【編集権を盾に取り、自浄作用をなくした愛媛新聞】
メディア・リテラシー講演会
「靖国参拝/教科書採択」愛媛新聞はどう報じてきたか?
愛媛県重信中学教諭 大津寄章三
(時) 平成17年12月3日(土)
(所) 愛媛大学
(主催)愛媛大学メディア・リテラシー研究会
皆さん、こんにちは。今日は愛媛大学のこの講義室をお借りいたしまして、メディア・リテラシーについて、とりわけ地元愛媛新聞がこの夏から秋にかけて、教科書問題および靖国参拝問題をどう報じたかということに焦点を当ててお話をしようと思います。
(前半の教科書問題については椿神社での講演内容と重なるため省略)
靖国訴訟高裁判決に対しての愛媛新聞報道
続きまして、靖国判決でこの例をみたいと思います。実は昨年度、総理大臣の靖国参拝に対して地方裁判所レベルで判決が出ました。3月に出た判決です。松山地裁で出た判決です。憲法判断、首相の参拝は憲法に違反するかどうかということには踏み込まずに、訴えたほうの法的な利益はないということで却下をいたしました。つまり原告の完璧な敗訴であります。このような記事です。『司法仕事せず、憲法判断回避』。当然松山地裁ですから、地元記事としてでかでかと出ることはまあ当然だろう。我々も思いました。ところがその1ヵ月後、昨年の4月に今度は福岡県の地方裁判所で憲法判断をした判決が出ました。これがそうです。この言い方。『司法が使命果たした』。嬉しそうな原告の方々の声があります。
この2つの裁判について愛媛新聞がさまざまな記事を載せました。それを大きい部分だけ集めてまいりました。これは愛媛新聞が気に入らない判決のほうの記事です。リードだけ集めてきました。先ほどのです。『5分間で閉廷 司法退廃』。総理大臣の靖国参拝は私的なものであると。『原告団から怒号』。社説は2つです。『木を見て森を見ぬもどかしさ』『私的と決め付ける乱暴さ』。これは愛媛新聞のお気に召さない、憲法判断に踏み込まない地裁判決でありました。それから1ヶ月後、今度は愛媛新聞が手をたたいて喜ぶ判決が起きます。そのときの判決。『四国訴訟に追い風きたる 原告団やった 傍聴席にどよめき』。総理大臣は当然の如く不満でありましたね。そしたら社説に『耳ふさぐ首相、時代の危うさ』という記事であります。こういうスタンス。大きい見出しだけ見ると非常に分かりやすいものがあります。
この首相の靖国参拝の法的な判断は今年の秋にも繰り返されました。今度は地裁ではなくて、高等裁判所の判断で来ました。資料をご覧ください。9月の終わりに東京高裁が「総理大臣の首相の靖国参拝は私的行為であり、原告の利益を妨げるものではない」という判断を出しました。愛媛新聞はがっかりいたしまして、これだけの記事で終わりです。一番最後に残念そうに原告側の人物、参拝反対側の人物(安西さん)のコメントを載せております。お坊さんですかねえ、この方。
ところがその翌日、今度は大阪高裁が愛媛新聞のお気に召すような「首相の靖国参拝は憲法違反である」という判決を出しました。よほど嬉しかった愛媛新聞は、これでもか、これでもかと、次から次へと紙面を使います。64・まで、1日か2日の新聞なんですが、どんどん、どんどん、嬉しくて舞い上がっている愛媛新聞はすごいスペースでこれを報道いたしました。ただこの裁判は、見られた方はお分かりになりますけれども、原告敗訴なんです。「君たちの権利はなんら侵害されていないじゃないか。だから賠償はなし」という原告敗訴なんです。ただしその判決文の傍論(裁判官の個人的な心情を表す部分)の中で、裁判長が「憲法違反である」とつぶやいた。ということは、これは何の法的な効果もない。一切法律的に無効なんです。裁判官の傍論というのは個人的なつぶやきですから。ところがこれだけ大きな見出しになると、高等裁判所が違憲判決を出して、それがあたかも法的に行政や立法を制約するかのようなイメージ。ですから『違憲と認定した』とか『「違憲」と断じた』とか『違憲との判断を突きつけた』とか、「違憲」「違憲」「違憲」という言葉がどんどん独り歩きするんです。唯一「これは傍論だから法的な意味はない」と言ったのは61・の左下、国学院の大原先生だけを少し紹介しているだけです。
そしてもうひとつ、この愛媛新聞はこの判決を次の裁判に圧力をかけようとしたんです。マスコミが裁判に圧力をかけた例です。それが63・のリードです。『四国訴訟に光』。これは同じく高松高等裁判所で近々同じような判決が出るということで、『四国訴訟に光』といって裁判官に圧力をかけたんですね、新聞が。高松高等裁判所の裁判官に対して、この大阪の判決というのは『光』なんだ。こういう価値感を訴えております。そして64・では『憲法判断 最大の焦点』、憲法判断が出るかどうかが最大の焦点であると、憲法判断をしなくては許さないぞと、憲法判断に踏み込んだ判決をしなければただじゃおかないぞ、みたいな圧力をここで加えております。ところがそれから5日後に出ました高松高等裁判所は愛媛新聞ががっかりするような憲法判断なしの原告敗訴という判決に終わりました。また出ました。『憲法判断せず』という写真がそこに出ています。次の66・では『違憲の流れ続かず』。残念でたまらないという愛媛新聞の無念さがにじみ出る新聞になっております。そして大阪の判決の時には、「首相はこの司法判断というのに耳を傾けろ。高等裁判所の判決は地裁とは違うぞ。高等裁判所の判決は重いんだ。司法に耳を傾けろ」と社説で散々述べていた愛媛新聞が、67・では『「頼れる司法」に程遠い判決だ』。それまで持ち上げていた司法をガターンと投げ飛ばすという力技を見せてくれます。一体何なんだ、これは。
