7/30 我慢ならないのは『坂の上の雲』の作品に対する批判や、司馬遼太郎に対する批判がその中に見え隠れすること 元テレビ愛媛社長・元産経新聞記者 石浜典夫氏

我慢ならないのは『坂の上の雲』の作品に対する批判や、司馬遼太郎に対する批判がその中に見え隠れすること

市民のためのメディア・リテラシー公開講座

なにわの坊ちゃん ―坂の上の雲まちづくりを巡るメディア報道ー

元テレビ愛媛社長・元産経新聞記者 石浜典夫

(時)  平成17年7月30日(土)

(所)  愛媛大学

(主催) 市民のためのメディア・リテラシー公開講座愛媛県実行委員会

 ただいまご紹介にあずかりました石浜です。私は50年近く新聞、テレビとマスコミの世界を渡り歩いた人間です。今日は大学の教室ですが、アカデミックな話ではなく私が実際に経験したことや感じたことなど、実証的なことを話したいと思います。

 その前に、ここに「なにわの坊ちゃん」というタイトルがありますが、これは「愛媛ジャーナル」という雑誌に、私が大阪出身ということで、大阪人の見た愛媛、松山というエッセーを「なにわの坊ちゃん」というタイトルで連載しております。この中で地元新聞の『坂の上の雲』に関する社説や記事に非常に不信といいますか疑問を抱きまして、昨年来数回にわたって地元紙の報道姿勢や内容についての批判を書きました。そういったことで、今日の講座も「なにわの坊ちゃん」になっていることをお断りしておきます。

 メディア、リテラシーとはどういうことか、とよく聞かれます。リテラシーというのは、教養とか読み書きの能力という意味ですが、それにメディアがついたメディア・リテラシーというのは、今非常にメディアが氾濫している中で、非常にこれから重要な分野ではないかと思います。メディアがやることを受け手ががどのよに理解するかということが今回のメインテーマですが、私はメディアの発信をしていた側ですので、その立場からも考えてみたいと思います。

 私の経験は新聞からテレビへと来ていますので、新聞から始めます。まず新聞記者になった。新聞記事はいかに分かりやすく客観的に伝えるか、ということでスタートしたわけです。その時にまず基本的に教えられたことは5W1H。(when いつ)(where どこで)(who だれが)(what なにを)(why なぜ)(howどのように)です。この5つの要素がなければ記事として成立しないということで、駆け出し記者のころからそういう教育を受けて、初めの2年間は社会部にいましたが、そういう要素をもった事件、事故などの記事を書いていました。

 非常に私が幸運だったと思うのは、3年目に文化部に移りまして、そこで先ほど紹介にありましたが、司馬遼太郎さんがまだ小説を書かれる前ですが、デスク(副部長)でおられまして、その下で4年近く直属の部下として働きました。ここで「新聞記事は5W1Hだけではないぞ。もうひとつHが要るぞ」ということを学びました。もうひとつのHというのはHistory(歴史)ですね。Historyを知らないときちんとした世の中の事象を書けないということを、司馬さんに非常に教えられました。司馬さんは原稿を依頼するよりも、私たち記者に「書け、書け」という方針で、いろいろなテーマでいろんな取材をさせられたのですが、そのとき司馬さんはわれわれの原稿に随分手を入れられるんです。その中に、例えばこんな言葉がよく入っていました。「日本の歴史上その例はみない」とか「史上初めてのことである」とか、そういう言葉をパッパッと挟まれるわけです。これはいろんなことの歴史を知っていないと書けない言葉ですね。そこでこれは猛勉強しなければならないということで、もうひとつのHのために随分勉強しました。

