円き広場』(1988)より
円き広場

わがふるさとの町の中心
美しく大いなる円(まろ)き広場
そは 真夏の正午の
目覚めのごとく
十条の道を放射す
即(すなは)ちまた そのままにて
十条の道を吸収す
おお 遠心にして求心なる

ふるさとの子 二十歳(はたち)
幼き日よりの広場に
はじめて眩暈(めまひ)し 佇む
意識の円き核の
かくも劇的なる
膨張(ふくらみ)と同時の収縮(ちぢまり)を
かつて詩にも 音楽にも
恋にも 絶えて知らざりき










氷った焔』(1959)より

石膏(部分)

氷りつくように白い裸像が
ぼくの夢に吊されていた

その形を刻んだ鑿の跡が
ぼくの夢の風に吹かれていた

悲しみにあふれたぼくの眼に
その顔は見おぼえがあった

ああ
きみに肉体があるとはふしぎだ

[...]

石膏の皮膚をやぶる血の洪水
針の尖で鏡を突き刺す さわやかなその腐臭

石膏の均整をおかす焔の循環
獣の舌で星を舐め取る きよらかなその暗涙

ざわめく死の群の輪舞のなかで
きみと宇宙をぼくに一致せしめる
最初の そして 涯しらぬ夜










日常』(1962)より
真夜中

おれの微かな しかし
むずむずする 尾骨から
いきなり 太く逞しい尻尾が
鰐のそれのように にょっきり
生えてくるのではないか
と そればかりを心配して
夜を眠れないでいる男がいる。
若し本当に 生えてきたら
と かれは空想する
それはどこまでも 延びて行って
地球をひとまわりすることになるか。
そうなれば 傑作。
踊り子の胴を断ち切った いつかの
スカートの針金の輪のように
地球を締め上げて
それをバラバラな 二つの球根とするか。
いや いや
と かれは思い直す。
おれはどうして こんなに
壮大なことを考えるのだろう。
本当には ちょっぴり
栗鼠のそれよりも 可憐な
房房とした尻尾が生えてくるのではないか。
それは 誰にも気づかれない。
おれは いささか得意。
だが 死ぬほどおれを愛している
あの 体ぢゅう 乳首だらけの女が
忘却の涯に
おれの裸を撫でまわすとき
彼女はおれの尻尾を握るにちがいない。
何という喜劇。
彼女は 一瞬 気絶する。
おれの尾骨から
とにかく 思いがけない
奇妙な尻尾が生えてくるのではないか
と そればかりを心配して
夜を眠れないでいる男は誰か?










四季のスケッチ』(1966)より
音楽会で

地球の裏がわから来た
老指揮者の振るバッハに
幼い子はうとうとした
風に揺らぐ花のように。

父は腕を添え木にした。
そして夢の中のように
甘い死の願いを聞いた
鳩と藻のパッサカリアに。

幼い子が眼ざめるとき
この世はどんなに騒めき
神秘になつかしく浮かぶ?

ああそんな記憶の庭が
父にも遠くで煙るが
フーガは明日の犀を呼ぶ。










固い芽』(1975)より
固い芽

長い冬が終るまえに 春が
夢の匂いのようにはじまっている
落葉樹の森の まばらな透明。
その向うでは 海が やがて落日。

寒さにあらがい 暖かさに羞じらい
金の枝枝に散らばるものは
愛の誓いをせがむような
とがった乳首。跳ねない小魚。

芽の固さのなかには なにがある?
緑の氾濫と悔恨と その涯の
不気味な沈黙の都市のほかに?

夕焼けが奏でる どこか未知の空への
ひそかな郷愁の恍惚のなかで
誓いの言葉は 未来を語るだろうか?










駱駝のうえの音楽』(1980)より



注)
詩集『駱駝のうえの音楽』は、
シルクロード文物展における
十二のオブジェに寄せた連作
詩編であり、それぞれのオブ
ジェの写真も併載されている。

銀の薫球

飛ぶ鳥のように
あらゆる方向感覚を
味わいつくしてみたくなり
葡萄の蔓は その細く柔らかな
巻鬚もある尖端を
狂ったように
空中へ跳ねあがらせた。
蔓の夢は伸びに伸びて
空中にありもしない
ひとつの球体にからみつき
どこまでもうねりくねって
その滑らかな表面を
ある日 ついに
這いつくしてしまったのだ。

月光の室内に 自分の鎖で
吊るされた銀の薫球。
球面の透し彫りは
あの 葡萄の蔓の情熱である。
飛ぶ鳥をともなって
今はすっかり涼しげに
刈り込まれた唐草模様。
上下の半球が 蝶番(ちょうつがい)と留金で
合わされた薫球の内部には
地震でも傾がない
金の円い香盂(こうう)がある。
そこで焚かれた麝香の煙は
あらゆる方向感覚を
夢みた凍えの
透し彫りの隙間を通り
恋の心をくすぐるのである。










初冬の中国で』(1984)より
望郷の長城 -- 海の匂い(部分)

万里の長城の 烽火台に立つと
ふるさとの海の匂いがした。

おお 大連
致命的なわたしの夢。
どこから立ち昇ったのか
星の海の遥かな匂い。

[...]










