「教育を問う」を問う

要旨
2000年10月28日土曜日、日本経済新聞の朝刊7面に「教育を問う」という1週間にわたる日経特集記事に対する読者の意見として、僕の意見が採用され掲載された。
以下日経の掲載ページ -
「石渡慎一、29歳、会社員」の項

それは非常に短いものであったが、実際に編集部に宛てたメールはもっとながいものであり、ぼくの本当に言いたかったことは掲載分には本質的には反映されていなかった。ということで、このページで本当に言いたかったことを公開することにした。

1)まずは経緯から・・・
 
日本経済新聞10月23日(月)の朝刊に何気なく目を通したのが、事の発端だった。あまり世俗の事には興味がなく普段は新聞にほとんど目を通さないボクであるが、なぜかその日の晩は新聞を手に取った。そして1面に目をやったとき、そこに「教育を問う」というなかなか面白そうな記事を見つけた。日経らしからぬその記事に目を通してみると、それは、今の教育制度および若者たちに対する経済界からの不満という視点で書かれているものであった。「日本経済新聞」という新聞の性格上致し方ないことであるのかもしれないが、産業にいかに教育が奉仕するか、といった視点が非常に不満で、日経の編集部に1本メールを書いてやろうか、という闘志がわきあがったのであった。
 火曜日にはメールを書き終えた。全部で、A4用紙2枚分ほどの分量となった。ほんとうは、もっと書きたいことが山ほどあったのだが、論点がずれるとインパクトのないメールとなると思い、切り上げた。火曜の深夜、メールを送付した。
 このメールによって少なくとも日経編集部の人たちにボクのような考えを持った人間がいることだけでも知ってもらえればいい、と考えていた。しかし、自分が予期した以上に編集部は敏感に反応した。
 木曜日の夜、帰宅してメールチェックをすると、日経編集部からメールが届いていた。それによると、近々読者の反応を載せた紙面をつくる予定があり、そこにボクのメールの一部を載せていいか、というものであった。自分の意見が編集部からさらに世界へ伝えられることは大歓迎であったので、快諾した。当然、全文が載せられるわけがないので、どの部分が採用されるのか、それがすこし気がかりであったが・・・。翌金曜日に編集部から電話があり、どの部分が載せられるのかを大雑把に告げられた。自分の本当に言いたいところとは違っていたが、その部分もボクの意見の一つではあったので、承諾した。
 10月28日土曜日の朝刊7面、多くの読者の意見とともにぼくの意見が掲載された。

2)日経に掲載された文・・・以下が日経に掲載されたぼくの意見。

「人材を育てる」から「プロをとる」への方針転換は企業の身勝手。だれでも最初は初心者なのだから新卒者の能力は割り引いて考えるべきだ。むしろこの就職難が若者の目標や意欲をそぐ一因となっている。


3)送付したメールの全文書・・・以下が、メールした文書である。

日本経済新聞 「教育を問う」取材班 御中

前略
 私は29歳のある化学系メーカーに勤める会社員ですが、10月23日月曜日の朝刊の1面に掲載されていました「教育を問う1」について私なりに思うところがありましたのでメールいたしました。
 昨今の学生の学力低下や、活字離れは私自身も常日頃感じている部分ですので、現状の認識についてはの異論はありません。しかし、その原因の分析が少し違うのではないかと思われるのです。

 まず、今日の「知」のあり方をみてみると、非常に実学に特化しているといえないでしょうか?それは技術としての「知」であり、それがなによりも優先される、という時代の雰囲気があるように感じられるのです。別な言い方をすれば、金儲け(経済)に直結しない「知」が非常に軽んじられていると思われるのです。技術を教え込む教育は、ある技術の「結果」についてのみを教え込む教育となり、そのような教育は必然的に暗記重視の傾向になります。このような知の獲得は非常に無機的であり、殺伐としたものであると思うのです。何かを「知る」時にそれがどうしてなのか、どのようないきさつでこのような結果がでてきたのか、を考察するのが知る喜びになるのであり、またこの「どうして」「このように」が新たな創造への起爆剤となっていくのではないでしょうか。

