扶桑社原稿その2/2 約8万字
■第二部 戦後教育からの脱洗脳への試み ー精神的に拉致された若者を奪還しようー■
■一章 どんな授業だったのか ー受け入れられ易いものから段階を踏んでー
◆十四年度授業終了後の反対派と賛成派の攻防の続き
七月中頃に授業が終了した後も採択期限の八月十五日に向けて、反対派と賛成派による攻防は続けられた。翌年度講義用レジメ「歴史教科書問題を巡って その二」に収録した記事の中からそれらを紹介していく。
★十三年度、愛媛県教育委員会は「新しい歴史教科書」採択を最終決定期限の八月十五日より早い八日に発表したため、十五日まで反対派から激しい撤回運動を引き起こされた。そこで十四年度は、次の記事のように、採択の最終決定を報告期限ぎりぎりの八月十五日に行うことで混乱を避けようとした。
「愛媛教科書問題 教育委員を二十四時間警護へ 混乱避け期限直前に採択方針 来春開校する愛媛県立中高一貫校の教科書採択に組織的な圧力が加えられている問題で、愛媛県警は二十四日、採択関係者を過激派などによる脅迫から守るため吉野内直光教育長ら教育委員六人を二十四時間態勢で警備する方向で検討を始めた。また県教委も、撤回運動などの混乱を避けるため、採択の最終決定を文部科学省への報告期限ぎりぎりの八月十五日に行う方針を固めた」(産経新聞七月二十五日)
これは賢明な対策だったと思う。その結果、反対派の行動を(八月十五日までの一週間くらい続いた)県庁内でのハンガーストライキくらいに押さえることができた。
★七月二十六日に松山城の山上の広場で反対派が大集会を開くといううわさがあったが、労組などの協力が得られなかったせいか、次の記事のように、それは不発に終った。
「反対集会に過激派 愛媛教科書採択 公安当局確認 中核派など数人ずつ 来春開校の愛媛県立中高一貫校の教科書採択をめぐり、新しい歴史教科書をつくる会のメンバーが執筆に加わった扶桑社の歴史教科書を採択しないよう求める勢力が開いた集会に、中核派などの過激派活動家が参加していたことが公安当局の調べで三十日までに分かった。
集会は二十六日、「戦争賛美の『つくる会』教科書NO!大集会実行委員会」が松山市の県庁近くで開催。デモ行進の後、県庁を“人間の鎖”で取り囲む予定だったが、参加者は約七十人だけだった」(産経新聞)
不発に終ったのは、中核派などの過激派活動家が加わるということでイメージが悪化するのを労組などが嫌ったのかも知れないが、県庁を“人間の鎖”で取り囲む企ても市民感情から遊離しているという現実をさらしただけの結果になったようだった。記事は続く。
「公安当局によると、共産党と友好関係にある「子どもと教科書全国ネット21」、新社会党愛媛県本部、韓国の「日本の教科書を正す運動本部」の関係者が中心だったが、中核派や共産主義者同盟系セクト「社会主義労働者党」の活動家が数人ずつ確認された。愛媛県での扶桑社不採択運動をめぐっては、これまでも中核派系団体の活動が確認されており、公安当局はさらに情報収集を進める方針だ」
十三年度には「つくる会」本部に火炎瓶が仕掛けられたことがあるので、公安当局は警戒を強めていた。そのせいかどうかは分からないが、結果として不穏な事態になることは避けられたのは幸いであった。
★七月二十六日には次の記事が示すように賛成派の署名は三十万を超え、反対派の十倍にもなった。
「東京大学教授 藤岡信勝 愛媛を「第二の下都賀」にするな 教科書採択で策動する声高な少数派 (前略)五月中旬から良識派の反撃が始まった。愛媛県から全国に広がった県教委を支持・激励する署名は、七月二十六日現在、三十二万八千九百五十六人に達した。反対派の半分の時間で、反対派の十倍以上の署名を集めた計算になる。この数字の重みは、「サイレント・マジョリティー」(もの言わぬ多数派)がその気で取り組めば、「ノイジー・マイノリティー」(がなり立てる少数派)を数の上で圧倒することを具体的に示した点にある。(後略)」(産経新聞正論)
このような署名合戦が採択にどういう影響をおよぼすのか良く分からない面もあったが、ムードに弱い日本社会では唯一合法的な政治的示威行為なのかも知れない。
★事態を憂慮した文部科学省は次の記事が示すように「静ひつな採択環境」を求める答申をまとめた。
「教科書問題 『外圧採択』を許してはならない こんなことまで答申に書かなければならないのは、異常な事態である。文部科学省の教科用図書検定調査審議会が、地域の公立校で使う教科書を教委が選ぶ際、その作業を「静ひつな採択環境」の下で行えるよう求める答申をまとめた。教科書の採択が、外部の不当な働きかけによってゆがめられてはならない、としている。円滑な採択事務に支障をきたす場合は警察などと連携を図りながら「き然とした対応」をとるべきだとし、会議の傍聴者などによる妨害行為を禁止する措置が必要なことも記した。(後略)」(読売社説八月一日)
「外部の不当な働きかけ」は採択を巡る両陣営にとってはそれぞれ別のことを指していた。賛成派の署名活動がここでいう「外部の不当な働きかけ」に含まれるのかどうかも良く分からなかった。建前上は含まれるのだろうが、本音は反対派の過激な活動を牽制したものと思われた。そういう意味では、この文部科学省の答申は玉虫色であった。
★地元テレビ局の南海放送が(中高一貫校向けの教科書採択問題を抱えていた)愛媛県での反対派と推進派による論争を十九分間報じたのもこの頃であった。(八月三日)これは(後日、この年十二月に行われた愛媛県知事選で、再選を目指す加戸知事の対立候補に擁立されることになる)地元松山の養護学校の反対派教諭と同じく地元重信町の中学校の推進派社会科教諭にそれぞれの主張を述べさせる討論番組で、一対一であるため、泥試合にならない良い番組であった。この録画は翌年度授業の良い教材になった。
★八月四日日曜、松山西高校で中高一貫校に関する説明会があった。朝の十時開催で、十五分くらい前に着くと、正門前で四、五名の人がチラシを配っていた。案の定、反対派のものだ。主な見出しは次のとおり。
表 戦争を肯定する教科書で平和を築く人間が育つのでしょうか?!
◇侵略戦争肯定では世界の信用は得られない
◇中高一貫校を選別・排除り学校にしないで!
◇「つくる会」教科書のねらいは、その教師用指導書にはっきり表れています
裏 資料一 愛媛の教科書採択に関する大学人のアピール
資料二 障害者と戦争・教科書についての緊急アピール
上記の反対派のチラシの裏の資料一「愛媛の教科書採択に関する大学人のアピール」には二十二人の呼び掛け人の他に県内賛同者(大学人)のリストもあった。賛同者リストの中には、◯◯大学□□学部から二十五名の名もあった。それを見ると、△△学科の◇◇系が中心だった。理学部からは一人、工学部、医学部、農学部からの賛同者は一人もいなかった。要するに◇◇系が突出していた。そしてそれはなるほどと思われた。困ったことだと思ったがどうしようもなかった。
★採択がほぼ確定する頃、次のように、「再び波紋を呼びそうだ」とか(「視点」というコラムに)「再び外交問題発展も」と外交問題への懸念を呼び戻すことを狙ったような記事が出た。
「「つくる会」教科書 公立中で初採択 愛媛県新設校 教委、十五日決定 (前略)扶桑社の中学歴史教科書を採択する見通しであることが七日分かった。公立中での採択は全国で初めてとなる。同教科書は昨年、採否をめぐって支持、不支持の激しい論争が起きており、再び波紋を呼びそうだ。(中略)加戸知事が昨年の採択前に吉野内教育長に対して「扶桑社版がベストだろう」などと推薦していたことを認めたため、市民団体などが「教育への政治介入」として採択無効確認など三件の訴訟を起こしていた。(後略)
「視点」(二十六面) 愛媛県教委 つくる会教科書採択 再び外交問題発展も (前略)韓国の「日本の教科書を正す運動本部」も「もし採択すれば、ワールドカップで好転した韓日関係が悪化する」などと訴えており、再び外交問題に発展する可能性もはらんでいる」(毎日新聞八月八日)
毎日新聞が何を言いたいのかは明らかであった。反対運動の火を再び燃え上がらせたいのだと思われた。しかし、もうその手に乗って踊るものは誰もいなかった。前年、テレビ朝日などで報じられた韓国の反対運動の異常さに違和感を抱いた結果だろう。
★反対派の活動は次の声明が示すように韓国の活動家からの支援を受けたものであった。
「愛媛県での採択の企みに反対する 韓国「日本の教科書を正す運動本部 (前略)愛媛県でのつくる会の教科書の採択が八月十五日の形式的手続きを残しているだけだという状況だとしてら、それはあまりにも不幸な事態である。(中略)教科書運動本部は、つくる会の教科書が愛媛県で再び採択されることを、決して容認することはできない。(後略)」(八月九日)
韓国の活動家からの支援はもはや逆効果になりつつあることに反対派はまだ気付いていないようだった。
★八月十五日に採択が確定したら、愛媛新聞は未練がましい社説(八月十六日)を載せた。
「扶桑社版教科書採択 結論も手続きもベストなのか (前略)なぜ「あえて扶桑社版」なのか。昨年も抱いた疑問を、今年もまた提起せざるを得ない。(中略)どんな教科書であれ、本当に大切なのは、どう教えるかだ。単なる知識だけではなく、他者への配慮や多様性を認め合う寛容さなど、人としての成長に欠かせない大切なものを、子どもは学ぶ。教科書とは、そのための「道具」でもあることを忘れないでいたい。」
前年の激しい非難の口調がうそのようである。「道具」であることは始めから分かっていたはずである。少しは理性が戻ったのかも知れない。しかし、先の毎日新聞の記事と同様、公平な記事からほど遠く、世論誘導型の記事であることには変わりがないように思えた。
★朝日新聞も同様に未練がましい社説(八月十六日)を載せた。
「教科書採択 透明性に欠けた (前略)次代を担う子どもたちには、事実を多角的に認識し、自分の頭で判断する力をつけてほしい。その点で、この教科書はバランスを欠いており、教室で使うにはふさわしくない、と私たちは主張してきた。教科書の内容だけではなく、採択の経緯と方法についても疑問がある。(中略)教員や保護者の声に耳を傾け、堂々と議論をして、適切な教科書を選ぶ。今回の採択は、そういう姿からほど遠い。」
「事実を多角的に認識し、自分の頭で判断する力」については朝日新聞にこそ要請したいくらいである。
★愛媛新聞は声の欄にまで未練がましい投書を載せた。
「歴史の真実教えるのは教師 八月十八日付本欄で鴻上尚史さんの「愛媛出身と名乗れなくなった」を読み、ますます彼の主宰する劇団「第三舞台」の舞台を見たくなった。(中略)扶桑社版教科書の採択で、今後は愛媛への怒りなどを舞台で表現する作品が発表されるかもしれない。今回の教科書採択問題は、愛媛の管理教育体制を絶対変えたくないという、つまらない意地があるようにさえ思えるのだ。昭和三十年代に県の教育界を揺るがせた「勤評闘争」などから、有能な教師の教育にかける情熱がむしばまれていった。それが、子どもたちの不登校や青少年犯罪の増加にもつながっていったと考えられる。(後略)(社会教育指導員)」
ここで触れられている「勤評闘争」については過去、愛媛県が勤務評定導入の先鞭を切り、その後全国に広まったことを指している。勤務評定導入の苦労話を聞いたことがあるが、教科書採択の苦労など物の数でもなかったほどであったという。そういう意味では愛媛県は日本の教育の立て直しに図り知れない貢献をしたし、今もし続けていると言えそうだ。
★愛媛新聞(八月二十六日)は元県教職員組合委員長の憂慮する声まで載せた。
「県立中に扶桑社教科書 沈黙の教育現場 体質か 関心の薄さ 教え方には変化なし? (前略)北条市宮内の元県教職員組合委員長西原一宇さん(六一)は「教科書自体もとっぴな内容だが、指導書は戦争肯定の本音が丸見え」とまゆをひそめる。(中略)西原さんも「教科書が変わっても直ちに教師の教え方まで変わるとは思わない」とみる。しかし「使ううちに、教科書にも指導書にも慣れてしまう。そうなると、変化を嫌い、以前の教科書には戻れないだろう」と危惧する。中予の四十代社会科教諭は「恐らく多くの社会科教諭は、扶桑社版採択に対して批判的なはず」と推測。(後略)」
西原一宇さんは愛媛県での反対運動家の一人である。そうした片方の立場の人の意見だけ載せるから不自然なのである。また危惧する声を載せるのなら、期待する声も載せないとバランスがとれない。偏っていると看做される所以である。
★共同通信の信頼性を失墜させるような誤報もあった。
「共同通信の訂正記事 八月十七日付朝刊掲載の石原慎太郎東京都知事が「新しい歴史教科書をつくる会」主導の扶桑社版を愛媛県教育委員会が採択したことについて発言した記事で、「プロセスを踏まず、密室的」などと批判した、としたのは、発言趣旨を取り違えた誤報でした。知事が批判したのは、扶桑社版を採択したことについてではなく、これまでの教科書採択についてでした。共同通信の取材・配信ミスによるもので、おわびして訂正します。」
記者の勉強不足もさることながら、それをチェックできない編集体制はおそまつとしか言い様がない。
★愛媛大学で反対派の言いなりの模擬授業が開かれた。私も出席したが、主催した学生側は典型的な活動型の学生のようだった。愛媛新聞(十一月十三日)は次のように報じた。
「去る十一月三日、愛媛大学祭において、県教組の新川雄也委員長による「つくる会」教科書模擬授業が行われた。教員用指導書に沿って「大東亜 戦争」の項目について取り上げた。授業の冒頭には軍艦マーチを流し、戦争が始まったときの国民の気持ちについて、気分が高ぶった、感激した、ハツラツ、ストレス解消などと導いた。新川委員長は「指導書に沿って感情移入せずに授業を行った」」
ここに出てくる県教組の新川雄也委員長という人物は「しんぶん赤旗」(十三年八月九日)で「不当な決定に対して強く抗議し、撤回を求める」として、「全国でも愛媛でも公立学校で採択されていない教科書が、なぜ、障害児学校の子どもの教科書として採択されるのか。障害児の教育条件の充実を怠りながら、教科書だけ押しつけるとは、障害児教育の破壊である」と指摘。「教育現場を無視した問答無用の非教育的な決定は、県教委の体質を象徴している。今回の決定を断じて許すことはできない」と述べていた。愛媛大学をおおっている政治的雰囲気のみならず、それを利用しようとする県教組や愛媛新聞の姿勢が良く現れていると思った。
◆十五年度授業で試みたこと ー戦後教育からの脱洗脳を中心課題にー
十五年度の前期授業は戦後教育からの脱洗脳を授業全体の中心課題にした。ここで使う「洗脳」という用語は(戦後、中国の撫順収容所で旧日本軍捕虜に対して行われたようなことを指す狭義の)専門用語としてのものではなく、もっと広義の刷り込み、つまりマインドコントロールの意味である。マインドコントロールという用語が長いので、便宜上、洗脳という用語を用いた。
参考のために、洗脳やマインドコントロール、もしくはそれに近い用語がどのように使われているか、「マインドコントロールを巡って その一」に収録した記事から拾ってみると、「「愛国心」の欠如は日本人に対するマインドコントロールの成果」、「お人好しの脳を洗脳している「朝日新聞」の罪は重い」「日教組教師に洗脳されていた」「捏造写真などによる贖罪意識の刷り込み」などがあった。「洗脳」という用語が日常どういう使われ方をしているかは、定義などしなくても、これで明らかだと思われる。
一方、脱洗脳に相当する用語がどのように使われているか、同様に拾ってみると、「左翼から目が覚めることが出来た」「頭上にカミナリが落ちたような衝撃を受ける」「信じ続けた価値観をひっくりかえしてしまう」「「サヨク」と呼ばれる方々の論理のでたらめさを知り洗脳は解けました」などがあった。つまりここで「目が覚める」「衝撃を受ける」「価値観をひっくりかえす」「洗脳が解ける」などをまとめて「脱洗脳」と略称したいのである。
十五年度授業では、戦後教育からの脱洗脳を狙って当初から戦略を立てた。それは、一言で言えば、段階を踏むということである。第一部三章の結論の一つ「メッセージがいかに受け容れられるかは、過去から今までメッセージをいかに受け容れてきたか、に依存する」ことを踏まえるならば、メッセージは受け入れられ易いものから始めることが肝腎なのである。
そのためには、まずは(主として意図的な)情報操作のもたらす危険性について警戒心を喚起させ、次いでテレビや新聞の(無意識的な)偏りや(意識的な)情報操作に気付かせ、次いで学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせ、その後で始めて、歴史教科書問題は実は“洗脳”の問題だというメッセージを伝えることにした。そのためには、「歴史教科書問題と洗脳」というレポート(第一部二、三章の予稿)を紹介することが最も効果的だろうと思われた。
授業の構成要素は十四年度と同様に、講義、ビデオ鑑賞、マスコミ報道やインターネット記事の掲示板への紹介、掲示板への宿題やレポートの提出であった。教材は十四年度のものもかなり使えたし、実際使ったが、幾つか新しいものも追加した。ここでは新しく追加したものを中心に紹介する。
●講義
十四年度末(あるいは十五年度の始め頃)までのマスコミ報道や(私が書いたものも含む)インターネット記事から授業に役立つと思われるものを選択して「歴史教科書問題を巡って その二」、「マインドコントロールを巡って その二」、「メディアテラシーを巡って」などと題したレジメにまとめ、液晶プロジェクタで映し講義した。
★「歴史教科書問題を巡って その二」に収録した記事の一覧は省略する。その理由は第一部一章の中の「マスコミ報道やインターネット記事の掲示板への紹介」の中の一覧表とかなり重複するからである。記事のかなりの部分は第一部一章の中の「十四年度授業期間中における反対派と賛成派の攻防」と第二部一章始めの「十四年度授業終了後の反対派と賛成派の攻防の続き」で既に紹介した。
★「マインドコントロールを巡って その二」に収録した記事の表題とそのキーワードは次の表のとおりである。
一覧表
一 反サヨクへのきっかけ ー教育課程の戦争反対教育に「嘘」があったー
二 左翼勢が「日本国憲法反対」の大合唱 ー呆れかえるほかない過去の事実ー
三 「東京裁判史観」こそ戦後日本を捻じ曲げた元凶 ー裁判史上に残る暗黒裁判ー
四 GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く ーラジオ放送でやりたい放題ー
五 この国のなかの目に見えないマインドコントロール ー日本を捨てて日本を知ったー
六 立命館大は左翼勢力の牙城 ー「戦争論」を大量にコピーし九十分罵り続けるー
七 日本人は洗脳に弱い ー「反体制がファッション」は一夜にして覆るかもー
八 主婦や子供をターゲットにして ー公民館に巧妙にネットワークを張る左翼ー
九 有本さんは「朝日新聞」の読者ではなかったかのか ー何を読んでいたのかが問題ー
十 左翼の人達を目覚めさせる効果 ー北朝鮮の拉致事件がもたらした副次的影響ー
十一 男女共同参画政策の偏見を糾弾 ー「決め付け」の積み重なりがエスカレートー
十二 子どもに対する度を超えた支配権の行使 ー「カルトの子」を読んでー
十三 ある傾きを持った知識 ー戦後を主導してきた左翼言説そのままー
十四 「王様は裸だ」といった子供の言葉と同じ ー昨今まことに勇気ある行為ー
十五 自虐のパレード ーソ連兵に強姦された多くの日本女性ー
十六 誇張・歪曲・脚色し、そして生み出された虚構 ー元軍人による南京事件の証言ー
十七 洗脳された人から良心の声? ー◯◯女学園短大英文科□□氏のホームページー
十八 われわれ自身も手を貸した虚構の産物 ー歪められた歴史像を見直すー
一例として十番目の「左翼の人達を目覚めさせる効果」を紹介する。これは日頃、一寸、左翼的なメディアで活躍しているので注目していた朝日新聞社の一女性記者がその頃、こんな告白をしたという話です。
「私は、かなり衝撃をもって、「八人死亡」の発表を受け止めました。北朝鮮が拉致を認めることはないだろう、と思ってたし、死亡の数が多いのがやっぱり、驚きでした。同時に、それだけの死者が出ているのに、総連に配慮して、のんきに拉致被害者家族の口をふさいできた、私の属する会社のお仕事にも、なみなみならぬ疑いを抱きましたし、□□支局にいながら、有本恵子さんの両親の話を一行も書かなかった自分についても、職業人として失格である、と厳しく受け止めています。」
北朝鮮の拉致事件はそうした(左翼に洗脳されているような)人達を目覚めさせる効果をもたらしつつあることに注目したいと思った。
★「メディアテラシーを巡って」に収録した記事の表題とそのキーワードは次の表のとおりである。
一覧表
一 知識人批判
一・一 戦後一貫して間違った観念を流布 ー「個と公」論(小林よしのり)ー
一・二 「良心的」知識人、これが問題 ー日本人は鰯の群れ(A・ボストン)ー
一・三 正義のためなら情報の操作は許されるか ー逆説のニッポン歴史観(井沢元彦)ー
一・四 観念で考える人間達の恐ろしさ ー山田洋二の北朝鮮訪問記ー
一・五 丸山真男批判 ー過去の日本と日本の庶民を徹底的に嫌い、軽蔑した人間ー
一・六 「週刊金曜日」は世論を惑わす雑誌 ー拉致被害者のことを心配していないー
一・七 共産党はマスコミを握ってしまっている ー朝日・共同・NHKの三つを掌握ー
二 マスコミ批判
二・一 真紀子が主婦層に人気があるのか、それはテレビが原因 ー専業主婦の情報源ー
二・二 日本にとって憲法とは宗教の聖典か? ー歯がゆい日本国憲法(クライン孝子)ー
二・三 けじめの大切さは知っていても守れない ー新聞の病理(前沢猛)ー
二・四 辻元事件を巡る活字メディアの反応 ー記者達のヒステリックな反応の心理ー
二・五 報道は人間を抹殺することさえある ー「責任の所在しない全体主義」に酷似ー
二・六 トルシエ監督の日本マスコミ批判 ー日本のマスコミは理解しようとさえしないー
二・七 最も信頼できない新聞はどこですか? ー「新聞」に関してのアンケートー
二・八 愛媛新聞批判 ー編集権まで握られるようになってしまってはおしまいー
二・九 左翼のメディア戦略の一端 ーメディア・リテラシー(菅谷明子)ー
二・十 またも歪曲、共同通信 ー石原都知事が愛媛県教委の採択姿勢を批判?ー
二・十一 よく言ってくれた!ブラボー蓮池兄さん ー局外に置いた発言に終始する久米ー
三 朝日新聞批判
三・一 朝日は戦前も戦後も何も変わっていない ー朝日が国家を牛耳ったー
三・二 「築地」が年貢を納めるとき ー「築地」大幹部の独白ー
三・三 「女子挺身隊」と「慰安婦」(朝日と読売) ー朝日の捏造と読売の朝日批判ー
三・四 日本の良識をダメにした朝日新聞 ー庶民の味方というポーズで読者をグルにー
三・五 朝日新聞百の法則 ー日本政府のすることはすべて悪であるー
四 朝日が取り上げない親日派韓国人の言動
四・一 朝日が取り上げないベストセラー『親日派のための弁明』 ー韓国民の選択ー
四・二 反日教育に対する日本の対処:金氏の提言 ー精巧な体系を持った洗脳システムー
四・三 読んでいて吐き気をもよおす(俵義文氏による金完燮氏紹介)ー俵氏の墓穴ー
四・四 日本の蛮行は暴くのに、自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶる
四・五 ソウル大教授、韓国の史観批判 ー日帝時代の肯定側面無視するなー
五 マスコミ対インターネット
五・一 マスコミの恐れる2ちゃんねる ー情報操作の上で非常に具合が悪いー
五・二 インターネットは民主主義の敵 ーリベラルより「極右」に人気ー
この中からいくつか紹介する。