西へ』(1981)より
ある願い

わたしは乾きたくない
山の上に浮く魚の化石のようには。
わたしは氷りたくない
凍土帯(ツンドラ)に埋もれたマンモスのようには。
わたしは潜みたくない
原始の住居の跡の穀物の粒のようには。
わたしは狂いたいのだ
海の底から噴きあがる焔のように。
わたしは泣きたいのだ
砂漠の中を動きまわる湖のように。
わたしは消えて行きたいのだ
青空に羊雲を残す嵐のように。










幼い夢と』(1982)より
邯鄲

汗血馬(かんけつば)の話を書きながら 横に長く
眠りこんだ二階の父。
その夕ぐれの夢。
どれだけの世紀が 薄紫に流れたか。
ふと眼ざめて
どこの岸辺にいるのか わからない。

眼ざめさせたものは しかし
胡人の笛の悲しみなどではなく
もっと寂しく遠い 鞦韆(ブランコ)の振子の刻み。
暮れのこる芝生の庭で
三歳半の子が
ひとり揺れて測っている 秋の深さ。

ああ 邯鄲(かんたん)が
涼しさの金の細糸を ふるわせて鳴く。
揺れやんだ幼い無言にとって
不安でもあるたそがれのなかで。
また 父に戻ってくる
古代の架空の 戦乱のかたすみで。

母だけは立って 手を動かしている
一階の明るい台所で。
秋刀魚(さんま)のはらわたと血に
指がすこし汚れた。
庭にできた柚子の実の 濃い緑は
俎板の横に。










一瞬』(2002)より
ある眩暈(くるめき)

それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。
風景だろうと
音楽だろうと
はたまた人間の素顔だろうと
初めて接した敵が美
であると意識するまえの
ひそかな戦(おのの)きが好きだ。
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
それほど孤独でおろかな
それほど神秘でほのかな
眩暈(くるめき)が好きだ。










ひさしぶりのバッハ』(2006)より
ひさしぶりのバッハ(部分)

悲しみの余震のなかを
去って行くバッハの背中。

他人の破滅をふかくいつくしむ端正。
自分の破滅ときびしくたたかう端正。

いつまでくりかえされるのだろうか。
肩や胸や腰の揺らぎ。
重たげで軽やかな
軽やかで重たげな。

[...]










手の変幻』(1966)より







ミロのヴィーナス
『手の変幻』図版より)

失われた両腕 ミロのヴィーナス(部分)

 ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくは、ふとふしぎな思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という、制作者のあずかり知らぬなにものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。

 [...]彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。[...]このことは、ぼくに、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫であるようにも思われる。

 ミロのヴィーナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中のひろがりにしろ、どこを視つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔が、そこにはたたえられている。しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を、深々とたたえているのである。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。それは、確かに、なかばは偶然の生み出したものであろうが、何という微妙な全体性への羽搏きであることだろうか。その雰囲気に、一度でもひきずりこまれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに怖れるにちがいない。たとえ、それがどんなに美事な二本の腕であるとしても。










夢のソナチネ』(1981)より
夢の周囲の一群 --間奏ふうに-- (部分)

激突

芝生の上で二匹の蛙が 相撲でもするように
白い太鼓腹と白い太鼓腹を 激突させる。
わたしは真横の望遠鏡で 勝敗を眺めている。
わたしにふりむく蛙ども。 一つの顔になっている。


風変りな植木屋

鉢巻のかれは百日紅(さるすべり)を 家の中に運ん
 できた。
廊下の暗い一隅に 三角形の穴を開け
土の匂いを漂わせながら その木を植えた。
これが本を食べる わたしの三角戸棚の謂(いわれ)
 である。


ある実在の斜塔

いつごろから この巨大な灰色の 六角の塔は
やや傾いて ペニスなどを想像させているのか?
古びてざらざらの 塔の磚(れんが)の 強力な接着
 剤は
糯米 粘土 豚の血 鉄屑で 合成されている。










太陽に酔う』(2002)より
太陽に酔う(部分)

 まず、驚きがなければならなかった。
 まったく思いがけないところで燦然と輝いている太陽。そして同時に、その太陽が中心になってさまざまなものごとが、奇蹟に近いような偶然の一致をもって集合している特異な光景。−−そうしたできごとに、少なくとも十秒前後ぐらいは茫然となって、われを忘れるほどの驚きを覚えなければならなかった。
 驚きとはこの場合、私にとって、心と体のすべてが感動的な酔いに向かって開かれて行くように、いわば感覚の総体のどこかにあるそのための見えない鍵穴に、やはり見えない鍵が不意にうまく差し込まれてくるりと回されているような、そんな夢見心地に近い、かなり受動的な状態であったろう。
 比喩をもう少しだけ延長させてもらうなら、私と外界のかかわりあう偶然こそ、問題の鍵の独占的な所有者であった。この偶然という曲者(くせもの)は、その鍵をふだんは奥深く隠し持っているが、あるときそれを突然用いるのである。きわめて稀に、絶好の機会がやってきた瞬間、私の虚を衝くかのように。
 このあと、太陽とその周囲がつくりだす光景に魅惑された私は、自分のすべてを集中させるようにして、対象に酔いつづけなければならなかった。そのように満ち足りている状態にあって、もちろん、他人の介在は邪魔である。この感動的な酔い、この讃嘆と恍惚は、孤独を好ましい条件とし、他人を利用しないという意味で、ひとつの純粋な幸福と呼んでいいものだろう。