1922-1930 | 1931-1940 | 1941-1950 | 1951-1960 | 1961-1970

1971-1980 | 1981-1990 | 1991-2000 | 2001-2010
 
 
 



・1922年(大11)
 0歳
6月29日、中国遼寧省南部の港湾都市大連で、父己九思(きくし)と母鹿代のあいだに生まれる。父は満州鉄道の土木技師であり、大連築港長、哈爾浜(ハルピン)造船所長などを勤めた。父母ともに高知県出身。兄3人、姉4人、弟1人の9人兄弟。


家族で。
前列左から2人目が卓行。


・1924年(大13)
 2歳
モダニズム詩の先駆である安西冬衛らの詩誌『亞』が、この年から3年間大連で発行される。後年、安西冬衛の詩を深く愛すると同時に批評的関心を抱くようになり、その成果は短篇集『蝶と海』表題作等に結実することになる。


『亞』創刊号表紙
(1924年11月発行、発行所:亞社)


・1929年(昭4)
 7歳
4月、大連朝日小学校入学。この年を皮切りに大連代表のノンプロ野球団が、日本の都市対抗野球大会の第1回から3年連続で優勝。この雰囲気のなかで育まれた野球への嗜好は、以後生涯一貫して続く。
 
 
 



・1931年(昭6)
 9歳
小学3年。9月、満州事変勃発。大連の町は通過する兵馬の慌ただしさの一方、市民生活はまだ閑か。幼年時代から本土引揚げまでの十数年、自宅近辺で最も好んだ場所は、南山の麓に造られた人工貯水池の弥生ケ池を囲む公園(現在の大連植物園)。


・1932年(昭7)
 10歳
頭が大きかったので綽名は「風船」。得意学科は算術、苦手は図画。7月、小学校の夏季水泳で郊外の海岸黒石礁を知る。自分の特徴を意識し始めると同時に、大連の明るく爽やかな風土、自由港としての国際的な雰囲気を意識し、愛するようになる。幼年時代をテーマとした小説には「萌黄の時間」(『フルートとオーボエ』所収)がある。


・1934年(昭9)
 12歳
遠足で旅順に行き、日露戦争の戦蹟を見学。わずか30年前の戦争を、遥か遠い過去の出来事のように感じる。旅順博物館では大谷探検隊がトルファンのアスターナ墓地で発掘したミイラに驚き、以後しばらく、最たる恐怖のイメージとして記憶に刻まれる。この体験は『円き広場』所収の詩「ミイラ」に歌われている。


・1935年(昭10)
 13歳
大連一中入学。もっとも好きな科目は英語。また国文法の美しさにも惹かれる。一方、軍事教練の課目を嫌う。


・1937年(昭12)
 15歳
中学3年。7月、日中戦争が起り、大連も次第に戦時色が濃くなるなか、クラシック音楽や文学書に熱中。母に多数のレコードを買ってもらい、中学を卒業するころまで特にドイツ古典派とロマン派を好んで聴く。フランスの新しいシャンソンにも惹かれる。家にあった岩波文庫や第一書房版の佐藤春夫の詩集が、文学への関心のきっかけとなった。半ば以上暗誦したものの本質的な影響は受けない。むしろ西欧の詩、ボードレール(村上菊一郎訳)やランボー(小林秀雄訳)の詩に強く憧れる。


少年時代を過ごした大連の家の素描
(1922年竣工)


・1940年(昭15)
 18歳
4月、旅順高校入学。しかし軍国調に馴染めず3ヶ月で自主退学。9月、東京に出て下宿し、城北予備校に数ヶ月通う。引き続き翻訳でフランス近代詩に親しみ、その研究に将来の夢を抱く。また、フランス映画にも熱中。ルネ・クレール『巴里祭』、ジャック・フェデール『ミモザ館』『外人部隊』、ジュリアン・デュヴィヴィエ『我等の仲間』『地の果てを行く』『望郷(ペペル・モコ)』等の、パリの庶民的な町やアフリカの寂れた土地を環境とした作品に特に惹かれる。少年時代から夢を見るのが好きで、このころから断続的に夢の詩の習作を試み続ける。この夢への傾向は、後年『夢を植える』、『夢のソナチネ』、『ふしぎな鏡の店』等の、夢の詩や夢の小説に結実することになる。
 