☆「「週刊金曜日」は世論を惑わす雑誌 ー拉致被害者のことを心配していないー」という記事は、湯川れい子氏の「私は『金曜日』の読者でした。人権問題で頑張っていた『金曜日』があんなことをするなんて、残念です」という発言を「週刊金曜日は、日本の共産圏批判の世論を惑わす為の報道をしている雑誌です。そのことに湯川氏は気付かなかったのだろう。だから、あんな雑誌の読者だったのか」と批判したり、「ただ、救いなのは、この雑誌がどういう媒体なのか日本にいれば判断できる。この雑誌の人達は、拉致被害者のことを心配してるのでもなんでもなくてですね、ただ国家権力に反対したいんですよ、拉致議連や家族、そして日本の皆さんがこんなに団結しているのが気に食わないだけなんですよ」と「ザ・ワイド」でデーブ・スペクターがコメントするのを紹介したものであった。
☆「愛媛新聞批判 ー編集権まで握られるようになってしまってはおしまいー」という記事は、正論八月号で藤岡信勝東大教授が「歴史教科書次期採択を左右する愛媛決戦」で「左翼の宣伝機関となった愛媛新聞」とこき下ろしたもので、愛媛県内でほぼ一紙独占の状態にある愛媛新聞が、その編集権を左翼思想の持ち主に握られており、共産党系の労働組合が社内で強力な発言権をもっているという、驚くべき特殊事情があることに触れていた。
この記事を紹介した人は「以前から組合は強いと聞いていたが、編集権まで握られるようになってしまっては、おしまいである。多くの民間企業は、共産党対策に神経をつかっている。共産党はまず、拠点となる企業に狙いをつける。そこで共産党の組織をつくる。党員の送り込みを定期採用、途中採用でこっそり入ってくる。組織拡大に熱心になる。仲間を増やし従業員の中で秘密組織をつくる。会社周辺の共産党組織が応援してくる。党の上部方針の指示で動くようになる。外部の労働組合、弁護士、市会議員、国会議員が一体となってくる。このように、ガン細胞が増殖されてしまう。気が付いたときは手遅れになってしまっている。民間企業ならつぶされてしまう。共産党員は会社がつぶれるということは考えず、正しいことをやっているのだという信念が前面に出て信仰に近い行動をとる」とコメントした。
似たようなことは大学でも起きているようだ。「正しいことをやっているのだという信念が前面に出て信仰に近い行動をとる」は至言だと思った。
☆左翼のメディア戦略の一端という記事は「メディア・リテラシー ー世界の現場からー」(菅谷明子 岩波新書)を次のように紹介している。ガンサーは、効果的なメッセージを送るポイントを、「強力で明確な主張をする、何かに賛成するのではなく反対するスタンスをとる、勝者のように振る舞う、仲間ではなく敵をつくり名指しで批判すること」などとまとめている。「「問題があるから、何かしなければ!」と言っても効果はない。原因を説明し、だれがその責任を負うのかを明確にすることが大切だ」とも。
この記事を紹介した人は「「何かに賛成するのではなく反対するスタンスをとる」は敵をつくり名指しで批判する扶桑社版教科書に対するネガティブキャンペーンは、ここらへんのツボを見事に押さえてますね。「問題があるから、何かしなければ!」と言っても効果はないんだそうです。それにしてもこの本、メディア・リテラシー教育についての本なのに、リベラル左翼のイメージ戦略に対しては無批判。さすが岩波」とコメントした。
メディア・リテラシーの本が岩波から出るなんて、左系メディアがメディアの偏りに気付くための一般論を述べるようなもので、ブラックジョークのようだと思った。それにしても、メディア・リテラシーの研究者で、こうしたメディアの偏りを研究テーマにしたものが皆無なのも不思議なことだ。第一部三章の中の「メッセージの受け入れられ方は“洗脳”の問題と切り離すことができない」で少し触れた東京大学の社会情報研究所の立場と同じなのだろう。
●ビデオ鑑賞 ーパール判事を語る、巣鴨プリズン解体ー
新たに追加したビデオを次の表に示す。
一覧表
◇サンデープロジェクトの情報操作特集 : 湾岸戦争における情報操作など 三十五分 平成十五年三月九日
◇サンデープロジェクトの米国の反国連主義特集 : 日本の国連信仰は情報操作の結果など 二十五分 平成十五年四月二十日
◇南海放送の教科書論争報道 : 八月十五日が期限の中高一貫校向けの教科書採択問題を抱えていた愛媛県での反対派と推進派による論争 十九分 平成十四年八月三日
◇パール判事を語る : 日印友好五十周年(平成十四年)記念式典における駐日インド大使の講演 東京裁判史観からの脱却に役立った 十五年春頃に日本会議から入手 二十四分
◇巣鴨プリズン解体 : 戦犯の言葉の紹介などこれも東京裁判史観からの脱却に役立った 昭和四十五年頃に放送された NHKアーカイブズより三十分 平成十四年八月四日
◇サンデープロジェクトの靖国問題報道 : 田原総一郎が高市早苗に暴言 十分 平成十四年八月十八日
◇歴史から見る皇室と国民の絆 : 高校教諭占部賢志氏の松山での講演 敗戦時の首相鈴木貫太郎がルーズベルトの死を讃えたことにトーマス・マンが感激したなど 七十八分 平成十四年十二月二十三日
情報操作関連のビデオは(主として意図的な)情報操作のもたらす危険性について警戒心を喚起させるためのもので、「メッセージは受け入れられ易いものから段階を踏んで」という手順に適っていた。そのことは二章の始めの「世の中は情報操作だらけ」で紹介する。
「南海放送の教科書論争報道」では過去の経緯の紹介の中で、十三年度採択決定直後、県庁に押し掛けた反対派市民グループの映像があったが、この中に映っていたらしい父親の顔を見つけた(女子)学生が「あの場に親がいた」と題して「授業中、プロジェクターで流れている映像を見ていた。県庁の中で、反対派の人たちが叫んだり、怒りをあらわにしていた映像だ。確か番組の前フリのような部分だったと思う。一瞬だが、私の父親が反対派のうちの一人として映った。母は映っていなかったが、母もあの場にいた。確か私はあのとき、県庁の中を、弟を連れて遊んでいた。」という記事を掲示板に書き込んだ時はびっくりした。
学生に最もインパクトを与えたビデオは、「パール判事を語る」と「巣鴨プリズン解体」で、そのことは二章の最後の「戦後教育からの脱洗脳」で紹介する。
「歴史から見る皇室と国民の絆」は内容が良いので、学生からの感想を期待したが、内容が難しいので関心が湧かなかったのか、講演者の思い入れが強すぎて声に力が入り過ぎ、学生の中には引いてしまうものがいたりして、あまり効果的ではなかったようだった。こうした講演はできるだけ感情を抑えたものが授業には向いていると思った。
●マスコミ報道やインターネット記事の掲示板への紹介
十五年度の前期授業でもマスコミ報道やインターネット記事や資料を適宜、掲示板で紹介した。北朝鮮の拉致問題やイラク戦争、フェミニズム思想、在日問題などに関するものが増えていったようだった。記事の数が多いのでここではその一部の表題とそのキーワードだけを次の表に紹介する。
一覧表
一 極楽とんびの戯言 ー故国を捨てて脱出した五百万人ー
四 そういう人々を卑怯者という ーその場限りの平和を唱える人々(曾野綾子)ー
五 異質な発言にパニック状態 ー「朝まで 生テレビ」田原総一朗氏ー
六 「壁」の向うの心理的真実 ー安直に信じる者は生きていけないー
十三 武道の心得がないと体が反応しない ー「宣戦布告」監督、石侍露堂氏の講演ー
十五 日教組と総連、北朝鮮との関係 ー金正日と金日成を尊敬する人たちー
十六 憲法二十条の呪縛 ー伊勢神宮への修学旅行の児童生徒数の変化ー
十七 「朝日」が訴えられました ー「百人斬り」の大虚報ー
十八 フェミニズムは行き遅れ左翼たちの掃き溜め ー松井やよりたちフェミニスト集団ー
十九 在日は祖国に裏切られた ー金正日による拉致の自白はショックー
二十 歴史の闇に葬られようとしていたパール判事 ー生涯を捧げた田中正明先生ー
二十三 日本の侵略戦争などではなかった ーアメリカのある詩人の懺悔と忠告ー
二十五 金正日のサポーター ー拉致問題を契機に日本人が右傾化しているという人たちー
二十六 不幸を世の中に広げることへの衝動 ージェンダーフリー思想にひそむ破壊願望ー
二十八 在日コリアン社会の度量の無さ ー帰化者は日本に寝返った「裏切り者」ー
二十九 国立大学にもいる「隠れ共産主義者の教授たち」 ー愚かなる賢者ー
三十六 東部ニューギニア戦線で戦った人たちの名誉 ー旧日本軍による被害は全くの虚構ー
三十八 日本人にしかられるからというんで学校へ行けた ー韓国の朴大統領は語ったー
記事のいくつかを紹介する。
☆「そういう人々を卑怯者という」という記事は、文藝春秋の「追う者と追われる者は、共に神の名を口にする」という曾野綾子のイラクを主軸にして書いた論文の最後を「今度の戦いで、日本人の多くは事実の裏も読めず、厳しい現実にも参加せず、個人的な命やかなりまとまった金を捧げることもせず、アメリカを離れてどうしたら国を守る現実的な制度ができるかについて改めて触れる勇気もなく、ただその場限りの平和を唱えることで、自分は善人であることを証明しようとした。そういう人々を、私も含めて、ほんとうは卑怯者という」と紹介している。
「事実の裏も読めず」「厳しい現実にも参加せず」「その場限りの平和を唱えることで」「自分は善人であることを証明しようとした」と日本人の弱点を網羅しているのが気に入った。「日本社会と洗脳」に通じるテーマだと思えたからである。
☆「武道の心得がないと体が反応しない」という記事は映画「宣戦布告」監督、石侍露堂氏の講演の骨子を私が紹介したものである。武道の心得がないと(泥棒に入られた時など)いざという時、体が反応しない、国も同様。資金を貸して貰おうと大手の銀行や証券会社に正面から当たってみたんです。最終的には融資できないという答が返ってきた。なぜかというと、そういった大手金融機関系のファイナンス会社でも、在日朝鮮人に関係するおカネを運用しているというのです。つまり北朝鮮はお客さんなんです。だから、この映画を制作するために融資すると、お客さんを失うことになりかねないということらしいのです。
一方、撮影協力は、どうだったんですか? 実は、これもダメだったんです。要請そのものは政治家や元自衛隊幹部を通じていろんな形で相当やったんですけれども、結局最後までOKが出なかった。当時の野中官房長官が、われわれの協力要請に関して「そんなのやめろ」と言ったらしい。
僕が最初、敦賀市に撮影協力にお願いしに行った時は、敦賀市長も原発のある美浜町長も、関西電力さえOKしてくれればいいですよということで非常にいい感触だった。ところが、二回目に行ったら門前払いを喰らった。その時はなぜだろうかと首を傾げて帰ってきたんですけども、後である方を通して調査してもらったところ、なんと敦賀市は日本海側では新潟市に次いで在日朝鮮人の人口が多いところだというんですね。
講演を聞いて、現代に生き続ける侍魂を見た感じがした。こうした反骨魂を持つ武士を左系メディアはどう思うのであろうか。見ざる、聞かざる、言わざるに徹して、卑怯だと思った。
☆「東部ニューギニア戦線で戦った人たちの名誉」という記事は朝日の報道に疑問を持った田辺敏雄氏が、東部ニューギニア戦線から帰還したうちの数少ない生存者に対し、電話や書面によるアンケート調査を行ったもので、三十一人から回答を得、その結果、慰安婦やレイプ殺人については、
「飢餓やマラリアで苦しみ、性欲など起こらない」
「補給を絶たれ、貴重な食糧源のサゴヤシ集めなどで現地人の協力を得なければならず、敵意を招くようなことをするはずがない」
「戦後、遺骨収集に行ったが、日本人との混血児はいない」
といった根拠を挙げ、全員が否定。同戦線に関する文献も調べたが同様の結論に至り、朝日の報道を、「過酷な東部ニューギニア戦線で戦った人たちの名誉を不当に傷つけるものと批判したものである。
このように朝日の報道は問題が多い。にもかかわらず、そのことが朝日の読者には知らされない。そして朝日は報道姿勢を改めない。田辺氏も石侍氏と同じく現代に生きる侍と言って良いと思う。
☆「日本人にしかられるからというんで学校へ行けた」という記事は韓国併合について朴・正煕第三代韓国大統領か石原慎太郎に次のように語ったことの紹介である。あのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島におこったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということはベストとはいわないけど、セコンドベストとして私は評価している。また、教育と日本人の善意については、私は貧農の息子で、学校に行きたいと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にしかられるからというんで学校へ行けた。私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う。
二章最後の「戦後教育からの脱洗脳」の中の「脱洗脳が進んでも洗脳の残滓は残り続ける」はこの記事へ寄せられた、授業に熱心な(女子)学生からの、感想である。
上で紹介したような記事を適宜、授業の掲示板に掲載し、学生へ情報を提供した。全ての記事を読む学生は決して多くはなかったが、熱心な学生は必ず目を通しているように思われた。
●掲示板への宿題やレポートの提出 ー「歴史教科書問題と洗脳」を読ませたー
歴史教科書問題への関心を高める最も効果的な手段と思われたので、最初の宿題は十四年度と同様に前年度のレポートへの感想を「平成十四年の春から夏にかけ社会的に論議が沸騰した中学歴史教科書問題に関する十四年度の授業の(期末)レポートが(授業履修生以外にも公開されている)レポート用掲示板に掲載されています。これらのレポートのいくつかを読み、感想を書きなさい」とした。
二回目の宿題は、「歴史教科書問題と洗脳」いうレポートを二回に分けて話し、感想を求めた。
そして期末レポートの課題は「自他の洗脳(による先入観)に気づく、気づかせる(もしくは脱洗脳させる)には」とか「身の周り(大学を含む教育界、メディア、政界、政治的運動、法曹界)に見える洗脳(されたような状態)について」のように脱洗脳について考えさせるものであった。
授業で感じた違和感は(授業を受ける前の自分を振返って見て)洗脳されていた度合に依存するのではないかと直感し、授業の最後の頃の七月中旬に、過去二年のとは異なり、洗脳されていた度合と授業で感じた違和感についてアンケートを取った。それは授業を受ける前の自分を振返って見て洗脳されていたと思う意識の程度について一から五段階(全く洗脳されていなかったから極度に洗脳されていたまで)の中から一つを選ばせ、また授業の前半(「歴史教科書問題と洗脳」というレポートを紹介するまで)で感じた違和感の程度について一から五段階(全く違和感がなかったから極度に違和感があったまで)の中から一つを選ばせるものであった。アンケート結果は、三章始めの「洗脳されていた度合と授業で感じた違和感との相関図」で紹介する。
●最後に二章の構成を述べる。
十五年度授業でも学生から(講義、ビデオ鑑賞、マスコミ報道やインターネット記事の掲示板への紹介への)感想と宿題や期末レポートが寄せられた。
これらは全て電子掲示板という媒体に保存されていたので、前期授業が終わって、比較的時間の余裕のある後期(十月から一月)に、掲示板の発言の中から、無意味なもの、重複するもの、月並みなもの以外、つまりユニークと思われるものを選別して時経的にファイルに保存しておいた。
後期授業が終わり、時間的に余裕ができた平成十六年の二月に私は、この時経的ファイルを元に、「戦後教育からの脱洗脳への試み」という視点で整理をした。感想と宿題やレポートを時経的にいくつかのグループに分類し、それぞれのグループに相応しいテーマ名を付けた。そして最終的に四つの時経的グループができ、私はそれらを起承転結と位置付けた。そして二章の構成が次のようになった。
二章 戦後教育からの脱洗脳への試み
起 一 世の中は情報操作だらけ
承 二 歴史教科書問題は洗脳の問題
転 三 躊躇い(逡巡)派の顕在化
結 四 戦後教育からの脱洗脳
余談になるが、平成十六年二月十一日の建国記念日祝典には自民党参議院議員有村治子女史による(日本会議愛媛県本部主催の)記念講演が県民文化会館であった。女史はジェームズ・クラベルの短編小説「二十三分間の奇跡」(戦勝国の新しい女の先生が敗戦国の学校にやってきて、生徒に「皆さん、おはよう。私が新しい先生よ」と声を掛けた午前九時から九時二十三分までの二十三分間で教室の中がどう変わり得るか、自由、国家、教育とは何かを問いかけている)を朗読して、教育問題の重要性を訴えていた。私が取り組んでいる問題に関連あるようで印象深いものであった。
■二章 戦後教育からの脱洗脳への試み
◆一 世の中は情報操作だらけ
★情報操作への警戒心の喚起
まずは、湾岸戦争における情報操作などサンデープロジェクトの情報操作特集のビデオを見せたり、北朝鮮の情報統制を話題にして、(主として意図的な)情報操作のもたらす危険性について警戒心を喚起させた。その過程での学生とのやり取りの一部を紹介する。
◇学生 : 今日の授業で、一番印象的だったのは、先週見たビデオの続きの部分で、「ナイラ」という少女が涙ながらにクウェートでの乳児虐殺を訴えていましたが、実は、それはでっちあげだったという部分です。あのように、まだ幼さの残る少女が、涙を流しながら訴えてきたら、なんとなく信じてしまうような気がしました。それも、どのテレビ局でも同じことを繰り返し放送していたら。でも、これも情報操作。情報を選び取って、真実を見つけるということは、なんと難しいことなんだろう。
◇学生 : 感情的になってしまいますが、少女に嘘をつかせてまでも手に入れるものに価値があるのでしょうか?
●私 : イラクに侵略された小国クウェートが(米国の世論や国連を動かして)助けを求めるには「背に腹を代えられなかった」のかも知れませんね。その結果、クウェートは独立を回復したのですから。
◇学生 : もし、ナイラという少女がでっちあげたというのが「でっちあげ」だったら?
●私 : 面白いですね。メディアの信用度に依存するのでしょうね。でっちあげたことが明るみに出て痛手を被る可能性が高いメディアほど信用度が高い。逆に、でっちあげたことが明るみに出ても、のらりくらり言い訳に終始し、反省する態度が少ないメディアほど信用度が低い。
◇学生 : 私は(イラク戦争での)ジェシカ・リンチさんの救出劇にも衝撃を受けました。当初、劇的な救出劇とされ、ドラマ化されるという話もありました。それがイラク人医師の証言によると、傷は、ただの交通事故での負傷で、救出劇もイラク人兵士が立ち去っており、大々的なものではなかったとワシントン・ポストに掲載されたようです。
◇学生 : 北朝鮮のように生活の中に密告者がいる社会。たとえ妻でさえも、離婚する可能性があるから、北朝鮮を批判するようなことは、しゃべらないらしいことを聞いて、そのような社会で暮らすことの苦痛や人間不信に陥るのではないかというようなことを考えました。
◇学生 : 国民や弱者のために、国や社会が良い方向になるように誘導して情報操作をするならいいが、政府の都合だけで情報操作をしていくのはやはり許せないと思った。
●私 : 情報操作をするのは政府だけとは限りませんよ。マスコミもするし、いや個人ですら、大衆のウケを狙って虚偽の告白をしたり暴露本を書いたりします。そして、大きな社会問題になるのですが、責任を取りません。痛手を負うのは大衆の方です。ですから、自衛するしか方法はないのです。
◇学生 : たとえ嘘であろうとそれに気付かなければ、簡単に踊らされてしまう。メディアが人に及ぼす影響は想像以上に大きいものだとわかって、恐ろしくなりました。
●私 : 日本軍による南京大虐殺の話は中国のプロパガンダを朝日新聞が無批判に受け入れ大々的に広めたのが原因、韓国の従軍慰安婦の話は、元憲兵の(世相のウケを狙った虚偽の)告白本を反戦運動家達が無批判にもてはやしたのが原因です。
◇学生 : 情報を鵜呑みにしないようにしよう、という意見が多いのですが、もし本当にそう思い込んだら、まさに先生の情報を鵜呑みにすることになると思います。
●私 : その通りです。(笑) そもそも「教育」は「洗脳」と切り離せません。特に戦後教育はそうです。私達の世代(戦中派)は(教師がまだ洗脳されていなかったため)それほどでもなかったが、皆さんの両親の世代の方が、そして更に(洗脳された教師が増えて)皆さんの世代の方がより洗脳されていると思います。
◇学生 : 「やらせ」番組も、情報操作の一部だと思います。
●私 : メディアが都合の良い(自社の主張に合致する)ニュースのみ(大きく)取り上げたり、都合の悪いニュースは取り上げないのも情報操作の一種なのです。特に、視聴率(あるいはシェア)の高い(独占的)メディアほど(競争相手がいないので)そうした傲慢さがあります。地方新聞の多くはそうした傾向が高いです。
◇学生 : 産経・読売と朝日・毎日の新聞紙の間でイラク戦争でのイラクへの“シンコウ”について表記が分かれたようです。進攻と侵攻という表記です。これには戦争の解釈がポイントになるわけですが、たった一字でも読み手としては違った印象を抱くことになります。
戦争の中で悲惨なシーンがなかったり、でっちあげをするといった、あからさまな「情報操作」をされるのではなく、生活の中でさり気なく徐々に影響を及ぼすことで、結果的に「情報(思考)操作」されている面があるということを認識しました。
◇学生 : 操作にまどわされず情報を選ぶ、の時点で終ってはいけないと思う。自分にとっての、正しいものを選ぶ必然性をはっきりさせるべきだと思う。正確な情報を選び取るということは、多少の努力を要するはずで、何の必要もない場合、その努力を継続させることは難しい。また、必要性をはっきりさせるということは、情報操作に対する反撃にもなり得るはずだ。
●私 : なかなか良い着眼点だと思いました。私は今までメディア・リテラシーを高めるにはどうしたら良いかと聞かれたら次のように答えようと思っていました。
一 メディアを偏らせない。つまり多角的なメディアから情報を吸収すること。
二 思い込みを深くしない。常に、(偏見を排した)柔軟な思考を心掛けること。
三 他人との(情緒的よりも論理的な)意見交換を通じて自分の思考に刺激を与えること。私は更に次のことも付け加えたいと思いました。
四 情報の発信者の意図を推察してみること。
五 情報は(何に役立てるかなど)目的意識を持って能動的に取り入れること。
上のやりとりから分かるように、湾岸戦争における情報操作などサンデープロジェクトの情報操作特集のビデオを見せたり、北朝鮮の情報統制を話題にすることは学生に、(主として意図的な)情報操作のもたらす危険性について警戒心を喚起させることに有効だった。
★テレビや新聞の偏りや情報操作に気付かせる
次いでテレビや新聞の(無意識的な)偏りや(意識的な)情報操作に気付かせるためには、歴史教科書問題が最適と思われたので、最初の宿題は十四年度と同様に前年度のレポートへの感想を「平成十四年の春から夏にかけ社会的に論議が沸騰した中学歴史教科書問題に関する十四年度の授業の(期末)レポートが(授業履修生以外にも公開されている)レポート用掲示板に掲載されています。これらのレポートのいくつかを読み、感想を書きなさい」とした。
寄せられた感想の中から典型的なものをいくつか紹介する。
◇衝撃を受けた学生 : まず衝撃を受けたのは、南京大虐殺や従軍慰安婦については、証拠がないということです。中学・高校時代に教わったことは、真実なんだと思い込んでいたのに。やはり、いろいろな側面から事実をみてみないと、本当のことは見えてこないんだということを強く感じました。
歴史の授業というのは「暗記」と捉えられることが多いのかもしれないけれど、本当は、考える授業だと思います。だから「つくる会」の歴史教科書も、一概に悪いとは思いません。たしかに、メディアの影響によってうさんくさい教科書を中学生が使うのかと思ったこともあります。
◇反対派が多いはずという考えがあやまりという学生 : 前年度のレポートを読んだ結果、ほとんどの意見が、謙虚さも必要だけど、中立から新しい歴史教科書賛成よりのものだとわかりました。でも、おかしいですね、全国ほとんどの県が採択に反対しているというのに、何故ここの意見はかたまっているのでしょうか?
