板橋区立郷土資料館
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資料館平面図
常設展示室
 導 入 展 示  板橋の自然・歴史・文化
区名の由来
 軍記「延慶本平家物語」には、治承4年(1180年)に挙兵した源頼朝が武蔵国豊島の滝野川の「板橋」に布陣したと記されています。ここに地名としての「板橋」が初めて登場し、少なくとも鎌倉時代には「板橋」の地名があったことがわかります。しかし、地名発祥の由来については、はっきりした史料はありませんが、石神井川にかけられた木の橋を「板の橋」と呼んでいたのが語源とされています。また、『市町村名語源辞典』によると、「板橋」の「イタ」は崖や河岸、「ハシ」は台地や崖の端のことを意味し、崖の端にあった土地を「イタバシ」と呼んでいたと考えられます。そして、明治以降の町名として採用され、昭和7年(1932)に区誕生のとき区名となりました。
板橋床面地図
 床面地図は約12800の大きさで、昭和7年(1932)町村合併による板橋区誕生前の板橋町、上板橋村、志村、赤塚村をモザイクのように色分けしたものです。地図上の金属のプレートは、主要な遺跡・文化財のあるところを表示しています。現在、板橋区の指定・登録となっている文化財は約160件になります。
田 遊 び

田遊びは水田耕作に関わる行事の一つで、年のはじめにその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する「()(しゅく)」の意味を持ちます。現在、板橋区では毎年211日に徳丸北野神社、213日には赤塚諏訪神社にて田遊びの神事が夜間に行われています。文政10年(1827)に齋藤(さいとう)(かく)()によって刊行された「武蔵野話(むさしのやわ)」には「赤塚村牛をひきまハす図」という赤塚田遊びの挿画があり、当時の神事の様子を知る上で、貴重な資料となっています。資料館には、陰陽和合を表現する太郎次と安女が付ける面が展示されています。

複合演出パノラマ ムラの世界
 模型と映像を複合的に用いたパノラマ展示では、成増1丁目にあった弥生時代終わり頃の古代の村、江戸時代の徳丸村、昭和20年(1945610日空襲のあった旧上板橋一帯の3つのムラの様子を表しています。
常設展示室
常設展示室と複合演出
古代の村 ― 成増1丁目遺跡
  今から1800年前、弥生時代の終わりごろ成増1丁目には小さな村がありました。この村は首長の家を中心に、広場を囲むように7
 軒の住居と、谷側に倉庫が1棟ありました。北側の崖下には白子川が流れ、谷間にはわずかな田んぼもつくられています。
徳丸村 ― 江戸時代の村
  武蔵野台地の北はずれにあった徳丸村は、本村と脇村にわかれ両村の名主らが村を取りしきっていました。

    北側にある徳丸ケ原では、しばしば鷹狩りや砲術調練が行われました。村のはずれには鎮守の北野神社があり、また、中心には安楽寺がありました。村は安楽寺を中心に100軒ほどの農家で構成されていました。

6月10日 ― 板橋の戦火  

板橋区では第二次世界大戦末期、昭和19年から20年にかけて、アメリカ軍による空襲をたびたび受けました。そのなかでも、昭和20610日の空襲は甚大な被害となりました。B29爆撃機により、旧上板橋35丁目、現在の常盤台12丁目、東山、東新町一帯が破壊され、そこは火の海となり地獄絵図と化しました。