 
 



・1941年(昭16)
 19歳
第一高等学校文科丙類(仏語学級)入学し、寮生活を送る。野球部に入部するも、頭部への死球に恐怖感を抱き2ヶ月ほどで退部。学校の文芸誌「護国会雑誌」に投稿した処女作「名に寄す」(後年「ある名前に」と改稿し、『氷った焔』に収録)が掲載され、漢文の先生阿藤伯海に認められる。萩原朔太郎の詩、特に『定本青猫』を愛読し、深く影響される。12月、太平洋戦争始まる。


・1942年(昭17)
 20歳
課外に阿藤伯海の『唐詩選』などの漢詩講読。高雅な朗読と美しい解釈に打たれ、特に杜甫に惹かれる。後年、最後の漢詩人と言うに相応しい阿藤伯海へのオマージュ『詩禮傳家』を書くことになる。また、この頃から原文によるランボー『地獄の季節』と『イリュミナシオン』に熱中。ランボーは以後、もっとも輝かしい灯台のような存在であり続け、後年自ら『ランボー詩集』を翻訳することになる。


・1943年(昭18)
 21歳
6月、一高を休学して大連に戻る。戦局苛烈となり12月、学徒動員の徴兵検査と召集で、はじめて本籍地の高知県に赴く。兵役は肺に既往症があったことと休学中であったことの2点が考慮されて即日帰郷となり、原籍地同県田野町で半月ほど静養。このときから終戦まで、大連と日本内地の往復は、朝鮮海峡でアメリカの潜水艦が発射する魚雷によってしばしば撃沈された関釜連絡船で行う。


・1944年(昭19)
 22歳
9月、東京大学仏文科入学。上野広小路近くに下宿。空襲のあいま、渡辺一夫のラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』講読。空腹に苛まれつつランボーを耽読。その他に森鴎外、ポー、トーマス・マン、ショーペンハウアー、ベルグソン等を愛読。大連一中の後輩で一高文科丙類に入学した原口統三と交遊。2人の関係は周囲からドン・キホーテとサンチョ・パンサになぞらえられる(原口統三『定本 二十歳のエチュード』は現在筑摩書房から文庫化)。


原口統三
1944年4月17日、一高キャンパスで


・1945年(昭20)
 23歳
2月、世田谷区瀬田の叔母の家に移る。東京大空襲後の3月末、大学を休学し、暗澹たる戦局のなかを一高後輩の原口統三、江川卓とともに渡満。戦争で死ぬ前にもう一度見ようと思った大連に辿りつく。父母健在。その後敗戦までの数ケ月、死への親愛感が極度に高まるが、その精神構造は小説『アカシヤの大連』に描かれることになる。6月、東京に戻る原口を大連駅に送る。敗戦後、ソ連軍が進駐。


・1947年(昭22)
 25歳
ほとんどの日本人が引揚げた春、沢田真知と知り合い、百貨店で日本人の所持品の委託販売をする。5月から大連日僑学校で、英語と数学を教える。6月、沢田真知と結婚。このころから詩作を中断。


・1948年(昭23)
 26歳
7月末、引揚船高砂丸で大連から舞鶴へ。東京世田谷区下馬の長姉の家に間借りし大学に復学。わずかな衣類のほか財産はなく、生活費を稼ぐためほとんど授業を欠席。1946年10月に原口統三が伊豆で入水自殺していたことを知る。11月、長男誕生。


・1949年(昭24)
 27歳
4月、プロ野球の株式会社日本野球連盟に定職を得る。「猛打賞」を提案し採用され、同賞は以後残り続けて現在に至る。詩はこの頃、金子光晴の詩以外に興味がわかない。むしろネオ・レアリズモや30年代および戦後のフランス映画に強い関心を持ち、しばしば見て歩く。秋、日本野球連盟がセ・パ両リーグに分裂。
 
 
 