 このもうひとつのHというのが今の新聞、メディア、マスコミに欠けているのではないかと思います。特に歴史に対する認識ですね。この歴史を知る大切さを通じて知ったのが、歴史というものは精神主義でもない、イデオロギーでもない、、そういうところにきちんと歴史があるんだということです。それは司馬さんがまだ小説を書かれる前でしたが、すでに後の司馬さんの小説に出てくる考え方というのが、すでにその時にもうありました。これが後に、司馬さんが言った言葉ではないのですが、「司馬史観」といわれた考え方をその頃に既に持っておられた。非常に合理的な歴史の見方ですね。精神主義でもない、イデオロギーでもない、非常に合理的な歴史の見方、考え方というのをこの時に私は学びました。

 ひとつの例を申しあげます。昭和31〜32年頃に戦記ものがブームになった時代がありました。戦後11年か12年経って、いろいろな戦記ものが出版されベストセラーになったものが多かった。司馬さんは「戦記ものブームを斬る」という企画を私に命じました。これらの本の中には、戦争当時を懐かしむようなものや、武勇伝であったり、自慢話のようなものもありました。私は「ちょっと時間を下さい」と頼んで随分たくさんの本を読み、書店で売れ行きや購買層の取材をし、いろいろな人の話も聞いて、これで大体書けるなと思ったとき、司馬さんから「後世に残したい優れた戦記ものも紹介しておけ」と言われました。これには考えさせられました。後世に残す戦記ものとはどういうものか、悩みました。その頃、司馬さんと一緒に飲みに行った時に、後世に残す戦記の価値判断はどういうところに置いたらいいのか聞きました。そのとき司馬さんは「お前なあ、ボールの芯になれ」と言われたんですね。「ボールの芯」とはどういうことかというと、つまり芯とはその真々中にあるということなんですね。左にも寄ってない、右にも寄ってない、上(権威、権力)からも、下(ベストセラーだからという世論)からも等距離、全て等距離で判断すれば、後世に残る戦記ものの価値がわかるということなんですね。この考え方というのは、その後50年私がずーっともちつずけた考え方になりました。「右にも寄らない。左にも寄らない。権威、権力からもきちんとした距離を保ち、世論にも迎合しない。媚びない。」そういうことが、私はマスコミにとって一番大事なところだと思います。

 そういったことで、この「ボールの芯論」というのはまさに「良識論」であります。報道人の良識です。マスコミはどういう姿勢を持つべきかといえば、まず良識のメディアであれということです。良識という言葉を一度辞書で調べてやろうと思って、4種類の辞書をひきました。普通ひとつの言葉には第一義、第二義とかいろいろあるのですが、良識に関してはどの辞書も第一義ひとつしか解釈がないですね。「社会人としての健全な判断力」どの辞書もこれしかないんです。これがマスコミ人として座右の銘に私は置いていました。ところがこの良識を守るということは、非常に難しいことでもありました。それだけの知識とかいろいろなものを持ってないとなかなか守れない。そのために勉強をしなければならない。いろんな本も読まなければならない。いろんな人の話も聞かなければならない。マスコミ人は良識を養うということが、まず第一番の条件だと思います。

 難しいのは、私はこの地にきまして『坂の上の雲』について話をしたり書いたもので、ある人からは「あんたは左翼、日和見主義だ」と言われたり、ある人からは「あんたはちょっと右寄りだ」と言われたことがあります。なぜ右か左かで判断するのだろうか。先ほどの良識論でもの言えば、「右だ」「左だ」と言われる。これはその人自身が左か右に寄って判断しているのです。メディア・リテラシーというのは、メディアから発した情報を受けてである読者、視聴者がどう判断するかということです。ここは右か左かで見るよりも、良識という基準を読者、視聴者の方々が大事に持っておられたら、「この記事はどうだ」「この放送はどうだ」ということへの判断基準になると思います。煎じ詰めれば、この良識ということが、リテラシーということじゃないかと思います。

 その後、私はテレビに転じましたが、テレビはまったく違ったメディアでした。はっきり申し上げて、ムード、フィーリングに左右されるメディアです。新聞よりも非常に不特定多数を対象にしています。私はテレビに映ったときに「視聴者の基準をどこに置くのか」と上司に聞いたら「中学校2年生を頭におけ」といわれました。中学校2年生が見られる内容なら、子供からお年寄りまで幅広く見ることができるということです。このような視点から日本のテレビはスタートしました。不特定多数を対象とした普遍的メディアであります。

