目次へ          2008/2/18アップ

 
体験談;その(1)「百聞は一見にしかず」
 昭和59年4月東播断酒会家族会報記載
   その(2)「平凡な毎日」    
 平成元年4月 県連記念誌記載
   その(3)「コップ一杯のしあわせ、それともふしあわせ」 
 平成8年 県連記念誌記載
   その(4)「私は何もわかっていなかったのです」 
 平成19年10月ほっとライン記載
過去に記念誌等に投稿したものもありますが、この度の機会に再度発表させて頂きます。

その1 「百聞は一見にしかず

 「今、何時かな。夜中の2時か。まだ朝まで5時間は眠れるな。中途半端な時間に目がさめたものだなあ、2合か3合なら飲んでも会社へ出勤出来るだろう。大丈夫だ。まだ5時間ある」台所へ行ってコップで冷や酒を2、3杯飲む。酒で自分を殺して眠る。再び目が覚める。午前4時。「喉が渇いたなあ」水道の蛇口をひねって水をガブ飲みする。「まだ出勤するまでに3時間ある。コップー杯のウィスキーなら大丈夫だろう」飲んで安心して又寝る。
 朝、目が覚める。頭がボンヤリしている。顔がむくんで、目がはれぼったい。「ビールの中ビン1本ぐらいなら」1本のつもりが2本飲んで、フラフラしながら駅へ辿り着く。電車に乗って新開地へ着く。駅から会社へ電話をする。「あのう今日、風邪を引いて頭が痛くて、すみませんが一日休ませて下さい」電話をかけ終わってホッとする。売店が目につく。ワンカップを2本買って飲む。朝の8時半。そのまま電車に乗って逆もどりだ。女房の作ってくれた弁当を持参したまま・・・。

 昭和57年3月、困り果てた妻が、断酒会のある事を知って連絡しました。そして、近くの病院へ一ヶ月間入院後、和歌山断酒道場へ2週間の研修に行く事に決定しました。
 百聞は一見にしかず。私の断酒へのキッカケはこの道場でつかみました。前科のある人、精神病院の常連者、家族を失い、友人を失い、信用を失い、そして失う物は目分の命のみという所まで追い込まれた人。いろんな人をまの当たりに見て「私も、このまま酒を飲み続ければ、いづれそこまで追い込まれるのだ。まだ私には妻も子もいる。今ここで酒を止めれば、まだ間にあう」と思いました。
 そして、道場から帰って会社に出勤して、今までの飲酒当時とは違った色々な物事が見えはじめて来ました。
世の中は、どんどん効率化時代となり、それに順応していけない者は落ちこぼれてしまう。現実は厳しくなるばかりです。
 私が、あのまま酒を飲み続けておれば、今の会社ではとうてい勤まらなかったと思います。酒を飲まないで皆と同じ様に働く事が出来るのです。
 断酒して2年、人並みに世渡りをしてゆく事がどんなに大変な事か、つくづく身にしみました。自由になりたいと思って飲み続けた酒が、逆に自分自身をどんなに縛っていた事か、今、本当に判りました。これも断酒会を知り、例会通いを続け、皆さんの体験発表を聞かせて戴いたからだと感謝しています。
 男なら有情の心意気で、女ならやさしさで、そして人間ならば思いやりの心をもって生きてゆきたいものです。
私の人生も、まだまだこれから山あり谷ありで、前途多難なものです。しかし、飲酒当時とは違って独りぼっちではありません。妻も子も、そして断酒会の仲間もいます。
例会へ“男同士の 相合い傘”で、これからも黙々と断酒してゆくつもりです。

その2 「平凡な毎日

  私の飲酒歴は、会にあって少ない部類に入ると思います。学校を出て、今の会社に就職して、量初のうちは問題飲酒もなく、どこにでもいる会社員の一人でした。26才で第一子をもうけた頃から段々と寝酒を覚え、28才で第二子が出来た頃はもう普通の飲み方ではありませんでした。
 「さみしがり屋」、「小心者」の性格なので、妻が子供の方ばかりに手をとられているうちに、私の方はどんどんとアルコール依存症の道をころがり落ちていったのでした。入会前が最悪の状態で、最後には幻覚も、振戦せん妄も出現して女房・子供をつかまえてラジオがうるさいとか、壁に文字が書いてあるとか、ぶつぶつわめいていました。
 その後、普通病院をへて、和歌山断酒道場へ2週間研修に行きました。ちょうど13周年の道場祭の頃でした。それから7年の歳月が流れ、現在は「平凡な毎日」を送っています。
飲酒当時は、こんな単調な平凡な毎日のどこがおもしろい、何か刺激が欲しい、何か変わったものが欲しいと常に思っていました。断酒している今「平凡な毎日」を維持するために、どれ程の忍耐と努力が必要かつくづくと骨身にしみます。
 今の考えは、反省することは大事だげれど、あまり過去にこだわっても駄目だし、先の苦労を今から指折り数えてもしかたないと思っています。
 家族が健康で、我欲にとらわれず、喜びをわかち合い明るい家庭でありたい。そのためには私が「断酒している」という大前提が必要です。これからも「平凡な毎日」のために、家族全員で頑張ります。
私の入院への門出となってしまうでしょう。
 後になつて思えば、あの時、我慢してよかったと思うでしょうが、その時は本当に自分のアル中体質がうらめしく思いました。