・1951年(昭26)
 29歳
9月、入学から7年かかって大学卒業。卒論はフランスのシナリオ作家シャルル・スパーク論で、主査はマラルメ研究者の鈴木信太郎。当時の仏文科の卒論で映画論は極めて異例。後年「最初のシナリオ作家」の題で、最初の評論集『廃墟で拾った鏡』に改稿し収録。『世代』同人となり、吉行淳之介、大野正男、浜田新一、中村稔、菅野昭正、橋本一明、村松剛、都留晃らを知る。詩、評論、シナリオを発表。セ・リーグ事務局に移り、大リーグ機構や試合日程編成方法を研究し、プロ野球選手統一契約書などを翻訳。大連が旅順と合併し旅大と改称したことで、大連の名は1981年まで失われる。


同人となった「世代」の15号(1952年3月)
この号には「最初のセナリスト−シヤルル・スパーク小論−」寄稿


・1952年(昭27)
 30歳
この年から1964年までの13シーズン、フランチャイズ制を実現したセ・リーグのペナントレース日程を編成。引き続き、大リーグの研究を続ける。


・1953年(昭28)
 31歳
8月、転職し、新理研映画でニュース映画や記録映画作りに関わるが、集団制作が孤独を好む性格にあわず、半年ほどで辞める。しかし撮影や編集の現場の体験が、忘れていた詩作を刺戟する。


・1954年(昭29)
 32歳
1月、詩(「石膏」、後に『氷った焔』に収録)をはじめて文芸誌(「新日本文學」新年特別号)に発表。2月、セ・リーグ事務局に復帰。実質的には中断せず、試合日程編成をする。6月、「現代評論」の同人となり、遠藤周作、吉本隆明、奥野健男、日野啓三らを知る。また、「今日」の同人となり、大岡信、吉野弘、入沢康夫、辻井喬、飯島耕一、岩田宏らを知る。9月、母鹿代69歳で死去。


埴谷雄高編集・発行の「近代文學」15号
「記録と藝術」寄稿


・1955年(昭30)
 33歳
詩や文芸批評のほか、映画批評も書き始める。また、フランスの詩に改めて強い関心を抱き、アンドレ・ブルトン、ロベール・デスノス、フランシス・ポンジュらに惹かれる。5月、神田の画廊で行われた詩画展で岡鹿之助と組む。以後『氷った焔』をはじめ、多くの著作の表紙を岡の作品が飾り、また『マロニエの花が言った』等で岡の作品を親愛と批評的関心の両面から取りあげることになる。7月、大田区池上に転居。


・1956年(昭31)
 34歳
8月、書肆ユリイカ社主伊達得夫に依頼され、2人で詩誌ユリイカ発刊の資金を借りることに成功。10月、伊達は同誌を創刊。このころから同誌周辺の那珂太郎らと交遊しながら詩作。映画評論もなお多く書き続ける。シュルレアリスム研究会に江原順、大岡信、東野芳明らと加わる。


・1958年(昭33)
 36歳
3月、ユリイカ主催の銀座での詩画展に参加。11月、次男誕生。12月、「現代批評」を吉本隆明、奥野健男、武井昭夫、井上光晴と創刊、のちに島尾敏雄や橋川文三も加わり、第5号まで発行。


・1959年(昭34)
 37歳
2月、処女詩集『氷った焔』(書肆ユリイカ)刊行。19歳のころ思い描いた詩集→卒業→就職→結婚という生活設計が、逆の順序で実現。新橋のバーなどで連日のように酒を飲む。6月、小田久郎が「現代詩手帖」を創刊。8月、詩誌「鰐」を吉岡実、大岡信、飯島耕一、岩田宏と創刊。


『氷った焔』出版のころ
(1959年8月、伊達得夫撮影)


・1960年(昭35)
 38歳
10月、最初の評論集『詩と映画/廃虚で拾った鏡』(弘文堂)を刊行。


詩誌「鰐」第7号(1960年3月)
 
 
 



・1961年(昭36)
 39歳
前年末から1月にかけて、放送詩「地球儀」ほかをNHKラジオで2回試みる。1月、伊達得夫死去。「鰐」を代表して弔辞を読む。12月、父己九思80歳で死去。