 それと視聴率という数字を上げるために、人気のあるもん、受けるものをという発想がどうしても強いメディアでもあります。このため世の風潮に迎合しやすい体質がある。芸能番組、娯楽番組ならそれでいいんですが、テレビは報道機関でもありますから、ニュースもだんだん世に受け入れられやすいものになっていききました。ニュースがどんどんショー化されていきましたね。このため視聴者にとってちょっと難しいニュース内容は避けてしまっているようなところがあります。これは報道機関として非常に危険なことではないかと思います。例えば湾岸戦争、イラク戦争のときなど、ワイドショーなどで取り上げますと、非常にショー化されていて、これで本当のことが伝わるのかという疑問を持ちました。そういうことでテレビは言論性は持ち難い、というより持てないメディアではないかと思います。

 私はテレビに居りました頃、なんとかテレビ自体のジャーナリズム、言論性は持てないかといろいろ考えたのですが、最後に落ち着いたのはそういう言論性を持った人たちに出演してもらうという貸し座敷でした。「テレビ貸し座敷論」と称していましたが、いま東京各局でやっていますね。ですからテレビ局自体は新聞と違って社説・主張というものは持っていません。解説だけです。これはNHKも含めてそうです。いまNHKと朝日新聞が慰安婦裁判の番組を巡って泥試合を繰り広げています。私などどっちもどっちもと思っていますが、あれはNHKにはっきりした社説・基準がないから朝日につけこまれたんじゃないかと思います。

 ただテレビの中で、ジャーナリズム性があるなと思ったのはドキュメンタリー番組でした。今はそのようなドキュメンタリーが民放からどんどん姿を消していってますが、ひと頃は非常に花盛りの時代がありました。ノンフィクション劇場であるとか、ドキュメンタリー劇場であるとかカメラルポルタージュといった番組が、各系列局で競って作り、しかもいい時間帯で放送されていました。その中のひとつとしてご紹介したいのは1970年のベトナム戦争取材のケースです。4ヶ月ほど各地を取材しましたが、それまで日本のメディアを通じて私が思っていたベトナム戦争とは違う戦争ではないか、ということが次第に分かってきました。

 私が頭の中で描いていたベトナム戦争は「北が正義で、南が悪である」という構図でした。日本の報道はほとんどそういう形の報道をしていました。私も初めはそんな考えで行ったのですが、いろいろ取材を進める内に「北が正義の騎士で南が悪の塊」だというような戦争ではない。共産主義勢力による政権奪取の戦争ではないか、と思うようになりました。司馬遼太郎さんは『坂の上の雲』の中で、歴史というものを100パーセントの善と悪でみると間違ってしまうというようなことを書いておられますが、まさにその通りだと思います。

 例えば、北の勢力を「解放戦線」という言葉で日本のマスコミは使っていました。「ベトコン」という言葉は使ってはならないというマスコミ間の了解みたいなものがありました。当時、西側の欧米メディアで「解放戦線」という言葉はどこも使っていません。「ベトナムコミュニスト」「VC」「北ベトナム軍」という表現で報じていました。日本のマスコミだけが「解放戦線」という。「解放戦線」というのは、北側が、共産勢力による政権奪取の戦争というイメージを避けるため、人民の自由と解放のためという宣伝でつけた名称です。それを日本のマスコミだけが使っていた。北が正義だという情報操作で読者、視聴者はこれで洗脳されていたんですね。私も洗脳された被害者でした。メディアリテラシーのいい例です。