今、教科書の採択および靖国判決について愛媛新聞のスタンスを見てまいりました。たとえば片方を裁いた基準でもう片方を見ようとしない二重基準というのが、愛媛新聞に非常にはっきり現れております。それから結論というのが最初からある。これは自分が「好き」か「嫌い」かという好き嫌いが最初にあって、それに見合ったような記事の選択をするという、恣意に星を選び出し星座を組み立てるという点があります。
編集権を盾に取り、自浄作用をなくした愛媛新聞
一番最初にお見せした1枚プリントの裏をご覧ください。新聞倫理綱領というものが載せてあります。これは全新聞社が加盟しているものであります。その中ほどをご覧ください。「正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確にかつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。」「人権の尊重 ・・・報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。」これが愛媛新聞も加入しています新聞倫理綱領なんですけれども、本当にこれに合っているんだろうかと大変疑問を抱かざるを得ません。
愛媛新聞もそこらへんは自覚をしておりまして、第三者から見てわが社はどうなんだろうか、そういう第三者の目で自分を検証しなくてはいけないという組織を実は作っております。それがこれであります。「読者と報道委員会」というものです。今委員になっておられる方が、この方々ですね。弁護士の菰田さん、東温市の「高畠華宵大正ロマン館」館長の方、「一六」の社長さん。この方が愛媛新聞というのはどうなのか、どういう報道をしているのか、外部調査機関みたいなものであります。この方々が教科書問題について話し合ったという記事が十月に載っておりました。そしたらこのようにおっしゃっています。教科書問題については、「一連の報道に関しては十分に評価する」「完成度の高い記事であった」「記事はバランスが取れていて不満はない」「採択時の記事は客観的報道であった」というふうな論に終始するんです。唯一、「一六」の社長さんが「ちょっと新聞社側の意見が強すぎたんじゃないか」ということを述べておられますが、これはもうごく僅か。大半は「もっと掘り下げてもよかった」と。「分量が多すぎるんじゃないか」という意見については皆無です。第三者機関なんです。めちゃめちゃ身内には甘い機関。できれば私はこの報道委員会に入れていただきたいぐらいなんですけれど、多分入れてくれないでしょうね。そういう自分たちの記事について非常に甘い判断しかしない方を集めてお話しをして、「よかったんじゃないの」「客観的報道だった」「もっと詳しくてもよかった」「完成度高かったよ」「十分評価する」、そういう甘い言葉で、「よかった、よかった」という報道の自己評価をしております。どうなんだろうか。自浄作用はもう愛媛新聞にはないんじゃないか。がっかりした記事でありました。
私は前にも言いましたが、新聞社にはそれぞれの立場があってかまわないと思っております。皆さんの中でも、朝日新聞と産経新聞が同じ主張をするかといえばそんなことはない、読売と毎日が同じ主張をするかといえばそんなことはない、ということをご存知だと思います。読売新聞は巨人軍が勝ったら大きく出るじゃないか。産経新聞はタイガースが優勝したらものすごい記事を書くじゃないか。それぞれ新聞によって立場・信条の違いがあろうかと思います。
しかし私は愛媛新聞はそれがあってはならないと思っております。理由はひとつです。愛媛には愛媛新聞以外、地方紙がないからです。独占企業だからです。愛媛新聞は32万5千部という発行部数を現在持っております。これに対抗する有力な地方紙はありません。18年前まで「日刊新愛媛」というのがありましたが、昭和とともに姿を消しました。現在この愛媛新聞を県民が取らざるを得ない。どのように偏向していようが、おかしな記事を載せようが、愛媛新聞は取らざるを得ない状況です。お悔やみ欄があるからではありません。学校などでも自分たちの生徒が賞状をもらったり総体や新人戦で活躍した場合、愛媛新聞は事細かに支局を総動員して足で稼いだ記事を載せてくれます。地域に密着した記事を事細かに載せていただけます。それだからこそ役所にしても学校にしてもご家庭にしても、ちょっとしたことでそれが新聞に取り上げてもらったりする、非常に身近な県民紙であるということで、愛媛新聞を皆さん頼りにしております。したがって愛媛新聞を取るなとは申しませんし、うちの学校でも取っております。私も、後ろのスクラップをご覧になったら分かるように、熱心に愛媛新聞を読んでおります。