・1962年(昭37)
 40歳
8月、詩集『日常』(思潮社)刊行。詩が初めて海外の出版物(The Literary Review)で訳される。秋、宮川淳に招かれて港区愛宕山のNHK研究所でフランスから送られてきたアンドレ・ブルトン『ナジャ』を元にしたラジオ劇を聞き刺戟を受ける。10年以上喫ったタバコを止める。一方、10代半ばから続いている音楽熱が一層高まり、音楽会通いやレコード蒐集が始まる。加えて映画や野球も、趣味の域を逸脱して文学的創造に深く関わり始める。同時に、学生時代に専門として選びながらも半ば忘れていたフランス語を思う。


・1963年(昭38)
 41歳
セ・リーグ勤務では、イースタン・リーグの仕事も引き受ける。その傍ら、法政大学、國學院大学、多摩美術大学でフランス詩や芸術論の非常勤講師を勤める。転職を考えたゆえの過労が体調に響く。


・1964年(昭39)
 42歳
2月、1964年度ペナント・レースの日程編成を終了し、後任者が来る5月まで事務を担当してセ・リーグを退職。4月から法政大学の専任教員となってフランス語を教え、宗左近、粟津則雄らの同僚となる。この年だけ、國學院大学と多摩美術大学にも出講。


・1965年(昭40)
 43歳
4月、恩師阿藤伯海死去。11月、京都大学大学祭の座談会で大学院生の宇佐美斉に出会う。


編集を務めた「詩と批評」創刊号(1966年5月)
この号には「ソネットの試み」として
「夢の街で」と「音楽会で」掲載。


・1966年(昭41)
 44歳
5月、創刊の詩誌「詩と批評」(昭森社)の編集に黒田三郎、長田弘とともに関わる。6月、はじめての書き下ろし評論『手の変幻』(美術出版社)を刊行。小島信夫、宮川淳らから評価される。10月、詩集『四季のスケッチ』(晶文社)刊行。11月東京大学(駒場)で「詩における生へのリズムと死へのリズム」という題で講演。12月、「詩学」が清岡卓行特集。渋沢孝輔らの詩人論掲載。


・1967年(昭42)
 45歳
3月、宮川淳の評論集『鏡・空間・イマージュ』刊行(現在は水声社より復刊)。その最終章は、書き下ろしによる犀利な清岡卓行論。「鏡のなかに降りていった多くの詩人たち。だが、そのなかで清岡卓行は鏡のなかから出てくることに、鏡を砕くことに彼の詩的世界の成立を賭けた、おそらくはただひとりの詩人であったのだ。(略)鏡の廃墟から歩み出すのは彼なのだ、〈日常〉の方へ向って−−」)。


・1968年(昭43)
 46歳
2月、現代詩文庫『清岡卓行詩集』(思潮社)を辻征夫の編集で刊行。3月、翻訳『ランボー詩集』(河出書房新社)刊行。妻の看病をしながら長篇詩「最後のフーガ」を書き、「文藝」の編集者をしていた詩人の清水哲男からの依頼を機に同誌に掲載。7月、妻41歳で死去。


「アカシヤの大連」掲載の「群像」1969年12月号


・1969年
(昭44)
 47歳
4月から1年間、法政大学から国内留学を認められる。そのことで自由な時間ができたことと、妻との死別が小説の試みに向かわせ、第1作「朝の悲しみ」(「群像」5月号)が埴谷雄高、中村光夫、小田切秀雄、安岡章太郎、佐伯彰一、遠藤周作らから評価される。11月、小説の試みの第2作「アカシヤの大連」(「群像」12月号)を発表。また、全詩集限定版『清岡卓行詩集』(思潮社)刊行。


・1970年
(昭45)
 48歳
1月、「アカシヤの大連」で第62回芥川賞受賞。選考委員中、石川淳、大岡昇平、三島由紀夫、中村光夫、永井龍男、井上靖らが推した。3月、岩阪恵子と結婚。同月、岡山県を旅して阿藤伯海の墓参、小説集『アカシヤの大連』(講談社)、現代詩人論集『抒情の前線』(新潮社)刊行。同月、高見順賞選考委員(第1-2回)となる。6月、吉本隆明と対談(「言語表現としての芸術−−詩・評論・小説」、『吉本隆明全対談集』第2巻所収)。9月、亡き妻とその周辺に関する詩篇の集成『ひとつの愛』(講談社)刊行。11月、翻訳デュラス『ヒロシマ、私の恋人』(筑摩書房)刊行。
 