 生 き る  土の中に埋れた板橋の歴史
 旧石器時代から平安時代までの、地中に埋もれた板橋の歴史が「生きる」です。約3万年から900年ほど前になります。この頃の板橋を語る文書がほとんどなく、遺跡の発掘調査によって明らかになっています。
遺跡はどこにある?
 遺跡とは人間が残した跡という意味で、地中に埋もれています。板橋は北側に荒川が流れる右岸の台地にあたり、また、川ぞいには河川の氾濫土が堆積した平地が開けています。高台、低地という表現はこれにあたります。この荒川にそそぐ川には石神井川、白子川、前谷津川、出井川などがあり、昔は水が暮らすうえで大変重要でしたから、高台の川ぞいにはほとんど遺跡がある状態です。しかも、くりかえしそこに住み着いたので各時代の遺跡が重なっていることが珍しくありません。時代が下る弥生時代以降は、稲作文化の影響で、積極的に川べりの低地帯へ進出していきます。弥生時代の水田跡は見つかっていませんが、平安時代の水田が新河岸で発見されています。現在、板橋には174カ所の遺跡があります。
旧石器時代の遺跡
 この時代は3万年前から縄文の始まる1万年前まだの時代です。地表から1メートルほど掘ると、黒土の下が黄色っぽい関東ローム層と呼ばれる火山灰で、この最上層が立川ローム層です。ここから発見される石器や火を使った時に出る炭化物などから遺跡と判定できます。南関東で最初の旧石器時代遺跡とされた茂呂遺跡をはじめ、区内全域から多数の遺跡が見つかっています。
縄文時代の遺跡
 旧石器時代の終わりごろと縄文時代の始まりは地域ごとの違いがあることがわかっています。縄文時代とは、縄目文様のついた土器が作られた時代です。旧石器時代との接点を草創期、貝塚が現れる時代が早期で、前期・中期・後期・晩期と時代区分しています。時代ごとに土器の特徴が異なることから、型式名をつけて分類することがおこなわれています。主な貝塚として小豆沢貝塚、四枚畑貝塚、中台馬場崎貝塚、四葉貝塚、赤塚城址貝塚など、荒川にそった台地に広がっています。
弥生時代の遺跡
 弥生時代初めの遺跡は少ないですが、中期・後期には環濠集落を築く遺跡が出現します。環濠を築くのは敵から集落を守る目的があるためとされています。しかし、区内には多数の環濠集落が見つかっていますので、防御だけを目的にしたものでない可能性があります。低地には水田を作っていたと思われますが、居住するようになるのは古墳時代に入ってからです。
古墳時代の遺跡
 板橋では弥生時代終わりごろから古墳時代初めごろの遺跡が多数見つかっています。前野町から発見された前野町式土器が代表です。徳丸原大橋遺跡(高島平9丁目)のように、低地への進出も積極的になっています。古墳か住居か意見がわかれますが、台地上の大型古墳が志村や赤塚にあり、埴輪も発見されています。
奈良・平安時代の遺跡
 国家としての集権体制(律令体制)が確立した時代です。板橋は豊島郡広岡郷に属していましたが、その中心地がどこであったかのか不明です。住居からは多数の鉄製道具も発見されるようになります。板橋、志村や赤塚から有力な人間が出て、彼らの一部が鎌倉幕府の御家人となっていきました。主な遺跡として栗原遺跡、志村遺跡群、中台畠中遺跡、四葉遺跡があります。
 暮 ら す  板橋の中世・近世
 中世のいたばし