その愛媛新聞だからこそ朝日や毎日や産経のように、はっきり自分の立場に立ってものを言う新聞であってはならないのではないのか。もっともっと愛媛新聞の政治的な信条というものは控え目にしなくてはいけないのじゃないか。少なくとも国民意見を真二つに割るような教科書問題であるとか、靖国参拝問題であるとか、教育基本法の問題であるとか、防衛のシステムの問題であるとか、こういう問題に関してあまりにも愛媛新聞の色眼鏡の度合いは強すぎるのではなかろうか。特定の価値観に左右される報道になりすぎてはいないか。片方に体重が乗りすぎてはいないのか。という心配があります。そしてひいてはこの保守的といわれる愛媛県の県民感情を無視し、そして愛媛新聞だけが第1権力として突っ走っていくような、そういった結果になりはしないか。新聞社と県民との間の意識の落差という、これがどんどん広がっているような気がします。そしてそれは県民にとっても自分たちの政治的判断をミスリードされるという意味で、大変不幸なことではなかろうかという気がしております。
実はこのあいだ、愛媛新聞の方とちょっとお話をしたときに、愛媛新聞の上層部(経営陣)はこの愛媛新聞の論調を苦々しく思っている。これはもう識者の間ではほぼ常識になっております。社長クラス、重役クラスはこの論調を決して快しとしていないにもかかわらず、いわゆる現場のデスククラス(実際に執筆しているクラス)は編集権を楯にとり、この経営者の意見を聞かない。つまり新聞社には経営権と編集権があるんだと。専務以下、重役は新聞社としての経営権に関心を持つべきであって、どのような報道を流すか、論調を行うか、社説を載せるかという編集権は現場にあるんだと、こういう意見がまかり通っているという声を聞きました。事実であると思われます。
ひとつの新聞社の中に経営権と編集権という2つの権力がある。どこかで見たような話だなと思うと、かつての陸軍であります。昭和の始めから実は陸軍が暴走し始めまして、政府の言うことを聞かなくなりました。陸軍の唱えた論理は「統帥権」であります。つまり明治憲法の下では「軍隊は天皇直属である。陸海軍は天皇がこれを統帥す」とはっきり書かれてありますから、「陸軍の統帥権については天皇が直接任命するものであるから、内閣や帝国議会は口を挟んではいけない」というのがこの統帥権の問題でありました。そして軍隊の動向について陸軍大臣・海軍大臣が異議を唱えた場合は、内閣が総辞職しなくてはいけないという悪しき例が日本の中で出ていきました。たとえば浜口雄幸という総理大臣がおりましたが、彼は昭和5年にロンドンで行われた軍縮条約に調印した。これが軍部の怒りを買います。軍隊の組織とか編成とかいうのは統帥権の問題であって、それは総理大臣が口を挟んでいい問題ではない。越権行為だというので、彼は狙撃されて殺されます。
あるいは翌年起こりました満州事変といいますのは、政府が一生懸命止めようとするのに大陸にいた関東軍が暴走してそこに国を作る、という既成事実を積み重ねてしまう。これは日本にとって非常な不幸でありました。つまり日本という動物が2つの頭を持つ蛇になってしまう。2つの頭脳を持ち、立法府・内閣府・行政府という脳と、もうひとつは軍部という脳の2つの脳を持つ、つまりダブルスタンダードの国、二枚舌の国として国際的な評価を落としてしまう。外国からの不信を招いてしまう。これがあの昭和の戦争になだれ込んでいった大きな原因であろうと思います。ひとつの国の中に2つの頭脳を持ってはいけない。あくまで統一国家としてきっちり立法が決めたことを行政が行い、そして司法がそれをチェックする。こういった三権分立がひとつの有機体として成り立っていない国というのは必ず外国から貶められ、そして不信感を招くであろうと思います。
愛媛新聞の言っている経営権と編集権も、実はそうではないかと私は思っております。経営者の言い分と現場のデスクの声が全然違うと。県民性を無視した、朝日よりもより革新的な紙面作りをしている。革新的というと良いふうに聞こえるけれどもそうではなく、特定の立場に立ち、そして二重基準を振りかざすような編集をしている。これが今愛媛県民をミスリードに導きつつある大変大きな原因ではなかろうかと思います。私は愛媛新聞というのは地方のガリバー(巨人)であると思っております。愛媛県という小さな県の中で独占企業として県民世論を動かしている、そういうガリバーであると思っています。その力の大きさを見るときに、どうか愛媛新聞、健全な、そしてバランスの取れた、そして透明度の高い、県民性を考慮した新聞であってほしい。それがメディア・リテラシーに関わる者として切なる願いであろうということを確認して、第一講を終わらせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
質問 愛媛大学生 藤田さん
講演の最後のほうで新聞倫理綱領の話をされていました。愛媛新聞社が日本新聞協会の加盟社であるということなんですけれども、新聞倫理綱領というのは、これに書かれていることに逸脱した行為を新聞社がした場合に罰則があるのか、それとも努力規定であるのか、知りたいのですが。
回答 産経新聞 近藤記者