 
 



・1971年(昭46)
 49歳
2月、小説集『フルートとオーボエ』(講談社)刊行。4月、現役の詩人の筆蹟集である編著『イヴへの頌』(詩学社)刊行、同月「フルートとオーボエ」が脚色され、NHKのラジオ物語として放送される。8月、「アカシヤの大連」がTBSラジオで朗読される。9月、原口統三との交遊を描いた小説『海の瞳』(文藝春秋)刊行。11月、『アカシヤの大連四部作』(講談社)刊行。約一年半という短い時間のなかで相互に深く関連する主題および素材をもって連続的に書かれた「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「フルートとオーボエ」「萌黄の時間」を四部作として収録。


・1972年(昭47)
 50歳
3月、金子光晴と対談(「傷だらけの戦後」、「ユリイカ」)。4月、29年ぶりに高知県土佐に旅行し、「ふるさと土佐」(「朝日新聞」)を連載。同月、小説集『鯨もいる秋の空』(講談社)刊行。8月、東村山市多摩湖町に転居。人工湖である多摩湖に、大連時代の自宅近くにあった人工貯水池弥生ケ池のイメージを透視する。8月、初の随筆集『サンザシの実』(毎日新聞社)刊行。9月、カラー版『清岡卓行詩集』(角川書店)刊行。同月、日中国交回復。10月、渡辺一夫と対談(渡辺一夫『白日夢』巻末、毎日新聞社)。11月、NHKのテレビドラマ「朝の悲しみ」(勅使河原平八脚本・演出)放送。


・1973年(昭48)
 51歳
2月、〈大連5部作〉(〈4部作〉に「鯨もいる秋の空を加える」)を収録した文庫版『アカシヤの大連』(講談社)刊行。3月、『現代の文学』第35巻に「清岡卓行集」(作家論:三木卓、随想:江川卓、講談社)収録。5月、薔薇の栽培を開始し熱中。9月、安西冬衛らの同人詩誌「亞」全35冊をはじめて目にする。同月、書き下ろし小説『花の躁鬱』(挟み込み対談:佐伯彰一、講談社)刊行。


・1974年
(昭49)
 52歳
6月、「高見順の詩」(『高見順全集』第20巻解説)発表。10月、『萩原朔太郎「猫町」私論』(文藝春秋)刊行。


小説『詩禮傳家』を書くきっかけとなった阿藤伯海の書。
芥川賞受賞時に一高の同級生、高木友之助から贈られたもの。


・1975年(昭50)
 53歳
2月、再婚後の長男誕生。5月、渡辺一夫死去、「読売新聞」に追悼文執筆。6月、詩集『固い芽』(青土社)刊行。同月、金子光晴死去、「東京新聞」等に追悼文を書き、弔辞を読む。8月、文庫版『海の瞳』(文藝春秋)刊行。9月、「創作ノート」(「週間読書人」)を翌年10月まで連載。10月、阿藤伯海の詩と生涯を描いた小説『詩禮傳家』(文藝春秋)刊行。11月、郡山で詩における生と死の関わりについて講演。


・1976年
(昭51)
 54歳
3月、京都嵯峨野の桜見物に出掛け、「桜の名人」(「太陽」)執筆。5月、小樽へ旅行し、「小樽紀行」(「朝日新聞」)を連載。同月、京都と奈良の仏像を見学し、「浄瑠璃寺初訪」(『浄瑠璃寺』の一部、淡交社)執筆。6月、8枚以下1枚半以上(400字詰)の〈夢のモンタージュ〉の手法による掌篇散文集『夢を植える』(講談社)刊行。11月、日本作家代表団(井上靖、巖谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信、秦恒平)の一員として28年ぶりに中国大陸に渡り、17日間にわたって北京、大同、杭州、紹興、蘇州、上海を訪れる。


中国は紹興の東湖にて烏篷船に乗る
(1976年12月)
左から辻邦正、清岡卓行、伊藤桂一


・1977年(昭52年)
 55歳
4月、随想集『窓の緑』(小沢書店)刊行。6月、『新選現代詩文庫 清岡詩集』(思潮社)刊行。11月、宮川淳死去。同月、「文学界」新人賞の選考委員となり、以後8年間続ける。12月、『現代文学体系』第95巻に「清岡卓行集」(解説:饗庭孝男、随想:大野正男、筑摩書房)収録される。


