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 私の体験談

           西宮断酒会 会長 高見 勉

 労組OB会、定期総会等の司会者Dさんは、大の酒好きで、4年前の司会の時、言葉がもつれ、挙句の果て、壊れたレコードの様に同じ言葉をグルグルと・・・。傍の役員が見かねて、司会交替の一幕となった。
 今年の総会では、立派に司会を務め終えた。
休憩時間にその彼と顔が合って、酒の話になり「高見さんは、よう酒が止められたな!」と言ったので、「私の酒は、止めな命取りになる酒だったので」と答えた。

 話せば長いのですが、18歳で鳥取の工業高校を出て大阪の会社に就職しました。
 当時、昭和30年ごろは、活気のある、いわゆる高度経済成長期に入った頃で、職場の先輩達は、皆と言っていいほど若者ばかりで酒は飲めのめ茶釜で沸かせ≠ニ血気盛ん。
 仕事が了わると、帰りに、大福帳の置いてある、ツケのきく立ち飲みやで、ワァーワァー気勢を挙げてから各々別れ、気の合った者同士で二次会、そして自分一人になったらスタンドバーで、流しのギターにチップをはずんで、又また飲む。
宿直当番が月4回あったが、各課の4〜5人で深夜まで、飲んで議論し果ては手拍子でドラ声を合わせて唄ったりしていた。
 27歳の春に組合の分裂があって、会社の労務に年末の休暇に入るまで、毎朝まいあさ抗議して、出勤時間に入ると就労する。心労が重なって酒を益々求めた。年末年始の休暇に入ってやれやれと開放感に侵ったのもつかの間、妻の実家、私の実家、そして鳥取から山陰線を汽車で山口の美弥へ。妻の兄の住む炭住へ訪れて、この間は酒から開放されなかった。
 山口から西宮へ帰り、阪急門戸厄神の自宅へ向かう道で母親の首から上の青い顔が現れた。ぞくぞくっと悪寒がし、高熱が出て何日かベットに寝付いて、様々な幻視、幻聴の幻覚に怯えた。
 それ以来、47歳まで入退院の繰り返しで、自分でも何回入退院したのか勘定出来ない。
 自殺未遂3回、4階の窓から飛び降りようとして、幸運な事に窓枠に顔をぶつけて、部屋の内へ落ちたので死ねなかった。
 今、思い出すとゾーとするが、それでもその頃は酒が原因とか依存症とかは知らなかった。
 最後の入院となった47歳の秋、奈良○○病院、N先生の勧めで大和郡山の内観道場へ無言の10日間の内省
 アルコール依存症について無知だったが、同病院の心を病む人から借りた雑誌で、アルコール依存症自己診断の20ヶ条を見たら、全て当てはまっていた。
 自分には、断酒以外にないと言う事が解って、其れより70歳の今日まで、断酒会へ入会し、例会出席と趣味とボランティアで、忙しく又充実した日々を過ごす事が出来ております。

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 私の居場所〜アメシスト作業所〜
            兵庫県連アメシスト    池畑 寿江