その訳を次のように考えます。実は歴史教科書賛成派は多くいるのだけれど、問題の性質上、はっきりとそう言いにくい状況なのではないのかな、と。テレビや新聞などを見ていると分かるのですが反対派の意見は大きくとりあげられているのに賛成派の意見はまるっきりというかでてきもしないのです。それは多分、「あちら」の国や一部の人々に対する配慮なのだろうと思います。
反対派の人はテレビや新聞でおおっぴらに意見し、賛成派の人は仲間うちや身近なあたりでこっそり(?)意見する。そしてよくわからない人たちはテレビや新聞をみて反対派の意見を聞く。そんな状況なのではないでしょうか。
テレビや新聞がとりあげているから反対派>賛成派と感じるけど、実は反対派はそう多くないのでは? それがレポートに賛成派が多かったことの答えになるかなと思います。
この学生は私のゼミの女子学生だったから良く分かるのだが、珍しいほどメディア・リテラシーのある学生だった。「問題の性質上、はっきりとそう言いにくい状況」、「賛成派の意見はまるっきりでてきもしない」、「「あちら」の国や一部の人々に対する配慮」などの言葉に現れているように左系メディアの本質を良く理解していた。そして「レポートに賛成派が多かった」理由に当たらずと言えども遠からずの答えを出していた。
◇マスコミの論ずることを鵜呑みにしてはならないと主張する学生 : 「歴史教科書問題」の中で議論されていた「内政干渉問題」を引き起こした背景には、マスコミの影響が非常に大きかったように思います。確かに日本と中国・韓国の間には過去に不幸な歴史がありましたが、近隣諸国と不幸な歴史を持たない国家などこの世界には存在しません。また、近隣諸国の歴史教科書にここまで過剰な反応する関係というのも余り聞いたことがありません。
結局、ある特定思想に染まった一部マスメディアが、諸外国に「日本の教科書には貴国にとってこんな悪い事が書いてありますよ」と大々的に報道をして回っているのが、このような事態を招いている原因になっている部分が強いように思えてなりません。
ある外国人の発言で、日本のマスコミは、自国の誇りに思えることは報道しないのに、自国の恥となることを積極的に報道するのか不思議だ、という話を聞いたことがありますが、全く同感です。
結局、私がこの教科書問題で感じたことは、「マスコミの論ずることを鵜呑みにしてはならない」と言う事です。マスコミには読者に明示していない”狙い”があります。読者の考えをこの”狙い”に向くように事実を取捨選択して記事が作られているのではないかと思うのです。今回の問題もそのための”手段”となっているだけではないでしょうか。
表面的に報道されている事だけではなく、この”狙い”を見抜けなければ、厭な言葉ですが、私たちはマスコミに洗脳されていることになってしまいます。何が正しい情報であるかということ、何が正しい歴史なのかということは、マスコミを鵜呑みにするのではなく、自分の目で確かめることが大量の情報が溢れる現代においては大切だと思いました。
この学生はメディアの問題点について良く知っている。「「内政干渉問題」を引き起こした背景」「特定思想に染まった一部マスメディア」「自国の恥となることを積極的に報道する」「読者に明示していない“狙い”」「マスコミに洗脳されている」などの言葉を使うだけでもそれが良く分かった。
これらの感想から分かるように、歴史教科書問題についての先輩たちのレポートを読ませることは、学生にテレビや新聞の(無意識的な)偏りや(意識的な)情報操作に気付かせるために大変有効だった。これは学生たちが、高いところからの意見より、自分たちと同じような目線からの意見の方を受け入れ易く感じるからだろうと思う。
★学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせる
次いで、「歴史教科書問題を巡って」や「マインドコントロールを巡って」などのレジメを液晶プロジェクタで映し講義し、学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせた。寄せられた感想の中から典型的なものをいくつか紹介する。
◇偏向教育を嘆く学生 : 私自身中学生の頃は日本は恥じるべき歴史を持っていると思っていた。私の実家は広島県の福山市だが、広島では他県よりも日本の歴史は恥ずべきものという教育がかなり激しく行われているのではないかと思う。それが最も端緒に現れているのは、日の丸・君が代問題だと思う。私は君が代を歌えといわれても歌えない。小・中学生の時の入学式や卒業式で君が代が歌われることが一度もなかったからだ。
日の丸も私が中学三年の時に入学式などで日の丸を掲揚しなければならなくなったようだったが、先生たちは何とかして日の丸を式に持ち込むまいと躍起になっていた。そして先生たちは、「日本は昔日の丸を掲げて韓国や中国を侵略した。日の丸を見るたびに韓国や中国の人たちは悲しい思いをする」と言っていた。私が疑問に思うのは、その先生の意見にほとんどすべての生徒が賛成で、日の丸は見たくないと言う内容の作文を書いたり、君が代が式で流れると先生を含め八割くらいの人が着席していたことだ。これがまさに洗脳だと思う。
似たようなことを語る広島県出身者は少なくなかった。「日本の歴史は恥ずべきものという教育」「日の丸を式に持ち込むまいと躍起になって」など広島県の状況には困ったものだ。まあ東の国立、西の広島とまで言われているくらいだから、是正には時間がかかりそうだ。
◇あまりに説得力がありすぎるので怖いという学生 : 今までの歴史教科書がいかに自虐的なのかという説明を聞き、なるほど言われてみればそうかと納得しました。しかしあまりに説得力がありすぎるので、その人の意見をそのまま自分の意見にしてしまいそうで怖い。中学校の教科書を自分で読み返して、全体的な流れからも見てみなくてはならないと思いました。しかし中学・高校の頃の教科書は既に捨ててあった(涙)。学校の図書館に行ってみよう…。
◇何もかも全てが情報操作という学生 : (これまでの教科書の問題点を解説した講演ビデオを見て)日教組の先生に歴史を教わらなくて良かったと心底思います。自分の国を憎め憎めと洗脳しているとしか考えられない。この先生達は何が目的なんでしょうか。先生が自分の国を否定しているのを聞いて育てば、子供がそう思うのも仕方がないことです。そういう教育を受けた子供たちの感想の内容そのものよりも、その感想に対して「よくできました」と花マルを与える先生に、とてもショックでした。
このことについてのメディアでの報道が無いのは何故なのか(との先生の問いかけに)、私なりに考えてみました。私が思うにメディアがそれに異を唱えれば、やっぱり韓国や中国から批判がくるから問題にしないのではないでしょうか。また、メディア自体も自虐思考が強いのでそういう教育があっても日本の歴史上仕方がない、みたいに黙認というか甘く受け止めているのではないでしょうか。
自国の歴史に肯定的(?)な教育というか「つくる会」の教科書はものすごい勢いでたたかれていたのに。この差は凄いですね。メディアの存在自体が情報操作ですね。というか何もかも全てが情報操作じゃないですか。新聞やテレビで取り上げる側の人間に自虐思考の強い人が多いんですかね。もっと中立的、というかどちらの考え方もとりいれたメディアってないのかな。
「花マルを与える先生にとてもショック」とあるように伊藤哲夫(教科書改善連絡協議会)氏の「新しい歴史教科書を考える」講演ビデオの威力が発揮されたようだ。「メディアがそれに異を唱えれば、やっぱり韓国や中国から批判がくる」「メディア自体も自虐思考が強い」「メディアの存在自体が情報操作」「新聞やテレビで取り上げる側の人間に自虐思考の強い人が多い」などの言葉を引き出すことができて私の狙いは十分達成できた。
◇新しい歴史教科書の使用は公立の学校は自粛するべきという学生 : この(新しい歴史)教科書の使用にあたっては公立の学校は自粛するべきだと思う。私立の学校では、経営者の思想に賛成した生徒が集まっているわけで教科書の使用も経営者の意志としてある程度は容認されるでしょう。しかし、公立の学校の場合、様々な思想の人が集まっていると考えられる。だから、公の立場として偏っているといわれる考えだけを教えるのではいけないのではないだろうか。
◇その主張の矛盾を指摘する学生 : あなたの意見で一番矛盾している点は、新しい歴史教科書の内容を「偏っている考え」と決めつけている点です。従来の歴史教科書の内容だけで歴史教育を進めることこそ、「偏っている」と言えませんか? 今、その副作用として「自虐的思考」、しいては「愛国心の喪失」という問題に直面しているのです。
一つ前の偏ったような感想には、すかさずそれをただすような感想が寄せられたのは頼もしく思った。同時に、学生は、高いところからの批判より、自分たちと同じ目線からの批判の方を反発少なく受け入れる可能性が高いと思った。つまり学生への批判は私がするより、学生にしてもらうのが一番効果的だということである。
寄せられた感想から分かるように、「歴史教科書問題を巡って」や「マインドコントロールを巡って」などの講義、そして「新しい歴史教科書を考える」講演ビデオは、学生に学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせることに有効だった。さらにそれは学生同士を通じてやるのが一番ということが明らかになった。
◆二 歴史教科書問題は洗脳の問題
さて、テレビや新聞の偏りや情報操作に気付かせ、学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせた後で、歴史教科書問題は実は“洗脳”の問題だというメッセージを伝えるために「歴史教科書問題と洗脳」という(十五年二月に作成した未公表)レポートを(プロジェクターを使って)講義し(第二回目の)宿題で感想を求めました。寄せられた感想の中から代表的なものをいくつか紹介する。
◇無知・無関心を恥じる学生 : 「つくる会」が支持を受けなかった理由の一つと考えられる、九割近くの「無関心層」にとても恥ずかしさを感じてしまいました。私自身がそうだったし、私の周りがそうだったからです。そして、「無関心層」がこんなにもたくさんいるのなら、日本人が洗脳されやすいのも当然だと思いました。
無関心で興味も無いから、知識は乏しく、もちろん自分の考えなんて持っているはずもない。そこに何らかの情報が入ってきたなら、生真面目で頭のかたい日本人はそのこと(情報)でいっぱいになってしまう。例えばそれが少しでも衝撃的な情報だとすれば、それだけで「洗脳」は完成してしまうのでしょう。
日本人は長所も短所もひっくるめて、「洗脳」されやすさにつながっていると思います。それに加えての「無知・無関心」「自己の不確立」。変えていくべきは教科書だけではない!
この感想は「日本社会と洗脳」についての全てのキーワードを披露してくれたようだ。「九割近くの「無関心層」にとても恥ずかしさを感じて」「日本人が洗脳されやすいのも当然」「自分の考えなんて持っているはずもない」「生真面目で頭のかたい日本人」「それだけで「洗脳」は完成してしまう」「長所も短所もひっくるめて「洗脳」されやすさにつながっている」「変えていくべきは教科書だけではない!」などがそれである。そしてこうした「洗脳」現象は日本社会のほとんど誰もが共有している精神構造かも知れないことを気付かされた。
◇教科書に洗脳される人は後をたたないと嘆く学生 : 「洗脳」は私たちの生活に深く根付いているものだと思います。私の父親や祖父母に戦争の話題を振ると「日本人は悪いことをした。最低だといわれても仕方が無い。償いをしなくてはいけない。」さらに米国とマッカーサーのおかげで今の日本があるんだと続きます。これも洗脳なのでしょう。
新しい歴史教科書に賛成の人は、歴史知識がある人、反対の人は乏しい人とレポートにありましたが、確かにそうなのかもしれません。自分で調べようとしたことが無い人は長年教えられてきた教育を払拭することは難しいと思います。私自身もそうなんだと思います。試験のために詰め込んだ知識はたくさんありますが、その行為がまた洗脳に拍車をかけていると思うとやりきれない思いです。
歴史が好きで教科書や資料集を読むのが楽しかったのに、あの本たちの中に「嘘」が存在していたのかと思うと悲しくなります。教科書は絶対に正しいと思っている以上、教科書に洗脳される人は後をたたないと思います。もっと自分で調べ、自分で考える力を持たなければならないと思いました。
この感想に現れるキーワードにも「日本社会と洗脳」への思いが深められた。「「洗脳」は私たちの生活に深く根付いている」「試験のために詰め込む行為がまた洗脳に拍車をかけている」「教科書に洗脳される人は後をたたない」などがそれである。「教科書に洗脳される人は後をたたない」は日本だけの現象ではないであろう。北朝鮮は特別としても、韓国や中国でも似たような事情、いや日本以上だろう。違いがあるとすれば、それらの国では国策としてなされているのに対して、日本では教育関係者たちを中心にして自主的になされていることか。前者では国策が変われば内容も変わるので洗脳は単なる見かけだけのものと言えるかも知れないが、後者ではそうはいかないのが辛いところだ。より深刻な問題と言えるかも知れない。
違いはまだありそうだ。「「洗脳」は私たちの生活に深く根付いている」というような言葉を他の国の若者が発することを想像できるだろうか。私にはできない。洗脳社会であることを認めているのみならず、進んでそれに身を委ねている、いや敢えてそれを選んでいるのが日本社会の本質ではなかろうか。そういうことを示唆してくれた感想であった。
◇無知から無関心に変わったという学生 : 私は教科書問題に関して無関心というだけで歴史に対して無知ということではありませんでした。学校で習った事はもちろんのこと、自分も歴史に興味があったこともあり、本もたくさん読みました。それにも関わらず、歴史教科書問題には無関心でした。私は無関心=無知だとは思いません。私は無関心というのは、知識があるのに無いふりをすることで、無知というのは、そのままですが、知識が無いと位置づけています。
しかし、無知であるからこそ、上手く機能することもあります。父の仕事の関係で、韓国の人と交流する機会が多く、同じ歳の韓国の友達がいたのですが、その子が学校で歴史を学ぶまでは、仲が良かったのですが、クラスの友達に日本人の友達(私)がいることで、いじめを受けたそうです。その韓国の学校の先生が、どういう風に教えたのかは分かりませんが、そのことがきっかけで連絡を取ることが無くなりました。
このことがきっかけで、私は過去の日本の過ちに対して、無知から無関心に変わりました。しかし、この授業を受けて、改めて、歴史に関心を持ち始めました。メディアに洗脳されるのではなく、事実をしっかり見極めたいと思いました。日本の過ちの中で小さくなってしまっている貢献(学校の創設)に興味を持ちました。新しい教科書のテーマである「歴史と国が好きになる」と同じく、自分の国を誇りに思いたいと思います。
この(女子)学生からは「知識があるのに無いふりをする」という「無関心」もいることを教わった。また「無知」の効用については、最近話題になっている韓国映画「冬のソナタ」ブームやヨン様追っかけが日韓関係にプラスの効果があるという話を思い出した。
それにしても「過去の日本の過ちに対して、無知から無関心に変わ」らなくても良いような教育はできないものだろうか。授業が「改めて、歴史に関心を持」たせることになったこと、「自分の国を誇りに思いたい」と思わせたことをうれしく思った。
◇日本のことを悪く教えてしまうという学生 : 私は今、家庭教師のアルバイトをしていて、中学生を四人教えています。そして、やはり私はその授業の中で私が過去に教わったように、日本のことを悪く教えてしまうのです。私の頭の中には、過去の日本は悪いのだという意識がすでにあって、それが大前提になってしまっているのです。なぜそうなのかというと、そう教えられたから、その一言につきると思います。
私は正直にいうと、この授業を受けるまで歴史教科書問題についてあまり知りませんでした。だから、この授業でつくる会の教科書の内容、そして今までの教科書で扱われてきたことの信憑性の有無などといった論議を聞き、非常に驚きました。
私自身、歴史教科書問題でどちらが正しいのかということは判断できませんが、少なくともこれまでのような洗脳のような授業は絶対によくないと切実に感じました。自分がまさにそうであったことに最近始めて気づいたのです。こうしたことは絶対にあってはならないと思います。自国の本当の歴史を知らない子供たちがそのまま大人になる。本当に恐ろしいことです。
この感想も印象深いものであった。「洗脳のような授業は絶対によくない」「絶対にあってはならない」「本当に恐ろしいこと」という言葉を発したこの(女子)学生はこれからは「日本のことを悪く教えてしまう」ことはなかろうと思われた。
◇洗脳したものが勝つという学生 : 私がレポートについて思ったことは、「洗脳したものが勝つ」ということである。なぜなら、さまざまなことにおいて意見を求めるとき、賛成・反対と判断するのは個人であり、またそれを集計して全体の意見として発表されるのだ。ある程度の考える材料がないと判断はできないが、もしその考える材料が少なければ少ないほど、自分の持っている少数の材料のみの判断を強いられる。
今回の教科書問題を例に当てはめると、知識が少ない人が新しい歴史教科書を吟味する前に反対意見をマスコミから延々と受けていたため、反対意見を持つ人が多くなったのだと思う。実際、自分もその中の一人に取り込まれていたのである。
新しい歴史教科書を否定することによって得をするものがいたからこそ、そういう情報が流れたのだと思う。
企業にせよ日常生活にせよ、良し悪しは無関係で、上手に情報を流し、一般大衆をうまいこと取り込めたものが、これまで勝ってきたのだと思う。これがまさに洗脳であり、新しい歴史教科書問題にもあてはまるというのが、私の考える理由である。
「新しい歴史教科書を否定することによって得をするものがいた」は至言である。第一部三章の中の「メッセージはいかに受け容れられるか」で紹介した学生の期末レポートについて、両者とも「子どもたちに使用させるにふさわしい教科書」を求めている」というのはあまりにもきれいごと(建前)過ぎると述べたが、それに近いことを考えている(男子)学生がいることを頼もしく思った。彼は私のゼミ生だった。「洗脳したものが勝つ」「上手に情報を流し、一般大衆をうまいこと取り込めたものが、これまで勝ってきた」などは左系メディアにびったりの言葉と思えた。逆に言えば、右系のメディアと「つくる会」は、「情報の流し方が下手なので、一般大衆を取り込めず、洗脳合戦に負け、採択戦に負けた」と言えるのかも知れない。
◇反対派の親に対する後ろめたさを払拭できない学生 : 無知な人ほど批判的、という言葉がとても心に残っている。それは決して先生の経験から生まれた言葉ではなく、アンケートの結果そういう傾向が見られる、ということだったのだが、私はとても嫌な気持ちになった。
私の父親はとても歴史が好きで、よく本を読んでいる。私は、彼と直接歴史教科書問題について話したことはないが、彼は反対派と呼ばれる側にいる。特に、養護学校に採択させたことについてとても怒っていた。(筆者註 この学生の弟は養護学校の生徒だったらしい)
私は「無知な人ほど批判的な傾向がある」ということをこの講義で聞いたとき、つまりそれは考えるという行為の、もともとの根本の部分で自分に問い直し、そこからまた具体的な問題を考えるところに戻ることを要求されたということなのだと感じた。だが、このメッセージともいえる調査結果を自分が受け止めたあと、結局私は「何が正しいのか分からなくなった」というところにしか行き着いていないようだ。
初めはそのメッセージの通り、私は無知でありながら、勘のようなもので反対した。そしてそのメッセージによって自分の無知な部分を見てしまい、結局はどうしたらいいのか分からなくなっている。両親は歴史教科書問題にからむさまざまな諸問題にもすべて対処する構えで、断固として反対している。
私は今、両親に対する自分のポジションにとても自信をなくしている。所詮自分とは異なる人格なのだが、今回の講義を受ける前の私が、両親と同じように反対の態度をとったことは、結局は親の受け売りでしかなく、そのことに気づいても、逆に今度はどんな態度をとることにも自信をもてないでいる。半端な理解や情報に対するいい加減な態度を、今更ながら反省した。しかし、この反省は、親に対する後ろめたさから生まれている部分が多い。情報に対する自分の態度を悔いることとは少し違うのかもしれない。
この(女子)学生は十五年度授業でもっとも印象深かった学生の一人であった。また考えていることが一番分かりにくい謎めいた学生でもあった。「結局私は「何が正しいのか分からなくなった」というところにしか行き着いていない」という言葉は授業のメッセージが彼女の心の深いところに突き刺ささり、深い動揺を引き起こしたことをうかがわせた。「この反省は、親に対する後ろめたさから生まれている部分が多い」はどのように解釈したら良いのか今でも良く分からないところである。これを読んだ知人から「論理(何がほんとうか)よりもしがらみ(だれに教えられたか、だれの主張か、まわりがどうか)が先立つわけで、教育現場におけるわれわれの劣勢を冷静に見極める必要があります。」という感想が寄せられたのは、気持が通じているようでうれしかった。
◇洗脳された知識人達のほうが重大な問題という学生 : 歴史教科書問題について深く考えず反対派の意見だけを聞いて、一方的に物事を判断していた私達無関心層も問題だと思うが、テレビや新聞、雑誌で自分の意見を述べられて、影響力を与える知識人達が洗脳されてしまっているという点のほうが重大な問題だと思った。
情報を送る側の知識人がなぜ皆そろって反対派なのかだが、テレビなどでたびたび出演するコメンテーターたちは歴史の専門家ではないし、結局はその人たちも、テレビ局や新聞社が取材した情報を見て判断しているのだと思う。ここでレポートの「歴史の知識があまりない人は新しい歴史教科書に反対する傾向にある」という点に納得した。つまりテレビに出ている知識人の多くも私と同じ無関心層で、自分から情報を収集している人が少ないのではないかと思った。
「知識人達が洗脳されてしまっている」「知識人がなぜ皆そろって反対派なのか」などの言葉を見ると、なんだ、みんな分かっているのではないかと思えてくる。皆は「王様は裸」と分かっているが、「それでも(自分には関係ない、楽しければ、承知の上だから)良いではないか」と思っているのだ。「王様は裸だ」と叫ぶ子どもがいない、いやそんなことを叫んでも誰も驚かない、いや喜ばれない。つまり相手にされない、報道されない、したがって叫んでも何も得しないのである。
一章の終わりの「マスコミ報道やインターネット記事の掲示板への紹介」で「田辺氏も石侍氏と同じく現代に生きる侍と言って良い」と述べたが、田辺氏と石侍氏は「王様は裸だ」と叫ぶ子どもの現代版なのかも知れない。ここまで来てやっと分かったことがある。それは私がやっていることは田辺氏や石侍氏がやっていることに似ていて、「王様は裸だ」と叫ぶ子どもの現代版みたいなものかも知れないということである。私のようなことを試みる大学人が他に現れそうにないゆえんである。
「王様は裸」という虚構を許容することが日本社会にとっていかに有害なことかが皆に認識されるまで、このような事態は続くであろう。虚構が有害なことが皆に認識されるには、連合赤軍による集団リンチ事件や浅間山荘事件、あるいはオウム真理教による地下鉄サリン事件、あるいは北朝鮮による拉致問題の判明などの衝撃的事件を待つしかないかも知れない。戦前日本の国家体制も一種の虚構でそれが(全てとは言わないまでも)有害なことが皆に認識されるには、莫大な犠牲を払う必要があったことを考えれば、現代の日本を支配している虚構が有害なことが皆に認識されるには、(拉致被害などの犠牲では済まされないくらいの)かなりの犠牲を払う必要があるのかも知れない。
◇反対側から少なからず共感側へと移行した学生 : この講義を受けるようになってからつくる会の歴史教科書に対しての見方も反対側から少なからず共感側へと移行した。私がそう移行していった理由は“共感への移行は授業効果によるもの”だと思う。講義でそれに触れられたとき「あ、私もだ」と思った。
◇教育学部の専門課程「社会」はかなり洗脳的という学生 : 社会の時間のビデオはかなり凄まじいものでした。主に従軍慰安婦問題を取り上げていて、実際に慰安婦として連れていかれた方が、生々しくコメントしているものでした。このような南京大虐殺事件や、従軍慰安婦は本当になかったんでしょうか? ないとしたら、どうしてこのような問題が起きるんでしょうか。
見たビデオの印象が強すぎて、まだ頭の中では整理できていません。将来教師になった時に、このような日本の他国への残虐な行為を伝えていくことこそが、生徒のためであると思っていたけれど、なんだかそうではない気がしてきて、ほんとうに難しい問題だと思いました。
「かなり凄まじいもの」「生々しくコメントして」「印象が強すぎて、まだ頭の中では整理できない」などの言葉は教育学部「社会」の授業がどんなものか想像させるに十分なものであった。興味が湧いたので、その(女子)学生に教員の名を聞き、公開されているシラバスを調べると次のようなものであった。
「科目名は近代日本の国家と戦争、キーワードは戦争、軍隊、富国強兵、〈授業の目的〉は社会科における基本的な教養として、わが国における戦争と軍隊の歴史的変遷をたどり、その特質を理解する。〈到達目標〉は一 日本における近代国民国家の成立過程の特質を把握する。二 戦争や軍隊のあり方を規定した近代日本の社会構造や民衆意識を把握する。三 近代戦争の特質と戦争責任論について、自分の考えをまとめ、論述できる。授業で扱うトピックは日本近代の戦争の様相、社会の構造、戦争と平和をめぐる意識。授業のスケジュールは一 近代化の歩みと富国強兵、二 近代天皇制の形成と特質、三 昭和史の歩みと十五年戦争、四 象徴天皇制の成立、五 戦争責任と戦争放棄」
授業の内容は推して知るべしで、教育学部社会科授業の典型的なものだと思われ、このような自虐的教育の拡大再生産に国費を掛ける正当性はあるのだろうかと思った。感想の最後にある「生徒のためであると思っていたけれど、なんだかそうではない気がしてきて」という言葉は知識人や教員への批判精神が目覚めた証しとも考えられた。
◇受けている授業さえ懐疑的になっている学生 : 「日本人は、洗脳されやすい」この言葉が、印象的です。今まで、そんなことを考えたこともありませんでした。これが、歴史教科書問題から見えてきた日本人なのだと気づくのに、長く時間がかかりました。そして、今は、もっと“洗脳”という言葉に敏感になっています。今、受けている授業さえ、本当に信じていいのかどうか、自分自身に問いかける毎日です。
私は、この問題を考えるようになって、メディアが取り上げて、声高に叫んでいることに関して、以前よりも関心を持つようになりました。それは無関心であることが、無知であることにつながっているように思うからです。さらに、授業の内容にも、以前より関心を持つようになりました。
自分の意見を持ってみるということは、なかなかに難しく、意外に勇気のいることですが、自分で考えないで、ただただ情報を受け取るだけでは、情報操作に加担してしまいます。正すべきなのは、教科書だけではないだろうということです。子供たちへの影響を考えるならば、歴史を教える教師、ひいては、教育に関わる人々全てについても、正していかなければならないと思います。
「「日本人は洗脳されやすい」という言葉が印象的」、「気づくのに、長く時間がかかった」「“洗脳”という言葉に敏感になって」「受けている授業さえ信じていいのか」などの感想から分かるように、「歴史教科書問題と洗脳」というレポートは、学生に「歴史教科書問題は実は“洗脳”の問題」だというメッセージを伝えるためにかなり威力を発揮したと思われた。
◆三 躊躇い(逡巡)派の顕在化
★懐疑派の主張
これまでの経過から判断すると、学生達は意外に物わかりが良い、従って戦後教育からの脱洗脳は順調に進むかと思われたが、学生の多くはまだ本音を隠しており、一見、物わかり良さそうに見えるのは単に表面的に迎合したもので、実は躊躇い(逡巡)派がまだ健在していることが直ぐに判明した。
そして逡巡派には授業の(授業から洗脳的要素を完全には排除できないという)洗脳的側面に戸惑う、つまり授業と洗脳の区別に悩む懐疑派と(イデオロギーに染まりかけたような)執拗な防衛、抵抗派もいた。(授業と洗脳の区別に悩む)懐疑派とのやり取りの一例を紹介する。
◇学生 : 「つくる会」色に染めようとする、あるいはそれが正しいという立場の方の理論が私には、まだ受け入れられません。
●私 : 「つくる会」色に染めるのが目的ではなく、歴史教科書問題を例にして、自分にメディア・リテラシーがあるかどうか自覚して貰うのが目的です。
◇学生 : (知識人の方に問題が多いことに関して)誇り高い人ほど、自分が、あるいは祖国が行ってきた歴史的事象を反省(自虐的に)したがるということですか?