・1978年(昭53年)
 56歳
4月、岡鹿之助死去。7月、中国紀行をまとめた『藝術的な握手』(文藝春秋)刊行。


・1979年(昭54年)
 57歳
2月、『藝術的な握手』で第30回読売文学賞受賞。3月、東京国立博物館での『中国シルクロード文物展』に深い興趣を覚え、展示品を題材に連作詩を書き始める。5月、十二指腸潰瘍となり、これを期に文筆に専念することを決意する。10月、法政大学新応援歌を作詞。


・1980年(昭55年)
 58歳
3月、17年間勤めた法政大学を退職。5月、小説集『邯鄲の庭』(講談社)刊行。10月、「シルクロード文物展」に取材した連作詩集『駱駝のうえの音楽』(青土社)刊行。12月、随想集『桜の落葉』(毎日新聞社)刊行。
 
 
 



・1981年(昭56年)
 59歳
1951年に旅大と改称されていた大連が、再び改称されて大連に戻る。6月、清水哲夫・平出隆と野球についての鼎談(司会:小笠原賢二、「週間読書人」)。7月、『夢を植える』に続く〈夢のモンタージュ〉による掌篇散文集『夢のソナチネ』(集英社)刊行。9月、詩集『西へ』(講談社)刊行。10月、連載小説「薔薇ぐるい」(装画:福島誠)を「毎日新聞」で開始、翌年4月中旬まで続く。


「薔薇ぐるい」装画(福島誠)


・1982年(昭57年)
 60歳
4月、連作詩集『幼い夢と』(河出書房新社)刊行。8月、現代日本の短篇小説と詩を翻訳しフランスで出版する企画の詩部門の編集委員を大岡信と引き受ける。9月、小説『薔薇ぐるい』(新潮社)刊行。11月、日中文化交流協会代表団(井上靖、清岡卓行、緑川享、大越幸夫、武満徹)の一員として17日間にわたり上海、北京、済南、博(しはく)、鄭州、洛陽をまわる。途中から単身、4泊5日の日程で大連を訪ねる。引き揚げ後から34年ぶりの帰郷。


・1983年(昭58年)
 61歳
前半の半年ほどのあいだに、中国旅行を題材にした小説や随筆を集中的に執筆する。8月、34年ぶりの大連帰郷を描く連作集『大連小景集』(講談社)刊行。12月、『現代の詩人 清岡卓行』(中央公論社)刊行。


・1984年(昭59年)
 62歳
9月、詩集『初冬の中国で』(青土社)、プロ野球に関する随想・詩の集成『猛打賞』(講談社)刊行。


・1985年(昭60年)
 63歳
3月、『初冬の中国で』で第3回現代詩人賞を受賞。5月、2回目の新聞連載小説「李杜の国で」を「朝日新聞」(装画:安野光雅)に開始し、翌年1月中旬まで続ける。6月、「詩学」で「清岡卓行論」特集(渋沢孝輔「無名の静謐への親愛」、宇佐美斉「『初冬の中国で』をめぐって」)。11月、初期詩編20数篇と新作10数篇を除く全詩を収めた『清岡卓行全詩集』(思潮社)刊行。同月、イヴ=マリ・アリューによって、詩が2篇仏訳される。


1986年フランスのガリマール書店から出版された
仏訳の『日本現代詩のアンソロジー』。
序文執筆および自身の詩を2篇収録。


・1986年(昭61年)
 64歳
4月、『李杜の国で』(朝日新聞社)刊行。6月、痛風の発作。8月、平出隆ら詩人たちの野球チーム「ファウルズ」の試合(後楽園スタヂアム)の始球式を務める。10月、編集の一員として参加した仏訳『日本現代詩選集』が、フランスのガリマール書店から刊行。12月、随想集『別れも淡し』(文藝春秋)刊行。


