日本と大韓帝国が「併合条約」を結んだのは、1910年(明治43)年8月22日でした。
いらい韓国は、日本が太平洋戦争で敗北する1945年8月15日までの35年間、日本の植民地支配下に置かれました。
日本の朝鮮総督府による1919年3月の三・一独立運動の弾圧。1937年に日中戦争が勃発すると、学校内では授業以外でも日本語の奨励、さらに「皇国臣民ノ誓い」(児童用)「皇国臣民ノ誓詞」(中学生以上)の制定、天皇の写真を初・中等学校に配布し、礼拝を強要。
朝鮮総督府は1938年には朝鮮語の授業を廃止、同年に日本と同じ国家総動員法を施工し、39年には「国民徴用令」、神社参拝、宮城揺拝、1940年2月には、自分の姓名を日本式に改名する「創氏改名」を実施し、「皇民化政策」(内鮮一体)を推進しました。
さらに1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、多くの朝鮮人を戦闘員や捕虜収容所監視員としてタイ、ジャワ、シンガポールなどの戦地に送りました。
また70万人を日本に徴用し、軍需工場や炭坑で働かせたと言われます。10代の少女らも「朝鮮女子勤労挺身隊」として軍需工場に動員されました。
在日コリアンが多いのも、上記の理由によると言われます。
慰安婦として、シンガポール・マレーシアなどの慰安所に連れて行かれた少女達もいました。
そして、戦地や日本で亡くなり、ご遺骨さえ分らない方々も多いのが現状です。
日本の負の歴史を直視することは、辛いことではありますが、菅直人首相は韓国併合条約発効100年を機に、植民地支配の痛切な反省と未来志向の日韓関係を築く首相談話を、韓国の李明博大統領に伝えました。
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菅直人首相談話 2010年8月10日
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「韓国の人々は、植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられた。
植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明する。
在サハリン(旧樺太)韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援など人道的な協力を今後とも誠実に実施する。
宮内庁が保管している古文書「朝鮮王朝儀軌(ぎき)」などを近く韓国側に引渡す。
両国は、二国関係にとどまらず、東アジア共同体の構築を念頭に置いた地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮する。
両国のきずながより深く、固いものになることを強く希求し、不断の努力を惜しまない」
記者会見した仙谷由人官房長官によると、李明博大統領は強い謝意を表明。
「韓国と日本が将来、より強い協力関係を築くことが出来る」と述べたと言います。
首相談話は日韓で、様々な批判もあることは事実ですが、私は良かったと思います。
日韓が領有権を争う竹島(韓国名・独島 トクト)問題もありますが、何とか互いを配慮することで乗り越えてほしいと念じています。
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韓国併合までの歴史
(日清戦争 閔妃暗殺 日露戦争)
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日本と清国が朝鮮支配を巡って戦った日清戦争(1894〜95)で勝利を収めた日本は、朝鮮王室から清の勢力を駆逐して、親日的な内閣を作りました。
しかし、これに反発して親ロシアを進めたのが国王・高宗の妃の閔妃(ミンピ 明成皇后 1851〜95)でした。
1895年10月に、ロシアの勢力拡大を怖れた駐韓公使の三浦梧楼や日本軍が王宮の景福宮に進入し、閔妃を殺害する事件が起りました。
国母(明成皇后)暗殺に激怒した義兵達は、親日政府の近代化政策に悉く反対したと言われます。
妃を暗殺された高宗は、1896年にロシア公使館に避難して政治を行うようになりました(露館播遷)。
翌年、高宗は国号を「大韓帝国」と改め、光武改革を推進したと言われます。
しかし、朝鮮半島、満州を巡って日本とロシアの間で対立が起り、日露戦争(1904〜05)が勃発。
日露戦争に勝利した日本は、1905年に韓国と「日韓保護条約」を結び、韓国を保護国化し、総監府を設置し韓国の外交権を奪いました。
1909年には、韓国併合の基礎を作った初代韓国総監の伊藤博文(1841〜1909)が、安重根にハルビンで暗殺されました。
参考文献:「韓国歴史散歩」 河出書房新社
「朝日新聞」2010年3月8日・7月29日・7月30日
8月10日・8月11日付
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