 成人式を迎えた頃から私の酒は年々可笑しい飲み方になり、加えて薬物中毒も重なり二十二歳から入退院が始まりました。前の夫には償いきれない傷を負わせて離婚となり実家へ出戻りました。
 出戻った私を待ち構えていたのは「酒・覚醒剤」を挟んだ両親との戦いでした。両親は片時も気の休まる時がなかったでしょう。
 断酒会を紹介されて両親と三人四脚で通い始め、両親が心の荷物を降し始めたのは「束の間の安らぎ」と言うものではなく「束の間の休戦」状態だったのです。
 その休戦は間も無く破かれ、断酒会を歩く中で後に結婚する今の夫と出会い「酒・覚醒剤」で泥沼に落ちました。
「酒・覚醒剤」の乱用で私は死の淵に立ち、己を忘れた・・・。
 紆余曲折があり、今は夫と二人三脚で断酒生活が送れています。この生活が送れる様になったのは、震災後に酒害者救援の為に明石の地に設置された『作業所あかし』の存在でした。
 『断酒会』とは私にとって特異な世界でしかなく、通うのが苦痛で堪らなかった・・・。縁あって作業所へ通所し始めたのですが、その空間は非常に居心地が良く、生活の知恵・断酒のコツが落ちているんです。作業所は、断酒し始めの夫婦の大きな力となりました。
 作業所が神戸に移り、アメシスト作業所も開所してから四年が経ちます。女性の酒呑みと言うことで好奇の視線にさらされる私達女性酒害者には居心地の良い空間です。
 断酒を継続するコツを掴み、飲酒時代は「人より酒」が良かった私はいつの間にか「酒より人が良い!酒の無いのが良い!」と思えてどんな事にでも頑張れている『私』がいる。
 アメシストの出会いは宝物です。

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アルコール依存症とギャンブル依存症
 
        
神戸協同断酒会 会長本村敏雄

 私の断酒は、長男が中学3年、次男が中学1年、長女が小学4年生になった昭和63年6月からはじまりました。同年4月に神戸協同病院の半日ドックを受診し、同年6月24日同病院のアルコール特診、中田先生から「3人も子供がいて41才の大事な時に、お酒を飲んでいたら家庭内暴力がはじまって家庭崩壊してしまいますよ」と、アルコール依存症を宣告されました。診察後、その日の院内例会に出席して、お酒を飲み続けていたら例会出席者のようなひどい状態になるのかとびっくりしました。当日の例会の印象があまりにも強烈だったので、現在まで断酒継続することができています。

 私にはもう2つギャンブルと買い物依存症があります。 19才からはじまったパチンコ、23才からは競艇、競馬、競輪、宝くじと株式投資のまねごとと段々エスカレートして行きました。断酒会に入会するまでに数百万円つぎ込んでしまいました。
 中田先生の診察の中で「酒とギャンブルを断酒会に出席してやめるように」と勧められました。けれども、断酒会でお酒は完全断酒できましたが、競馬はすぐに止めることができませんでした。お酒の飲めない憂さをギャンブルで晴らそうとしたのだと思います。現在住宅ローンとギャンブルの借金をかかえています。
 平成7年の阪神淡路大震災で自宅が全壊し、家を新築する資金を宝くじで調達しようとして、その一部を手に入れたことが、深みにはまる結果になりました。

 アルコール依存症の病気の怖さは、止め続けないで、飲み続けると以前よりさらに悪い状態になってしまうという事です。その現実は、一泊研修会や各地の断酒学校での体験談で繰り返し聴き、見て来たはずですが、私は、ギャンブルをやめ続けることができなくて、ギャンブル依存症の症状は進行して、平成16年末に貰った退職金の一部にも手を出してしまい、娘と長男の結婚祝いしてやることが出来なくなって、ついには、サラ金にまで借りに行き返せなくなってしまいました。
 女房から当然、離婚を言い渡されると思いましたが、なぜか、女房は自分の生命保険から貸付を受け、サラ金の借金を全額清算してくれました。今も、ただ、ただ感謝しています。

 昨年3月から、神戸協同断酒会25周年記念例会をアピールするために、朋友断酒会の例会でギャンブルの失敗談を語らして頂く事で、2008年5月18日の25周年記念例会をどうにか乗り越える事が出来ました。
 こんな2つも3つも依存症を抱えている人間が、断酒会の会長を続けているのは、ふさわしくないと思い、当会顧問の中田先生申し上げた処「飲酒したわけではないから会長を止めなくて良い」と言われましたので、現在も会長として置いていただいています。

 今年こそ、トリプル依存症をそのままに、41歳で出会った断酒会人生を、本当の断酒人へと進化させる努力を、2009年の決意と致します。

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