 その3 「コップ1杯のしあわせ、それとも、ふしあわせ

 私は、現在47才のアル中です。
 最近私がみじめな思いをしたことを書きます。それは、息子が大学受験に合格して、家族そろって、ファミリーレストランヘ行った時のことです。
普通の家庭なら、そんな時、父親は息子の合格を祝ってビールでもつて乾杯というところです。ところが私はアル中です。お酒もビールもままならず、仕方なくコッブ1杯の水で乾杯しました。くやしい、悲しい、みじめ、本当に「なんでやねん」と思いました。何年頑張って働いて来ても、コップ1杯のビールも駄目。本当にアル中は因果者です。そして現実は惨酷です。
 全国に何万人おるかわかりませんけど、皆このような普通のモンにはわからない、アル中だけにしかわからない、つらい、悲しい思いをしているんだなあと思いました。
 もちろん、こんな席で私がビールなど飲めば、家族は心配するだろうし、せっかくの合格祝いが
 コツプ1杯の水をふしあわせと思うか、しあわせと思うか、自分の心の持ち方ひとつ。
 今になつて思えば、あれはコップ1杯のしあわせだったのだ。
自分の家族のしあわせがあのコップ1杯の水につまっていたんだ。そして、自分は1杯のビールすら飲むことは出来なかったけれど、あのコツプ1杯の水が家族にとって幸福とやすらぎを与えてくれていたのだ。
 私は、これからもこのような気持ちを何回となく味わうことになるんだろうが、コップ1杯の水を飲んでいる限り、何回も幸福の時間を家族と共に味わうことができるだろう。
 全国のアル中の皆様へ、しあわせとふしあわせの境目は、コップの中に何がはいっているかで決まります。私も頑張ります。私も皆様と共に頑張ります。

その4 「私は何もわかっていなかったのです

 震災後、数年して私の勤めていた会杜も関西の不景気のあおりを受けて希望退職制度を導入いたしました。まあ、早い話がリストラです。
とにかく団塊の世代の多い会杜でしたから。
 このまま会杜にとどまっていても、上がり目もなく、また会杜にとって団塊の世代はお荷物だろうし、私自身も年収にみあうだけの働きもできないし、このへんが引け時と思い退職いたしました。平成12年の3月、その時、私は52歳の春でした。
 退職後、1年間は10ヶ月ほど失業保険をもらいノンビリしていました。毎日が天国でした。小銭があって暇があるのはいいものです。
でもそんな生活はそう長く続けられるものではありません。
 その後、新聞広告をみて仕事についたのでした。53歳の春でした。港の倉庫の仕事です。運送屋が持ってくる荷物を検品する仕事です。
 作業服を着て、安全靴をはいて、へルメットをかぶり、相手にするのはトラックの運転手でありフォークリフトの運転手であり、寒い日、日照の日、雨の日、風の日と天気の良い日ぱかりではありません。いままでの会杜勤めとはえらい違いです。
 ここまでお話がすすんできて、これから話しがどう展開していくのか賢明な皆様でしたら、もうおわかりでしょう。当たるかな?
そうです。私は何もわかっていなかったのです。50代からの転職がどれ程大変な事か。
前の会杜の時はネクタイをしめスーツ姿の一般的なサラリーマンだったのです。
お客さんの所へ行き必要書類を持ち帰ってきたり、電話で応対したり、いそがしいといっても、それなりの自分のぺ一スでいけたのです。
 28年ちかく事務屋しかしてこなかった人間がいきなり現場仕事についたのですから、本人の頭も体もビックリしてしまいました。
頭で考えて出来るだろうとおもっていたのが大きな間違いでした。
 現場の労働条件の悪さ、そして頭でゆっくり考えて、じっくり調べて対応するなどと言うことが許されない、いやおうなしにスピードを要求されること、本当にとまどいました。
 何と、まあ自分は頭でっかち人間だったのでしょう。
 こんなことを書きながら、私はふっと思ったことがあります。入院中の人が院内で退院したら、ああもしよう、こうもしようと考える。
 ところがさて退院してみたら現実と院内で考えていたことの違いにガックリする。
人間死ぬ気でやれば何でもできる。やってやれないことはない。根性だ。ファイトだ。
 そんなふうに、院内では意気込んでいたのに。
願望と現実とは違うのです。自分が想像していた自分と正味の自分とは違うのです。
そんなことは小学生でも、中学生でも、ましてや大人なら誰でもわかる常識ではないかと苦言をいわれそうですが、なかなか人間自分のことはわからないものです。
 お話は、本題に戻ります。
さて、そんなふうに現場職についた私はその後どうなったでしょうか。
結果がミエミエですね。普通まず駄目でしょう。
 ところがどっこい何と驚くことに、58歳になった現在まで現場仕事が続けられているのです。ここで初めて断酒会が七色の光線に照らされて登場するのです。

 33歳で断酒会にめぐりあい、その後例会通いして25年、しらずしらずのうちに私の中に忍耐、辛抱、我慢などと言う言葉が体験談を話すうち、聞くうちに自然と身に付いていたのです。たぶん、例会通いがなかったら現在の仕事は早々にやめていたと思います。
 そして、前の会杜にいた時のことをいつまでも未練たらしく思い出し、今の自分の境遇を嘆いてばかりいたでしょう。愚痴やぼやきの毎日で家族に八つあたりし、ひょっとしたらお酒に手を出していたかもしれません。
でも、そうはならなかった、何とか頑張れた、今日まで歩いてきた、本当によかった。
いろんな巡り会わせのおかげで、私はまず無理だろうと思ったことが出来たのでしょう。
それもこれも、まず断酒ができていたこと、先の不幸を心配するより、とりあえず今日一日の断酒を願って生きてきました。しかしながら、この先はまだまだわかりません。
年金をもらうまで、まだまだ遠いなあ、ながいため息を毎日1回はつく今日この頃です。
       ほっとラインニュース10月号より
                      
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