越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

                                                     2010年10月18日更新


 近頃のはなし 

日夏英太郎 24歳



「下加茂」 
1933年(昭和8)8月号より引用  
 

松竹下加茂映画雑誌


下加茂撮影所

   放送台本に就て

  これでラジオの放送台本を書くのは、三度目である。
 第一回が「白波財布」―これは都合で中止になった。二度目は
「濡れつばめ」―割にセリフで
持たす場面があったし、
映画の方のシナリオも書いている都合上、書きやすかったが、今度の
夜盗と青春」の放送台本では、兎に角困った。

 作者の真ちゃんは東京へ行っていないし、服部さんには日をきられるし、取敢ず、一昼夜で、
エイッ、と形にした。
 なにしろ、
ラジオドラマはラジオドラマとして別個の存在なんであるから、映画をこの世界に
もって行く事は、大抵の場合無理が生じて、凡そ変則的なものである。
 そのギヤップを知っているだけに、ラジオの場合は、映画よりも先づラジオドラマに近いものに
しようと誰しも苦労するであろう。
 しかし、また宣伝ということを考慮せねばならない。
 つまり、映画の封切と放送とのタイアップなのである。放送の次の日あたりには、常設館に
フィルムが公開される。
 ラジオで聞いたものと、常設館で観たものとは、同じ物でなければならない。
だからドラマに改変することは大抵の場合出来ない事なのである。僕は所謂「活弁口調」という
ものが大嫌いなのだが、活弁氏が説明をつけてもらわないと、映画劇放送というものは、およそ
成立たない。侘しいようなものである。

   
稽古

 さて、形にはなったが、手足らずなンで、服部さんや、折から帰洛した真ちゃんにご助力願って、
ここに台本が出来上る。さあ、稽古だが、俳優諸氏が他の撮影でなかゝあかない。

           
 (中略)
 
でやっと勢揃いして、稽古にかゝったのが放送の当日なんだから、この大膽と言おうか、僕などは
もう苛立ったあまり、気がぬけてしまった程である。

    JOOKにて
 
6月6日―午後八時五十分より九時三十分まて、約四十分間、千本丸太町にあるJOOKの
第一放送室に、僕たちは缶詰になっているのである。
 伴奏は最初オ−ケストラでゆくつもりだったが、常設館と時間的に折合がつかないところから、
エイッとレコ−ドになった。
  料亭の場面  ―「梅は咲いたが―」
  大川端の場面―「泊り舟」
  鎮守の 森―  「夢」
  新 世 帯   ― 「鳥啼く夕」
  乱闘の場面―  「ウイリアム・テル」
  街道の場面 ― 「時雨ひとゝき」

 
これら伴奏楽は、家にあったものゝ中から最も普遍的なものを撰んでみた。
 

 
放送劇の始まりは、深夜の描写からなので真ちゃんの意見に依り、先づゴ−ンと刻を知らせる
鐘の音。それに続いて風。遠く拍子木接摩の笛―これらがかすかになって来た頃
「風が立って、春とは言え未だ肌寒い大江戸の夜更・・・」云々の解説になるという順序。
 この最初の描写擬音は、たやすいようで実は中々骨が折れる。
 この擬音係をつとめたのが、山口君、藤君、光谷のおやぢ、そして僕の四人である。
 
二川さんの合図で、先づ山口君が放送室の隅っこのピアノの後ろで、ドラを以てかの優しい
眸を輝かせてゴ−ンと打つ。それをきっかけに風係の僕が、ハンドルを廻し始める。
 藤君が拍子木をカチゝ鳴らしながら、夜廻りよろしく歩き廻る。光谷のおやぢ が按摩はだしの
笛を流す。しばらくして、東堂さんが例の調子で「風が立って・・・」と始めるといった調子。

 八時五十分、きっかりに小澤アナ氏に依る紹介があって、前記擬音から放送が本式に始まって、
さて、十分間もたった頃、どうしたものか、台本の約半分が、はやすんでいるのである。
よく考えて見ると、みんなの調子が大体に於て、早いのである。練習の時にタイムを計ったのより、
未だ早いのであるから、最初はみ出しゃしないかな、と思った杞憂も何のその、今度は早く終わり
そうなんで気が気でない。で、お千代述懐の大川端で、しばらく音楽だけで間を持たす間に、
ボルドに「もっとゆっくり」と書いたやつを、ふれ廻す。

  O・K !
  で、千早さんの述懐のセリフをきっかけにスロオ・テンポになって、みんながその気持で悠々自適。
 それでもラストのアナウンスが済んで、タイムまで未だ五分半有った。

 それでも先づゝ大役の放送も済んだ。
  

  ★ 日夏英太郎 ★
    
              (二川さん→ 二川文太郎映画監督)


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辻斬と心中した秋