新聞倫理綱領ですが、罰則は直接にはないということです。ただ倫理綱領に反した行為をした場合に、新聞社各社がその内規で処分を行うことがずいぶんあります。倫理綱領と同時に、各社の内部規定に反する行為であることが多いですけれども。
回答 大津寄章三
中学生の生徒心得みたいなものだとお思いください。
【愛媛新聞が生きていける不思議】
司会 次に元NHK 記者三好貞夫様より、このテーマに関するNHKのスタンスについてコメントしていただきたいと思います。三好様、よろしくお願いいたします。
三好貞夫氏 三好でございます。ただいま記者という紹介をいただきましたが、私はテレビニュース担当のディレクターで、ディレクターといいますと芸能界のディレクターの方が有名ですけれども、報道関係もございます。放送界はそれぞれに組織が違いまして、NHKの場合は記事を取る記者、これは新聞記者とまったく同じです。それぞれのクラブに配置されておりまして、記者、カメラマン、あるいは中継映像が入ってきます。それをそれの時間に合わせて1本の作品に仕上げていくのがディレクターであります。ディレクターもそれでは中で何の仕事をするかといいますと、NHKの場合はディレクターも提案して企画などの取材に参ります。私はかつて東京時代、今日は年配の方も多いですからご記憶の方もあると思いますが、「ニュースセンター9時」、磯村、勝部、大浜、この番組を担当しておりました。
今いろいろとスタンスという問題もありましたが、NHKは今の問題を巡っても大変デリケートな組織体であります。それはひとつには受信料ということであります。今回の不祥事を巡ってNHKは350億近い減収に陥りました。皆さん方はNHKは倒れないんじゃないかと。私もよく言われました。「お前さんはいいなあ。倒産する会社じゃないし」。でも私はいつもその度に申し上げたんですが、「NHKというのは倒れるときは、あっという間に倒れますよ」。それは国会ですべて握られているわけですね。一般の会社じゃありませんから、国会で「NHKはこういう組織にすべし」と決まれば、もうそうなってしまうわけです。で、国民がもう必要としていない。実はこのあいだ、オリックスの宮内会長が「もう受信料制度は崩壊している」と、「これはもうお客さんが必要ないんだと言っているんだ。したがってBSはスクランブル化しろ」というお話です。ほとほと左様に、私たちが、私はもうNHKの人間じゃないですが、NHKをどうこうしようという以前に、皆さん方がすべてを握っているわけです。受信者の方がNHKの命運を。
私は先の大津寄先生のお話を伺って、これだけ保守の強い愛媛県で、なぜ32万5千部の愛媛新聞が生きていけるかというのが不思議でしょうがないんです。まったく不思議です。これには慣習で読まれているということももちろんあるでしょう。しかしどうしてそれに、大津寄先生も確かに投書もたくさんされています。いろいろ活動もされています。だけどこれが愛媛新聞をなぜこれだけ、衆議院議員選挙をやればみな自民党です。そういう国柄であって、なぜこの新聞がこれ程読まれているのか、私は本当に不思議でしょうがないんです。それとNHKを対比しますと、NHKの場合本当に弱いです。もう今回お金を払わないという人がたくさんいて、今NHKは局長以下、平職員に至るまで、皆さんのところにお詫び行脚に歩いているんです。払っていただけないところに。しかし今の建築物でマンションに行っても入れないところがたくさんあります。その結果が今350億という減収になっています。
NHKはいろんな問題に対して右からも左からも批判・攻撃がございます。私も1本番組を作って出したら、外から電話がかかってきて、電話をかけて来る人は大概の人が興奮状態なんです。いきなり「ばかやろう」とくるわけです。何が「ばかやろう」か分からない。まあ相手方の話を聞いていると、先方さんの言わんとしていることも分かります。テレビというのは新聞記事のようにじっくり読み返しできませんね。今はビデオがありますけれども。印象で、「あっ、けしからん。ばかやろう」と、ぱっと電話してくるわけです。ところがNHKは巧妙といえば巧妙です。必ずちゃんと言い抜けできるような構成になっているんですね。また、そうしないと出来ないです。「NHKは生ぬるい。あんなこと言っていいのか。もっとガンとやれよ」とおっしゃられるわけですよ。しかし確かにたとえば右の人から「そうだ、そうだ」という論調を出せば、必ずそうじゃない人からは「それはおかしいだろう」。だからどっち付かずでありますけれども、ちゃんと出さない。しかしそう言いながらも、今のNHKは非常に批判が多いです。
特に雑誌、オピニオン誌の『正論』ですね。「NHKウォッチング」。あれには毎回毎回、辛辣な批判が載っておりますが、ただ当事者からしたら「そこまで言われてもなあ」というところもあるんですよ、実際問題として。だから、批判が必ず正しいとは限らないでしょ。中村先生が中村先生の立場でNHKの批判をやっています。もっともなところもありますよ。私のようにかつて内部の人間であっても、「ああ、是はちょっと言われるなあ」というところもあります。ですから、それが偏っているとか何とか言いませんけれども、放送というのは本当に瞬間的な判断で反応されてしまうわけです。