 次に「育てる」から「プロをとる」に方針を変えた企業について
 この意見は企業側の身勝手なのではないのか、と思われるのです。それは、学生がある会社に就職した際にその会社での仕事がいきなりできるはずがない、と思われるからです。つまり誰でも最初は初心者であるはずなのです。当の企業を運営している側の人たちも、入社したときにはなにも知らなかったという人の方が多いはずです。今では多くの経験をへて多くの技術を獲得して、第1線で活躍されているでしょうが・・・。自分のことは棚に上げて、今の人材に対してそのような要求をする、時代が変わったんだ、というのならそれで終わってしまうでしょうが、やはりそこには少し腑に落ちないところを感じます。やはり、新卒者は少し割り引いて考えたほうがいいのではないでしょうか?この就職難が若い人たちの目標や意欲を削いでしまっている一因となっていると思われるのです。もし、新卒の即戦力が欲しいのなら、いっそその企業が自身の業務内容を教え込む学校でもつくってしまえばいいのではないでしょうか。もちろん、そのような学校には私は決して行きたくありませんが・・・。

 今日の若者たちの意欲のなさについて
 これについては、私にも当てはまる面があります。では、なぜ私たちにこのような傾向があるのか内省して考えてみます。まず、積極的に関われない理由の一つに「夢がなくなった」ことがあげられると思います。それはぼくらの世代以降の人々にとって、「一旗揚げる」ことはもうすでに夢とはなりえない、ということなのです。それは物心がついたときには経済的に充足されていた、という背景があると思われます。つまり物質的に豊かになることが直接的に幸福にはつながらないことを子供の頃から体験してしまっているのです。お金持ちになる(=高いステイタスを得る)ことが、人生の目標とはなりえないのです。
 さてそれでは、それに代わる何か明確な目標がなければ人間は意欲を持って生きていけなくなります。では、今日の世界にそのような目標があるか、答えは「否」です。高度にシステム化された資本主義社会の中には、そのような明確な目標を持ちにくい面があります。すなわち、全てのものがシステム化され、専門化され、断片化された社会においては、目の前を通るパーツしか見えてこないのです。すなち、何かを作っているときでさえその全体像が見えない、それはベルトコンベアの上を通ってゆく部品にしかふれることができない作業員のようなものです。全体像が見えてこなければ、自分自身がただ目の前の仕事をこなしているただの機械にすぎないような錯覚にとらわれていくのです。
 また、未来に対する漠然とした暗い見通しも、現実逃避に走り、刹那主義的なものを良しとする時代の雰囲気をつくりだしていると思います。今よりも未来はもっとよくなる、そう考えている人はあまりいないのではないでしょうか?これからの未来は今と同じか、もしくは今よりも悪くなる、と感じている人の方が多いはず。こんな時代の雰囲気を敏感に感じ取っているのが、いまの若い世代では
ないのでしょうか?
 ここに今日の若者の意欲のなさ(もしくはそう見える部分)があるのではないかと、私には思われるのです。

 さて、ここまで長々と書いてきましたが、もう一つ、教育は何のためにあるのか、を考えたいと思います。この記事の文脈では、日本国内の企業の体力を維持し、また国際的な競争に勝つために教育がある、と言っているように見えてきます。つまり、目的を失ったり学力が低下した今の若者たちは戦線で役に立たない傷病兵である、と聞こえてくるのです。はたして、教育とは本来そういうものだったでしょうか。教育とは優秀な戦闘員を養成することなのでしょうか。
 少なくとも私にとっての教育とは違う意味合いを持ちます。たしかにテクニックとしての教育という面が全くないわけではありません。しかし、私にとって教育とは人生を豊かにするもの(物質的な意味ではなく)だと、思うのです。

 以上が、私の意見です。まだ書き足りない面もあり、また拙い文章からうまく伝わらない部分もあるとは思いますが、この辺で筆を置きたいと思います。また、文中失礼な表現がございましたら、お詫びいたします。 草々
 

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