 こうした名称では、拉致問題が起こるまでテレビでは北朝鮮を必ず朝鮮人民民主主義共和国と言い直していました。私はあれにも疑問がありました。当時報道部長、報道局長時代でしたが、よくアナウンサーに文句をいいました。それならアメリカと言わずにアメリカ合衆国といいなさい、ドイツといわずにドイツ連邦共和国といいなさい。フランス共和国といいなさいと。どうもマスコミは、特にテレビは抗議を恐れて社会主義国、共産国に弱腰なんですね。アナウンサーの全国の用語統一会議でそんな申し合わせをしてしまうんですね。そうすると視聴者は北朝鮮を民主主義の国というイメージを持ってしまう。ところが拉致問題が明るみにでると、今度は一気に北朝鮮という呼び方になってしまった。私はこの世界にいながら、絶えずこんなことでいいんかな、という思いを持ち続けていましたが。

 さてベトナム戦争ですが、南側の市民は大体どういうスタンスでいたかといいますと、複雑なものでした。これは今のイラクと似ているのですが、まず共産主義政権になるのは嫌だ。かといって南ベトナム政府は汚職で腐敗しているからまったく信用していない。嫌な共産主義を防ぐために来ているアメリカ軍はこれも大嫌いで馬鹿にしているといった調子で、ただ早く戦争が終わって欲しいと願っている。ただ共産主義をおそれて、日本のマスコミが報じるように北側を決して正義とは思っていない。私の2年後に毎日新聞の小森義久という記者が特派員で行きました。ベトナム報道で国際ボーン賞というのを貰った優秀な記者で現在は産経新聞に移ってワシントンに駐在していますが、彼の書いた本(「国の壊れる音を聴け〜国際報道と日本のゆがみ」)によりますと、ベトナムでまず思ったことは日本で新聞よんだことと全く違うではないかというショックだったと書いています。ユエという町で、北側の攻勢で住民が南へ南へと逃げる姿を見て、なぜ自由と解放を謳う「解放戦線」が来ているのに、そちらへ逃げないのか不思議だったといっています。ですからサイゴンが陥落して日本の多くのメディアがベトナム解放と報じましたが、何十万という難民がボートピープルなどで国外へ脱出したのです。 

 私のベトナム取材中に、通訳などいろいろ手伝ってくれたサイゴン大学の女性がいました。ベトナム統一後彼女は日本へ亡命して今は神戸にいます。彼女の話を聞きますと、一家はすごい弾圧を受けているんですね。お父さんは政府系の仕事をしていたのですが、家も土地も接収されて兄弟3人は思想改造の収容所に入り、6年半も強制労働させられ、今はアメリカでばらばらに住んでいます。仏教も弾圧を受けている。今ベトナムは日本にとっても観光地になっていますが、なぜこういうことを日本のマスコミは報道しないのかなあと思います。やはり「解放戦線」といっていたことが、尾をひいているような気がします。

 私はベトナム取材で何本かの番組を作りましたが、その中で、北が正義で南が悪だということにとらわれず、「戦争とはこういうものですよ」という視点で、私の見たベトナム戦争のドキュメンタリーを作りました。その中にはこういうシーンがあります。ある晩、サイゴン市内の住民居住地域に「解放戦線」がロケット砲を撃ち込み市民の死傷者が出ました。こうしたことは再三あったのですが、日本のマスコミは解放戦線が加害者のこんなニュースはあまり取り上げません。私は一度そんな現場を撮りたいと思っていましたから、直ぐに飛んで行きました。親子3人が寝たままの無残な姿で死んでいました。テレビではこういう死体シーンは避けて撮らないのですが、この時ははっきり取材しました。先のベトナム女性も道案内がてら付いてきましたが、憤然とした顔で「日本のマスコミは北の解放戦線には人民の味方だといつも同情的な報道をしているが、これを見てどう思いますか」と。「ベトナム市民を彼らは殺しているんですよ」と言いました。番組では、このシーンと彼女の言葉を市民のインタビューとしてそのまま使いました。

 この番組を全国民間放送の番組コンクールに出品しました。このコンクールの審査員の中にベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)の作家とか文化人がいました。−注・ベ平連はアメリカと日本政府に対する反戦運動をくり広げていた。―