映像は非常に難しいです。かつて私はこういう経験をしました。選挙ですね。第1声、どこでもやります。そのときに、かつてのフィルム時代でした。フィルム時代は一番簡単な方法はサイレントフィルムで取材して、コメントを記者がつけるわけです。1人50秒に決まったら、各候補皆50秒です。そうしましたら電話がかかってきて、「うちの先生が短いじゃないか」と、こう来たですね。それで課長以下、皆集まって、そりゃ選挙ですからNHKは皆ピリピリしていますから、フィルムを計りました。ちゃんと同じ50秒ありました。なぜうちの先生が短いかといいますと、その先生はこれをやるんです、しゃべりながら。動きが激しいんです。もう1人は淡々としゃべっている。そうしますと映像の魔術といいますか、ちょっと恐ろしいところは、淡々としゃべっている方が長く感じるんです。絵の中の動きが激しいと短く感じる。それで「うちの先生が短い」と怒ってくるわけですね。そういうふうに新聞記事と違ってテレビの場合は、原稿の問題(コメントの問題)、それから映像の問題(音のつけ方)、こうした総合的なものが非常に問題を複雑にしてきます。
それ以外には例の模擬裁判問題です。これはいろいろメディアで取り上げられましてから、ご存知の方がたくさんおありだと思います。あのとき安倍さんが反対派としてご登場しました。NHK側はどうにかそれでバランスをとったつもりなんですが、反対派から見たら、それはけしからんという話です。急遽そのモニターをみたら、われわれの言い分が通っていない。しかし放送という性格上、やはりそのところは担当者がどうであれ、ちゃんとしなきゃいけない。しかしながらあの番組は、長井というチーフディレクター(CP)が4年も経ってから涙の会見をして、朝日もそれに同調して書きたてました。私はそこに非常に意図的なものを感じました。なぜ4年も経ってから、そのCPが会見しなければいけなかったか。朝日が4年経ってから書かなければならなかったか。そこはもう皆さんはお感じになっていると思います。本当にテレビというのは作る方は意外に細心の注意を払っているんです。
NHKの場合、鬼の報道、仏の教育、花の芸能、こういう3種類の人間がおります。報道の人間は社会と正義を筆頭に、切った張ったの世界で生きております。教育番組を作る人たちは仏の教育と言われている。温厚な人たちが多いんですけれども。しかし我々が同僚として見ていて、かつてNHKも労働運動が非常に激しい時代がありました。40年代です。私も平職員として組合員ですから、やっておりました。館内をデモ行進したり、局長室の前に座り込んだり、それが某局では暴走して局長室の扉を壊して警官が入ってくるような騒ぎがあったのも、昭和40年代初期でした。そういう中で今も本部で活躍している非常に偉い役員待遇の人物ですけれども、かつて過激派に近い動きをしていた連中が意外にそういうポストに座っているんですね。これはちょっと不思議な組織であると思いますけれども。ただ報道系はわりとそれが少ないんです。報道の人というのは、やはり1歩引いてものを見ながら書いて、これは今も新聞記者がおられますけれども、同じだと思いますが、わりとそういう面ではクールなんですけれども。
先ほどから大津寄先生の話を聞いておりましても、本当にすごいと思います。私は愛媛新聞は、悪いですけれどぱらぱらと職場でめくるぐらいで熱心に読んでいませんので、改めてこれを見て驚きました。
私は昭和48年、それまで父親が朝日新聞を取っていたものですから、ついでに朝日を取っていました。ちょっとおかしいなと思い始めたのが昭和40年代半ばから。中国の林彪事件です。それから昭和48年の10月頃と記憶していますが、2ページの大特集をやりました。「農業は大寨(タイサイ)に学べ」。大寨(タイサイ)というのは当時毛沢東が推し進めていた集団農場なんですが、これもその時すでに日本では一部で「あれは失敗じゃないか」と言われていたのが、どーんと2ページにわたって、まさにこんな活字が躍っていた。私はそれを見て、この記事はおかしいと思って朝日新聞に電話しました。すると先ほどの大津寄先生の話じゃないけれど、まさに経営権と編集権。電話しましたら、「私どももあの記事に関しては疑問もあります。私たち老人グループはおかしいと思うんです。だけど若い人たちはあれで突っ走ってしまって」というような話でした。で、私は「じゃあ、悪いけれど止めます」。一部止めたといってなんて事はないんです。あちらは大朝日ですからね。それでも私は自分もマスコミの人間だし、そういうものを見てきて、「ああ、これはやっぱりジャーナリストの世界というのは気をつけないと」。自分が言いたいことを言ってりゃいいっていう世界じゃありませんので、そういうつもりでやってまいりました。
今はちょっとNHK
、NHKといいますと、NHKはどんどん二元化しているんですよ。それで管理部門はあとが来ないものですから、OBを安い時給で使う。現役時代の約20分の1ぐらいでというわけですね。そういうことをしているものですから、今もまだ週2回嘱託として。私は報道だったんですが、体を悪くして、報道の世界では長生きできないというので軽い方にしてもらって、今もやっていました。それもこの不祥事が祟りまして、来年3月には契約解除と。これ以上続けられないということになりました。取り留めもない話になって、こんな話になると思いませんでしたが、若干放送界の裏話ということで。ありがとうございました。