●私 : (自分の人生の大半を懸けて)社会主義を讃えて来た人達は、また誇り高い人達でもあります。まず高学歴だし、知識人、学者、エリートマスコミ人、革新政党人、論壇で名のある知識人です。自分の過去の人生が(部分的にでも)洗脳の産物だったとは思いたくないでしょう。思っても、告白できないでしょう。
告白した途端、自分が築いた社会的基盤が揺るぎます。テレビなどでコメンテーターが(マスコミで評論家が)おかしな発言を続けざるを得ないのも、そうした背景があります。
◇学生 : 学べば学ぶほど、必然的に「染まる」可能性があることを覚悟しなければならない。実は「学問」とは、知ろうと思えば、また、学ぼうと思うほど、無意識のうちに染まりやすく、染まっていく。そういうものだ。
◇学生 : 授業で「教科書問題について考える」といわれた時も、正直反感のような気持ちを感じました。
●私 : それで授業に出なくなった人は少なくないと思います。
◇学生 : あれほど信じていた「戦犯としての日本」をもう完全に覆してしまいそうになっている自分。これでは授業に洗脳されていると思うから不安です。
◇学生 : 授業でそういったものを見せられると、「なるほど」と素直に思ってしまう自分がいます。これだって一種の洗脳ですよね?
●私 : 違いますね。あることを長く信じていて、ある時、そうでないことに気がついた場合、今まで信じていたことが洗脳された結果である可能性はあります。そうでないことに気がついたのは脱洗脳(授業)の結果かも知れません。
でも後者が洗脳と違うのは、少なくとも、(今までのと、そうでないのとの)二通りの考えに接したので、そのどちらを選択するかは本人の自由だからです。疑問が湧けば、更に自ら調べることもできるし。
私は何か断定して、そうした考えを学生に押し付けることはしなかった。だから何が正義で何が不正義だとかは言わなかったし、思ってもいない。ひたすら学生が自ら結論を出すに必要だと思う情報を提供し続けた。また質問があれば答えたし、おかしな発言があれば理由をつけて批判した。つまり「メディア・リテラシーがあるかどうか自覚して貰う」だけで十分だと思っていたのである。それが始めのやりとりである。
次のやりとりの中の「マスコミで評論家がおかしな発言を続けざるを得ない」は意識的なものではなく、無意識的なものであろう。自分が洗脳されていると思うより、「自分の考えは大衆から支持されている、そういう大衆の期待に答えるのは自分の義務、いやそこにこそ自分の存在理由がある」と思う方がはるかに精神的に楽であろう。それを続けていても何の支障もないし、左系メディアからはチヤホヤされる。正面から社会的批判を受けることはないし、右系からの批判なら無視できる。従って、何の反省も必要ないので考えを改める必要を感じないのである。批判のないところには進歩はない。だから左系メディアとそれを支持する知識人は何の進歩もしないのであると思う。
例外がある。それは突如、目覚めることがあるのだ。その例として第一部一章に出てきた資料「マインドコントロールを巡って その一」の中の「五十歳を過ぎていても生まれ変われる ー左翼だった素敵な校長先生ー」という記事を紹介しよう。
「先日、ある新年会で、小学校の現職の素敵な校長先生(女性)にお会いしました。その人について、面白かった話があります。その校長先生は、ご夫婦揃っての、バリバリの左翼だったそうです。そして、もっとも左とされている日本書籍の教科書の教師用の指導書まで、執筆なさっていたそうです。
それが、五十歳過ぎてから、左翼から目が覚めることが出来たのです。数年前に、ご主人が先に左翼から目が覚めてしまったのです。それで、意見が合わなくなり、離婚まで考えたと。その離婚の相談を、左翼の友人(この男性、実は左翼から目が覚めてしまっていたのです)にしたところ、「真っ白な気持ちで、この本を読め」と渡されたのが、藤岡先生の本(名前は忘れました)。
そういう本だとは、知らずに読んで、読みながら、ぐらぐらぐらと、今までの自分が崩れてしまったそうです。崩れてしまってから、考えが落ち着くのに一年半。まわりの世界が、すっかり変わって見えるようになったと、おっしゃって居られました。
五十歳を過ぎていても、生まれ変われるものなのですね。」
さもありなんと思う。元共産党員が目が覚ました例はいくつもあります。良心的な人は洗脳されていたことを素直に認めて、いままでの罪滅ぼしをする人もいるくらいです。でも、そうしない人の方が多いことでしょう。目を覚ましたら最後、左系メディアからはもはや相手にされなくなるだけのことでしょう。
次のやりとりにある「学ぼうと思うほど無意識のうちに染まっていく」「授業に洗脳されていると思うから不安」という学生の発言は授業(あるいは学問)と洗脳の関係について考えさせられる。学問と洗脳の関係はマルクスの資本論や共産党宣言がその典型であろう。従って、授業に洗脳(の過程)と共通するものはないと言えば嘘になる。しかし、共通するものがあるからと言って、区別できないことはない。やりとりの中では洗脳と脱洗脳の区別を説明したつもりだが、脱洗脳にも洗脳(の過程)と共通するものがあるからと言って、両者が区別できないことにはならない。
ではどうやって区別するか。比喩を使う。白い布を赤色(青色でもかまわない)に染めるのが洗脳で、赤色に染まっている布を脱色するのが脱洗脳だと私は考えている。つまり、何の知識もない人に何か偏った情報を注入するのが洗脳でその偏りを是正するのが脱洗脳である。授業は洗脳と脱洗脳のどちらも可能である。大学生より小中高生の方が白い布に近いと思う。大学の教育学部では、桃色に染まっている布を赤に染めることに相当しよう。私がやろうとしている脱洗脳は桃色に染まっている布を脱色させることで、決して青色に染めようということではない。
ところで教科書はあることを考えさせるというより、刷り込もうとする面の方が強いという意味で洗脳の書と言える。従来の教科書は白い布を赤色に染めようとしていると言って良いと思う。では、「つくる会」の教科書はどうか。中学生を相手にしているのだから、やはり洗脳の書と言える。第一部二章の五「つくる会」教科書を読んで」の中の批判的感想にある「主観的な表現が多く使われている」「過去の罪に対する責任逃れ」「それをわざわざ取り上げるところに、この教科書の意図がある」などの表現は、それを指摘したものであろう。
ではどちらの洗脳が良くてどちらの洗脳が良くないのか。「後で後悔するような洗脳」かどうかで判断すれば良いと私は思う。従来の教科書で教育を受けた学生が後で後悔するのは、どうやら「つくる会」の教科書ではなく、従来の教科書の方である可能性が高いと思う。その例として、第一部一章で紹介した資料「歴史教科書問題を巡って その一」の四番の「より正しいと考え「転向」してゆく ー子どもたちは新鮮な歴史観に出あうー」という記事を紹介する。
中央公論九月号で村井淳志氏(金沢大学教育学部助教授)が次のように述べていた。
「私自身は「つくる会」教科書に批判的である。しかしまず、「つくる会」教科書を批判する人々の間で確認しておいたほうがよいことがある。それは日本には、「つくる会」のような歴史観に共鳴し、それに沿った歴史叙述を求める読者・学習者が、無視できない比率で存在する、という事実である。
したがって、たとえ学校からそうした歴史観を締め出したとしても、卒業後子どもたちはどこかで必ずそうした歴史に出くわす。未知の事実を知らされた学習者は、自分にとって新鮮な歴史観のほうをより正しいと考え「転向」してゆく」
村井氏は「より正しいと考え「転向」してゆく」と言っているだけだが、これは従来の教科書では「後で後悔するような洗脳」があり、それが「つくる会」のような歴史観によって脱洗脳されることを認めている例だと思う。
似たようなことは、左系メディアによる洗脳と右系メディアによる洗脳についても言える。「後で後悔するような洗脳」は左系メディアによる洗脳の方が多い。先に紹介した左翼の先生や共産党員だった人が目を覚ました話はその例である。また左系新聞に騙されたという話は少なくないが、右系新聞に騙されたという話は聞いたことがないことからも左系メディアの方がより洗脳的と言える。
では「後で後悔するような洗脳」でなければ良い洗脳か、本人は洗脳を後悔しないかも知れないが、知らないうちに他人を洗脳することに加担し、その他人を後で後悔させるようなことがあれば、やはり良くない洗脳である。実際はこちらの方が圧倒的に多いだろう。つまり良くない洗脳とは「後で後悔するような洗脳、もしくはそれに加担するような洗脳」と言って良いだろう。
授業が終了に近付くと共に、懐疑派の多くは歓迎、受容派に変わっていったようだった。しかし、変われないだけでなく、ものすごい不安と孤独感でいっぱいになっていた(気の毒な)懐疑派もいた。それを紹介する。
◇両親が新しい歴史教科書に反対している学生の独り言 : 私はこの授業を受講してから、自分が信じてきた事柄や人たちを、すべて「情報」としてとらえるようになってきていて、ものすごい不安と孤独感でいっぱいになっていたんですよ。
また、自分の判断に自信がなくなってるんだけど、それでもどうしても「つくる会」の歴史教科書に不信感をぬぐいきれないような気持ちは、何なんだろう?と。この気持ちは、捨てるべきものなのか? 何の蓄積の結果なのか? 何から生まれてきた気持ちなのか?
でも私がこれまでの人生で色んなことを判断する際、このかすかな嗅覚みたいなものって大きかった気がする。ちょっと「なんかあの人怖いなぁ」という類の予感が、的中するときってありますよね? それは「情報」の蓄積によるものなのかなあ。いや、本能だとか不思議とかそういう話じゃないですよ。
「ものすごい不安と孤独感でいっぱい」という感想に戸惑いながら、私にはどうして良いか分からなかった。この最後の感想(独り言)の中の「どうしても「つくる会」の歴史教科書に不信感をぬぐいきれないような気持ちは、何なんだろう?」は自分が抱いている「不信感」への懐疑を告白しているという点で、イデオロギーや偏見とは無縁のものであり、脱洗脳までもう一歩と言えるかも知れないと思ったのだが、甘かったことが後で分かった。
★防衛、抵抗派の主張
逡巡派には懐疑派の外に(イデオロギーに染まりかけたような)執拗な防衛、抵抗派もいた。そうした防衛、抵抗派の主張とやりとりを紹介する。
◇学生 : 日本の植民地となり、日本の歴史の一部となった韓国・中国には日本の偏った歴史認識を批判する権利も当然生じるのではないかと思います。「内政干渉だ!」と他国の批判に嫌悪感を示すのではなく、なぜ他国が日本の教科書にそこまで執着するのか、その歴史背景を考慮することが大切だと思います。
◇学生 : 私には、今の北朝鮮と戦前の日本が幾らかダブって見える点がある。
◇学生 : もしも私が当時の国民であって強いられていたとしたら、きっとそれから解放されると、彼らを戦犯と見ることに異論はないだろう。日本のためにということで政策を行っていたから無罪と言うのは、責任逃れの言葉にしか聞こえない。戦争回避をして、違った方法で政策を打ち出そうとしていた人もいるのであるから。
◇学生 : 上官(註 大西中将のこと)であった人達は、特攻隊として死んでいった彼らの「愛国心」というものを利用して踏みにじったとしか思えない。私なりの「愛国心」をもって特攻隊の方々のことを考えると、上官であった人達を許せないと思うのは当然ではないか。
こうした意見が出るのを私は歓迎した。こうした意見を述べた学生がその後どう変わるかに関心があったからである。だから私は特に異論を述べる必要を感じなかった。「今の北朝鮮と戦前の日本が幾らかダブって見える点」についても否定はしない。しかし、違いにも着目するべきであろうと思った。例えば、独裁者がいたかどうか、それが世襲だったかどうか、自国民を差別して収容所などで酷使したり、餓死させたかどうか、なにからなにまで嘘で塗り固めたかどうか、国家目標が特定の人たちによる体制の維持だったかどうかなどである。
◇反対派の先生にお話を聞いた学生 : 新しい歴史教科書採択反対派の人々について「よく考えもしないで反対している人もいるのだろう」と先生の意見が述べられたと思いますが、私は本当にそうだろうか?と思いました。実際に反対派にまわられた先生にお話を聞いてみると、納得のいく意見を述べられていました。
よく考えもしないで反対した先生なんて、本当はいないのでは?とさえ思いました。今回、反対派の先生のところに足を運んでみて、やっと多面的に物事を見られるようになって、自分自身の本当の意見を持つことができるようになったと思います。
この(女子)学生も十五年度授業でもっとも印象深かった学生の一人であった。「歴史教科書問題は洗脳の問題」のところに出てきた(反対派の親に対する後ろめたさを払拭できない)考えていることの分かりにくい学生と比べて、この学生の考えていることは比較的良く分かった。
●私 : どういう意見だったのでしょうか? (メディアや他人に吹き込まれたのではなく、問題の教科書を実際読んで、自分で)「よく考えた」と思われるふしでもありましたら紹介して欲しいです。
すると次のような返事があった。
◇新しい歴史教科書にも、新しい教育の基本方針にも、賛同できない学生 : 私は、ある種のイデオロギーに洗脳されているのかもしれません。というか、すすんで洗脳されたように思います。どういうことかと言うと、私はこれまでの家族制度、つまり、男が会社へ行き、女が家庭を守って、子供を育てるという日本の伝統的な制度に縛られたくないからです。
私が受け止めた「新しい歴史教科書」からのメッセージとして、「これまでの日本の伝統的な制度を守っていこう」というものがあります。そんなことないと思う人も多いかもしれませんが、新しい教育の基本方針だって、「個の尊重よりも国の尊重」という色あいが強いことを知っていましたか?
この方針のためには「男は会社、女は家庭」という制度を推し進める必要があります。はっきり言って、私はそんなのイヤです。誰に洗脳されたのか、と先生は思うでしょうが、現時点の私の意見としては、歴史の記述云々よりも、上記の理由により、新しい歴史教科書にも、新しい教育の基本方針にも、賛同できません。
先日の反対派の先生の意見は、後日、掲載させていただきます。
「日本の伝統的な制度に縛られたくない」という気持ちは若い女性に共通するもので、「歴史の記述云々よりも」その観点から「新しい歴史教科書」に反対するというのは初耳であった。そう言えば、この学生のゼミの(女性)教員はフェミニズム運動というか男女共同参画運動に熱心な活動家だった。「反対派の先生の意見は、後日、掲載させていただきます」とあったが、最後まで掲載されることはなかった。理由は分からないが、気が変わったらしい。
◇もう耐えられないという学生 : 今日の(特攻隊に関する)ビデオは正直気持ちが悪くなりました。「おかしいよ!狂ってるよ!それこそ洗脳だよ!!」と思いました。ビデオの中で「命令が終わった後はすがすがしく幸せだった。日本に生まれ、日本人に生まれ、自分の大好きな飛行機に軍人として乗り、国のために死ねる」というセリフがありましたが、もう耐えられませんでした。
教育基本法が改正されると、教育の中心は個々の権利よりも国の利益という思想に移っていくという話を聞きました。今日のビデオは全くそれと同じじゃないか、と思いました。つまり、日本はあの戦争の後、ある種国民の「天皇様思想」洗脳は解かれ、平穏な生活に戻っていたのに、また国が国民を洗脳しようとしているのか!と思いました。
特攻隊が洗脳されていたかどうか、全く洗脳されていなかったと言えば嘘になるだろう。戦前の日本はある種の洗脳状態にあったというのは認めて良いと思う。なにしろ日本社会は洗脳されやすい社会だということは戦前も戦後も変わっていないのだから。問題は特攻隊のことを洗脳されていたか否かで評価して良いかどうかであろう。第一部二章の「六 国と誇りそして特攻への意識」で「特攻のビデオはそのように日本人を大きく二つに分別する踏み絵の役割を持っているようだ」と述べたように“ある傾きを持った知識”があるかないかで評価は大きく分かれるようだ。「もう耐えられませんでした」「また国が国民を洗脳しようとしている」などの感想はそうした「ある傾きを持った知識」なしには出てこないと思われた。
◇こちらの方が洗脳なのではと恐くなった学生 : 教科書採択、賛成派と反対派のどちらの論理が破綻しているか判断できるはずだというコメントですが、正直、これまでの授業の内容からすると、当然のように反対派の論理が破綻しているように判断できると思いますよ。でも、それは先生のやり方によって、導かれているように思います。
しばらく私がコメントを掲示板に載せなかったのは、この授業に対して、疑問を持つようになったからです。それは、先生は、脱洗脳だと言っているけれど、私は、「このような内容の文章や映像を見せられて、むしろ、こちらの方が洗脳なのではないだろうか」と恐くなったからです。もちろん、そうではないとコメントされるでしょうが。
私は、この授業の内容は、もちろん知識として吸収するけれども、ただそれで終わるのではなく、自分で納得のいく意見を導き出したいと思っています。どうやら、これまでの考え方だと、先生のものとは、かなり違っていると思います。特攻隊についての考え方も違っているようだし、教科書採択についても、違っているようです。
ただ、当たり障りのないコメントだけ述べることもできるのですが、この授業のおかげで、それでは納得できない自分を再発見してしまったようです。
「こちらの方が洗脳なのでは」という感想は「授業が脱洗脳ではなく洗脳ではないか」という基本的な問題を提起していた。洗脳か脱洗脳かの区別は、比喩で言えば、対象が白い布か色のついた布かによる。この発言をした人はどちらだろうか。私には色のついた布、つまり“ある傾きを持った知識”なしには出てこないと思われた。それでも納得しないで、脱洗脳を洗脳だと主張する人には、「それでは洗脳で結構です。良い洗脳か悪い洗脳かは、後日、私の授業を受けて良かったか、悪かったかで判断して下さい」というつもりである。幸いにして今までそういう学生はいなかった。「当たり障りのないコメントだけでは納得できない自分を再発見してしまった」という感想には手応えを感じてうれしかった。
これら防衛、抵抗派の主張に私が直接反論する必要性をあまり感じなかった。それは学生は、高いところからの批判より、自分たちと同じ目線からの批判(もしくは意見)の方を反発少なく受け入れる可能性が高いと思ったからである。事実、歓迎派、受容派がすでに存在していたし、(四「戦後教育からの脱洗脳」で紹介するように)授業が終了に近付くと共に懐疑派も段々と歓迎、受容派に変わっていったので、掲示板内は彼らの意見が大勢を占めていた。残る防衛、抵抗派は、もし熱心な学生であれば彼らの感想も読むだろうし、そうすれば自分たちの考えの矛盾に気付く可能性が高いと考えた。
「こちらの方が洗脳なのでは」と言ったこの学生が授業の最後のアンケートで「はじめは、自分の意見を持っていなくて、先生の意見を自分の意見にしていたような気がするので、あまり違和感がありませんでしたが、自分の意見を持つようになってからは、かなりの違和感を持つようになりました。そして、いろいろ悩みました。結果的に、脱洗脳に至ることができたのではないかと思いますが、まだ自分の中で、考えることはあるような気がしています」と述べたように授業が終了に近付くと共に、防衛、抵抗派は、(歓迎、受容派に変わっていかないまでも、自分が洗脳されていたことには十分気付いたようだった。「いろいろ悩みました」というのは「後で後悔するような洗脳」を受けていたためだろうと思ったし、「脱洗脳に至ることができた」というのは授業が洗脳ではなく、脱洗脳だということを認めてくれたものと解釈した。こうした結果が得られたのは授業という形態が持つ集団思考的要素が効果を発揮したと言えるのかも知れない。
★脱洗脳対象の分類と歓迎派
便宜上、脱洗脳対象を脱洗脳の難易さの程度順に次のように分類してみた。%数字は最後まで授業を履修し続けた学生の、脱洗脳が開始される以前の、おおよその割合を経験的に示したものである。
A 歓迎派 : 例えば始めから洗脳されていない(もしくは今まで洗脳されていたのを不快に思っていた)人 五%くらい
B 受容派 : すぐ脱洗脳される 殆どの人 四十%くらい
C 無関心/皮相的迎合 : 二十%くらい
D 懐疑派 : 三十%くらい
E 防衛、抵抗派 : 五%くらい
F 否定、反発派 : プロの活動家など確信派〇%
BからEについては既に説明済みで、Fは自明なので、ここでは歓迎派の言葉を幾つか紹介する。
◇自分の考えを言うのが怖くなったという学生 : 何年か前、ある教官と話をしているときに他の先生が何人かいらして、歴史教科書問題の話になったんです。先生方は全員反対派で、賛成派だった私と一対多で討論したんですが全然自分の考えを言わせてもらえなくて、「あなたは馬鹿だからそう(新しい歴史教科書に賛成する)なるんです」と言われました。かなりショックでした。しばらく自分の考えを言うのが怖くなりました。
これは十五年度の授業を一番喜んだと思われる(女子)学生からの個人的メールだった。この感想からは、現実に学生がおかれている大学という環境のおかしさと学生の嘆きが良く分かる。「かなりショック」というトラウマのせいか、始めのうちは私に対しても、どこまで話をして良いのか迷っている様子だった。他の先生たちとは全く異質なので何を話しても大丈夫と分かるまでに多少の時間がかかったのだ。学生にこんなショックを与える先生たちはなんと罪作りなことだろうと思った。この学生は、私の授業を水を得た魚のように生き生きと泳いでいた。この授業をとるように他の学生に勧めたりもしていた。
◇このような教科書で勉強したかった学生 : 歴史教科書問題について論じた先輩方のレポートは、納得できる点、どうしても受け入れられなかった点、共感できる点などがそこらかしこにあり、とても面白かったです。ただ気になったのは、当の「新しい歴史教科書」を読んだ人がどれだけいるのかということでした。
「新しい歴史教科書」採択反対の運動をしている友人がいます。この友人にその「新しい歴史教科書」を読んだのかと聞くと、読んでいないと答えました。何故読まないのかと聞いたら、「そうなのかもしれない、と洗脳されるから」と言いました。私は教科書問題が新聞の一面を飾りだした頃、近所の本屋で「新しい歴史教科書」を買ってみました。良い教科書だと、このような教科書で勉強したかったと思いました。
これも同じ学生からの感想だった。友人の「洗脳される」は脱洗脳されるのをを恐れた言葉だと思う。反対運動をしている人の中には自らを洗脳に弱いと認めている人もいるようだ。
◇マスコミと一般国民の間に存在する意識の乖離を思い知らされた学生 : 前年度のレポートを読み、何よりもまず感じたことは、ほとんど全ての文章が「我が国の日教組や大部分の歴史家が唱えてはばからないステレオタイプ、中国や朝鮮をはじめアジアの人々を虐げ苦しめた残酷な帝国主義の日本という視点」とは無縁の地平で展開されていることに対する意外さでした。
とりわけ、「歴史教科書問題について疑いの余地なくもっとも頻繁に取り上げられる南京虐殺を、大半の人がその存在の有無さえ議論の対象と成り得る、と考えている点」は、普段少なからぬマスコミが声高に喧伝する“世論”の内容とあまりにもかけ離れているという意味で驚くべきものでした。
もとよりこの話題に関してはマスコミの論説など常にマユツバの思いで受け止めていましたが、これら少数のしかし不特定の人々の意見に、改めてマスコミと一般国民の間に存在する意識の乖離を思い知らされます。巷に氾濫する教条的・ヒステリックな誹謗・中傷と異なり、ここに挙げられている意見からは「新しい歴史教科書」の本質をまず理解しようとする意思が如実に伝わってきました。
この感想からは、マスコミが声高に喧伝する“世論”の内容と懸け離れた別世界を発見した学生の驚喜が読み取れる。そういう学生には私の授業は精神が休まるオアシスのような役目を果たしていたのかも知れない。余談だが、この(男子)学生はこの時は二回生だったが、後期から私のゼミ生になった。
◆四 戦後教育からの脱洗脳
★歓迎、受容派の増加
授業が終了に近付くと共に(懐疑派の多くは歓迎、受容派に変わっていったので)歓迎、受容派は増加していった。元々からの歓迎、受容派は、益々脱洗脳度が高まった。歓迎、受容派の(脱洗脳の証となるような)言葉を紹介する。