・1987年(昭62年)
 65歳



5月、長篇小説『大連港で』(福武書店)刊行。また同月、若い日に憧れた都市パリに初めて旅行し、ポンピドー・センターでの「日本現代文学シンポジウム」に井上靖、佐伯彰一、大岡信、大江健三郎、石井晴一と出席、小講演「日本現代詩にあらわれたルナルディスム」を行う。日本現代詩史とルナールの関係性をテーマにした同講演は好評を博し、後に『パリの五月に』等に収録される。


・1988年(昭63
 66歳
2月、『大連小景集』を含む新編集の文芸文庫版『アカシヤの大連』(講談社)刊行。10月、初期文語詩篇31篇を収めた『円き広場』(思潮社)刊行。


詩「円き広場」に歌われた
大連の中山広場。
現在もその姿を残している。


・1989年(平1
 67歳
1月、小説「マロニエの花が言った」の、約10年に及ぶことになる長期連載を「新潮」で開始。3月、『円き広場』で第39回芸術選奨文部大臣賞受賞。5月、文庫版『李杜の国で』(朝日新聞社)刊行。8月、詩集『ふしぎな鏡の店』(思潮社)刊行。


・1990年(平2
 68歳
2月、『ふしぎな鏡の店』で第41回読売文学賞受賞。5月、文庫判翻訳、デュラス『ヒロシマ私の恋人』(筑摩書房)刊行。9月、文芸文庫判『手の変幻』(講談社)刊行。11月、加筆新編集版『薔薇ぐるい』(挟み込み対談:平出隆、日本文芸社)刊行、新しく編集・翻訳された別冊「薔薇の詩のアンソロジー」とともにひとつの函に収められる。
 
 
 



・1991年(平3
 69歳
8月、叢書版『萩原朔太郎「猫町」私論』(筑摩書房)刊行。10月、詩集『パリの五月に』(思潮社)刊行。11月、紫綬褒章を受ける。同月、編集・解説した文庫版『金子光晴詩集』(岩波書店)刊行。


・1992年(平4
 70歳
1月、翻訳『ランボー詩集』(河出書房新社)の新版を一部加筆して刊行。3月、『パリの五月に』で第7回詩歌文学館賞を受賞する。8月、前橋市が創設した萩原朔太郎賞の選考委員となる。12月、『清岡大連小説全集』上・下(日本文芸社刊行)。


・1993年(平5
 71歳
7月、書き下ろし「蘇州で」を加えた文庫版『詩礼伝家』(講談社)刊行。9月、短編集『蝶と海』(講談社)刊行。


・1994年(平6
 72歳
12月、『続・清岡卓行詩集』(『新選・現代詩文庫102』の増補・新編集版、思潮社)刊行。


・1995年(平7
 73歳
5月、編集・解説した文庫版、萩原朔太郎『猫町 他十七篇』(岩波書店)刊行。6月、芸術院賞受賞(詩歌部門)。7月、6年刊連載を続けていた「マロニエの花が言った」をしばらく休載。11月、詩集『通り過ぎる女たち』(思潮社)刊行。


・1996年(平8
 74歳
1月、中国の「世界文学」誌1月号で清岡卓行特集。『アカシヤの大連』、詩15篇、エッセー二篇が中国語に翻訳され、清岡卓行論も掲載される。3月、中国大連市の大連日本人学校校歌作詞(作曲:團伊玖麿)。6月、随想集『郊外の小さな駅』(朝日新聞社)刊行。7月、座談会「現代詩の行方をめぐって」(荒川洋治、大岡信、鈴村和成、那珂太郎、「群像」8月号)。10月、「幼年期において同一の狭い時空を共有した唯一の文学者」遠藤周作死去。11月、『通り過ぎる女たち』で第34回藤村記念歴程賞を受賞。同月、芸術院会員に。


・1998年(平10
 76歳
5月、連載を中断していた「マロニエの花が言った」の完結篇470枚を「新潮」6月号に一挙掲載。以後、翌年1月まで「マロニエの花が言った」を全篇加筆・推敲。11月、勲三等瑞宝章。


東京都東村山市の自宅にて(1998年3月)


・1999年(平11
 77歳
2月、日本経済新聞に27回にわたって「私の履歴書」を連載。8月、『マロニエの花が言った』(上・下、新潮社)刊行。11月、高橋英夫と対談「多中心的長篇小説の愉しみ−『マロニエの花が言った』をめぐって」(「新潮」11月号)。12月、『マロニエの花が言った』で第52回野間文芸賞受賞。