 中世の板橋区域を開発して所領としていたの豊島(としま)氏でした。彼らは、いくつかの拠点を置き、その地域の開発を進めました。その結果、区域内には板橋郷・赤塚郷・志村庄の三つの郷庄ができました。
板橋郷・赤塚郷・志村庄
 鎌倉期豊島氏は、三つの郷庄をはじめ豊島郡域の領主として有力な御家人の地位を築づきました。しかし、仁治2年(1241)豊島時光が博奕(ばくち)罪で所領が没収され、その所領は執権(しっけん)北条氏領となります。約10年後に豊島氏は罪を許されますが、赤塚郷は北条氏領のままとなります。 南北朝以降、赤塚郷は足利(あしかが)(ただ)(よし)―足利直義正室(本光院)―足利義詮正室(渋川幸子)―春屋妙葩(しゅんおくみょうは)(天竜寺住職)鹿(ろく)王院(おういん)と領主をかえ、15世紀半ばには太田道灌を頼り逃れてきた千葉(武蔵千葉)氏領となります。板橋郷・志村庄は豊島氏の支族板橋氏・志村氏がそれぞれ拠点として宗家(そうけ)豊島氏とともに支配していました。それぞれの郷庄には拠点となる城がありました。赤塚城・志村城については所在が明らかにされていますが、板橋城は諸説あります。
戦国時代のいたばし
 豊島氏の支配下にあった区域ですが、豊島氏が扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣太田道灌との所領をめぐる対立により滅亡すると太田氏領となりますが、赤塚郷は千葉氏領、志村庄は太田氏領、板橋郷は板橋氏が直接支配をしたものと考えられています小田原北条氏の支配下に入った16世紀半ば、小田原北条氏の滅亡に至るまでこのような状況が続きました。
 近世のいたばし
 徳川家康が関東入部を果たすと板橋区域17か村の大部分は徳川氏直轄領(ちょっかつりょう)(天領)となりますが、いくつかの村では大名領・旗本領が入り交じることになります。いずれも幕府の関係者であり、江戸を守るための配置となっていました。
板橋宿
 江戸から数えて中山道第一の宿場が板橋宿となります。参勤(さんきん)交代(こうたい)の大名など貴人(きじん)の休息・宿泊施設として本陣・脇本陣が設置され、一般の旅行者のために旅籠(はたご)や茶店が設けられ、旅行者の休息・宿泊に利用されていました。また近世後期に伝馬50人・50疋が常備され、周辺の42か村が定助郷(じょうすけごう)(むら)となり、物資の輸送等に携わっていました
 中山道をはさんで形成された宿場町は、約1.7㎞で江戸方面から平尾(下宿)・中宿・上宿と分かれており、それぞれ豊田・飯田・板橋の各氏が名主を務めていました。平尾には21万余坪の広大な加賀藩前田氏の下屋敷が広がっていました。天保14(1843)の板橋宿の人口は2448人、家数は573軒を数えたといいます。
和宮と縁切榎
 上宿には縁切(えんきり)(えのき)があります。もとは大六天神の神木といわれ、庶民の間では悪縁(あくえん)を切って良縁(りょうえん)を招くとして親しまれていました。
 文久元年(1861)11月に後の13代将軍徳川家(とくがわいえ)(もち)に嫁ぐ皇女(こうじょ)和宮(かずのみや)が板橋宿を訪れた際には、「縁切」が縁起の良くない語として、わざわざ中山道を外れた()清寺(せいじ)の方迂回路を設置して、宿舎の脇本陣飯田宇兵衛家に入りました。飯田家では和宮の一泊のためにの造りを変えるなどの準備をしています。
     