【愛媛新聞はどうなってきたんだ】
元愛媛新聞記者 林定亨氏のコメント
愛媛新聞社OBの林と申します。大津寄先生の話を大変感銘深く聞かせていただいたわけですが、愛媛新聞という言葉が30回以上出まして、私も定年退職後10年経つんですが、私自身理屈の部分では愛媛新聞と縁がないと思っているところもあるんですが、やはりそうでないところもあるんだなあというのを、首から上にちょっと血が上りまして、感情的な部分では愛媛新聞とまったく縁を切ることはできないんだなあという気がしました。
ただし、大津寄先生のおっしゃることは全部本当です。現職の愛媛新聞の記者はいらっしゃいませんか。どうもいらっしゃらないようなんですけれども。それで、愛媛新聞という言葉がたびたび出たので、私も一言。三好さんみたいに詳しい話は言えませんけれども、「愛媛新聞OBもいるんだよ」という一言だけ言いたいと思いました。
私は定年後の仕事として、現職のときに経済担当の記者としてかなり長い間やってきたものですから、「愛媛経済レポート」というメディアがあるんですけれども、そこがちょっとおかしなことになりまして、社長さんから「林さん、ちょっと助けてくれよ」ということになって、やっているんですけれども。それで私も最初の2、3ヶ月は仕事の手助けをしていたのですが、後は「書きたいことを書かんと。もう馬力もないし」と思って、今年の1月から8ヶ月間やったのが、歴史教科諸問題を取り上げました。今やっているのが、10月からが「ジェンダーフリーの迷路」というタイトルで、ジェンダーフリー問題に取り組んでいます。私は私の考え方でやっているわけですが、「つくる会」の方々の運動方針とかあるいはやっていることを私もそれなりにトレースして、大変私もずしーんと来るものがあります。そういうものを大事にしたいなあと思ってやっております。
今の愛媛新聞について私が「これはおかしい」と思ったのは、北朝鮮の不審船を銃撃戦の末、不審船は自沈して、その翌日の新聞の社会面を見ると、自沈したこと自体最悪の結末という見出しを取ったわけですけれども。これはおかしいなあと思って私はずっとテレビを。テレビは見ていて面白かったですけれども、翌日の愛媛新聞の見出しはどうなるかなあと予想をしながら寝たんですけれど。一言で言ったらそうでしょう。びっくりしました。私は逃げ帰ったら最悪の結末だなあと思っていました。自沈したのはあまり最悪でもないし、日本にとって良かったわけでもない。何人か乗っていた船体を捕獲して、海上保安部あるいは海上自衛隊が連れて意気揚々と帰れば一番良い。逃げ帰られたら最悪の結末だということは漠然と考えていたものですから、朝、びっくりしたわけですね。
そしてさっき大津寄先生がおっしゃった「密室の謀議」ということは、私がすぐ思ったのは、東京裁判のキーナン検事が言った「共同謀議」のことが頭に浮かびました。細かいことは置きますけれど。そこらあたりが私も愛媛新聞はどうなってきたんだというふうに強烈に感じております。今「愛媛経済レポート」の社長や専務と時に話をするのが、やはり私の口からは愛媛新聞批判がとても出ていくわけですけれども、新たに愛媛新聞研究みたいなことを考えられないかなあと思って、「それをやらせろ、やらせろ」と言っております。
マスコミの内情というのは、栗原先生のようにメディア・リテラシーなどという高尚なことはなかなか出来ないけれど、マスコミの内情というのは非常に興味がある。みんなそういうことを話す。あるいは聞きたい。だからそれに応えるようなものを私も何か出来ないかなあという気がしています。このあいだ栗原先生にちょっとそのことを抽象的に言いまして、その時は「メディア・リテラシー研究会として、先生、協力してくれますか」という話で、もちろん結論は出ていないんですけれど。というふうな状況で、今日の愛媛新聞についての批判的な話というのは、非常に大きなインパクトを私も受けました。大変にありがとうございました。以上です。
質問
私が考えますには、中国による靖国・歴史教科書の対日カードについては、中国はいつまでも同じカードは切らないとだんだん分かってきた。だからこれにいちいち反応しないで、放っておくのが一番だと言っている方もおりますし、私もこれでいいんじゃないかと思うんです。先生はいかがお考えですか。
講師 大津寄章三氏
よくこんなことを言います。墓参りに行くとします。そのときに隣の家の人が、「このあいだ死んだあんたの先代には、家の人はえらい目にあった。だからあんたがもし祖先の墓参りに行くというのだったら、私はあんたともう近所付き合いしない」と言われたとき、あなたはどうしますか。という例えをしています。
昭和20年以前において中・韓と日本との間に不幸な歴史があったことは、これは事実であります。戦いもありましたし。そのときに現在の韓国という国は日本側で中国と戦ったほうなんですけれども、実は。そのときに「それは話が違うでしょう」と、「確かに亡くなった先代とあなたの家とではいろいろいがみ合い・戦いがありました。感情のもつれもありました。しかしながら私は血をつなぐ息子として、家の親父は厳しいけれども優しい親父であった。それを墓参りに行って偲ぶことが出来ないというのだったら、残念ながら、近所付き合いは出来ないと言うあなたのお言葉に従うしかありません」というふうに、私は答えるべきであろうと。