・2000年(平12
 78歳
2月、一高以来の友人、高木友之助死去。3月、河盛好蔵死去、産経新聞に追悼文を書く。4月、安岡章太郎と河盛好蔵追悼対談(「新潮」6月号)。5月、「公研」でインタビュー(「私の生き方--1945年夏の大連--清岡文学の原点と青春後期回想」)。
 
 
 



・2001年(平13
 79歳
11月、現代詩文庫『続続・清岡卓行詩集』(思潮社)刊行。同月、安岡章太郎と対談(日本芸術院会員記録)。


・2002年(平14
 80歳
4月、那珂太郎と対談(日本芸術院会員記録)。6月短篇小説集『太陽に酔う』(講談社)刊行。8月、間質性肺炎のため半月ほど入院、同月詩集『一瞬』(思潮社)刊行。9月、再び10日ほど入院。退院後は2006年2月まで自宅療養を続け、通院以外いっさい外出しない。11月、『一瞬』で第20回現代詩花椿賞受賞。


・2003年(平15
 81歳
1月、『一瞬』と『太陽に酔う』で毎日芸術賞受賞。3月、10日ほど入院し、その後は往診に切り替えてまったく外出しない。この年以降病気で体力が低下し、「現代詩手帖」と「群像」の新年号以外は毎年いくつかの原稿しか書けず、それら少数の原稿に全精力を注ぎ込むことになる。


・2004年(平16
 82歳
5月、「日本の詩祭2004」(現代詩人会主催)で先達詩人として表彰。10月、小笠原賢二死去。12月、石垣りん死去。


・2005年(平17
 83歳
死と向き合った自らの後ろ姿のポートレイトとも読める詩「ひさしぶりのバッハ」が「現代詩手帖」新年号を飾る。8月、網膜の細動脈硬化で片目の一部が見えなくなる。


・2006年(平18
 83歳で没
2月、間質性肺炎の急性増悪で入院。4月に一時帰宅するも5月から再度入院し、6月3日、入院先で死去。5月末に一時意識がはっきりした際に口述した詩「ある日のボレロ」(未完、「文藝春秋」7月号)が遺稿となる。10月、拾遺詩集『ひさしぶりのバッハ』(思潮社)刊行。同月、講談社主催で「清岡卓行を偲ぶ会」開催。発起人は那珂太郎、大岡信、高橋英夫、吉本隆明。11月、最晩年の短篇と随想をまとめた『断片と線』(講談社)刊行。


・2007年(平19
6月、単行本未収録の文章を編んだ随想集『偶然のめぐみ』(日本経済新聞社)刊行。 11月〜12月、高知県立文学館にて「清岡卓行追悼展」開催。


・2008年(平20
10月、『定本 清岡卓行全詩集』(思潮社)刊行。11月、「現代詩手帖」で清岡卓行特集。



追悼文リスト
中村稔、朝日新聞、2006年6月7日
平出隆、読売新聞、2006年6月7日
菅野昭正、日本経済新聞、2006年6月7日
粟津則雄、毎日新聞、2006年6月8日
高橋英夫、東京新聞、2006年6月8日
匿名、東京新聞、2006年6月16日
清水昶、週間読書人、2006年6月23日
三木卓、毎日新聞、2006年7月2日(「この人・この3冊」)
宇波彰、千年紀文学、2006年7月31日
大岡信、ユリイカ、2006年7月号
平出隆、ユリイカ、2006年7月号
那珂太郎、現代詩手帖、2006年7月号
入沢康夫、現代詩手帖、2006年7月号
宇佐美斉、現代詩手帖、2006年7月号
清水哲男、現代詩手帖、2006年7月号
野村喜和夫、現代詩手帖、2006年7月号
八木幹夫、現代詩手帖、2006年7月号
木坂涼、現代詩手帖、2006年7月号
齋藤恵美子、現代詩手帖、2006年7月号
菅野昭正、文学界、2006年8月号
吉本隆明、群像、2006年8月号
高橋英夫、群像、2006年8月号
平出隆、群像、2006年8月号
清水哲男、新潮、2006年8月号
高橋英夫、群像、2006年9月号