鷹狩
 近世初期から板橋では鷹狩・鹿狩が行われました。徳川秀忠・家光は、一回の狩りで数百頭の鹿を捕獲(ほかく)したといわれます。
 生類憐(しょうるいあわれ)みの令で中断していた鷹狩が8代将軍徳川吉宗によって復活すると、板橋区域は戸田筋(とだすじ)鷹場(たかば)組合(くみあい)に組み込まれます。鷹場組合の村々は志村に置かれた(とり)()屋敷(やしき)の支配下に入り、領主との二重の支配をうけることになります。そして、鷹のエサである(ふくろ)蜘蛛(くも)ケラ・エビヅルムシなどを期日までに上納したり、鷹狩のおりには、勢子(せこ)として御用を務めるなどの負担を強いられることにもなりました。
砲術訓練
 現在高島平団地が所在する地域は、江戸期には広大な荒川(あらかわ)沖積(ちゅうせき)低地(ていち)で、氾濫(はんらん)(げん)となっていました。氾濫原に荒川よりは「まぐさ場」として近郷の村々の共用地となっており、台地寄りは水田耕作がされていました。 この地を幕府は18世紀半ばから大砲の訓練場に定め、幕末まで度々訓練が行われました。とくに天保12(1841)5月に長崎の町役人である高島(たかしま)(しゅう)(はん)が洋式の砲術訓練は注目されます。赤塚松月院に本陣を置き、步砲2隊によるモルチ―ル砲・ホーイッスル砲など4門を用いた演習と馬上発射の実弾射撃を実施しました。この訓令は当時の国際情勢からも話題を呼び、幕府は多くの大名・鉄砲方に見学させています。一方、近在の農民たちは演習のたびに人夫としてかりだされていましたが、5月9日の秋帆の調練には徳丸本村の名主が御用旗(ごようはた)をもち、羽織(はおり)(はかま)の正装で人夫の陣頭指揮に当たったといわれます。
 戦 う  板橋の近代と戦中戦後のくらし
明治から太平洋戦争
 長年におよぶ江戸幕府の鎖国政策によって、我が国は国際社会のなかで大きく取り残され、これを取り戻すべく国策は富国強兵を軸とする戦う国家づくりとなっていきました。
工業の歩み
 明治9(1876)加賀下屋敷跡(現加賀一~二丁目)(さわ)太郎(たろう)()衛門(えもん)によって開設された「板橋火薬製造所」は、まさに、この施策の一つの象徴といえます。写真の圧磨機圧(あつまきあつ)(りん)記念碑はそこで使用されたもので、石神井川の水を動力に用いた水車で動かしました。この火薬製造所の建設に関わった澤太郎左衛門は幕府の御家人で、文久2年(1862榎本武揚(えのもとたけあき)らと共にオランダに留学、洋式の火薬製造法を学び、また、ベルギーで圧磨機など火薬製造機具を買い求めた人です。帰国後、火薬製造所の建設にとりかかりますが、幕府が倒れ、彼自身も官軍に抵抗、囚われの身となりますが明治4年保釈され、新政府の板橋火薬製造所建設にかかわりました。
 関東大震災後の昭和3(1928)には小豆沢に大日本セルロイド社によってフィルム試験場が創設され、同7年に初の国産フィルムが誕生し、日本の写真・映画産業に大きな貢献を果たしました。軍需が高まった昭和20年ごろの板橋区には、約2500もの工場があり、この時、軍事用の光学器の製造携わった技術者たちは、その技術を生かし双眼鏡やカメラを作り出します。こうして、戦後板橋区は軍事産業から平和産業へと転換し、映画用フィルムや映写機、双眼鏡などの光学機器が板橋区の地場産業となっていきました。
日清・日露戦争から太平洋戦争
 日清・日露戦争に勝利を収めた我が国はようやく欧米列強と肩を並べる位置を確保しますが、資源の乏しい日本にとって、これを維持することは至難の業でした。
 そこで精神教育の充実を図り、戦う国民教育を重点施策とし、軍事大国の道を歩き始めました。その結果、昭和12(1937)日中戦争・昭和16(1941)太平洋戦争へと突入し、ほぼ全世界(ドイツ・イタリアを除く)を相手に戦いを挑むことになってしまったのでした。
 昭和20年(1945)広島・長崎に投下された原子爆弾によって、戦いは終止符をうちますが、この間、国民は父、夫、息子を戦場へ、残された者も空襲の脅威と飢餓にさらされ、苦難の生活を強いられました。
学童疎開
 「近所の遊び友達と泊れるなんてうれしいわね」と、はしゃいでいた私でしたが、死を覚悟して母からの別離の言葉に悲しいというより、泣くような弱虫では頑張れない、下級生の面倒をみる立場であるし、家を守る責任もあると改めて考え直したものでした。<学童疎開の記録当時五年生女児>(板橋区教育百年のあゆみ)
空襲
 区内の空襲は昭和19(1944)茂呂町(現小茂根)が躍災したのが始まりで、昭和20(1945)412日は区東部(区役所周辺)が焼夷弾により、同年610日には上板橋35丁目(現、東山、東新町、南常盤台)が爆弾によりそれぞれ区内最大の被害をうけ300余人もの死者を出しました。最後は8月10日志村地域での空襲もあり、多くの人が犠牲になりました。
板橋区内の被害
死者 505人
負傷者 524人
家屋全壊 1,259戸
家屋半壊 293戸
家屋全焼 11,215戸
罹災者 57,239人
戦後のくらし
 戦火をこえてようやく取り戻した平和。平和は不思議な力をもっています。数年たつうちに、民衆の生活もしだいに一応の回復へむかい、平和を守る戦いの始まりでもありました。あの「りんごの歌」にどんなに元気づけられたことか…
 戦後の耐乏生活の中から、持ち前の勤勉さにより日本は立ち直り、やがて経済大国の道を歩むことになりました。当初、日本の躍進は諸外国の称賛の的になっていましたが、高度成長を重ねるうちに、その経済力に世界は畏れ、やがて日本に対する非難という側面も出てきました。こうした高度経済成長の中で板橋区に誕生したのが、当時東洋最大と言われたマンモス団地、高島平団地でした。城北の穀倉地帯と言われた赤塚・徳丸田んぼは用水の確保が難しくなったため、農地からの転用がはかられ、昭和38(1963)日本住宅公団への売却が行われました。そして住宅不足解消のため昭和42(1967)に団地建設が計画され、同47年から入居が始まりました。入居倍率も一部では3000倍を超え、人口3万人を超える団地が出来上がったのでした。
 
 

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