その人たちがどういう評価をするかということもあって、出品したのですが、意外なことに優秀作品として受賞しました。審査員の中に荻昌弘さんという有名な映画評論家がいて、この方が激賞され、反対するベ平連委員を「これまでの日本のマスコミが伝えてくれなかったベトナム戦争をこの番組はおしえてくれた」と突っぱねてくれたと聞いてます。メディア・リテラシーを考えるという参考例として紹介しました。

 次は『坂の上の雲』のまちづくりについてのことで、少し話をさせていただきます。

昨年ある時期から地元新聞、名前を出さなくても地元新聞といったら一紙しかありませんが、『坂の上の雲』に対する批判・反対記事が非常に目立つようになりました。この時期と申しますのはある特定グループの反対運動、中村市長への公開質問状が出てきた時期と一致しております。その論調というのが、まさにその人たちの自虐史観、歴史認識にもとずく論調と同じで、『坂の上の雲』を批判し、まちづくり計画を批判しました。マスコミというのは、役目として行政を批判するのは結構です。ただ私は我慢ならなかったのは、『坂の上の雲』のまちづくりに対する行政面の批判だけだったらいいのですが、我慢ならないのは『坂の上の雲』の作品に対する批判や、司馬遼太郎に対する批判がその中に見え隠れすることでした。

 昨年8月の愛媛新聞の社説にこういう文言がありました。「この小説は紛れもなく戦記物である。俳人正岡子規や軍人秋山好古、真之の生きざまに触れているが、多くを日露戦争の記述に当てている。記念館はまかり間違えは戦争博物館になりかねない」という記述がありました。なんという本の読み方だと思いました。私は直ぐに当時の編集責任者に反論の手紙を書いたり、中村市長も抗議して、寄稿という形で反論が投稿欄に載りました。私は愛媛ジャーナル誌に「なにわの坊っちゃん」というエッセーを連載していますが、いつもの倍ぐらいの原稿を書かせてくれと頼み「愛媛新聞にもの申す」という題で書きました。その後も数回に亘って愛媛新聞批判を書きました。我が国はデモクラシーの国で思想信条の自由がありますから、そうした面での批判ではなく、「もの申す」では新聞の責任のあり方ということで書きました。

 新聞の責任のあり方と申しますと、ここには地方紙が1紙しかない。これが2紙も3紙もある地域なら、例えその新聞が右に行こうが左に行こうが構わないと思います。読者はその中から選択出来ます。当地には地元紙以外に中央紙が入っていますが、数は知れたものです。圧倒的に地元が多い。つまり言葉を変えれば独裁国家における新聞のようなものです。ほとんどの家庭は2紙も3紙もとらずに地元1紙だけ読んでおられる。そういう地域における新聞の責任ということを追求しました。つまり1紙独占状態である新聞メディアの責任は、先に申し上げた「良識」を常に持つということではなかろうか。右にも左にも偏らないボールの芯でないと困るのです。1紙だけしかとっていない読者は、読み比べも出来ない。判断材料もない。しかも『坂の上の雲』という小説は、文藝春秋によると戦後最大のベストセラーと言われていますが、読んだ人は100人に1人か2人ぐらいだと思います。すると大半の新聞読者は『坂の上の雲』について何で知識を得るかというと、その1紙の記事によってのみ知る訳です。その1紙が明らかに偏った見方で、『坂の上の雲』は「紛れもないなく戦記ものである」だから「記念館は戦争博物館になりかねない」などと誤った記事を書かれると「『坂の上の雲』とはそんな反動小説なのか」「司馬遼太郎とは右翼作家だったのか」とか全く間違った知識を多くの読者に植え付けてしまうのです。

