|
一般に社員旅行というのは、草津温泉、石和、塩原、熱海、鬼怒川、などの関東近郊の温泉地へ、1泊2日で行くのが常識でした。これを様変わりさせたのがバブル時代でした。この時代に行った、1年に1回の社員旅行を思い出すと、たぶん次のような順番で行ったと思います。
バブル時代は日本だけでなく、先進国のいたるところで、再開発が行われました。とくに、港は、港湾施設が老朽化したり、舟の時代から飛行機の時代に変わったことから、世界中で港が再開発されました。関東地方でも、横浜港の、みなとみらい横浜、千葉の幕張メッセ、東京のお台場が有名です。そこで、バブル時代のさなか、ある団体のメンバーが、北米の港湾を中心とした再開発を視察に行こうということになり、15名程度の人が参加を希望しました。私は、たまたま出向でその団体の事務を任されていましたので、随行員として、出張扱いで参加させていただけることになりました。視察都市を記載すると、
出張扱いで、まさかアメリカ全土を見てまわるとは思いませんでした。世の中、ラインをはずれ、出向になってもくさることはないんです。行く先々でどのような偶然の出来事が待っているかわからないんですから。この視察旅行がたいへん楽しい旅行のうちに終わったためか、翌年、今度はヨーロッパの港湾などの再開発の視察に行こうという話になりました。このときも、私が随行することになりました。視察都市を記載すると、 イギリス、ロンドン→フランス、パリ→イタリア、ローマ→オランダ、アムステルダム→ベルギー、ブリュッセル→ドイツ、ハンブルグ→デンマーク、コペンハーゲン 私が、この団体に出向でくる前には、ある1部上場企業に所属する方が、出向で来ておられました。しかし、大企業から、小さな団体のすべての事務を、たった一人でやる立場に失望されたのか、すぐに体調を崩され、数年後に他界されてしまいました。私は、逆に、すべての事務を一人でやることにおもしろさを感じました。ワープロやパソコンの使い方に慣れ、いろいろな会員の人たちと親しくお付き合いができましたので、毎日が充実感でいっぱいでした。人生、どのような状況に置かれても、常に前向きでいると、運は向こうからやってくるんではないでしょうか。たった2年で、アメリカと、ヨーロッパの主要都市を見学できるとは、誰も想像できないでしょう。仕事で、商売の話をしに行くんじゃないんです。ただ単に見学や、視察するだけなんです。だから、参加メンバー全員がわきあいあいと、毎晩酒を酌み交わし、楽しく旅行ができたんです。誰もが嫌がる出向で、こんな社会見学をさせていただいたんですから、人生なにがあるかわかりません。何を命じられても、常に、人生勉強であると思って、前向きに取り組むことが必要なんではないでしょうか。この時期に、一人で、一太郎やロータス1−2−3、データベース桐を使いこなしたことが、その後にたいへん役立っているんですから。 私の英語力はどの程度でしょう? 私は、昭和63年にTOEIC665点を取っています。トーイックて何だといわれても困ります。大企業が、社員を海外駐在員にする最低ラインが、630点と言われています。先日(平成18年12月)、横浜市立大学の国際教養学科で2年から3年になれない人が大量に出そうだということが、ネットのニュースに出ていました。トイフルやトーイック、英検の成績が基準点に達していないからだそうです。トーイックは600点以上必要と書かれていました。従いまして、私のトーイック665点というのは、海外へ出て行く最低線程度の英語力だと、お思いください。
これで、海外旅行は5回ということになりますね。しかし、実はこの5回の前に、1回行っているんです。ある国際団体の総会が台湾で開催されましたが、社長の随行員の一人として私も行ったんです。このときがわが人生で最初の海外旅行でした。トーイックは昭和63年に1回受験しただけですが、この台湾旅行がきっかけで、トーイックを受けようと勉強したんです。 この台湾旅行は、今でも強烈に印象に残っています。 随行員といっても、私以外にも役員級の人たちが数人来られていましたので、ぺいぺいの私は、かってにあちこちと会場を歩いている程度でした。初日の夜には、大宴会場でレセプションというか晩餐会というか、が開かれました。