◇戦争に関する事項の教え方には手を拱くのを嘆く学生 : 最初に特攻した人が西条出身ということだけは聞いたことがありました。かなりお年を召した先生からだったんですが、そのときはさほど気にしてませんでした。確かに同じ地元の子でも知ってる人はほとんどいないようです。今思い出せば慰霊碑もたってたような。
でもこれまでその先生以外からはそのことについて教えてもらったことはありませんでした。戦争に関することだからでしょうか、単純にも「戦争を美化する」という考えに結びつきかねなかったからでしょうか。
そういうのじゃなくて、ちゃんと教えてもらいたかったと思います。戦争に関する事項の取り扱い(教え方)には手を拱くのでしょう。触らぬ神に祟りなし?触らなくても、祟られなくても、誤解は生まれそうです。
この西条出身の(女子)学生は特攻慰霊碑のことを思い出したようだ。毎年十月二十五日に慰霊祭がある。私は何年か前にお参りしたことがある。慰霊碑は日本では一番早く建立されたそうだ。それでも戦後、何十年も経っていた。フィリピンの特攻顕彰館の方が早く建立されていた。戦後の日本にはこんなおかしな話には事欠かない。こんなことを無くすためにも脱洗脳が必要と思った。
◇扶桑社の歴史教科書にはパール判事についての記載があるので安心したという学生 : (「パール判事を語る」というビデオを見て)私は本当に歴史が苦手で、A級戦犯の事も東京裁判の事も何も知りませんでした。もちろん靖国神社に関するニュースで「A級戦犯」という言葉を耳にした事はありましたが、何の事だか全然分かっていませんでしたし、その時の私にとっては知らないままで放って置ける程度のものでした。
パール判事にいたっては名前も知りませんでした。パール判事の話を聞いた時、今までその存在を知らなかった事がとても悔しく思われました。十一カ国の中でただ一カ国だけと言う状態でも、最後まで日本の無実を主張してくれた人がいたなんてとても嬉しかったです。だから、日本のためにそんなにも頑張ってくれた人のこと、ちゃんと歴史の授業で習って知識を持っていたかったし、この講義で名前を聞いたときに「もちろん知ってるよ」って思いたかったです。扶桑社の歴史教科書にはパール判事についての記載があるようなので、ちょっと安心しました。
「その存在を知らなかった事がとても悔しく思われました」というように後悔をさせるような教科書は悪い洗脳書の条件を満たしていると思った。
◇平和を脅かした責任を一方的に押し付けたことを批判する学生 : 今回巣鴨プリズンとA級戦犯のビデオを見て、その中の意見に、「戦争という流れの中で今までやってきた。その最後にわれわれが居合わせただけである」というようなものがありました。確かにそうだと思います。彼らでなければ戦争は起こらなかったとはいえないと思います。
A級戦犯の罪は「侵略戦争を計画、遂行した」責任を問う平和に対する罪というものですが、パール判事の意見にもあるように、それでは戦争に勝った側にも言えることではないか。この戦争において、悪者だから敗戦し罪になるのではなく、敗戦したため悪者とされ、平和を脅かした責任を一方的に押し付けたもののように思えました。
◇戦犯の人たちの死を悼む人はいないと思っていた学生 : 巣鴨プリズンのビデオは色々考えさせられました。私は特に処刑された人たちの奥さんや家族がお焼香している場面が印象に残りました。戦犯と呼ばれる人たちにも心配する家族がいる、という当たり前のことにはっとしました。
それに気づかなかったということは、私は戦犯の人たちを無意識に悪い人、と決めつけ、その死を悼む人はいないと思っていたのかもしれない、と思うと恥ずかしいです。身近で日本のために頑張っていた夫たちを見ていた奥さんたちは、彼らが戦争が終わったとたん戦犯と言われていた状況をどんな思いで過ごしていたんだろうと思いました。
「と思うと恥ずかしい」と後で恥ずかしい思いをさせるような教科書も悪い洗脳書の条件を満たしていると思った。
◇先生が洗脳されている危険性に気付いた学生 : 学生がメディアによって洗脳されていれば、教員も洗脳されている、ということを聞き、はっとしました。私たちは先生から教育をうけているのであって、その先生が洗脳されていれば学生も洗脳されていることに気づかないのではないか、と。
でも、今私たちはこの授業でその洗脳に気づくことができ、たくさんの人の正直な意見を聞いたりすることによって、自分の気づかなかったことや、自分の考えをもつことの大切さを学びました。現代において最も必要とされているのはこのようなことなのではないでしょうか。
◇東条英機は命を持って償ったという学生 : 東条英機が死刑判決を受けるシーンを初めて見ました。そしてその少し前に同じビデオの中で見た、東条夫人を思い出しました。彼女は一体どんなことを思ったのでしょうか。
以前読んだBC級戦犯の遺書の中に「お父さんは何も悪いことはしていない。ひたすら国のために戦ってきた。それなのに命を奪われるのは無念なことだ。だが今ここでお父さんが命を惜しまず捨てていけば、お前達が平和な世の中で生きていけるのだと信じて死んでゆく」という内容のものがあったことを思い出して少し涙ぐみました。
東条英機は確かに第二次世界大戦の責任者の一人です。それに異論はありませんし、確かに批判されるべきだったのでしょう。ただもう彼は命を持って償いました。これ以上A級戦犯だの、日本を戦争に引きずり込んだ張本人だのと責められなくともよいと思うのです。彼らの死によって今私たちは平和な世の中に生きていられるのですから。
これは先に紹介した「授業を一番喜んだ」学生からのものであった。彼女は良く知っていたし、良く調べる勉強家であった。一番まともなことを述べてくれるので大いに助かった。
◇洗脳が世論を作るという学生 : 教職課程の授業をとっていて、今日実務の高校教員の話を聞いていて、教科書問題について「新しい歴史教科書」への反対論文を書いたら県にすぐ採用されたと聞きました。その教師は扶桑社の教科書は良いものと悪いものを区別するのによい材料と言われ、少し反感を覚えました。結局、すべての問題を通じて、世論は洗脳が作っているものであると思いました。
「扶桑社の教科書は良いものと悪いものを区別するのによい材料」という発言は教職課程の授業の雰囲気を良く伝えるものであった。「少し反感を覚え」ただけでも良しとしたい。
◇特攻隊員を英雄だと思う学生 : 他の人の感想の中には、「特攻隊は英雄ではない」とありましたが、私は「英雄」といえるのではないかと感じました。青春真っ盛りの青年がすべての欲望を捨て、ある人は国のことを想い、またある人は愛する家族、恋人のことを想い、またある人は戦後の日本を思いながら出撃して行かれたのです。
特攻隊という制度は人の尊厳を無視し、非道な作戦であったと思うので賛成できませんが、私は日本人として特攻隊員の方々をすごいなぁと感じています。出撃の何ヶ月も前から特攻するための厳しい訓練を耐え抜き、自らのためではなく、国のため愛する人々のために自らの命を捧げた方達、このような特攻隊の方々を、私は立派な英雄だと思います。
特攻隊のことを洗脳されていたか否かで評価するのに比べて、「自らのためではなく、国のため愛する人々のために」などの犠牲的精神について評価する方がはるかに健全と思われた。
◇特攻隊から愛国心を学んだ学生 : 私は今まで、愛国心と聞くとすぐにナショナリズム→戦争を連想していました。でも、今回授業を受けたり、書き込みを読んだりして、愛国心とは家族や恋人、友人など人を愛する心が根底にあって、それに故郷や国に対する愛着や誇りなどが加わったものなのかなと思うようになりました。
そういう意味で、愛国心は人にとって普遍的で、人であれば本来誰もが持ち得る素朴な感情ではないかと思います。最近、国に誇りが持てるように、愛国心を育てるような教育をするべきだという意見がよく聞かれますが、それは本来当たり前のことなのかなと思いました。
「本来当たり前のこと」が当たり前でない、これが洗脳社会の特徴だと思った。そうは言っても、洗脳されている人には、洗脳されていない(もしくは脱洗脳した)人が「当たり前でな」く見えるのだろうが。
◇特攻隊の精神を尊敬している学生 : 先日テレビで日本の自衛隊に外国の人が強い脅威を抱いている映像を見ました。そのテレビに出ていたのは老人の方だったのですが、その中で「特攻攻撃に衝撃を受けた連合国は、無条件降伏を受け入れたにも関わらず、日本はいざとなると何をやらかすかわからないという、警戒感を抱かせることになりました。多くの国の軍関係者に、自衛隊を特別視する傾向が見られるのは、特攻隊による影響なのです」とおっしゃっていました。
これを聞いて、日本は「特攻隊」と言う存在によって、他国にある種の警戒感を抱かせる、端的に言うと抑止力が働いているのだと感じました。そして、「特攻隊」は日本に影響を与えただけではなく、戦後の世界に対しても影響を与えているのだなぁと思いました。
「特攻隊」の方々は「いのち」の重さを知っていたからこそ特攻隊に志願したのではないでしょうか。多くの大切な「いのち」が助かるのならば、自分一人の「いのち」はおしくない。「自分さえよければいい」ではなく「みんなのために」、そういった「特攻隊」の方々の精神を、今私は本当に尊敬しています。
「特攻隊」が他国に警戒感を持たせ、抑止力をおよぼすという話は初耳だった。ともあれ、日本が再生した暁には、特攻は武士道精神の一つとして、忠臣蔵と同様、永遠に語り継がれていく日本神話の一つになると思われる。
これらの感想は、授業が終了に近付くと共に歓迎、受容派は増加していき、彼らの脱洗脳度が高まったことを示している。また「パール判事を語る」と「巣鴨プリズン解体」は脱洗脳に最も威力を発揮したビデオだったことが良く分かる。
★逡巡派の脱洗脳が進む
期末レポートの課題は「自他の洗脳(による先入観)に気づく、気づかせる(もしくは脱洗脳させる)には」とか「身の周り(大学を含む教育界、メディア、政界、政治的運動、法曹界)に見える洗脳(されたような状態)について」のように脱洗脳について考えさせるものであった。
戦後教育からの脱洗脳(特に逡巡派の脱洗脳も含めて)がどの程度達成されたかはこれらの期末レポートから判断することができた。それらを紹介する。
◇「日本は悪い」という洗脳が消えた学生 : 恥ずかしながらこの授業を受けることで、「つくる会」の教科書についての議論の内容を初めて知った。それには一方には歴史的事実の信憑性の有無や自国の誇りを持つべきだといったような意見、そしてそれとは反対に戦争自体を反省すべき、諸外国との関係を考えなければならないといった様々なものがあった。
私はこうした情報を知り、初めて歴史教科諸問題について考えたのだ。そして出た結論というのが「つくる会」に私は賛成というものであった。様々な視点からの情報を手に入れ、考えることで自分なりの結論というものがわりと簡単に出たことに私は驚いた。
この結論が出たときというのは、私のそれまでの「日本は悪い」という洗脳が消えた瞬間であったように思う。私たちは、それなりの情報さえ手に入れることができれば脱洗脳できるのだということがわかったのだ。
「考えることで結論が簡単に出た」「結論が出たときは洗脳が消えた」「情報さえ手に入れることができれば脱洗脳できる」などの言葉は脱洗脳はそんなに難しいものではなく、単にきっかけさえあれば良い、そのきっかけをどう与えるかが問題なだけで、授業は少なくともそのきっかけを与えたことを示している。
◇隣国の指導者の洗脳による被害から学ぼうという学生 : 中国では、あらゆるところに毛沢東の肖像画が掲げられている。また、今でも天安門広場に設けられた記念堂の中に、その死体が安置されている。毛沢東は、中華人民共和国の成立を導いた偉大な指導者である、と同時に建国以来、最も大きな被害をもたらした罪人でもある。
しかし、その大きな被害について、これまでほとんど話題にされることはなかった。国とその指導者の洗脳による被害をとおして、私たち日本人は、学ばなければならないことがたくさんある。
「国とその指導者の洗脳による被害をとおして、私たち日本人が学ばなければならないこと」は何であろうか。こんなことではあるまいか。日本は洗脳社会であるが、洗脳国家ではない。しかし中国は一党独裁洗脳国家である。「中国は一つ」であることを洗脳し、共産党の功績を過大に洗脳している。毛沢東の罪業は周知のことであるが、共産党支配にとって都合が悪いので適当にごまかしている。その代わりに旧日本軍の残虐さを教科書や記念館で宣伝している。全て国による洗脳である。その洗脳が行き過ぎたために引き下がれなくなっているのが、靖国問題であろう。洗脳国家の政策の失敗のつけを、中国市場という餌を人質に、(自虐)洗脳社会の国に押し付けようとしている。一方(自虐)洗脳社会では洗脳国家への協力者が少なくない。以上は靖国問題の洗脳史観的解釈である。
◇最終的に洗脳だったのだと気づいた学生 : 私がこの授業を通して、おそらく通ったであろう変化の道を整理してみると、次の通りである。まず、無知であることを知り、情報を鵜呑みにしたためについてしまった先入観を持っているということに気づき、(ここでしばらく情報不信になったのだが)自分の持つ先入観と違う考えを持つ人と出会い、または情報を手に入れ、授業やこの掲示板の中で意見交換し、同じように洗脳によって先入観を形成してきた人同士で交流を深めていく中で、何かが違う、と少しづつ感じ、最終的に洗脳だったのだと気づいた。
この感想は脱洗脳過程の典型的なパターンを述べている。まず「先入観に気づき」「同じような人同士で交流を深め」「少しづつ感じ」「最終的に洗脳だったと気づいた」 これは掲示板を利用した授業が脱洗脳に大変有効だということを示している。
◇指摘してもらって初めて洗脳されている自分に気付いた学生 : 私達の身の周りには、洗脳しようとしている人、メディア、物がたくさん存在している。私はこの授業を受ける前まではその存在さえ知ることはなかった。そして、この授業を受けてその存在を知った今でも洗脳されていたりする。自分では気づかなかった。しかしこの前先生から指摘してもらって初めて洗脳されている自分に気付いた。
きっかけは、「人から指摘された」ことである。洗脳する存在が人ならば、また洗脳を解くのも人なのか。ある就職説明会の最中に、私は隣りの友達に「なんか洗脳されよるみたいやね」と話しかけた。そう言った自分に後で驚いた。今までそんなこと思ったことなかったのに。そう思ったきっかけは、頭の中に前、先生から指摘された一言が残っていたからだ。その言葉がすんなり洗脳されようとしている自分にストップをかけた。
「先生から指摘された一言が残っていた」という言葉は一言の指摘でも脱洗脳のきっかけになる得るということを示している。
◇ある考えにいたるには背景やプロセスがあることに気付いた学生 : 授業の感想を電子掲示板に書き込んで、先生と生徒間、または生徒同士が、各々の考え方について討論していくといった今回のような授業形態は初めての体験だった。時間がたつにしたがって、先生の返信コメントに「だんだん洗脳が解けてきましたね」というのが増えていたような気がする(自分への返信でないあたりが残念であるが)。
やはり、自分を主張しつつも、違う考えの人に触れ、どうしてなのか考えていくことが重要なのだと思われる。私も最初は、この授業を続けていく自信がなくなりかけたくらい、自分以外の人の意見に関して疑心暗鬼になっていた。洗脳を解こうとしてるのか逆に洗脳されてるのか、どんなに考えても自分の考えは洗脳の域を出ないばかりか、ますます凝り固まった考えになっていっているのではないか。
でも、疑いつつも、自分の考えが人に感化されていくのが悔しくて、いろいろ調べることもした。それしか思いつかなかったし、今までの自分の知識だけではとても太刀打ちできなかったからである。そして、ある人が、ある考えにいたるにはそれなりの背景やプロセスがあって、それを垣間でも見ることができたら、自分の見聞も広がるのではと考えた。
ここでも「先生と生徒間、または生徒同士が討論していく」授業形態の有効性が確認された。「自分以外の人の意見に関して疑心暗鬼」「どんなに考えても自分の考えは洗脳の域を出ない」と迷ったあげく「自分を主張しつつも、違う考えの人に触れ、どうしてなのか考えていくことが重要」に到達したと思われた。
◇多くの洗脳は偏りを持つ媒体をとおって加工されるという学生 : この授業を受けて、今まで考えていなかったことを考え、またそのテーマに対するいろんな人の直の声を聞けたことは大変勉強になりました。どうしても意見が人の手に渡り加工されるとその人の概念が入り偏る恐れがあるからです。多くの洗脳はそうした偏りを持つ媒体をとおって彼らの都合のいいものに加工された物によって起こりうると思います。
歴史教科書問題においては、この問題をテレビでやっていた程度の知識しかない人はその報道における「戦争美化」や「無理やり採択させた」などの少量の情報を鵜呑みにした後、反対する団体の映像を見せられ、深く自分で検証することなくこの問題を位置付けています。
誰が、何の目的で、この教科書のどの部分について議論しているのかを知ろうとする人は、このような加工された情報に踊らされることなく、自分の考えによってこの問題を読み取り、またその裏にある事実と違っている部分を知ることができると思います。
「意見が人の手に渡り加工されるとその人の概念が入り偏る恐れがある」のは避けられないので、そうした偏った情報を鵜のみにしないことが肝腎であろう。
★逡巡派の脱洗脳が続く
◇洗脳は思考停止の結果という学生 : 洗脳によって思考停止し、感情論だけでものを考えていると考え方の視野が狭くなる。このような洗脳状態から抜け出すには、自分の考えに囚われず、他の人の意見を素直に聞いてみる、ということができるかどうかだと思う。自分が洗脳されていることに気づくかどうかは結構簡単な問題だと思うのだが、朝まで生テレビや、過激な教科書反対運動をしている人たちを見ると、その難しさを感じる。
この授業で他の人の意見を見ていて、洗脳に気づいたとか、考え方が変わったという人はよくいるので、若い人の方が考え方に柔軟性があるのだということは思うが、年をとっても人の意見を真剣に聞くという姿勢は失くしたくないと思う。
「洗脳によって思考停止し、感情論だけでものを考えている」ことは左系新聞に多い。実際、左系新聞は読む価値は少ない。読まなくても、題名だけでどういう意見か想像できる。それでも読むのは、どんなおかしなことを言っているかに関心があるからで、言っていたら、そのおかしさを学生向けに話題にすればメディア・リテラシー教育に役立つことがあるからである。
◇洗脳に気づくことができたのに、そこから抜け出すのに苦労していた学生 : まず初めに、洗脳される人というのは、無関心であることに気づきました。無関心な人は、ただ雑誌や新聞やテレビなどの情報を鵜呑みにして、それ以上の情報をとりいれないために、どんどん洗脳されていきます。そのうえ、そのようなメディアを使った情報操作に、知らず知らずのうちに加担しているのです。実際、私も、そのうちの一人でした。まさか、自分が情報操作に積極的ではないにしろ、加担していたとは、驚きでした。
次に、洗脳されやすい人は、視野が狭く、物事を多角的に見られないということに気づきました。私は、無関心な人ほど、視野が狭く、物事を一方向からしか見られない傾向にあると思います。また、無関心が無知を呼び、さらに、洗脳を呼んでしまうのだと考えています。次に気づいたことは、洗脳されてしまっている人は、感情論ばかりを持ち出す傾向にあるのではないかということです。洗脳されているであろう人々は、物事の主張や反論に感情論ばかりを持ち出して、説得力もなければ、論理的でもない意見を、繰り返し論じるように思います。私もそうなのかもしれません。
この授業を受けながら、自分との討論を繰り返していました。洗脳とは、何なのか、必死に考え、ときに、苦しみました。「真っ白な心を持てない人ほど、長時間苦しむ」というコメントを見たとき、そうかもしれないと思いました。洗脳に気づくことができたのに、そこから抜け出すのに苦労していたのです。一つの洗脳から解き放たれたのに、新たな洗脳にかかってしまうことを恐れていたように思います。
まず「情報操作に加担していたとは驚きでした」とあるが、これは「情報操作に加担していた」ことを分からせることは洗脳に気付く有力な動機になりえることを示している。例えば、「貴方は情報操作に加担したことはありませんか」とたずねて、「ありません」という応えの後、「このような感想を述べたことはありませんか」とたずねるというのはどうだろうか。「洗脳されてしまっている人は、感情論ばかりを持ち出す傾向にある」も役に立ちそうだ。感情論を持ち出す人にこのことを突き付けてはどうだろうか。「洗脳とは、何なのか、必死に考え、ときに、苦しみました」は脱洗脳過程はある程度の苦しみを伴う可能性が高いことを示している。脱洗脳をまた新たな洗脳かと迷うからのようなのでこれは何人かに共通する問題のように思われた。
◇ショック療法によって洗脳はかなり解けてきたという学生 : 宗教的に洗脳された人を仮にAさんとして、もし否定してしまえば、Aさんが壊れてしまうかもしれません。精神的な苦痛を取り除いてくれたモノを否定して、変人扱いしてしまうことは、いまのAさんすべてをも否定することに成りかねないからです。
ですから、まだ洗脳にかかっている人の周りにいる脱洗脳に成功した人間は、口でただその人を否定するのではなく、付き合っていく中で、相手が自分の考えに疑問をもつように、長い目で見守ってあげることが最善ではないでしょうか。また、痛い目を見て、自分の洗脳に気づくことが、脱洗脳には即効性があり、もっとも効果的だと思います。
わたし自身、この授業を受けることで、今までのしつけや教育、メディアの影響を受け、洗脳されていた部分があったと知ったときには、ショックで、最初は信じられませんでした。しかし、次第にメディアの裏側に意図があるかどうか、信じていたことが本当に真実だったのかどうかを疑うようになりました。このようなショック療法によって考える機会があったおかげで、わたしの洗脳はかなり解けてきているように感じます。
「精神的な苦痛を取り除いてくれたモノ」が洗脳であった場合はどうか。それを否定するとその人がこわれる可能性がある。ここで、三「躊躇い(逡巡)派の顕在化」で紹介した「ものすごい不安と孤独感でいっぱい」という女子学生のことを思い出した。後で述べるように、この感想はその女子学生の悩みと彼女がとった行動を理解するヒントを提供してくれた。
◇暗い未来を見せ付けられたという学生 : 自分でこれは良いこと悪いことと見分けられる力を、勉強することで身に付けるというのは正論であるが、私には空論、理想論にすぎないと思っている。それくらい自分でどうにか出来るという域を超えてしまっているのだ。私たちは弱者であるということになる。今回の授業でそのことを痛感してしまった。暗い未来を見せ付けられた瞬間であった。
「暗い未来を見せ付けられた」というこの(女子)学生の言葉は固く信じていたことが裏切られたことを感じる時の言葉のようだった。洗脳に気付いた結果、「精神的な苦痛を取り除いてくれたモノ」を失いかけたのか。それはイデオロギーのようなものだったのかも知れない。赤旗に紹介されることもある組合活動に熱心な教員のゼミ生だったと思う。
これら、期末レポートの言葉から、(逡巡派を含めて)戦後教育からの脱洗脳がかなり達成されたと判断できた。期末レポートの課題はそれらの言葉を引出すのに効果があった。
★現在の日本も(北朝鮮のように)洗脳された国家
学生のレポートの中に「現在の日本も、刷り込み(初めて触れた情報を修正できないこと)による洗脳から脱していないので、(歴史認識に関しては)充分に(北朝鮮のように)洗脳された国家である」と結論つけるものが二編あった。問題の認識と分析が見事なので部分的に引用しながら紹介する。
レポート一 現在の日本も、刷り込みによる洗脳から脱していない
☆学生のレポートは次の文から始まった。
「身近にある洗脳を探してみた。身近な人物として、家族の話を聞くことにした。まずは母に靖国神社参拝問題や東京裁判について尋ねてみた。すると、驚くべきことが判明した。なんと母は、メディアがテレビや新聞などで発信している内容と全く同じことを、全く同じ調子で語り始めたのである。その光景は異様だった。まるで母がメディアに操られているようだったからである。
私は「早く気づかせてあげたい」と思った。これは母の話を聞いた私の正直な感想だった。ここでいう「気づかせる」とは、歴史的事実の正誤についてではなく、日本人はメディアや戦後直後の勝利国である連合国によって作られた国家とその歴史観に洗脳されているということに気づかせることである。