 社説にはまたこういう箇所もありました。「司馬遼太郎の作品をまちづくりの軸にすえるアイデアだが、そのような手法に対する批判はなくはない。本紙の投稿欄には懸念の声がしばしば登場する」。私は「この新聞の投稿欄に『坂の上の雲』のまちづくりへの賛成論を何回出しても載せてくれない」という声を何人もの方から聞いて降りました。ボツにされた投稿のコピー原稿を送ってきた人もあります。なぜこれがボツになるのか、立派な意見が書かれていました。確かに社説にあるように、反対論はしばしば登場するが、賛成論はボツで日の目を見ないというのが実情でした。投書欄については私もこういう体験をしました。「なにわの坊ちゃん」の中で教育勅語に触れて、教育勅語はすべてが悪ではない、よい文言もあるではないか。親に孝行しなさい、兄弟は仲良くしなさい、友達はお互い信じ合いなさい・・・というような今の教育にかている道徳の教えがある、というようなことを書きました。そうしたら、ある読者から「当時の戦争に協力するような教育勅語を信奉するような人間が、市のまちづくりチームにいるのは怪しからん」といった私を名指しの投書が載りました。私はそれへの反論を直ぐに書いて愛媛新聞社の投書欄担当者のところへ持って行きましたが、いまは投書が沢山溜まっているからとか、もう一度内容をよく検討したいとか言って、いつ載せるのか、載せるのか載せないのか、はっきりした返答をしない。だんだん腹が立ってきて「私は投書欄についていろいろなことを耳にしている。反対論は直ぐ載せるが賛成論はなかなか載せないとか、反対論をかく常連のお抱えグループがあるとか、非常に投書が恣意的に選択されているとか・・・」と指摘すると「いや、そんなことありません」と否定していましたが、結局そんな喧嘩腰でやると、翌々日に掲載しました。投書欄ではまさに私が聞いたような操作がおこなわれているとその時に思いました。社説、記事だけでなく投書欄でも歪んだ情報操作が出来る訳です。

 新聞の憲法ともいうべき新聞の倫理規定というものがあります。もともとそういうものがあったのですが、2000年を前にして日本新聞協会が新しく新聞憲章を制定しました。そこにこういう言葉が明記されています。

 「新聞は、自らと異なる論であっても、正確・公平で責任ある意見に対しては進んで紙面を提供しなければならない」。いうまでもなく愛媛新聞は日本新聞協会の加盟社でありますが、まったく守られていない一例として紹介しました。

 投書ということでの私の学生時代の体験では、私は安保世代のもうひとつ前の破防法(破壊活動防止法)反対闘争の最中にいました。例の京大の荒神橋事件であるとか吹田事件とか反対デモと機動隊との乱闘事件がよくありました。私は阪大の自治会新聞の編集長をやっていまして、そういった意味での活動家の端くれだったのですが、学生側がデモや集会で警官にやられた時など、新聞に警官の横暴というような投書をすると直ぐ載りました。特に朝日新聞など投書した翌日に載りました。ですから、何回も投書した記憶があります。ですから投書欄というのも、メディア・リテラシーに大きな作用をしていると言えます。

 その後、愛媛新聞は「『坂の上の雲』のまちづくりを検証する」というシリーズ企画を連載しましたが、これにも「なにわの坊ちゃん」で反論致しました。はっきりいって全くお粗末な記事でした。はじめから結論ありきで、そこへ誘導していく、先導していくという企画記事で、検証ではありません。引用したり紹介されている意見は投書も含めて反対派の意見ばかりです。書き出しからして、「この『坂の上の雲』のまちづくりは市民の賛否を二分している」とありましたが、決して市民を二分していません。正確に書くなら「市民の一部に反対の声もある」です。その時、サイレント・マジョリティーということを思ったのですが、この言葉はニクソンが演説した時に、反対するものは少数でも声が大きいが賛成する大半の人々は黙っているという意味で使い、後に日本語にもなりました。このサイレント・マジョリティーがここにみられるんじゃないかと思ったわけです。つまり反対する一部の人は声高である。その声高をマスコミが取り上げる。しかし大半のサイレント・マジョリティーはもっと健全な判断、良識で『坂の上の雲』のまちづくりを理解しておられるのじゃないかと思います。ただこのサイレント・マジョリティーの中には、無関心な人も入ります。このあとの栗原先生のお話にも出てくると思いますが、無関心ゆえに新しい歴史教科書など読んだこともない人が、新聞の記事でなんとなくムードで「ああ扶桑社の教科書はおかしい」、また市のまちづくり計画の中身も知らないまま「『坂の上の雲』はおかしい」と思っているサイレント・マジョリティーもあります。当時、東京の大手企業から当地に来られてまだ2〜3ヶ月の支店長と話をしていて、「松山というのは保守的で穏やかな土地だと聞いてきたのですが、意外に激しいところですね」と言われて「そんなことはない。穏やかでよ」と言ったんですが、その人の印象は、とかく反対論に片寄る新聞紙面によるものでした。過激な反対論の記事と投書によって「えらい聞いていた土地と違うな」と思ったようです。新聞でつくられるムードはサイレント・マジョリティーにもそういう影響力を持っています。

