いは、この年であったのではないかと思います。
 
 
母は高田浩吉さんが歌って一世を風靡した京都下加茂映画主題歌の「大江戸出世小唄」は、日夏英太郎湯浅みかのペンネ−ムで作詞したもので、一緒にいたとき書いていたのよと、後年娘の私に語っているからです。同映画は1935年(昭和10)2月封切
 


マキノ映画倒産後
1931年(昭和6)夏ごろ、父は松竹映画株式会社 に入社して、助監督を務め、また脚本「雲霞の兇敵」(1933年)「辻斬ざんげ」(1934年)などを執筆していました。

 さらに、日夏英太郎は「湯浅みか」のペンネ−ムで下加茂映画主題歌「濡れつばめ」(1933年)の作詞もしていま す(歌手は市丸さん)。

  1935年(昭和10)に英太郎は「
湯浅みか」の名大江戸出世小唄」に続き、大江戸出世小唄 のB面「見返り柳」、「やくざの掟」、「かごや判官」、「しゃぼん玉の唄」(流れ唄月の出潮主題歌)そして翌1936年に「江戸節めをと姿」「判次呼び込み唄」(江戸節めをと姿主題歌)の作詞も手がけています(何れも松竹下加茂映画主題歌で歌手は高田浩吉さん)。

 

 



  湯浅みか作詞
・藤田まさと増補

  
  一方、母の花子は、時代の先端をゆく、森永スイートガールとして、森永のチョコレートなどのコマーシャル撮影と森永日比谷店などの店頭での宣伝などに17、18歳の若き日々を費やしていま した。

 今も私の手元にある花子のアルバムには、岩原スキー場でのさっそうとしたスキーウエアに身を包んだ姿や、鎌倉由比ヶ浜の浜辺での大きなパラソルの下、上品な水着に薄いウエアを着こなした素敵なスナップ、羽田飛行場で小型飛行機の操縦席にすわった、あるいは鎌倉山でのシックな車の前での撮影など、時代の憧れをちりばめたphotoの数々があります。
 
 花子は若さが眩しい、目の大きな、くっきりとした、華やかな美貌の持ち主でした。

 母のアルバムには「あこがれのスイートガール・あこがれの制服よ」と、若き日の心踊る字で自分の制服姿の写真の横に添え書きがしてあります。

 花子にとっては、この時代が、充実した夢のある青春そのものであったと思います。

 花子は、山陰の小京都とも呼ばれる島根県・
津和野町の出身ですが、4人兄姉の末っ子として育ちました。
 
 祖父は、手広く商業を営む町の名士ということでした。

 
 祖父亡き後、商いを継いだ伯父は、間もなく商売に失敗し、祖父の残した莫大な財産を失い、一家は「津和野小町」と言われた祖母マキを連れて、逃れるように故郷をあとにして、東京 にやってきました。

 花子は神保町の金華小学校を卒業していますので、10才頃までになめた彼女の辛酸さというべきでしょう。
 
 スイートガールの先輩には、「女優の桑野通子さんがいるのよ」と私は、母から聴いたことがあります。
 
 写真で見るかぎり、日夏英太郎は、美男子というよりは、知的な感じのする人です。
 
 英太郎は、
朝鮮出身の映画作家でした。

 松竹では日夏英太郎は、朝鮮出身であることをふせて仕事をしていたみたいです。


 日本が韓国併合条約により、韓国を植民地にしたのが1910年(明治39)で、世間の朝鮮人に対する差別や蔑みには辛らつなものがありましたから、リベラルな人が多い映画界といえども、英太郎は、口に 出さなかったというのが実情だったのではないでしょうか。

 亡き母から父・日夏英太郎の国籍を聞かずじまいの私は、「ほんとうのことを言ってほしかったのに・・・」という気持ですが、 あるいは母は、私が大人になってから言うつもりだったのかも知れません。                   

 その時代を生き、その時代の空気をすった弱者の側の気持にたたなければ、本質はつかめないと思います。
 私は時に母の気持が悲しく、切なくなります。

 ジャカルタ・プタンブラン墓地
の日夏英太郎の墓碑銘には、1908年9月21日満州生まれと刻まれています。  

 


          
京都賀茂川中賀茂橋にて
 
                 
左後方の山は衣笠山か大内山。
              
   右後方は鹿鳴春飯店(現在も営業)


 従姉の麻子さんから聞きましたが、宮崎町の家に日夏英太郎の妹が私の兄・憲之介の世話をしに一週間ほど来てくれたそうですが、日本語が話せないこともあり、すぐに満州に帰って行ったと云う事でした。

  満州の大都市のような印象をうけたと麻子さんは言っていました。
 
 英太郎は、朝鮮のK中学校を卒業し、1924年(大正14)春頃までには日本に勉強のためやってきたと私は思っています。

 そしてF高等学院(現在の大学にあたる)で学んだ様です。 (本人の回想録より)
 
  また、東京外語で、英語とマレーシア語を学んだようです。

 その後、遅くとも1929年(昭和4)迄には、マキノ映画に入社しています。

 日夏英太郎は1931年(昭和6)前半にマキノ映画で「
処女爪占師」「紅蝙蝠」の脚本を書き、「マキノ大行進」の編集も手掛けましたが、マキノ映画の解散という憂き目にあいました。
 しかし、
同年夏ごろには松竹 映画株式会社下加茂撮影所監督脚本部に勤務することが出来ました。


 此の時のことを日夏英太郎は『
洛東雑記』で述べています。 (「下加茂」1931年11月 号引用)

 「秋! 洛東・加茂の堤に月見草高く咲き乱れ、はろばろとひろがったすがゝしい層雲の蒼ッぽい構図をハスに切って、スタジオのトタン屋根が、シンシンと蒼白い月光に浸されている。その屋根の下で、煌々たるライトを浴びたスタジオマンの姿が、バルヴオの冷たい金属性の音の中に溶けてゆく。

 加茂河原の水は、とまる事を知らずしてとわに流れるかの如く、そして真白な水瀬の心よき韻律は、松竹のヒトとなった僕への印象深きプレリユ−ドだ。

 しかも、なごやかな此のスタジオの愛情のなかで、人は怒り、人は泣き、そして人は笑う」

 日夏英太郎は、松竹の人となって3年が経ったころ、花子と巡り逢ったと言えそうです。

 私の手元に残された両親のアルバムをたぐると、2人は少なくとも1936年秋ごろには京都植物園近くの家で、新婚生活を始めています。

 英太郎28才、花子19才の秋のことでした。

 


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