また、授業を受けて私が出した結論は「洗脳とは、メディアなどからの情報を何の疑いもなく、そのままを信じ(鵜呑みにし)、それを自分の考えとすること(そしてそれが全てであると思い込むこと)」である。私の母は、まさに洗脳されている状態だった」
まず「母がメディアに操られている」「まさに洗脳されている状態」など、家族という身近にある洗脳に着目したユニークさを評価したい。この学生は女子学生だったので、仲の良い母と娘の日常的な会話が想像できた。父と娘、父と息子、母と息子ではこのような会話が容易に成立するのだろうか疑問に思った。
☆レポートは続いた。
「そこで、私は靖国神社参拝の本質的な問題(政教分離の問題ではなく、東京裁判で裁かれ、有罪となり絞首刑にされたA級戦犯を奉ってある靖国に首相が公式で参拝に行くことが、中国や韓国をはじめとする東南アジア諸国の感情を逆なでするとされていること、しかし、その東京裁判とは戦勝国が敗戦国を一方的に裁き、国際法を無視した違法な裁判であったことなど)を母に話した。
そこで私は第二の驚くべき事実を目の当たりにした。一通り話し終えた私に、母は異端児を見るかのような眼差しを向けていたからである。私は、さらに洗脳されている状態をあらわす表現に「異なる考えを感情的に排除し、受け入れようとしないこと」という言葉を付け足すこととなった。
母は、私が東京裁判におけるパール判事の話をしても、決して受け入れようとはしなかった。国際法の話をしても、受け入れなかった。ただ、感情的にそのようなことは言うべきでない、日本人として日本が過去に犯した過ちを償わなければいけないというような趣旨を繰り返すだけであった」
「母は異端児を見るかのような眼差しを向けていた」は興味深い言葉である。きっとこの母は娘が何か悪い思想に洗脳されたのかと心配になったのだろう。愛媛大学にはとんでもない先生がいると思ったかも知れない。この会話から母の方が娘よりはるかに深く洗脳されていたということが分かる。娘の方はこの授業を受ける前でもそんなに洗脳されていたとは思えない。他にも両親が反対運動をしている学生がいた。もしかしたら、今の学生より親の世代の方が洗脳は深いのかも知れない。
☆レポートを続ける。
「次に、私は弟に意見を求めることにした。弟は高校生なので、彼の意見を聞いて、現代を担っている母の世代とこれからを担う私たちの世代とのあいだの考えのちがいや共通する点を発見したかったからである。私は母に尋ねたときと同じように靖国問題や東京裁判についての意見を求めた。
これは予測していたことなのだが、全く知らないのである。靖国問題がどのような問題であるか、東京裁判とはどのような裁判であるかはおろか、名称すら知らないのである。ましてやA級戦犯などは知る余地もない。しかし、このことにはさほど驚かなかった。なぜならば、私自身も高校生のときには何も知らなかったからである。
そこで、私は自分自身の経験も踏まえ、母と弟の様子を見て、自分なりの仮説を立ててみた。高校生のときには靖国問題や東京裁判についての知識がほとんどない。しかし、母の年齢にはとても強い歴史に対する考え、信条をもっている。
二人の世代の間である私の世代=二十代頃になりメディアが発する歴史的事実についての情報に触れ、自分の見解にするのではないか。従って、メディアの言葉や雰囲気と全く同じような考えをもつ日本人が増えるのではないか。実際、私も大学に入学しニュースなどを見るようになり、キャスターや番組の意見や意図をそのまま自分のものにしていた。私もこのような講義に触れることがなければ、洗脳されたまま年を重ねていたかもしれない」
「二十代頃になりメディアが発する歴史的事実についての情報に触れ、自分の見解にするのではないか」という仮説は間違っていると思う。それは、もしこの女子学生が授業に触れないまま、彼女の母親の年になった時、同様な会話がありえるとは一寸想像できないからである。多分、母親の年代の方が自虐教育の程度が高かったのではないだろうか。そういう例は他にもあった。十六年度授業の夜間学生に脱洗脳するまで二ケ月もかかり、相当悩んだ五十台の看護婦さんがいた。この女子学生の母親がもし授業を受ければ、似たようなことになったのではないかと想像する。
その看護婦さんは期末レポートの序文で次のように語っていた。
「今日の日本人の「歴史の自虐史観」や「愛国心」の欠如は、戦後のアメリカによるマインドコントロールが今なお効果を保っているためだということが、授業の当初私には理解できなかった。それほど歴史に無知であったといえる。それは日本という国に生まれ、暮らしながら自国について何も知らなかったということで、「日本人としての意識」「愛国心」は言わずもがなである。知らなかったことは、自分で学ぶしかない。
週一回の授業で紹介される文献や、他学生の意見に触発されながら、最初は自分の立場(従来の歴史概念)を正当化するための文献を中心に二ヶ月を過ごした。(中略)問題なのは史実を巡る論争があること、歴史学の専門領域においても一つの結論を出しえていないことだった。(中略)後半は、私にとっては「右」寄りの意見・文献に触れるようにした。
そのひとつに長谷川慶太郎の『軍事的頭脳を持っているか』がある。その冒頭に「自国の主権を外敵からの侵害に対して守り抜くことは、それこそ、いかなる国家にも求められる基本的権利なのである」
ということばがあった。(中略)国民に基本的人権があるように国にも基本的権利としての自衛があるということ、私にはその視点が全く抜け落ちていたことを気付かされた。以上が、私がレポートに取りかかるまでの経過である」
「自分の立場を正当化するための文献を中心に二ヶ月」というのは防衛派の典型であり、事実、彼女はそう振る舞った。しかし「史実を巡る論争があること」に気付いた。
「後半は、私にとっては「右」寄りの意見・文献に触れるようにした」は自ら脱洗脳へ向かったということであり、後は説明を要しない。
その看護婦さんは授業の最後に次のような感想を残してくれた。
「看護者の倫理綱領では、看護者は国籍、人種・民族、宗教、信条、思想…に関わらず、対象となる人びとに平等に看護を提供することがうたわれています。しかし、対象にそれを求めないことと自分たちがそれらに関わる意見を持たないことは違います。この授業を通して、遅ればせながらそのことに気付くことができました。一般の人々にもこの授業で取り扱ったテーマについての情報を提供する場を設けていただきたいと思います。夏期大学などはいかがでしょうか。」
「対象にそれを求めない」は「対象を属性によって差別しない」の意であろう。「一般の人々にもこの授業…情報を提供する場を設けていただきたいと思います」というのはうれしかった。夏期大学などが実現するはずはなかったが。
☆話をレポートの続きに戻す。
「しかし、私が危険だと思うのは日本人がメディアの流す情報を鵜呑みにすることではなく、その情報を微塵も疑わないことである。そして、一度受け入れた情報以外の見解に出会うと感情的に拒否することである。それは洗脳以外の何でもない。通常の思考回路では、自分とは異なる考えに接すると、とりあえず否定はするものの後になって考えてみたりするが、歴史に関する問題においては「感情的に」断固拒否の一点張りである。
それは、高校生が何も知らないこと即ちメディアなどの偏った情報が正しいのかどうかを判断する知識が個人のなかに無に等しい状態であることが大きな原因となっているのではないだろうか。無知の状態から洗脳することはさほど難しいことではないだろう。そして、初めて触れた情報に洗脳された場合、その考え方しか知らないので洗脳状態から抜け出すことも容易ではないだろう。
このように、日本人の歴史観を養うという点において日本という国はお世辞にも恵まれた環境にあるとはいえない。私たちは北朝鮮を洗脳国家だというが、日本も歴史においては充分に洗脳国家であるといえるのではないか」
「無知の状態から洗脳することはさほど難しいことではない」は洗脳が低学年ほど効果的なことを指している。事実、従来の自虐教育は意図的に中学生あるいは小学生から行われたようだし、それに対抗する「つくる会」も中学生を対象にしたことは理にかなっている。「日本も歴史においては充分に洗脳国家である」は誤解である。日本は北朝鮮とは異なり、国家が洗脳しているのではないので「洗脳社会である」が正しい。これはその授業で一番面白いと思ったレポートであった。
レポート二 国歌を大声で歌う先生のほうが何倍も考えていた
☆学生のレポートは次の文から始まった。
「私は、広島県呉市出身者です。私が当然であると思い込んでいたこと、それは、月一回の平和学習+夏休みの平和集会と、日の丸掲揚・国歌斉唱が戦争を奨励するものだから反対すべきであるという先生の教えです。私が通っていた小中学校では、毎年八月六日に平和集会というのがありました。そのときにやることは、戦争の悲惨さばかりを強調したような映画を全校生徒が集まって体育館で鑑賞することでした。
その中で一番心に残っているのが「白旗の少女・龍子」という沖縄戦を舞台にしたものでした。小学校一年生のときに見たのですが、空襲で避難している母親におぶわれた幼い主人公の弟の首が、爆撃によって吹っ飛ぶシーンを鮮明に描くなど、かなり衝撃の強いものでした。また、最後のシーンでは龍子が、暴力的な日本兵の手を逃れ、白旗を持ってアメリカ兵の所へ行き、そのアメリカ兵に抱きかかえられ泣きながら大喜びするというエンディングを迎えます。
私は当時六歳で、戦争になると人がたくさん死ぬ、というくらいのことは分かっていたとおもいますが、この映画で描かれていた戦争は悲惨以外の何者でもありませんでした。そして、龍子の弟を奪う爆撃をしたアメリカ兵よりもなかなか降伏しようとしないで犠牲者を増やしたバカで残忍で愚かな日本兵の姿ばかりが脳に焼きついたのを覚えています」
最近、フトした縁で広島県呉の潜水艦基地にある海上自衛隊「潜水艦くろしお」に乗せてもらった。責任感に満ちあふれた「潜水艦救難艦ちはや」艦長が、広島県では肩身が狭いことに触れた時、このレポートのことを思い出した。小学校一年生を対象にこのような映画を見せるほど「無知の状態から洗脳する」を地で行っている県教育関係者の洗脳状態に驚かされる。
☆レポートを続ける。
「学校側の戦争に関する洗脳は幼いころから始まっていました。その映画の大まかなストーリーは忘れてしまっても、幼い脳は衝撃だけをしっかりと記憶して今でもしっかりと息づいています。こうなると、北朝鮮の洗脳映画を一概に大げさだと笑えないと思います。
今、私はたまたまこの授業で洗脳を考える機会があったから、こうしておかしさに気づけたのであって、そういう機会がなく、あの場所にいたほかの児童五百人あまりはもしかすると幼いころに焼きついた感覚のみを頼って生きているかもしれないのです。それは洗脳というしかない状態で、その情報しか与えられていないからそれを信じている北朝鮮の人の一糸乱れぬ行進と同じくらいの危うさを感じてしまいます」
「その情報しか与えられていない」「北朝鮮の人の一糸乱れぬ行進と同じくらいの危うさ」は明らかに誇張だろう。北朝鮮とは異なり、日本は国策として洗脳しているわけではなく、脱洗脳のきっかけとなるメディアや「つくる会」などの活動も細々としてだが存在しているからである。
☆レポートは続く。
「また、もう一つの洗脳の事例として国旗掲揚・国歌斉唱に多くの先生が反対の立場をとっていたことがあげられます。私が高校に入学したころ、学校は国旗掲揚・国歌斉唱についてもめにもめていました。そんな中で平成十一年に広島県の世羅高校の石川敏浩校長が卒業式の前日に自宅で自殺するという事件が起こりました。
この事件は、本当に衝撃的でした。この問題にも大して興味のなかった私ですが、世羅高校の事件が起こる前にも、自分の中学校の校長が日の丸問題で(公には言われなかったかもしれないが)辞任したりしていたため、私の中では気が付かないうちに国旗掲揚・国歌斉唱を強制する国や、教育委員会はすっかり悪者になっていました。
別に国歌を歌うことがそのまま戦争につながっていくなんてぜんぜん思っていませんでした。けれど人の死を引き合いに出され、それが美談として語られようものなら、大して考えていなかった私の脳は簡単に洗脳されたのです。
卒業式などで国家斉唱のときに何が何でも起立しようとしなかった先生達。その先生を見て、しっかり自分の意見をもっているのだなと思い込んでしまいました。いつのまにか「国」が悪で、それに対して少数派の「教員達」が正義として戦っている。そんな図式が出来上がっていたように思います。
本当は、そんな風潮の中で起立して国歌を大声で歌う先生のほうがこの問題に対して何倍も考えていたのでしょう」
「人の死を引き合い」も洗脳の定石と思われる。残虐さ、悲惨さは人に理性を失わせるのに一番効果的である。「そんな風潮の中で起立して国歌を大声で歌う先生」がいたようだ。そういう先生たちの話を聞きたいと思った。
★脱洗脳が進んでも洗脳の残滓は残り続ける
本人は脱洗脳したと思っていても、フトしたことで、脱洗脳が不完全であることに気が付くことがある。つまり脱洗脳が進んでも洗脳の残滓は残り続けるようである。でもそのことに気が付くだけでも、脱洗脳の大きな成果だと思う。時間がたつにつれて洗脳の残滓は消滅すると期待したい。そのような学生の長文の感想を部分的に引用しながら紹介する。
感想のタイトル 洗脳の残滓。自虐教育の影響、恐るべし
☆序論を始める。
「「日本人にしかられるからというんで学校へ行けた」を読んで感じたこと。私には洗脳の残滓がある。それまで私は結構脱洗脳できたんじゃないの、と自負していた。確かにメディア等を鵜呑みにすることは無くなったし、批判的に読み取ろうともしている。
でもこの記事を読んで歴史問題に関してはまだ洗脳から抜け切れていなかったんだと感じたのだ。だから洗脳の残滓があると思った。で、なぜ残滓があると思ったのかと言うとこの講義を半期受講した今でも、この記事を百%支持するということ、つまりこの記事を読んで違和感を全く感じないと思うことができないからである。
そう思うのは、物事を多角的に批判的に読みとることに注意するようになった今、知識不足の状態でどちらが正しいとか正しくないとか、自分の意見はこっちよりだとか軽々しく言いたくないと思うからだ。
でも、実はそれだけじゃないことに気付いてしまった。確かに私はいろいろな角度からの意見を知ってからでないと判断したくないと思っている。コレに嘘はない。けれど、潜在的な意識とでもいうか、無意識の中にこの記事を受け入れることに積極的でない部分が少なからずあると気付いたのだ」
「日本人にしかられるからというんで学校へ行けた」は一章の中の「マスコミ報道やインターネット記事の掲示板への紹介」で紹介した「韓国併合における創氏改名問題を解説している記事」のことである。
☆本論が続く。
「私は何処で違和感を感じたのか。創氏改名が朝鮮式戸籍の「姓」「族譜」を廃止したものではない、まではそういった流れだったのかと頭にすんなり入った。問題はコレ以降の記事内容である。これ以降、創氏と改名の流れをおっているだけなのだが日本を擁護しているのではと疑えるような記述の存在を感じたのだ。その歴史に関してよく知らないのでこの流れが正しいのかも、もしかしたらどこか間違っているのかもわからない。どっちつかず。どっちつかずのはずなのに。
著者は創氏と改名の歴史に通じておりその事実を流れに忠実に述べただけだろう。以前の私なら歴史を歪曲しているに違いないと決め付けただろうが、授業によって、新聞によって洗脳されていたことに気付けたのでこう考えられるようになったのだと思う。なのに感じる違和感。創氏と改名は強制か否か、あたりから少しずつ違和感を感じ、親日的であった戦前の朝鮮人、朴大統領は日本の善意を認めていた、ではその全てに違和感を感じた。
また「親日的」「強制ではなかった」「改名者は精神的にも日本人になりきろうとした知識人などが多かった」といった記述にも。その歴史の流れを踏まえても、日本擁護のようにも見えてきて違和感を感じてしまうのだ。何の根拠もない。だって私には創氏と改名に関して殆ど知識がないのだから。なぜか違和感を感じその歴史の流れを踏まえても、日本擁護のようにも見えてきてしまうのだ。
そう思えてしまうのは自虐的歴史教育の賜物にちがいない。強制、無理矢理併合した、差別、とにかく日本が悪い悪い、といった歴史を学んできたから、日本をかばっているようにとらえてしまい、その考えを受け入れることにちょっと消極的なのだ。
日本の歴史教育のなかに潜む洗脳に気付いたというのに、それなのにまだそういった感を捨てきれずにいるのは、教育と言う刷り込みによる洗脳から無意識的な部分が完全には解き放たれてはいないということだろう。洗脳の残滓。自虐教育の影響、恐るべし」
この学生は「日本を擁護しているのではと疑える」記事のほとんど全てに無意識的に違和感を感じている。これは日本側から見る態度そのものを否定している、つまり立脚点を喪失している。意識的な認識としては洗脳から脱したが、無意識的な立脚点は洗脳されたままなのかも知れない。意識的な認識と無意識的な違和感の混在はいつまでも続くとは考えにくい。本人も洗脳の「残滓」と言っている。時間が解決するだろうと私は楽観している。
☆最後をこう締めくくった。
「麻生氏の発言「当時朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと、名前に「金」などと朝鮮名が書かれ、それを見た満州の人たちが「朝鮮人だな」といって、仕事がしにくかった。それで、朝鮮の人たちが「日本式の名字をくれ」といった。これが創氏改名の始まりだ」
コレに対しての朝日の主張、「麻生氏が指摘したような事実は、部分的に、あるいは一時期あった。しかし、創氏改名は日本が朝鮮の人々を「皇民化」するために、心の内側にまで統制を加えようとした政策だ。朝鮮の人々のなかに日本式の名字を欲しがった人がいたとすれば、なぜなのか。植民地支配が生んだ差別を逃れようとしたからだ」
どちらを信じるかと言われれば授業を受講していなかった場合、百%、いや百二十%朝日を支持したと思う。「植民地支配・強制・差別、これは日本がしてしまったこと間違いなし!この議員、森前首相の神の国発言的なイタさがあるわ。」と思ったに違いない。強い違和感、を示したと思う。私には「歴史=教科書の通り」だったのだから」
日本では「百%、いや百二十%朝日を支持した」ような学生がほとんどを占めているのだろう。麻生氏の発言はまたもや反対派を勢いつけ、左系新聞が読者の心をしっかりつかむことに貢献したことであろう。被洗脳者に正論は確実に反発を引き起こす。「つくる会」も似たような轍を踏んだのかも知れない。「正論より脱洗脳が優先されるべき」と私が思うゆえんである。
★脱洗脳による苦痛に耐えられないこともある
両親が新しい歴史教科書に反対しているためか、洗脳の影響が強烈過ぎて、自我を保つためには受講し続けることが(苦痛で)困難になり授業を否定的に見るようになった学生もいた。その学生から「授業を捨てた」と聞いて、その訳を尋ねたら、次のような返事があった。
◇苦痛に感じ、捨てることにした学生 : 捨てた理由、うーん。以前、私はものすごい不安と孤独感でいっぱいになっていたと書き込みましたよね。あの中に書き込んだ気持ちが強くなったことが理由の一つです。やっぱり、私みたいに不安になっているバカな学生で、楽しんでるんじゃないかなあと思いました。
それから、認識だけで結論や行動みたいなものに結びつかないような理屈や、もし自分だったらどんな気持ちがするだろう?というような視点というか、空想力のない、言葉ばっかりの書き込み、そういうものを読んだり聞いたりするのに飽きました。
プロジェクターで観るものもワンパターンで、観ている側もすぐにそれが全てかのようにそれだけで驚いたりショックで書き込みして、そういう雰囲気がうっとうしくて苦痛に感じました。自分でそういう雰囲気に働きかけて、苦痛じゃなくなるようにするという選択肢もあったのですが、何のためにそんなことをするか分からなかったので、もう捨てることにしました。
この個人的返信をくれた(女子)学生は優秀だった。論理も整然としていた。当初は私の研究室にも顔を出していたくらいだから、イデオロギーや偏見があったとは考えにくい。だから、防衛、抵抗派の一部の学生がしたようには、私の授業を感情的に、あるいは非論理的に、批判することができなかった。では彼女は何故「授業を捨てた」のだろうか。
「逡巡派の脱洗脳が続く」のところで紹介したように、「ショック療法によって洗脳はかなり解けてきたという学生」が、「精神的な苦痛を取り除いてくれたモノ」を否定すれば「壊れてしまうかもしれない」人には「長い目で見守ってあげることが最善」と言った。私はこれをこの謎を解く一つの鍵だと思った。
「精神的な苦痛を取り除いてくれたモノ」が洗脳によるもので、それを否定するとその人がこわれる可能性がある場合はどうか。つまり彼女は洗脳に気付いた結果、「精神的な苦痛を取り除いてくれたモノ」を失いかけたのではなかろうか。失いかけたのは彼女と両親や弟との精神的な絆だったのかも知れない。それを失うまいとすれば、必然的に洗脳の方を否定するしかなくなる。しかし、論理的にそれをするには彼女の理性が許さない。従って、授業のあり方を否定し、脱洗脳過程にある多くの学生たちの方を否定し、それを形で表すために「授業を捨てた」のだと解釈したい。
二「歴史教科書問題は洗脳の問題」で紹介した知人が述べた「論理(何がほんとうか)よりもしがらみ(だれに教えられたか、だれの主張か、まわりがどうか)が先立つ」にある「しがらみ」より深い「絆」というものの存在に思い至らされた。左系メディア・知識人・教育関係者などが採り続ける一見不可解に見えるような頑な態度にもこの「絆」が深く関係していることだろうと思った。
■三章 脱洗脳はやればできる
ここでは、まず「洗脳されていた度合」と「授業で感じた違和感」との関係について考え、次に「脱洗脳はかなり達成された」を述べ、その後で「脱洗脳について分かったこと」を紹介し、最後に「これからのための提言」を述べる。
◆「洗脳されていた度合」と「授業で感じた違和感」
まず「洗脳されていた度合」と「授業で感じた違和感」との関係について考察する。授業で感じた違和感は(授業を受ける前の自分を振返って見て)洗脳されていた度合に依存するのではないかと直感し、授業の最後の頃の七月中旬に、過去二年のとは異なり、洗脳されていた度合と授業で感じた違和感に関するアンケートを取った。それは授業を受ける前の自分を振返って見て洗脳されていたと思う意識の程度について一から五段階(全く洗脳されていなかったから極度に洗脳されていたまで)の中から一つを選ばせ、また授業の前半(「歴史教科書問題と洗脳」というレポートを紹介するまで)で感じた違和感の程度について一から五段階(全く違和感がなかったから極度に違和感があったまで)の中から一つを選ばせるものであった。
アンケート集計結果を元に、次のような相関図を作った。以下、洗脳されていた度合を「洗脳度」、授業で感じた違和感を「違和感」と略記する。
★「洗脳度」対「違和感」の相関図
◇縦軸 洗脳されていたと思う意識 (全く洗脳されていなかった)から(極度に洗脳されていた)まで五段階
◇横軸 授業の前半で感じた違和感 (全く違和感がなかった)から(極度に違和感があった)まで五段階
歓迎派 受容・逡巡派 防衛・抵抗派
中人数クラス(三、四回生) □ ○ △
小人数クラス(一、二回生) ■ ● ▲
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(授業を受ける前の自分を振返って見て)
洗脳されていたと思う意識
|(極度に洗脳されていた)
|
| ○ ○
5 | ○○○ ○○ ○△○ ○○○ ○○○
| ○○ ○○
|
| ● ●● ●
4 | ○○ ○○○ ○○○ ○○○
| ○○○
|
| ○
3 | ○○ ○○○ ○○○ ○
| ● ● ●
|
|
2 | □○ ○○ ○ ○○ △
| ▲
|
|
1 | ■
|
|
|(全く洗脳されていなかった)
_____________________________________
1 2 3 4 5
(違和感無し) (極度に違和感)
授業の前半で感じた違和感
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
★「違和感」が高い人は「洗脳度」も高い
「洗脳度」対「違和感」の相関図を見ると、下半分より上半分の方が多い。これは「洗脳度」が高い方に偏っていることを示している。これは「この授業により(洗脳に関して)自分をより客観的に眺めることができるようになった人が多かった」ことを表していると解釈した。一方、左半分と右半分はほぼ均衡している。これは「違和感」はほぼ均等に分散していることを示している。