 今日は『坂の上の雲』についてはあまりお話する時間がありませんので、司馬さんの歴史観について書かれたものの中から、司馬さんの考え方が非常にはっきり出ている部分を抜き出して、資料としてお配りしました。

 最初の「私事のみを」という文章は『坂の上の雲』の中には出ておりません。司馬さんの全集にも入っていないのではと思います。ある出版物の後書きに書かれたものですけれど、後に評論家の中で有名になったエッセーです。司馬さんは戦車隊におられたのですが、その戦争体験から、敗戦の日に「なんとばかな国に生まれたのだろう。明治や、それ以前は、こんな風な国ではなかったのではないか」と思って「当時この自問に答える能力はなかったが、40歳前から、22歳の自分に手紙を書くようにして小説を書くようになった」というエッセーです。実はこれを書かれたのが『竜馬がゆく』の新聞連載の最中でした。『竜馬がゆく』を書き進めて行く内に日本がどうなるんだという考えを持たれるようになっていったと思います。司馬さんの歴史小説はすべてが事実かというと、そうではないのです。やはり作家ですから、いろいろなところに事実を補うためのフィクションがあります。『竜馬がゆく』でも寝待の藤兵衛という泥棒の親分みたいな人物が狂言回しの役で出ていますが、このエッセーを書かれた頃から見事に作中から姿を消します。司馬さんはこの時から、作家という立場を超えて明治からの日本というものを「よし書くぞ」と決心されたのではないかと思います。この2年後に『坂の上の雲』の新聞連載がスタートします。ですから『坂の上の雲』は、22歳の司馬自身の疑問「明治やそれ以前の日本はこんなばかな国ではなかったのではないか」に答える手紙といえるでしょう。ということで、この文章を資料のトップに持ってきました。

 2番目の資料は、『坂の上の雲』の中から抜粋したんですが、司馬さんの非常に大事な考え方ではないかと思います。「国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さではないか」という、戦後のイデオロギー史観を批判した一節です。小説の中にこういうことも書かれているのですね。一節だけではなく、全文を読んでもらうとよく分かるので、全文を抜き出しました。

 3枚目には日清戦争について書いています。日清戦争は日本の侵略戦争だと、戦後は言われており、学校の歴史教育もそういう方向で教えています。『坂の上の雲』の中では、司馬さんが短い文章ながらも、日清戦争とはどういう戦争であったかということを端的に述べているので入れて見ました。つまり「朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国(ロシア)にとられた場合、日本の防衛は成立しないということ」からスタートした「よんどころのない戦争」であったということを、司馬さんの歴史観としてはっきり書かれています。

