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用語解説原文


因縁(いんねん)縁起(えんぎ)(くう)業(ごう)慈悲(じひ)智慧(ちえ)中道(ちゅうどう)(ぶつ)
仏性(ぶっしょう)煩悩(ぼんのう)無我(むが)無常(むじょう)無明(むみょう)輪廻(りんね)

因縁(いんねん)

因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起という場合も、同様である。

縁起(えんぎ)

因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係しあって生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「お蔭さまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、本来の意味を忘れてはならない。

空(くう)

存在するものには、実体・我がないと考える思想である。すべてのものは相縁り、相起こって存在するにすぎないから、実体として不変な自我がその中に存在する筈がない。したがって実体ありととらわれてはならないし、存在しないととらわれてもならないわけである。すべてのものは、人もその他の存在も相対的な関係にあり、1つの存在や主義にとらわれたり、絶対視したりしてはならない。般若経系統の思想の根本とされる。

業(ごう)

本来の意味は行為ということであるが、因果関係と結合して、行為のもたらす結果としての潜在的な力とみなされている。つまりわれわれの行為は必ず善悪・苦楽の果報をもたらすから、その影響力が業と考えられるに至っている。善い行為を繰り返し、積み重ねれば、その影響力が未来に及んで作用すると考えられている。なお業には、身・口・意の3種の行為があるとされる。

慈悲(じひ)

仏教におけるもっとも基本的な倫理項目で、「慈」とは相手に楽しみを与えること、「悲」とは相手から苦しみを抜き去ることである。これを体得して、対象を差別せずに慈悲をかけるものが(覚者)すなわち仏であり、それを象徴的に表現したものが、観音・地蔵の両菩薩である。やさしくいうと、慈悲とは「相手と共に喜び、共に悲しんであげる」ということになる。

智慧(ちえ)

 普通に使われている「知恵」とは区別して、わざわざ仏教では「般若」の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが「仏陀」である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を「般若波羅蜜」という。

中道(ちゅうどう)

偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を徹見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、止揚する思想として表われてくる。例えば有・無の両極端、断・常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。

仏(ぶつ)

梵語の「さとれるもの」という意味の単語を漢字に音写したものが「仏陀」で、その省略が「仏(ぶつ)」であり、「ほとけ」とも読ませる。普通「覚者」・「正覚者」と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である「釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダールタ)」を指した。仏教の目的は、各人がこの「仏」の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧舎那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。なお日本では、死者のことを「ほとけ」とよぶが、これは浄土教の「往生成仏」思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで「仏」になるという信仰に由来する。

仏性(ぶっしょう)

「仏になる種子」といったもので、あらゆる存在にこれを認めるところに仏教の特徴がある。「覚りに達する潜在力・可能性」といってもよい。又、「仏心」といってもよいが、「一切衆生悉有仏性」という句にも表われているように、すべての存在に、差別しないでこの仏性を認めたところに、仏教の平等説の立場が見られる。この内在する仏性を外に現わしたものを「仏」とよぶ。

煩悩(ぼんのう)

悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。

無我(むが)

仏教の最も基本的な教義の1つで「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての「我」を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、「永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない」と説いたのは当然である。なお「我」は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

無常(むじょう)

あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する1つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという4つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

無明(むみょう)

正しい智慧のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を12段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

輪廻(りんね)

過去世から現在世へ、更に未来世へと、生まれ変わり死に変わることを、輪がまわるのにたとえたもので、輪廻転生という言葉もある。人間が、この迷いの世界からさとりの世界へと脱出しない限り、地獄・餓鬼・畜生の三悪道や、それに阿修羅・人間・天上を加えた六道の世界への転生を永遠に繰り返すのである。この輪廻の輪から抜け出たものが、「仏陀」とよばれる。

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