モロッコのオアシスで見かけたロバ。荷物背負って働いていた。

なんでロバなのか?

「ロバ」を見たことはありますか?
発展途上国に行けば、彼らをよく見かけます。彼らは大抵、こき使われています。自分の体より大きな荷物を背負わされ、うしろからついてくる人にむち打たれながら、よろよろした足取りで僕の横を通り過ぎてゆきます。そしてすれ違いざま、彼の悲しそうな目をぼくは見るのです。まるで世界の全ての不幸を背負って、そしてその運命の無情さに腹を立てたり、嘆いたりすることに疲れ、もうあきらめてしまったような悲しそうな目。
「ロバ」の鳴き声を聞いたことがありますか?
彼らは夕方頃になると、鳴くことがあります。その鳴き声は大きく、かなり遠くで鳴いているロバの声も耳にすることがあります。鳴き声は、激しく、そして長く続きます。「ヒーオウッ、ヒーオウッ、ヒーオウッ・・・」、こんな感じに聞こえます。その鳴き声も悲しそうな声なのです。さらに夕日が彼らの悲しみを引き立てています。
彼らを見ていると、ぼくら人間とオーバーラップしてくるのです。
ぼくらも悲しい存在なのかなって・・・。

 

 

なぜ、ぼくらは悲しい存在なのか?

ぼくらは生まれてきた。「生まれてきた」という事は「死」がある、ということである。
死ぬのは恐いから(どうして恐いのかは、今度ゆっくりと)、ぼくらは生きようとする。生きるためには体を維持しなければならない。体を維持するには、何かを食べなければならない。何かを食べるためには、食べ物を得なければならない。食べ物を得るには、働かなくてはならない。結局、働かなければ、死を回避できない。死を一時的に回避しても、歳を経てゆくと、確実に死は近づいてくる。結局、働くことで逃れられるのは、死ではない。死への猶予期間をのばすことだけなのである。
家畜であるロバには人間という主人がいて、彼に支配され、死ぬまでこき使われ続ける。
ぼくらは「死」という見えない主人に脅され、彼に怯えつつ、死ぬまで彼から逃れつつけるのだ。
その姿は、むち打たれながら重い足を引きずりつつ前へ進むロバと少しも変わらない。

 

だから、「ロバのティールーム」

ロバにも休息が必要なんです。
その休息の場が「ロバのティールーム」。ロバのための休息の場、それらぼくらにとっての休息の場でもあるわけです。
休息からは遊びや文化が生まれます。つまり「ロバのティールーム」は文化を生みだす(産みだす)サロン
創造しよう文化を。文化的な、本能とは密着しない非生産的な生産こそ文化
非生産的な生産とは肉体の呪縛から逃れたもの。
或るひとはこう言う。
「そんなのもやって、なんの徳にもならんだろう。金が儲かるわけでもなし・・・」
そう儲からないのが文化。浪費するのが文化。
しかし、ただの消費的生活とは違う、浪費しつつも役に立たないものを創り出すのが文化。
物質であれ、精神であれ、思想であれ・・・
つくろう!
文化的なロバに乾杯!!   (99年12月6日)

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