次に、右下が少ないことに気がつく。これは「違和感」が高い人の多くは「洗脳度」も高いことを示している。逆はどうだろうか。左上は少ないとは言えない。これは「洗脳度」が高くても「違和感」が低い人が少なくないことを示している。これは何を意味しているのだろうか。脱洗脳を違和感なく(もしくは少なく)歓迎した「歓迎的受容派」が少なくないことを示している。真の歓迎派を「違和感」が低く、且つ「洗脳度」も低いと考えると、それは左の下を見れば分かるように少数しかいないことが分かる。
次に防衛・抵抗派の分布を見てみよう。「洗脳度」が高いのもある一方で、低いのもある。高いのは極度に洗脳されていたことを認めているので脱洗脳されたと考えられる。低いのはあまり脱洗脳されなかったのかも知れないが、洗脳されていたことを認めたくないというプライドのせいかも知れない。数が少ないのと、色々な要因がありえるので、意味のある分析はできなかった。
◆脱洗脳はかなり達成された
授業で試みたことを振り返ってみる。
まずは(主として意図的な)情報操作のもたらす危険性について警戒心を喚起させ、次いでテレビや新聞の(無意識的な)偏りや(意識的な)情報操作に気付かせ、次いで学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせた。これらは問題なく達成された。
その後、はじめて歴史教科書問題は実は“洗脳”の問題だというメッセージを伝えた。学生達は意外に物わかりが良く、脱洗脳は順調に進むかと思われたが、学生の多くはまだ本音を隠しており、実は躊躇い(逡巡)派がまだ健在していることが直ぐに判明した。
逡巡派には授業と洗脳の区別に悩む懐疑派と執拗な防衛、抵抗派もいた。授業が終了に近付くと共に歓迎、受容派は増加していき、洗脳の残滓は残り続けるものの、戦後教育からの脱洗脳はかなり達成されたと判断できた。
つまり授業により「戦後教育からの脱洗脳はかなり達成された」という事実が得られたのである。これは前年までの授業の手応えなどからある程度予想されていたこととは言え、ここまで上手く行くとは思っていなかった。やってみればあっけなかったというのが実感である。上手く行ったのは何故かという疑問よりも、このようなことがいままで試みられなかった(もしくは試みがあったとしても聞こえてこない)のは何故かという疑問の方が大きかった。
こうしたことに私以外の教員は誰一人関心がないのだろうか。そうだとするとそれは何故なのだろうか。関心があってもやれない事情があるのだろうか。そうだとするとそれは何なのだろうかなど疑問だらけであった。コロンブスの卵ではないが、こうしたことを思いつき、できると確信し、それを実行できる機会に恵まれるというのは、日本広しと言えども私くらいのもので、本当に僥倖だったと思うべきなのだろうか。
◆脱洗脳について分かったこと ー脱洗脳は決して難しいことではないー
二章で述べたことの中から「脱洗脳について分かったこと」を整理してみる。
まず洗脳の経路には色々あるが、その代表的なものは「メディアからの洗脳」と「教育を通じた洗脳」の二つであろう。そのうち、メディアからの洗脳は(広範囲だが)浅いのが特徴なので、条件さえ整えば簡単に脱洗脳させることができるだろうということである。それに比べて、教育を通じた洗脳は(メディアからの洗脳に比べれば狭いが)深いのが特徴なので、脱洗脳させることは(メディアからの洗脳)より難しいと思われた。付け加えると、幸いにして学生にはいなかったが、イデオロギーを通じた洗脳は(教育を通じた洗脳)より深いので、脱洗脳させることはさらに難しいと思われた。
次に脱洗脳の環境には何が相応しいかを考えてみる。教育の場で刷り込まれた洗脳を脱洗脳させるのは、やはり(学びたいという動機があり、ある程度の束縛を伴う)教育の場が一番効果的だろう。今回の授業が脱洗脳に成功した最大の理由は、それが教育の場だったということがあげられると思う。これが、なんら束縛を伴わない任意参加のセミナーやサークルだったら、これほどの効果は発揮しなかったと思われるからである。
しかし教育の場だけでは十分ではない。それは必要条件の一つに過ぎないからである。例えば、教師が教壇から一方的に講義をするような教育では上手く行くとは考えられない。つまり、教師と学生の間の双方向的なやりとりによる教育が必要なのである。しかしそれだけでも十分とは言えない。例えば、通信教育による一対一の教育とか、一人もしくは数人を相手にする家庭教師の場合とかでは、ある程度は可能であろうが、限界も予想される。それは学生同士の相互作用を伴わないからである。
教育は学生同士がお互いに学び合う時に一番有効性を発揮する。これは一種の集団思考現象(ある段階でオセロゲーム的現象が起こること)で、行き過ぎては良くないが、盛り上がりが欠如した授業よりはるかに有益と思う。授業で用いた電子掲示板はこの集団思考効果をもたらした。つまり授業が脱洗脳に成功した真の理由は、この電子掲示板により集団思考効果がもたらされたことだと思う。
そのような効果をもたらすものにはディベート授業など他の方法もあるかも知れない。しかし、ディベート授業がこの電子掲示板ほど集団思考効果をもたらすかどうか、疑問に思う。ディベート授業は時間の制約があるし、短い時間に言いたいことをまとめて話す能力が必要である。さらに本音を語ることの不得意な学生には全く不向きである。電子掲示板ではこれらの難点のほとんどが解消できる。時間の制約はないし、発言を時間かけて考えることができる。またパソコンに向かっているので本音が語りやすいからである。
しかし、掲示板方式では学生の人数が百人を上回ると寄せられる感想が多くなり過ぎて教員も学生も読み切れなくなる。そうなると、教員も適切な意見を返せなくなるし、学生の方も、他の学生の意見を読む意欲を失ってしまう。またこの発言は前にどんな発言をした人のものかなどの特定を難しくする。つまり、掲示板方式での最適な人数は私の経験では、二十から六十くらいだと思う。幸いにして、私の授業の人数はその範囲に入っていた、またその範囲に入るように(受講資格などの)履修条件を工夫した。
授業が脱洗脳に成功した理由は他にもある。「鉄は熱いうちに打て」という格言があるように、頭の柔軟な若い内に脱洗脳させることが肝腎で、学生たちはその条件を満たしていた。ある程度社会的地位のある、あるいはプライドの高い人の脱洗脳はかなり困難で逆効果になりかねない。
次に脱洗脳のやり方の善し悪しについて述べる。一番肝腎なことは「段階を追うこと」である。授業では、まず情報操作への警戒心を喚起させ、次にテレビや新聞の偏りや情報操作に気付かせ、その後に学校教育や歴史教科書の偏りや情報操作、自虐性に気付かせるように段階を追った。そのように段階を追ったのが良かったと思う。「将を射んと欲せば、まず馬を射よ」、「着眼大局、着手小局」などと同じ戦術である。「つくる会」の教科書や関連する著作も脱洗脳に寄与したのは事実だと思うが、反対派を中心に世論からかなりの反発を招いた。その最大の理由は「段階を追うこと」をしなかったせいではなかろうか。
また「思い込みが激しい」と相手に思われないことが肝腎である。つまり主張がワンパターンになることを避ける。ワンパターンになると、思い込みが激しいと思われ、その人自身が洗脳されているように見えて、人を引かせてしまう。もしくは飽きられる。執拗なのも禁物。コチコチの右翼と誤解されるのは絶対に避けること。怒りを露にしてはそこで負けと思うべきであろう。この点、「朝まで生テレビ」などでは右系の論者より左系の論者の方が冷静さを保つのに長けているように思われた。
次に洗脳された状態には色々な型があり、それらの型ごとに異なる対応が必要と思われた。対応には(効果が期待できない、あるいは逆効果になるから)脱洗脳の対象としないのも含まれた。従って、個人を脱洗脳させるのと異なり、集団を脱洗脳させるには、対象とする集団がどの程度洗脳されているか洞察することが大切である。
「つくる会」の教科書や関連する著作を一つの(脱洗脳的)対応と考えれば、それはある(少数が属する)型には良い対応だったが、別の(多数が属する)型には逆効果を生じるような対応だったと言えるのかも知れない。
◆これからのための提言 ー問題はやっと見えて来たー
まず次のことをアピールしたい。近年、北朝鮮による拉致被害者の奪還が重要な課題になっている。洗脳は、肉体的拉致ではないが、精神的拉致に相当するのではなかろうか。人の進む道を誤まらせ、一生を台なしにするだけでなく、その害毒は社会全体に伝染し、次の世代まで遺伝し、国家を衰弱させるという意味では、肉体的拉致以上に罪深いものがある。そもそも、これほどまでに洗脳されていなければ、北朝鮮による拉致などは起らなかったはずである。従って脱洗脳は精神的奪還に相当すると思う。精神的に拉致された若者を奪還するのは成人の責任ではないでしょうか。
最後にこれからのために二つのことを提言したい。
提言一 洗脳の動機について敏感であり続けよう ー洗脳ウィルス対策としてのワクチンー
まず「何故洗脳されるのか」を考えよう。それには「洗脳されたい」という動機がある(あった)からと思う。その「洗脳されたい」という動機について、田辺敏雄氏は「検証 旧日本軍の「悪行」ー歪められた歴史像を見直すー」(自由社 平成十五年)で「戦後、国民の側に洗脳を受け入れる素地があった」ことを指摘している。つまり左系メディア・知識人・教育者はそうした国民の動機に応えたに過ぎないというわけである。田辺氏の指摘は「洗脳されたい」という動機を上手く説明していると思う。
戦後教育からの脱洗脳が進んで、自虐呪縛が終焉したとしても、洗脳の動機(洗脳されたいという欲求)はなくなるわけではないので、脱洗脳問題は永遠の課題である。我々は常に、そうした洗脳の動機について敏感であり続けなくてはならない。今回取り上げた自虐呪縛という問題はいわば、我々日本人が洗脳の動機についてあまりにも鈍感であり過ぎたために引き起こされた結果に他ならない。
洗脳ウィルスが流行しても、良く効くワクチンの用意があれば、その蔓延を抑えることができる。田辺氏の著作は今までで私が知った、最も良く効く(説得力のある)と思うワクチンである。洗脳ウィルスにかかりたくない人、かかった人はぜひ試してみて欲しい。これを機に各種のワクチンが開発されることを期待したい。付録一「われわれ自身も手を貸した虚構の産物」は氏の著作を私が要約したものである。
さらに私は中帰連(中国の撫順にあった旧日本軍捕虜収容所から帰還した人たちの一部からなる中国帰還者連盟)が作成した映画「日本鬼子」を巡ってある掲示板でやりとりをしたことがあったが、その中で田辺氏の著作の説得力を具体的に紹介したことがあった。付録二「映画「日本鬼子」を巡って」はそのやりとりの記録である。
次に「洗脳されたいという動機は何故か」を考えよう。それを私はトラウマにもとずく恐怖心だと思う。この恐怖心について、精神科医、土居健郎は「続「甘え」の構造(弘文堂、平成十三年二月)」の中で「日本人の心中深く根ざしている恐怖のなせる業」と指摘している。土居氏の指摘は「洗脳されたい」という動機を精神科医の立場から上手く説明していると思う。付録三「日本人の心中深く根ざしている恐怖のなせる業」は氏の著作から私が抜粋したものである。「われわれ自身も手を貸した虚構の産物」が強力な洗脳ウィルスへの対処ワクチンだとすると、こちらの方は弱い洗脳ウィルスへの対処ワクチンと言えるかも知れない。
提言二 洗脳のプロセスを警戒しよう ー蜘蛛の巣のように張り巡らされた循環構造ー
動機があるだけでは洗脳は広まらない。広まるにはそれなりの仕組みがあるからである。そうした仕組みについて、都村長生氏は「学校教育の危機、崩壊する家庭教育(なんしょんな香川 第三部 都村長生の最終提言」(平成十年)で、みんな「すり込まれている」という意識がないほどにまで完璧な多重の循環構造の例を紹介しているが、これは洗脳のプロセスの秘訣を始めて上手く解明したものと思う。
今回取り上げた自虐呪縛という現象がこれほどまでに完璧なものになってしまったのは何故か。それはみんな「すり込まれている」という意識がないほどにまで完璧な多重の(蜘蛛の巣のように張り巡らされた)循環構造にからめ取られてしまったからなのである。我々はこの循環構造にメスを入れてそのしがらみを緩めなければならない。そのためにも、氏の著作は大いに利用されるべきだと考える。付録四「学校教育の危機、崩壊する家庭教育」は氏の著作を私が要約したものである。
問題は終わったのではなく、問題はやっと見えて来たのである。
■あとがき■
「歴史教科書問題と洗脳」というレポートをインターネットのある掲示板に匿名(ハンドルネーム)で掲載した時(平成十五年二月頃)、「学生からは「つくる会」教科書への肯定面の意見が多かったようだがそれは何故でしょう?」という質問が寄せられたことがあった。
その時、私は「私の授業を受けた学生に肯定的意見が多かったのにはいくつかの理由が考えられます。まず第一にこのような問題を取り上げた私の意図を理解し、それに関心ある学生だけが受講を続けた。履修登録者の大半は、興味がなければ、もしくは難しければ、去って行きます。次に、授業を続ける、また前年度の学生のレポートなどを読ませる、ことにより、この問題への関心を抱かせられたため、理解が深まった。しかし、私の授業を受けた学生は弊学一学年全体の数%に過ぎないし、国内の大学で、こうした試みをしたところは他に聞いたことがないので、学生全体に肯定的意見が多いということではありません。」と答えた。(このことは第一部二章の九「歴史教科書問題の意義について」で既に紹介済み)つまり、私はその時既に授業というものが持つ限界を感じていたように思う。
また「ご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。とりあえず「つくる会」本部の方にも読んでいただくようお願いしてありますが、貴方はどのような発表の場をお持ちなのでしょうか。「つくる会」の運動に関わる方だけでなく、いろんな方にお読みいただきたいです。とりわけマスコミ関係の方に。色眼鏡で見られることのないようなところで多くの方に読んでいただける場があればいいですね。
《歴史教科書問題は「どちらの言説が正しくてどちらの言説が正しくないか」という問題というよりは、「メッセージがいかに受け容れられるかは、過去から今までメッセージをいかに受け容れてきたか、に依存する」つまりいわゆる“洗脳”の問題と切り離すことができないことを問題提起した。》とのご指摘がとりわけ重要に思えました。」という感想も寄せられた。(このことも第一部三章の最後の「これからのために」で既に紹介済み)
発表の場ということで試しに、メディアの問題なども扱う情報通信学会の大会で発表してみた(平成十五年六月頃)が、全く場違いであることが直ぐに判明した。三百人近くの参加者がいたこの大会で、私の発表に関心を示した会員は五指に満たなかった。つまり歴史教科書問題をメデイアや教育(を通じての洗脳)の問題と認識する(というか関心を抱く)学者・研究者は皆無であることが良く分かった。
その後、今年、つまり平成十六年になって、二番目のレポート「戦後教育からの脱洗脳への試み」を幾人かに送ったところ、あるお方から「大変に貴重なレポートと思います。戦後教育からの「脱洗脳」の取り組みをなさっている先生が現においでになることを知り、私にとって意外でもあり、それだけに嬉しくもなります。メディアからの洗脳は浅く、教育からの洗脳は深いという知見をなるほどと思い、それを裏付ける多くの学生の経験、反応を読んで、改めて歴史教育の深刻さが分かります」という感想を頂いた。(三月頃)
また他のお方からは「おっしゃるように戦略目的は「戦後教育からの脱洗脳」です。今回の先生の論文でもっとも説得力をもつ箇所、それは学生との対話であり、洗脳が解かれていった実績にあります。変な言い方かも知れませんが、小生、「よくやって下さった」と感謝の念すら感じるのです。この先生のやり方をどのように広めていったらよいのか、その具体案が重要でしょう」という感想も寄せられた。(七月頃)
平成十八年三月に迫る定年までは波風立てず、定年後機会があれば、これらのレポートを元に何か本でもできると良い程度のことしか頭になかった私は、この最後に寄せられた感想で目覚めた。教育やメディアの問題を扱っているのに、自分はまだ何のメディア戦略も実行していないことに気がついたのだ。取りあえず、出版というメディアでどこまで行けるのか、自分の能力を試してみる良い機会だと思うようになった。
ということで、思い付いたのが、「新しい歴史教科書」を出版した扶桑社だ。電話すると、書籍編集部部長の真部栄一氏が即座に興味を示された。そして、八月四日に浜松町の扶桑社を訪ねることになりました。そこで、真部氏と副編集長の吉田淳氏に教えて頂いたのが、商業出版としての必須条件でした。それらをクリアできるか否かが私の文才の有無を決定するので、この夏休みに是非、頑張って欲しいと言われました。
ということで、お二人の期待に沿うべく、二編のレポートを商業出版に向けて書き直すことにしたが、これは私にとって至難なことだった。どうしたら良いか、なかなか要領を得ない、というより商業出版としての必須条件をまだ十分に理解できていなかった。
その後九月に入って、昨年(平成十五年)六月に縁あってお目に懸かったことがある、私が大変尊敬している現代史家、田辺敏雄氏(付録一で氏の著作を紹介した)に再びお会いする機会があり、その際、氏は、商業出版への書き直し方について、「むつかしく考えることはない」と言う言葉を何度も用いて、袋小路に陥った私の思考に活路を示唆して下さった。
その後、扶桑社の吉田淳氏に私のレジメ調のレポートを商業出版向けに柔らかくすることについて懇切丁寧な教示を頂いた。私に再び商業出版に向けて挑戦してみる勇気を与えて下さった田辺氏と吉田氏に感謝し、私は始めて何か要領をつかめた気持ちになって原稿に向かった。
しかし、まだまだ甘かった。吉田氏はご多忙な時間を割いて、私が送った原稿を詳細に調べて、膨大な改善点を指摘して返して下さった。そこで私は原稿を見直す作業とは問題を考え直す貴重な機会だということを始めて学んだ。というのは、それによって新たなことが発見されたし、始めのうちは解答が得られなかったことも、得られるようになり、私は見直し作業にすっかり高揚させられた。編集者が持つ創造的役割を始めて認識させられ、吉田氏には改めて感謝する次第である。
最後になったが、私が二編のレポートをまとめるに際して素材を提供してくれた十三年度前期から十五年度前期までの私の授業の受講生全員に感謝の意を捧げたい。また私の読み難いレポートを読んで、感想を送って下さった方々にもお礼を申し上げたい。そして、この本が一人でも多くの若者の「戦後教育からの脱洗脳」の手助けになれば幸いである。
平成十六年十二月 栗原宏文
著者略歴 昭和十五年(一九四〇)広島県生まれ。東京大学工学部応用物理学科卒業。米国マサチューセッツ工科大学で化学工学のドクター・オブ・サイエンス学位取得。東燃(株)勤務を経て、平成七年より愛媛大学法文学部教授。専攻はメディア・コミュニケーション、メディア・リテラシー。論文は「企業組織における電子的社会場」、「日本型システムと電子的コミュニケーション」など。
■付録一 われわれ自身も手を貸した虚構の産物
「検証 旧日本軍の「悪行」ー歪められた歴史像を見直すー 田辺敏雄(自由社、平成十五年一月)」には第二部最後の「これからのための提言」の根幹をなす「洗脳の動機(洗脳されたいという欲求)」についての深い考察がある。以下はその抜粋である。
第十二章 メディアが誘導した危険水域
★一 調査を通して得た結論
調査をしながら思ったことは、わが国の近代史はこんないいかげんな事実関係の上に成り立ち、国民の贖罪意識が醸成されたのかという腹立たしさであった。最大の責任は、ごく一部を除く日本の報道機関にあり、次いでこれに追随した学者にあることは間違いない。
☆常識(現実感覚)の欠如
日本軍民の「悪行」ならば何でもいいとばかりに、あちこちに出かけていって、あり得ない、またありそうにない「被害者」「加害者」の話を丸呑みにし、「反省を、謝罪を」と報道する。それらが日本発となって世界に発信されていく。
☆不公正
多くの戦友会や社友会などに連絡をとり、ときには会合に出席するなどして話を聞き、またあらたな証言者を尋ねて歩いた。この間、産経新聞以外のいかなる報道人とも出会わなかった。活字メディアが調べた痕跡はうかがえなかった。学者についても同じである。
また、悪行を告発する学者、研究者などの「研究成果」や「活動」について頻繁に報じるものの、それを否定する側、批判する側について産経新聞以外のマスメディアはまず取り上げない。
日本の報道機関が関心を持つのは日本軍糾弾のネタであり、日本軍民の濡れ衣を晴らすことなど関心外なのである。
不祥事を現に起こしているし、非難されて仕方のない点もある。だが、鵜の目鷹の目で「悪行」のみを列挙すれば、世界中の軍隊が極悪非道な軍隊となり、先進国は例外なく残酷な民族になる。明治の日本軍を別にして、昭和の日本軍が他国の軍隊と比べて、軍紀のすぐれた軍隊とは思わないが、とくに悪い軍隊ではなく平均的な軍隊と判断しているだけである。
☆不誠実
後日になって、報道が間違いと指摘されても訂正することはまずない。それどころか、指摘されていること自体を無視し、ただ頬被りする。従軍慰安婦報道で、吉田清治を追いかけて記事にしながら、虚偽証言と証明されても知らんふりで、訂正したとの話は聞かない。朝鮮人慰安婦の強制連行の確かな根拠は吉田証言によっていたのだから、報道界が当然の行動をとっていれば、国連にまで話が発展することは避けられたはずである。
東部ニューギニアの再三の朝日報道で、どれだけ関係者の名誉を傷つけたか記者たちは考えたこともあるまい。間違いを間違いと認める度量もなく、自らの手で再調査するだけの誠実さも持ち合わせていない。その新聞社が、国民に向かって反省、謝罪を臆面もなく要求する。
NHKの偏向はしばしば指摘されるが、NHKの偏向の特徴は、個々の放送内容の問題もあるが、「何を放送しなかったか」という点に問題があると思う。日本軍の悪行や欠陥となると熱心に取り組む反面、それらが疑わしく、冤罪ではないかという問題になると、まったく手を出さないことである。
中帰連についても、「良心的な団体」であるかのごとく好意的な報道に終始したし、彼らの偽証について報じることはなかった。
★二 こうした報道姿勢をつづける理由
☆商売としての反体制
(岩波書店と朝日新聞に)重役は商売としての「反体制」と承知しているからいいが、下っぱが本気になってしまうのでご用心と、手を替え品を替え三十年以上も前からコラムニストの山本夏彦は警告を発していた。
その警告通りに事態は進み、「下っぱ」がすでに中堅、重役となっている。いうまでもなく、日本軍断罪は「反体制」報道の行き着いた先である。
左がかった記事の方が読者に受けるという方便がいつの間にやら絶対の正義と化した。つまり、後から入ってきた記者は、毎日毎日朝日の記事を読んで刷りこまされてしまう。そうするとだんだん方便が絶対の正義になってしまう。
かさぶたというものは自然にとれていくもの。しかし、日本の側でそれをすぐ引っ掻くからまた血が出る。それが教科書問題の騒ぎになる。いや、政府がやっているのではなく、お宅の国の一部のマスコミがそれをやっている。(韓国の首脳が森前総理に言った言葉)
☆マスメディアに読者が同調
大成功の理由は、国民の側に受け入れる素地があったからだと思う。メディアの発信するこれら日本軍の旧悪暴露に、読者は首を振るどころかしだいに同調したから、報道に一層みがきがかかった。
言葉を変えれば、メディアは読者のニーズにあった「商品」を提供し、やがてニーズそのものを支配し、他の商品(異論、異説)が細々としか生き残れないほどに市場を席巻した。
日本人は、自分を良識のある人間、いい人間だと周囲の人に見てもらいたいという欲求が他国の人より強いのだと思う。だから、目に見える形で直接の利害が生じる問題になれば現実的になるが、そうでないかぎり、良識的に見えそうな論になびいていく。旧悪暴露がメディアの良心的行為に見えるのである。また、論理的に物事を考えるより、情緒的に反応するので、事実を見失いやすい。
わが国のマスメディアが商売として成功している以上、姿勢の変化は当分期待できそうもない。
★三 沈黙で応じた当事者たち
☆下は知らない、上は評論家
