越境の映画監督

日夏英太郎【許泳 ドクトル・フユン Dr.Huyung】

                                                     2009年5月2日


  千惠蔵映画のある見方     

日夏英 (25歳)



  「映画評論」 
1933年(昭和8)2月号より引用  

1933年2月号

  僕たち、若い連中が一夕寄って、山中貞雄の「天狗廻状」を論じた時に、話がどう外れたのか、
伊丹萬作と稲垣浩とそして山中貞雄―寛壽郎映画と千惠蔵映画の色彩の相違と言ったもの―
そして、それらをひっくるめた今後の時代映画の展びて行く道―と云った事が頻りに話題の中心と
なって、時代映画の新しい一方の路を截り展いたと言ってもいゝ千惠蔵映画に関する論題に花を
咲かせたこぞの秋の晩のことを、きれぎれに想い浮べながら、編輯部の注文である課題「千惠蔵
映画の全般的な事に就て」日頃感じていることを少しく書いて見ようと思う。
     
 
(省略)
 
 去年の春、千惠プロの超ヒット作品と言われている『彌太郎笠』を見て、稲垣浩って人は、何て才人だろうなあとつくづく感心した。

  氏の前作『瞼の母』や『一本刀土俵入り』のなかに見られた断片的な美しさ− 明るさ― といったものの集大成されたスガタを『彌太郎笠』の中に見てとる事が出来た僕のよろこびはつゞいて発表されたト−キ−『旅は青空』にも同じ気持で、それは恰度啄木の歌を愛するような、または有本芳水の詩情をいつまでも懐かしく思っているような、和やかな少年時代の感傷気分でほゝえましく受取ることが出来た。

  勿論、稲垣浩の描いている美しい夢― 明るい微笑とほのかな哀愁― は、現代の世相や生活から遥かに逃避したものではあるが、映画を観にくる観衆がそれを望んでいる限り― またそうした夢こそ現実から遊離したところの(小津安二郎の或る反面的)効果を以て、現代人を満足せしめている皮相な現実をどう見てよいものか―

 その卑近な例が― 『白夜の饗宴』『時代の驕児』に依って千惠蔵映画は、その明朗性を一時覆い隠されたと言う説だ。これに依れば、千惠蔵はわれわれに現代人(人間)としての苦悶を表わしてもらわなくてもよい―
笑って泣いて、われわれをよろこばして呉れとの巷の声だ
山上伊太郎氏は、つねに何時の場合でも本当の人間を描く。それは氏の前諸作がそうであったし、『白夜の饗宴』の平原某、『時代の驕児』の次郎吉を見てもわかる。

 『白夜の饗宴』の平原は、旅の気まぐれから、ふと戯れ気分で言い寄った女との経緯が、天保時代の世相を背景に描かれているし、『時代の驕児』では、市井の一善良なる遊人が「義賊の中の義賊」だと― 多情多恨の                  次郎吉が、鼠小僧にナゼなった! 課程が限りなきさまざまな人間の性格の相剋から出発している。  

  小津安二郎がつねに描いている小市民階級の現実的な生活から生まれる微苦笑が、人間味が、時代の姿を背負ってわれわれを縛ってくる。しかし、ガラゝ時代に苦悶の十字架を負っているような現代人は、自分たちの惨めな生活― から来る肺腑をえぐるようなこの現実を見るよりも、もっと素晴しい美しい夢を貪りたいのだ―

 だから、すぐれた映画『時代の驕児』の殊に巧みな前半のヒュ−マニティよりも、後半の次郎吉が「鼠小僧の次郎吉が、金を盗ったらあゝ使う。刀を奪ったらこう使う― 話のタネに見て置けやい!」と見得をきるところをよろこぶのだ。と言って、われわれはこれからさき、今まで
伊丹萬作が描き尽したような明朗性をいつまでも有難く受けとるわけには行かない。

 懐疑的な明るさ。逃避的な明るさ― から、も一歩、今までの時代映画で語られない或る分野を、開拓してほしい― と思うのだ。また、山上伊太郎氏の香り高い芸術のにおいを、千惠蔵氏を透してインテレクチュアルな作品に磨き上げてほしい― とわれゝは希望する。

 『時代の驕児』の稲垣氏の次郎吉の扱い方は、そうした意味で非常に大衆の興味をひく普遍的な見方で成功していたし、千惠蔵氏も前半の人間次郎吉と後半の義賊次郎吉を見事に生活していた。

 
千惠蔵映画はまた、何故斯くも問題になり、実質的に優れているか!
これは人によって見方が違うだろうと思うが、統将としての千惠蔵の機を見るに敏な現代人的な采配ぶりと、絶えず千惠蔵本位の、俳優としての千惠蔵を活かして使う伊丹、稲垣両監督のすぐれた手腕―とを何よりも挙げなくてはならないだろう。

  
こゝにひきあいに出してはいけないんだが、妻三郎や右太衛門が画面に現れると、もう殺気をおびている。この表現は拙いが、兎に角、強くてこわい。それは表から見ると、妻三郎や右太衛門は剣聖!であり、英雄であって、また自他共にそれを許容しているように、その作品は語っている。だから、早い話が相手役にひどい眼にあう場面があってもワザとらしい。如何にもおしばいだとしか見えない。
千惠蔵の強味はそこにある。また氏が狙っている弱い人間―こそ、一般大衆の気持とピッタリ暗合し、愛着の動機であるのだ。だから『時代の驕児』は、千惠蔵のみに許された境地であって、他の俳優にはこれはもう無理なのだ。その癖、大時代な雰囲気も充分利くし、これからト−キ−になれば、ますます鬼に金棒と言った形で、全く今の時代映画を論ずる場合、千惠蔵映画をおいて、他に謷言は出来ないと言った形で、今度「評論」がこれを採り上げたということも非常に有意義なことだと思う。

 

1933年2月号

  
     一時期、日夏英太郎は日夏英の名を用いていました。


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