つまり人間として何を優先的に考えるのか。それは隣近所とさえ上手くいけば、自分の命を生み出してくれた祖先を悪し様にその歴史を否定してもかまわないのか。それが果たして「後を頼む」と言い残して戦火に散っていかれた私たちの祖先、同輩、仲間たちに対する子孫の我々の仕打ちなのか。それを考えれば、「なぜ中・韓が文句を言うのか私は分からない。あれは外交カードに使うことはもうありえない」と言っている小泉首相の言葉というのは支持したいと思います。
ただしそうだとするならば、私はこれは内閣総理大臣小泉純一郎が参拝しているのであると。居住いを直し、そして公費からお金を出し、そして正式な参拝で靖国神社に閣僚を引き連れて行くべきであるし、やがて陛下の御親拝に道を開く露払いとして総理大臣が靖国に行くのが最も筋の通った道ではないか。そしてそうしてこそ、中国も韓国も「靖国は外交カードには使えない」と思う道ではないかと思っています。
【愛媛新聞というのは日々遅効性の毒を飲まされているようなもの】
質問
大津寄先生にひとつだけ教えていただきたいと思いますが、愛媛県の地方紙は愛媛新聞だけで、18年前に「日刊新愛媛」が廃刊になったということなんですけれども、こういった活動をされていて、今後愛媛県において愛媛新聞に代わる地方紙を発行するということがあるのがどうかということを、もしそうあれば選択肢が広がりますので、もし愛媛新聞に浄化作用・自浄作用がないのであれば、そういうことへの動きがまた活発になるかと思いますので、教えていただきたいと思います。
講師 大津寄章三氏
大変つらい質問でございます。実を言いますと、新しいメディアの登場というものがもっとも望ましい。ある意味、愛媛新聞が自分の主張を相対化できるようなライバル紙・対抗紙というのがあり、そして県民がそのどちらかをチョイスできるという市場原理が働いたときに、初めて新聞社は己の社の存続をかけ、それこそ経営権を駆使して生き残りを図っていき自浄作用も生まれようかと思いますが、残念なことに今の愛媛新聞は森の中の澱んだ沼みたいな色になっています。どこからも水が入ったり出たりしないで、澱んでボウフラが沸いているような状態。愛媛県でも地方に行きますと、先ほどの林様がおっしゃったようなメディアであるとか、ほかにも地方の新聞というのがあるわけですが、残念ながら愛媛新聞のシェアを脅かすような状態にはなっておりません。
また、新しく新聞社を作るとなると、それはお金だけの問題ではなくて、さまざまな設備や人材といった問題が出てまいり、少なくとも我々の眼が黒いうちにそれが実現するかどうかは不透明な状態であります。
ただ愛媛新聞の自浄作用を期待するとなると、一番手っ取り早い方法というのはやはり経営権のほう、編集権ではなく経営権の方から脅かしていく。たとえば「こういうふうな記事を書いているのなら愛媛新聞は取らないよ」「家は他の新聞にするよ」というような、不買運動とまではいきませんけれども、そういうような形で愛媛新聞に我々の声を伝えていく。もしくは「広告を出さないよ」という手もあろうかと思います。そういうふうな経済的な面で、「愛媛新聞をどうするんだ」というふうに迫っていくやり方のほうが手っ取り早いんじゃないか。
我々は過去において、たとえば「どんどん正しい意見を投書しましょう」とか「こういう声を寄せましょう」という方法を取りましたけれども、愛媛新聞の前で全部ブロックアウトされてしまった。そういうのを届けても載せないとか、どれだけたくさんの署名を持っていっても愛媛新聞はわずかしか取り上げてくれない。そういうふうな形になってまいりました。
現在デスクを握っているのが全共闘世代、団塊の世代の少し下の世代なんですけれども、時間とともにこの人たちが定年退職を迎えますと、やがてまともな新聞になるのではないかという希望的観測もありますけれども、それまでに愛媛の県民世論がミスリードされてしまうという。実際に愛媛新聞というのは日々遅効性の毒を飲まされているようなもので、どんどん、どんどん我々の常識が麻痺してしまっている状態にありますので、出来れば皆さん、ここにおられる方でも結構ですので、愛媛新聞から違う新聞に変えるというふうな活動や声を起こしていただくといいのではなかろうかと思います。
質問 佐藤氏
佐藤と申します。今日は興味深い講演ありがとうございました。愛媛新聞についてちょっと質問があるんですけれども、先ほど上層部の方はこういう偏向報道が望ましくないとおっしゃいましたが、たとえばデスクより下の平の記者の方はどうなんでしょうか。たとえば戦前とかは報道規制がありましたけれども、新聞社側は、彼らだって対抗しなかったと思うんです。それは平たく言えば、彼らは単なるサラリーマンの立場であったから、体を張ることを恐れたと思うんです。今も平の記者の方たちは単なるサラリーマンでありますから、上司の顔を窺うために仕方なく、あるいは出世のためにそういう偏向報道をしているのか、本当に「われこそは正義」という立場でそういうことをしているのか、ちょっとお聞きしたいと思います。