 『坂の上の雲』の「開戦へ」の章から抜粋した資料では、「後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿として、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際社会に割りこませて国家のありかたの正邪を決めるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる」と書かれていますが、まさにその通りだと思います。この頃に司馬さんに話を聞いた中で印象に残っているのは、明治の人たちのロシアに対する恐怖心について言われた下りです。“朝鮮半島というのは日本列島に対して匕首を突きつけたような形になっている。その匕首のところにロシアが入ってきたらと考えた明治人の恐怖心というは、今の平和日本の文化人や学者には分からないだろうな”と。その時代にいなければ、その状況下にいなければ理解出来ないと思います。それを今の平和な時代から見て「あれは朝鮮に日本が軍隊を送って侵略したのだ」という見方に対して、司馬さんは歴史の粘土細工と言ってるのです。この章では司馬さんは日露戦争についても、はっきりと防衛戦争であったと、そのいきさつを述べて断じています。

 その次の資料は『坂の上の雲』からではないのですが、司馬さんの思いが非常によく出ている文章なので入れておきました。ここにある北山章之助というのはNHKのプロデューサーです。NHKは『坂の上の雲』のドラマ化については何度か申し込んで断られているのですが、何度目かの交渉役を務めた彼に宛てた手紙の一節です。

小生は『坂の上の雲』を書くために戦後生きてきたのだという思いがあります」これは司馬さんの他の小説にはない言葉ですね。次に「山伏が、刃物の上を素足でわたるような気持ちで書いたのです」とありますが、ここも大事です。山伏の刃渡りというのは刀の上を素足で歩く業です。この時、右に力を入れても、左に力を入れても、バランスを失い足の裏は裂けてしまいます。つまり左にも寄らず右にも寄らず、この一線しかないというところを歩かないと、山伏の刃渡りは出来ないのです。ここに司馬さんの歴史観が表れていると思います。「が、日本人がいるかぎり、山伏の刃渡りには変わりません。日本人というのは、すばらしい民族ですが、おそろしい(いっせい傾斜すれば)でもあります」とも書いています。このおそろしい民族というのは、日露戦争に勝利して講和条約を結びますが、日本国民は不満で戦争継続を叫び日比谷の交番襲撃などで騒ぎます。この熱狂ということに対して、またそれを煽った新聞も指しています。一番煽ったのは朝日新聞です。その後の太平洋戦争もそうです。その裏返しが今の朝日新聞だと思って頂ければいいと思います。太平洋戦争もいっせい傾斜でした。

 最後に『坂の上の雲』の司馬さんの後書きの一部を紹介してあります。『坂の上の雲』では、それだけで一冊の本になるぐらい各巻ごとに後書きが書かれています。小説では珍しいですね。実はこの後書きの一節は今度出来ます「坂の上の雲記念館」に展示されます。司馬さんは日露戦争の勝利から日本はおかしくなっていったと言われていますが「勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不思議なものである」と言う言葉で結ばれているこの一節は記念館の展示の最後に示されます。これは『坂の上の雲』から、また司馬さんからのメッセージではないかと思います。

 時間が参りましたので終わらせていただきますが、きょう私が申し上げたかったことは、良識というものをいま一度日本人として考えるべきではないか。日本の良識というものがあります。これは努力しなければならないのですが、マスコミ側も情報を受け取る側も、きちんとした良識を身につけて判断して欲しいと思います。最近では松山市の姉妹都市である韓国の平澤市に出かけて行った人たちが、「坂の上の雲」のまちづくりを誹謗したため、「松山市は軍国主義の右翼都市である」というような記事が現地の新聞に出たということがありました。これも愛媛新聞が先方にひどく同調するような記事や解説を書いていますが、これも皆さんが良識を持っておられたら、「妙なことをする人たちがいるなあ」「愛媛新聞も変な解説を載せているなあ」とはっきり分かります。日本人の良識からいっておかしいのではないか、と判断出来ます。新聞というのは社会の公器であるとか、良識の府であるとか、不偏不党といっておりますが、やはり人が取材し、考えて書いていますから、それぞれに傾向があります。今後インターネットも含めてメディアの情報というものはますます増えてきます。その中で、どのように情報を取捨選択して判断するかの一番の基準は皆さんの「良識」ではないかと思います。

 それでは今回の公開講座のトップバッターとしての私の話をこれで終わります。