たしか、世界中から2千人が参加したらしいので、大宴会場には、見渡す限り、中国式の赤い円卓が置かれていました。この円卓というのは8人掛けるのが正式らしいですが、2千人も入るのですから、10人くらい座っていたように思いますが、記憶が正確ではありません。私の両側にはヨーロッパ系の老夫婦が座っておられました。周囲はすべて外国人でしたが、円卓の向こう側の人は、遠くて会話ができないので、どんな人がいるのかわかりませんでした。両側の老夫婦の方とは、互いに英語で簡単な会話をしていました。 ご存知のように、中国料理は次々と大皿で出てきます。演壇上では、中国雑技団のサーカスが演じられています。そのうちにメイン料理と思われる大きな魚が出てきました。日本の魚料理は魚が寝ていますが、中国のは、泳いでいるときと同じ立ち姿で出てきますから迫力があります。もちろん、刺身ではなく、火が通され、全体に、たれもかかっています。 日本人なら、新鮮で、火が通った魚の、目も食べるでしょう。ガラス体の部分は、ゼリーのような感じがしていますね。私も、何気なく、ごく自然に、この大きな魚の目に箸を入れて、目ん玉を取りだし、口に入れました。おいしかったように覚えています。しかし、これがたいへんなことだったようなのです。 私が、目ん玉をおいしそうに食べると、急にテーブル全体が騒がしくなってきました。このテーブルには、地元の台湾人の方もおられたようです。欧米人も、台湾人も、この大きな魚の目を食べたということが、彼らには信じられないことだったようです。何かとても変わったというか、珍しいというか、不思議な人間がいるというように、思われたようです。 まずは、地元台湾の富豪の方が、私を自邸に招待したいということを話されました。ついては、このテーブルにいる方全員を、招待したいというんです。明朝10時にホテルの玄関に集まってほしい。全員を招待し、昼食会をしたいというのです。次の日には、その通り、全員が集合し、数台の車に分乗して、富豪のお屋敷で昼食をいただきました。 そのほか、オーストラリア、カナダ、ドイツなど、次々とパーティの招待券をいただきました。 世界中から2千人も参加されているので、先進国からは、1国で何十人も来ているんです。彼らは国単位で夜、パーティを開いています。そして、気に入った外国人にパーティ券を渡し、パーティに招待しているんです。単に大きな魚の目を食べたということだけで、私は、次々と各国の人々からパーティ券をいただくことになってしまいました。昼は、同時通訳の国際会議を傍聴し、ときどき抜け出しては、台北市内を、あっちこっちと、見学しながら散策しました。夜は、招待券を持って各国のパーティに参加し、楽しく飲んで部屋に戻るという日が続き、1週間があっという間に過ぎました。 これが、私のはじめての海外旅行の1週間でした。魚の目のおかげで、思いがけず楽しい日々を送らせていただきました。帰国後、当時銀座にあった英会話学校に入り、2年後に665点を、やっとの思いでとったという次第です。 平成19年4月1日にラジオで、魚の目について、ある老農学博士の体験談を聞きました。この先生が若い頃アメリカに留学したところ、アメリカ人は釣り好きで、しょっちゅう釣りに行くそうです。この先生も一緒に釣っていると、アメリカ人は釣った魚を次々と放してやっているそうです。日本人なら、持って帰って、刺身や焼き魚にしたり、近所に配ることもあるでしょう。最初は環境に配慮し、資源保護を考えているのかと思ったそうです。しかし、大西洋で釣っているんですから、個人が釣った程度で影響があるわけがないと思い、どうして魚を逃がすのか聞いたそうです。彼らが言うには、普通の動物は死ぬと目を閉じるが、魚は目を閉じない。その目が怖いと言うんだそうです。魚にはまぶたがありませんから、当然死んでも大きな目を開けたままです。「 俺の命を奪ったのは、おまえだ。 」、というふうに感じるのでしょうかね。
これで6回の海外旅行の話が終わりました。 これからあとは7回目から11回目の話になりますが、この旅行はプライベートな旅行です。行き先だけをまず書き上げていきましょう。
to be continued |