戦友会、社友会では、上の人は本を読むが、そうでない人はあまり読まない。だから、自分たちが渦中にいること自体、知る人が少ない。また話題になっても、自らが立ち上がり調査し反論しようとする例は少ない。評論すれども行動しないのが一般的な姿で、当事者という意識が希薄としか思えない。
☆行動する人は六から八人に一人か
☆調査する者が少なくて当然
「ある事実が存在しなかった」という証明は非常に難しい。存在したことの証明は点の証明ですむが、存在しなかったことは面の証明が必要になるからである。
非力な個人がマスコミを相手にして勝ち目はない。「真実は最後に勝つ」などというのは、しょせん書生論だと思う。
★四 終わりに
日本人の安全は危険水域に入ったと思う。日本人自身が認めた残虐行為のツケは、「カネ」の問題にとどまらず、いずれ先鋭的な形で回ってくることだろう。日本人に対する危害や迫害が、どこかで起きても不思議はないと思う。
将来、この歴史像を変えようとする気運が起こったとき、ナチス同様、史上まれな残虐な民族という「過去の歴史」が眼前に立ちはだかり、これに反対する勢力が声高にこのことを利用するはずである。
その時に、それはわが国のメディア、学者などとともに、われわれ自身も手を貸した虚構の産物だったことを知るうえで、本書が多少とも役立ってくれればと思う。
■付録二 映画「日本鬼子」を巡って
私はイターネット掲示板に、中帰連(中国帰還者連盟)が作成した映画「日本鬼子」のことを話題に出し、第二部最後の「これからのための提言」で紹介した田辺氏の著作の説得力の効果を紹介したことがある。(平成十四年十二月から十五年二月頃)以下はその記録である。
◆善悪の感覚は麻痺させられていた
●筆者 : 日本鬼子(リーベン・クイズ)という映画が松山で上映されます。
先日、愛媛新聞でそのことが大きく取り上げられていました。
映画「宣戦布告」が上映されていた時は、殆ど報道されなかったのに。
(監督の石侍露堂が新居浜出身なので、新居浜で上映された時、少し報道していましたが)
批判を目的として、映画を見てみようと思っていますが、何か参考になることがありましたら教えて下さい。
■論者一 : ほとんど出鱈目かと思います。
本当だとしてもよく読むと「戦争犯罪」ではなく単に彼らの「犯罪」も多くあります。
●筆者 : 日本鬼子(リーベンクイズ)という映画を観てきました。
私の観た印象では、「ほとんど出鱈目」とは思えませんでした。
もしほとんど出鱈目でしたら、当時一緒だった人達に批判の証言などを取れると思われます。
また告白した人達は逃げも隠れもしていないのですから、究明もできると思われます。
《彼らの「犯罪」も多くあります》はその通りでしょうが。
■論者一 : 彼らの告白はカミングアウトではなく、刑務所から出るための「方便」であったと思います。
それで終われば良かったのですが、帰国後も中共のプロパガンダに利用され、また本人も協力したということです。
●筆者 : 「中共のプロパガンダに利用され、また本人も協力した」ことは事実でしょうが、告白したことの信憑性を疑わせるには十分ではないような気がしました。
■論者一 : もちろん「反日」宣伝以外の何物でもないでしょうね。
●筆者 : 私にはそのようには思えませんでした。
あの人達は、あの環境で、善悪の感覚は麻痺させられていたのだと思います。
(ドイツ映画「es(エス)」の看守と似ていると思いました)
この映画への批判は色々考えられますが、そうした批判よりも、先になすべきことがあるように思いました。
それは、つくる会の教科書の執筆者にこの映画を是非、観て欲しい。
そして、この映画を観た普通の(必ずしも左ではない)人にも簡単に反発(否定)されないような教科書を作って欲しいと思いました。
それには、先の大戦の中で、善悪の感覚を麻痺させられたようなことが存在し、そのために多くの無辜の人を犠牲にしたこと。
そして「善悪の感覚を麻痺させ」たものが何であったのか、いかにしたらそれを排除できるか、を考えて欲しい。
◆踏みとどまれなかった中帰連のような兵士
■論者二 : 映画を観てかなりショックをうけられたようですね。
●筆者 : 平成九年に南京で大屠殺記念館を見学した時より、また映画「es(エス)」を観た時よりショックを受けました。そして考えさせられました。(前者は明らかに中国のプロパガンダですし、後者は演技ですから。)
■論者二 : いわば「日本鬼子」は「三光作戦」の映像版ですね。
●筆者 : 「三光作戦」は用語からして中国のプロパガンダと思っています。映画「日本鬼子」は中国のプロパガンダという見方もあり得ますが、それは皮相な(あるいは一面的な偏った)見方だと思います。
■論者二 : 戦闘状態のもとで、善悪の境界ぎりぎりの最後のところで踏みとどまった兵士も数多くいたことも事実だし、そして踏みとどまれなかった中帰連のような兵士もいたということです。
彼らひとりひとりの個有の罪であるべきです。
B・C級戦犯はその責めを負って逝ったのですから、そういう点で、かれら自身にいくら“撫順の奇跡”という歓喜体験があったからといって、かれらの犯罪が許されるべきものではありません。
所詮それはプロパガンダ要員という執行猶予にしか過ぎないのです。
◆戦争(戦闘)のリアリテイ(の一部)を伝えようとしている
●筆者 : 死刑の執行猶予を受けた罪人が懺悔しているという構図は良く分かりますが、そういう罪を犯させるような環境(日本の軍隊のあり方)にも問題があったのは事実なようです。
■論者二 : こんな中帰連の男たちが日本を告発するだなんて信じられましょうか。
●筆者 : 映画は「日本を告発」するというよりは、戦争(戦闘)のリアリテイ(の一部)を伝えようとしているようでした。
問題は、こうしたリアリテイがほんの例外的なことなのか、普遍的なことなのかです。
普遍的なことなら今さら取り上げる価値があるとは思えませんが、私にはかなり例外的なことのように思えました。
ですから、この問題は看過できないと思いました。
■論者二 : この辺りを「つくる会」の教科書は「戦争は悲劇であるが、善悪はつけがたい」とあります。
「日本鬼子」を見せられた人に「つくる会」の執筆者がどのように説明するかということは、この言葉で十分だと思いますが。
●筆者 : 先の大戦の自衛的側面を強調したり、特攻や玉砕など犠牲的精神が旺盛だったことを教えるのは大切だと思いますが、その反面、軍隊の抑圧的な体質と人命軽視主義が、一部の兵員に、善悪の感覚を麻痺させ、残虐な行為を引き起こし、その結果、中国の民衆に多大の非人道的犠牲を強いたことも教えるべきだと思います。(「日本鬼子」を「つくる会」の教科書のアンチテーゼ、錦の御旗にさせないためにも)
◆絶対観なくちゃいけない映画
●筆者 : 皆さんの中にはこの映画をご覧になられたお方はおられないようですね。
これは驚きでした。また見ないで、なんらかの結論を持っておられるようなのにも驚きました。
プログラムには監督の松井稔と鈴木邦男(民族派団体「一水会」代表)の対談もあります。
鈴木邦男は最後に「不愉快で気持ちの悪い映画だけど、これは絶対観なくちゃいけない映画だと思います」と言っていますが、同感です。
プログラムには「残虐行為を生み出した日本軍の体質」という明大教授の文も含まれています。
一面的な見方だという批判は免れないでしょうが、日本型(社会)組織にありがちな弱点を旨く記述しています。
そうした反省点も取り入れて、批判されやすい歴史教科書から、打たれ強い歴史教科書に変貌して欲しいと思っています。
◆映画から何を学ぶか
■論者二 : わたしは婦女暴行、証拠隠滅のための殺人などはあったと思います。
一部のゲリラ・便衣兵を掃討するために無辜の住民を殺したケースもあっただろうと思います。
●筆者 : この程度でしたら、普遍的なものだと思います。それらをはるかに越える(常軌を逸した)行為があったと思わざるを得ません。
■論者二 : 人が見ていなければ何でもやってしまう。
見つからないように証拠を隠滅する。
そして社会が悪い、会社が悪いと自己を合理化して声高に言う。
●筆者 : 一寸、違うように思います。
自己が犯した犯罪を含めて、そうしたことが繰り返されないためには、どうしたら良いか、を世に訴えているように思えました。
■論者一 : 残虐なのは「日本軍」だけでは無く、そういう事なら世界中の軍隊は「人殺し」を目的にしているのですから、世界中の軍隊と比較して「日本軍」は抜きん出て残虐だと証明するべきでしょう。
●筆者 : 私もそのことは考えました。
ドイツのアウツシュイッツ収容所の件(映画「es(エス)」のモデルだったそうですが)は別としても、アメリカもベトナム戦争ではソンミ村事件などがあります。
ですが、私が今までに知る限り、この映画で告白されたような非人間性は初めてです。
でも、「日本軍」は抜きん出て残虐だということを証明できるとは思えないし、そうすることが良いとも思いません。
要は、この告白から何を学ぶかです。
◆「つくる会」運動が何故困難なのかを解く鍵
■論者一 : 映画「日本鬼子」は中国のプロパガンダという見方は皮相な(あるいは一面的な偏った)見方というのは何故ですか。
●筆者 : 私は「つくる会の歴史教科書」は大変良い教科書だと思っていますが、その教科書への採択には賛成しない(もしくは二の足を踏む)人も少なくないのが現状です。
私は、その原因を色々考えてある結論に達しました。
それは、「つくる会の歴史教科書」は(今までのより)画期的に優れた教科書ですが、まだ難点(未熟な点)がない訳ではありません。
その難点とは、先の大戦の総括というか、反省点が不十分だと思われます。
中学生用の教科書ですから限界はありますが、先の大戦から何を学んで、それを今後、どう活かすかの姿勢が見えない(もしくは不十分な)のです。
そういう点が、戦争賛美という批判(誤解?)の種になっていると思われます。
映画「日本鬼子」はこの(何かを学んで欲しい)ことを告白していると受け取ることができる、いやそう受け取るべきだと思います。
最後に、私の問題提起に色々、ご意見を頂いて、ありがとうございました。
私があの映画を見ようと思った動機の一つは、「つくる会の歴史教科書」を巡る運動に予想した以上の多難さが存在するのは何故か、それを解く鍵になるかも知れないと思ったからでした。
◆われわれ自身も手を貸した虚構の産物
●筆者 : 前にこの掲示板で日本鬼子という映画を紹介しました。
その後、どこかの板で紹介されていた次の本を読んで、私の心は中和されました。
なかなか良い本だと思います。
もっとメディア等で取り上げて欲しいと思うので、ここで紹介させて頂きます。
この書き込みのタイトルはこの本の最後の文章の中から抜いたものですが、その中の「われわれ自身も手を貸した」というところがミソです。
(北朝鮮の悪事を告発している最近有名なドイツ人医者も「知っていたのに何もしなかったの?と子供から責められたくないから」と言っていたのを思い出します)
(と言って田辺氏の著作の要約「われわれ自身も手を貸した虚構の産物」を紹介した)
◆「日本鬼子」は一種の(強力な)洗脳ウィルス
■論者一 : では去年の議論、私の意見も少しご理解いただけたと考えて宜しいですか? 私は「日本鬼子」はプロパガンダだと言いましたが。
●筆者 : その節はお世話になりました。結果的に判明したことは、
「日本鬼子」は一種の(強力な)洗脳ウィルスみたいなものです。
必要なものは、このウィルスへのワクチンです。(罹る前に処方しておくのも良いが、肝腎なのは、罹ったらすぐ処方できるような)
紹介した本は、私の知る限り、唯一効果(説得力)のあるワクチンでした。
「日本鬼子」等はプロパガンダだ、というだけでは、このウィルスはなかなか退治できません。
もっと手軽に入手できるワクチンを開発するためにも、皆さんもこのウィルスを一度試されてはいかがでしょうか。
■論者二 : いいワクチンを打たれました。「日本鬼子」を実際にご覧になったあとでも効き目はあったのですね。 それはよかった。
●筆者 : その通りです。というより、「日本鬼子」を見たからワクチンを求めていたのです。
■論者二 : わたしも過去に何度か「正論」誌上で論文を読みましたが、田辺氏の地道な行動力と秘められた情熱には頭が下がります。
全国の戦友会を訪ね歩き、「無かったものは無かったのだが、今さら、反論したって仕方ないよ」という無力感から、沈黙を守ってしまいがちなお年寄りに「その沈黙こそが、虚構に手を貸すことになるのですよ」と叱咤激励して取材をしてこられた、この本はその集大成だと思います。
鸚鵡返しの“歴史の歪曲”だとかなんとかのお題目だけを振り回すだけで「果たして然るや。俄かに信じ難し。何をか信ぜん」という批判力の欠如した若いマスコミ人には特に読んでもらいたい本ですね。
●筆者 : 多分、読もうという気を起こさないでしょうね。
実は、この本の中で一番買うところは、「こうした報道姿勢をつづける理由」の中の「商売としての反体制」と「マスメディアに読者が同調」でした。
このところを良く踏まえることが肝腎だと思います。
マスコミの左傾を批判、非難するだけでは、彼らの心には何も届きません。
この本には彼らの良心に届く殺し文句が含まれています。
いざと言う時、それらを彼らに突き付けることができると思うだけでも、自信が湧いてきます。
■論者二 : 実はわたしも 読みたかった本です。
「あなたも早く読みなさいよ」と肩をトンと押されたような気持ちです。ありがとうございました。
◆洗脳ウィルスは貧者の核爆弾
■論者一 : 明日にでも大きな書店に行って、「検証 旧日本軍の「悪行」ー歪められた歴史像を見直すー」を買い求めてみようと思います。楽しみです。
それから「日本鬼子」も前回は発見できませんでしたので、少し離れたビデオ屋まで探してみようと思っています。
それにしても、感染後も効くワクチンとは素晴らしいと思います。
●筆者 : 昨年の暮、中帰連に電話で聞いたら、ビデオ化は半年くらい後とか言っていましたから、まだ無いと思います。
当分は(オルグや動員の可能な)シンパ主催の上映に限るのかも知れません。
ビデオ化すれば、本来の洗脳ウィルスの役割よりは、ワクチン作成目的に利用されるという心配をしているのかも知れません。
昨年八月十五日のニュースステーション放送がインターネットや雑誌などで批判されたことが思い出されます。
ところで洗脳ウィルスは左翼側からだけのようなのは何故でしょうね。やはり貧者の核爆弾みたいなものでしょうか。
■付録三 日本人の心中深く根ざしている恐怖のなせる業
精神科医、土居健郎は「続「甘え」の構造(弘文堂、平成十三年二月)」の中で敗戦後の日本の精神的状況を「日本人の心中深く根ざしている恐怖のなせる業」と考察している。これは第二部最後の「これからのための提言」の「洗脳の動機(洗脳されたいという欲求)」を精神科医の立場から上手く説明していると思う。「われわれ自身も手を貸した虚構の産物」が強力な洗脳ウィルスへの対処ワクチンだとすると、こちらの方は弱い洗脳ウィルスへの対処ワクチンと言えるかも知れない。以下はこの本からの抜粋である。
第七章 二十一世紀の日本に向けて
一 外傷体験としての敗戦
◇戦後二、三年の間は、自分がまた軍隊に召集されるという悪夢を時折見た
◇赤紙が舞い込んだ日の衝撃は特に忘れられない
◇先の敗戦に至った戦争は国民全体にとっての一大外傷体験であったのだから、その後に国民的規模で起きたもろもろの現象を集団的外傷後ストレス症候(PTSD)群ということで一括りできはしないか。
◇終戦とともにほとんど一夜にして全国を被った厭戦気分。一億総懺悔。
◇そのうちに負け戦を指導した軍人連中が一番悪いという考え方が次第に定着した。
◇そして勝った側の連合軍の方が正しく、しかも国民の飢えを救ってくれたのだから感謝することこそふさわしいという風に、変わっていった。
◇国民を深いところで衝き動かしていた恐怖に焦点をおくこと。
まず記憶に新しい戦争体験の恐怖。次に同じことが二度と繰返し起きてほしくないという恐怖。
また新たに日本に君臨することになった連合軍司令部に対する恐怖。
◇そしてこの恐怖にあたかもつけこむように連合軍の側では日本に新しい憲法を押し付け、また戦争犯罪者を裁くと称して極東軍事裁判を開始するに至った。
◇この二つに対して当時苦々しい思いを抱いた人たちも少数はいたにちがいない。
◇しかし彼らが表面に出て来ることは許されなかった。国民の大多数はいわば無感動にこの二つを迎えた。
いや、中には声高にこれを歓迎する向きが一部のインテリ層の間にあった。
◇ところで問題は、戦後五十年以上たつ今も、敗戦のショックによるストレスから完全には自由になっていないという点である。
◇敗戦によって日本は圧政から解放されたのであって、それまでの日本歴史、殊に明治以後の近代国家としての歩みは根本的に間違っていたという理解が一般に普及している。
◇日本がやって来たことが何もかも悪かったように言う暗黒史観は実は何かに対する迎合であり、それも結局は恐怖の然らしむるところである。
◇同じことが戦後制定された新憲法に対する日本人の態度についても言えよう。
◇進駐軍に押し付けられたものであり、戦争に訴えての紛争解決を日本に今後一切禁ずる第九条は、復讐心が日本人の間に起きる場合を想定したものであり、いわば一種のペナルティとして科せられたことが早くから周知の事実となっていたにも拘わらず、その後憲法改正の気運が一向に盛り上がって来なかったのは、やはり戦争にまつわる恐怖が国民に染みついている結果である。
◇あたかもいわゆる平和憲法が護符のごとく作用して、すべての戦争から守ってくれると全国民が信じたかのごとくに思われる。
◇ところで戦争に対する恐怖がいかに今も国民の心をとらえて放さないかは、一昨年(平成七年)国会が戦後五十年を記念して、先の戦争について特に被害国に対する謝罪決議を行おうと言い出したことに最も端的に現れた。
◇先人のための謝罪というのは変である。謝罪がふさわしいのは自分自身の過ちのときだけである。
昔の人に成り代わって謝罪するとしたところに一種の無自覚のさもしさが潜んでいる。
昔の日本人と変わり、自分たちだけはいい子でいたいとという魂胆である。
◇そしてそれは結局日本人の心中深く根ざしている恐怖のなせる業であったと結論したい。
◇以上、敗戦後の日本の精神的状況は集団的外傷後ストレス症候群として理解でき、その主調音は戦争に対する恐怖、それとまた世界の孤児とされる恐怖である。
◇問題は内心では恐怖に衝き動かされながら、そのことを充分に自覚しないでいること。
◇日本を戦争に導いた明治以後の国策の非難、先の戦争によって隣国に与えた迷惑の謝罪、敗戦によって与えられた平和憲法の謳歌、これらはすべて心の深いところで戦争に対する恐怖あるいは世界の孤児とされる恐怖によって動機づけられている。
◇にも拘わらず、これらの言動はこの根本の恐怖を鈍らせる。そしてそのことが実は問題なのである。
◇真の安全は恐怖の生き生きとした感覚が忘れられているところでは得られない。精神の強い者だけが恐怖を直視し、不幸を「仕方がない」と認めることができる。
◇単に、何かのせい、あるいは誰かのせい、という風に簡単に片付けたくなっている。暗黒史観はそのようにして生まれたのだろう。
■付録四 学校教育の危機、崩壊する家庭教育
平成十年の秋頃、元会社の同僚で今は経営コンサルタントとして活躍していた都村長生君に会い、彼の著作「なんしょんな香川 全三巻」(ホットカプセル(株)、香川県高松市、平成十年年二月)を寄贈された。その第三巻目、「なんしょんな香川 第三部 都村長生の最終提言」は、日本の教育システムへの問題指摘が中心課題でした。当時、私はその内容を要約して学生に紹介したことがある。
戦後教育による洗脳のプロセスの秘訣は、みんな「すり込まれている」という意識がないほどにまで完璧な多重の循環構造である。第二部最後の「これからのための提言」の一つは洗脳についての多重の循環構造をいかにして断ち切るかであるが、この多重の循環構造をこれほど見事に考察したものはないと思うのでここに要約して紹介する。
はじめに
◇文部省が教育産業を独占したために日本の教育現場が荒廃し、国の成長の芽が摘まれた。
序章
◇戦後五十年間の歪みが各所に噴き出しているので、一つ何か直したらうまくいくという話ではなく、ポーカーで言うと「総替え」が必要な状況。
◇今までの文部省主導の教育システムを延長して、微調整を施すくらいの教育改革をしてみてもまったく効果が期待できない。
◇文部省の規制のために学校教育産業に自由に参入できない。結果、教育を受ける人は選択肢が全くなくなっている。
第一章 学校教育の危機
一 文部省主導による価値観の画一化
◇多様化の時代に合わなくなった教育システム
◇「落ちこぼれ」という名の死刑宣告
◇オウム真理教と文部省、画一化された価値観を操る者
◇文部省は、大学のお金と人事を押さえている
◇誰も入れない大学ビジネス:新しい学科の設置も許認可事項
◇教育も民営化すべき:地域ベースで教育を民営化するしかない
二 日本に大学教育は存在しない
◇末期的な私立大学の経営:授業料はもう限界
◇悲惨な大学教員の質:競争がない世界、教育に力を入れない、ビジネスの経験もない経営学教員
◇大学は‘大卒免許の発行所’:単なる肩書きを得るための通過点としか評価されていない、親も期待していない
◇産業界からも見捨てられた日本の大学:金を出さないのも当然
◇日本に大学はない:「日本には大学という教育・研究機関はない」ことは、民間企業も親も知っている。みんなで暗黙のうちに合意している。
◇まとめ:文部省が戦後、護送船団方式のものすごい規制社会をつくった。その頂点に立つ大学を徹底的に管理し、思うままに操ることに成功した。誰も参入できない。競争原理が全く働かない。その中から、狙い通り画一的な価値観をもつ人間だけが生まれてくる。管理には大成功したが、結果、皮肉なことに日本には「大学教育」はなくなってしまった。
三 壊滅する中学校
☆「答教えて症候群(シンドローム)」:最近の受験では、制限時間内に「答」にたどり着くためには、考えてはいけない。ひたすら教わったことを条件反射的にこなし、あらかじめ教わった「答」に向かって突き進むしか方法がない。
◇残念ながら、この症候群への即効性の治療方法はありません。なぜなら、この病は戦後五十年かかってジワジワ進行した病気ですから、治すにも時間がかかるのです。
☆「答教えて症候群」第一期:(昭和四十年くらいまで)文部省の指示の下、学校の‘先生が媒介’となって「答教えて症候群」ウイルスを全児童に蔓延させた。
☆「答教えて症候群」第二期:第一期感染者が成長して母親となり、今は家庭の‘母親が媒介’となってひたすらこのウイルスを子供にまき散らしつつある。つまり、ウイルスは学校に止まらず、家庭にまで感染してしまった。
☆素直な子供ならともかく、いったん性根が固まってしまった大人(主として母親)の意識を変えることは、ほぼ不可能に近い。従って、まず今から生まれてくる子供の意識改革から始め、その子が親になった時、初めて効果が出てくる、そんな長期的な治療箋しか残されていない。これが、一般大多数の「体制順応タイプ」の生徒の最大の病根。
◇小中高教育にはユーザーに教育サービスを選ぶ自由は全くありません。従って、競争原理も働かず、知育偏重の文部省の枠組みから落ちこぼれた者の反乱が相次いでいる。
第二章 崩壊する家庭教育
一 現代の魔女狩り
◇母親が魔女狩りの使徒に:親が無意識のうちに加害者となってしまっている。画一化した価値観以外の考え方が現われると、無意識のうちに拒否してしまうまでに訓練されてしまっている。本来なら豊かな人間性を育むベースとなるべき家庭が、異端者をはじき出す‘魔女狩り’の場と化して、一億総「勉強せんか」現象が起ってしまっている。
◇本当に教育が必要なのは母親だ:文部省主導の画一的学校教育が、だんだん子供たちをおかしくしてきた。そして一世代めぐって育てられた画一の価値観を持った母親が、まさにそれに拍車をかけて走らせている。
二 家庭の役割か、学校の役割か
◇世の中のみんなが手抜きしてやりたくないことを全部先生がやらされている。
◇日本の家庭は社会のルールを教えない
第三章 的はずれの企業内教育
◇上司も「答教えて症候群」に冒されている。社長は一番重度の患者。行政もしかり。
☆「答教えて症候群」第三期:全国の会社員にまで広がり、かくして「答教えて症候群」は日本社会の中枢をも冒してしまった。
☆私たちはみんな、「画一化された価値観がすでに自分にすり込まれている」という意識がない。当然、「自分が媒介になってそれを子供や部下にすり込んでいる」という意識もない。