虹の会との出会い            目次へ

          神戸市断酒会 睦奥 茂樹

 過去酒を飲みすぎて、病院を転々とする中で平成5年垂水病院入院中に、足が痛いので他科受診に行かせてもらいました。足も痛いけどそんなものはどうでもええ、本当はライターを買って持ち込んで夜中にタバコを吸う事しか頭になかった。
「酒を止める!とんでもないことや」入院中にケースワーカーが「陸奥さん夜間の例会に行きませんか」と、俺に言ってきた。「お前アホか、長生きしたかったら断酒会の話はするな!」と言って、そのケースワーカーを睨み付けていた。
 病院の中では、賭け事の毎日でした。退院が決まれば、院内から電話で仕事を探していました。
退院したその日に従兄弟が来て「茂さんえらい目におおたのう、一杯飲みに行こう」と誘う。「明日面接があるから今日は少しだけ飲んで」と思って飲みに行く。一晩中飲み朝ボロボロになって帰ってくる。
家の中に転がるように入ると、父親が「もう一度飲みに行って死んでこいや!もうお前には愛想がつきた!」と怒る。俺は、父親に「すまん、明日から仕事に行くから」と言って又家においてもらう。しかし酒は自分が思うようには切れない。又、入院するが垂水病院は取ってくれないので、光風病院に入院する事になった。
 先生が「地域の断酒会にどうでも行きなさい」俺は「行きたくない」。仕方なく初めて断酒会へ行った。
 例会に行っても人の話が耳に入らない、時間が長い、それでも退院までに何回か例会に出席した。退院の条件は『断酒会に入会する事』でした。
 退院して断酒会に入会しても酒は止まらん。又、酒地獄、断酒会の人に病院まで送ってもらって「陸奥さん頑張るんやで」病院に俺のタバコ代まで置いてくれた仲間、「有り難いな。この人みたいに俺もなれるやろうか」と思う気持ちがあるのに又、裏切る。自分が情けなかった、酒におぼれて何回も入退院をするなかで、足がビッコ、手は痺れて整形外科に行く。少し良くなると又、酒を飲む。しかし、少し馴染んで来て3ヶ月断酒して再飲酒、4ヶ月断酒して再飲酒、そして1年と断酒している間隔が長くなる様になってきた。
 平成10年に身体障害手帳を貰った時、垂水病院で気が付いていればこの手帳はなくても良かったと思う。神戸にも5年前に『虹の会』発足したのに、俺は例会をよくサボリました。
これからは、虹の会にも頑張って出席しますので、断酒会の仲間の皆様宜しくお願い致します。 目次へ
           
 断酒新生ゼロからの出発

              西播断酒会 上山 安博

 15才の時、父のウィスキーを盗み飲みして、アルコールの魅力にとりつかれてしまった。特別きつい酒のカァーとなる喉越しの良さとホロッと酔う酒の虜となってしまった。
 友達の中でいつも中心で飲む楽しい酒だった。いくら飲んでも酔わない、崩れないそんな酒でした。そんな事が、自分にも、家族にも、酒に対して誤った考え方をさせてしまった。
 残業の時でも、普通の職員には弁当が出る中、自分にはワンカップが出ていた。
「ガソリン入れて頑張ってな」平気でそんな会話があった。家族も同様、ろくな趣味も持たない自分に酒を飲ましてやる事が、最大のもてなしとなっていった。
 そんな自分の酒に変化が、現われ始めたのは30才を越えてからだった。前日の深酒が残りはじめ、仕事を特に月曜日に決まって休むようになる。色んな嘘をついた。当たり前のように親戚を何人も殺した。隣保で嘘の葬儀を何件も作り上げた。
「また酒飲んで休んでいる」同居の父母とのケンカが絶える事がなかった。
 父も酒を飲んでいるので、襟首をつかんでのケンカも何回もあった。家の雰囲気は本当に暗いものとなっていった。

 13年勤めた会社を辞めてからは、酒の止まる事のない連続飲酒が、急性肝不全で倒れるまで3ヶ月続いた。
 足の不自由な母親の押入れに焼酎が隠してあった。母が松葉杖をついて部屋を出るその音を聞いて、2階から、駆け下りて、焼酎をラッパ飲みで胃に流しこんで2階に上がる。でも又すぐに次の酒が欲しい。
頭の中には飲むこと以外の事は無くなっていた。子供の貯金も盗んだ。
 家で飲めなくなると、当時、消防の部長をしていたのをいい事に詰め所に閉じこもっての盗み酒が始まった。詰め所にはたくさんの酒があった。電気もつけず、月明かりで酒だけを飲み続けた。
 自分の姿が惨めであった、情けなかったけど、どうすることも出来なかった。娘が腰にしがみついて「お父さん、お酒止めて」泣きながら頼んできた。「わかった」力なく振りほどき、2階へ駆け上がり、隠しておいた酒をまた流し込む生活が続いた。
 しかしながら、最後には身体が酒を受けつけなくなった。飲んでもすべてを吐いてしまう、そのうち尿が出なくなった。出てもコカコーラの様な色の尿が2・3滴出るだけとなった
酒害に苦しむ妻には、自分の変化は、わからなかった様であるが、子供は、目や皮膚に黄疸が出ている事に気がついていた。
 地元の医師に急性肝不全の診断を受けて、総合病院へ緊急入院となったが、自分には、中央処置室から病棟へ移されてからの記憶が全くない。離脱症状から大暴れした後、腎不全を併発、やがて全機能不全となった。今夜がヤマと言われる中、なんとか命だけは助けてやってもらいたいという家族の希望から、担当医は2回の透析に踏み切ってくれたその決断のお蔭で自分は、奇跡的に命を助けて貰う事となる。
 その後、自分は当時宍粟総合病院に勤務されていた、原田先生(現アサヒ神経クリニック院長)からアルコール依存症であることを告げられた。
否認することは全くなかった。何故ならば、先生から渡された依存症に関する資料は、全く私自身の姿だったからだ。その後、兵庫県立光風病院に3ヶ月の入院によって、酒の恐ろしさ、依存症の恐ろしさを教えてもらった。

 退院後は、妻がアルコール相談で出合った赤松氏(現姫路断酒会会長)の導きで姫路断酒会に入会して、自分の第二の人生がスタートした。
 健康も信用も職も全てを失った本当にゼロからのスタートとなった。家族、仲間に支えてもらって今の自分の断酒が続いている。笑い声の全くない、暗い我が家に笑顔と笑い声が帰ってきた。あの命を失いかけた日から、私は本当に数え切れない方々に助けてもらい支えて頂いて今、生かして頂いている。これからは宍粟の地で酒害に苦しむ人々の為に助けて頂いたこの命を存分に使って頂きたいと思う所存です。

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