講師 大津寄章三氏
教科書報道について何人か愛媛新聞の記者の取材を私も受けました。その中でいろいろ話をしていますと、若い人はデスククラスほどではないというのが実感。デスクを赤とすれば、まだオレンジぐらいで終わっています。
ひとつは若い世代、特に昭和40年代50年代に生まれて、そして20代30代で現場を走り回って足で記事を稼いでいるような方といいますのは、戦後教育の中にどっぷり浸かって生まれていると。自分の親自身がもう戦後生まれというような世代の方は、戦後教育なり戦後日本を支えてきた憲法体制、戦後民主主義というものが金科玉条になってしまっています。そこから外に出ている、たとえば今回の教科書問題ですと何が問われているのかというと、日本人が持っている今まで作ってきた戦後という世の中の物差しというのが果たして正しいのかどうなのか。それが実は戦後を支えてきた様々なものが金属疲労を起こして、世界にも通用しなくなっている。様々なところでほころびが出始めている。そうすればもっと長いスパンで戦前まで含めて、そういう歴史を振り返ってみよう。そういう歴史のダイナミズムというものが今問われている。
ところが、それがすなわち戦前に帰ることだとか、戦前を支えていたものを評価することだ。だから愛媛新聞は『坂の上の雲』のまちづくりをものすごく非難します。明治の価値観というのを持ってきてはいけない。それは軍国主義である。戦時中のあの戦争というのを少しでも評価するような声があってはいけない。それは軍靴の足音が響くことになる。というふうなものの見方で、とにかく戦後60年の枠の中に留まろう、留まろうとする考え方に囚われております。
現在若い記者の中にそういう戦後の価値観で、どうしても今の愛媛新聞の陥っている宿痾(しゅくあ)から逃れられない部分というのがあるように思います。ただ私は見ていて、今愛媛新聞の鼻面をつかんで振り回している50代(おそらく)のデスククラスに比べまして、今の若い人たちというのがずいぶん正常な感覚を持って取材しておられるようなイメージを持っております。その方よりももっと柔軟な発想というか、幅広い視野を持っておられる。これはたとえば今、戦後教育をどっぷり受けておられるはずの学生さんたちが、たとえば栗原教授やその他の先生と出会ってこういうふうに、自分たちが受けた教育というのが本当に正しいのであろうか、戦後の価値観から一回脱出してみて、自分たちのおかれた時代・常識というのを見直していかなくてはいけないんじゃないかということで、もうすでに気がついておられる学生さんたちがいることでも分かります。私はそういう次に繋がる若い柔軟な発想で、「戦前は悪、戦後は善」というような2元的な漫画的な捕らえ方をしない、そういう若い世代に期待しようと思い、実は学校の教員になりました。
【戦後民主主義を後生大事にしているのが愛媛新聞】
質問
講演の冒頭のほうで、愛媛新聞の「好きな内容」と「嫌いな内容」というふうに言われて、「好きな内容」というのは日本国憲法、教育基本法、ジェンダーフリーの動き、中国・韓国の主張を挙げられました。愛媛新聞社に関して、その事に関しては記事の内容が僕も異常だと思うんですけれど、それ以外のことに関してはどのように読まれていますか。
講師 大津寄章三氏
実は愛媛新聞の悪口ばかり時間の都合で言いましたが、評価できる部分というのはございます。私が一番気に入っているのは、愛媛新聞の北朝鮮報道。先ほど林様から少し不審船報道について突込みがありましたけれども、実は愛媛新聞というのは北朝鮮の拉致問題に関しては、かなり正常な反応を見せております。これはおそらく家族会や拉致議連の方々の活躍もあるんでしょうけれども、少なくともある意味、産経新聞などよりも北朝鮮に関しては辛口の評論を載せることが愛媛新聞は多いと。一体何なんだろうかと思うことがあります。
地元の話題であるとか経済の問題については、私はよく分からないのですけれども、ただ先ほどのご質問にありましたように、冒頭に見せました愛媛新聞が「好きなもの」を羅列していくと共通項がありまして、すなわち「戦後的なるもの」、戦後の価値を支えてきたものは愛媛新聞は大好きです。その埒外に出ると、たちまち拒否反応を示すという。つまり戦後民主主義というのを金科玉条として、憲法に代表される価値観でありますけれども、それを後生大事にしているのが愛媛新聞であろうかと思います。
ただ愛媛新聞のために少し弁護しておきますと、実は地方紙というのは国際的な話題や全国的な話題というのを通信社から買っております。主には共同通信社というところがあるんですが、ここの配信記事というのが元になって、このあいだ聞いたところによりますと、たくさん記事があってそれからチョイスして紙面を構成するらしいですけれども、その共同通信社自身が非常に偏向しているということで、愛媛新聞の基本的な日本全国の話題、世界の話題に対する色づけを決定しているところというのがやはりあるということで、愛媛新聞だけの問題ではないというふうに、ちょっとだけ弁護しておきたいと思います。