るべくしてなったアルコール依存症
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 尊敬する父の死が引き金

NPO法人兵庫県断酒会 副理事長 松田克司

 私は農家の、弟・妹のいる長男として生まれた。昔からの小作で、父には兄弟が多く、大家族で貧しい家庭であった。救いは皆が真面目で働き者であったということである。昭和18年生まれで、物心が付き始めた頃は物の乏しい敗戦後であった。こぼした飯粒を叱られながら拾って食べたものである。大多数の国民が、空腹を満たすのが精一杯の時代であった。

 父は戦争で死地をさ迷ったせいか、寡黙で温厚な人であった。それに反し、母は短気で気性の激しい人であった。なぜか私は、母の不満の標的になっていた。小さい頃のことなので原因は定かでないが、目を吊り上げて怒る母の顔が、未だに忘れられない。

 父は、三交代制で神戸の鉄鋼会社勤務と農業の兼業で、食事の時も顔を合わすことはほとんどなかった。母は、野良仕事の合間をぬってカマス織りに励んでいた。小さい頃、母には何回もたたかれたが、父から手を掛けられたことの記憶はない。そんな訳で私は、母に対する恐怖心と逃避癖が植え付けられて行った。給料袋の封を切らずに母に渡し、自分では金を持たない主義の父に、「お母ちゃんに、必要な金を出すよう頼んでくれ」と、言うようになっていた。母に言うと、どんなに必要な金でも「ぎょうさん金ばっかりいる。いらん金使うたらあかんで」 黙ってくれたためしがなかった。

 いつの頃からか母を避け、夜勤で昼まで寝ている父が起きてくるのを待って、何事も相談するようになった。余り物を言わない父であったが、子供の事を思ってくれていることは、肌で感じた。「この父が喜んでくれる事なら、何事であろうと頑張らなあかん」という気になったものである。

 父や母の働きによって、幸い大学まで行かせてもらった。『社会科学研究会』に入り、読書するうち、学問への憧れを感じた、学生運動や学習会に明け暮れた学生生活であったが、学問への憧れは卒業しても消えなかった。

 祖父も祖母も亡くなり、妹は結婚し、弟は父と同じ会社に就職して寮に入っていた。田舎の家は父と母の二人だけになっていた。神戸に下宿していたが、農業が辛いだろうと思い、家からの通学に代えた。大学も何とか卒業し、近くの市役所に就職した。まだ読みたい本も沢山あったし、余暇のとれる職場を選んだつもりだった。

 ところが就職してそんなに日にちがたたないうちに、父は、夜勤帰りの途中、車に撥ね飛ばされて即死したのである。享年52、私は25歳であった。信頼し慕っていた父が急逝したことで、胸の内の心棒が『ポキリ』と音を立てて折れたようであった。逃げ出したい、逃げ出したいを思っていた母と二人の暮らしになった。

 大学へ行く前は酒を飲んだことはなかった。大学に入って機会があれば飲んだし、また強かった。酔った時の気持ちの良さも知った。父の死んだ次の日から、毎晩酒を飲んで寝るようになった。精神安定剤と睡眠薬としてである。酒が、傍に寄り付き離れなくなった。年を経るごとに酒に溺れて行った。

父の死後二年で市役所を退職した。金儲けを考え、一升瓶片手に商売の道に進んでいった。藍陵園病院に入院し、断酒会にたどり着くまでの16年間は、酒との闘いの日々であった。

 アルコール依存症になり、断酒会で体験談をたくさん聞かせてもらった。また、歳も取ってきて、この父と母がいたからこそ今の自分がある、と言うことが分かってきた。若い頃は、誰の世話にもならず、自分が勝手に大きくなったような気であったが、両親とも勤勉で、節約家であったお蔭で、60を過ぎた今まで経済的な苦労は余りせずに済んでいる。感謝してもしきれない。
 この病気は、なった後の行動の反省を語ることも大切であるが、依存症になる原因を作った幼・小年期の周りとのかかわりあいを語ることも、また、大切なことだと思う。

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 酒に救いを求め、酒に破壊された
離婚した妻に救われた
 

         NPO法人兵庫県断酒会副理事長 星丸 道

                                               
 アルコール漬けが極限になると食べ物が喉を通らなくなる。押し込んでも吐き戻す。飲みたくて仕方がない酒でさえ、飲んでも飲んでも吐き出す。
すべてを吐き出すと、胃がけいれんしたように収縮して黄色い胃液が搾り出される。すべてを受け入れなくなった後に幻覚が始まる。
シミが無数の虫になってボトボトト落ちてくる。室内灯のかさが巨大な蜘蛛になり、コードが吐き出した糸のように伸びて、体をぐるぐる巻きにする。
 幻覚からさめてみると病院のベットの上で手足を縛られていた。

 酒が人生のすべてで、周りから忠告されると「酒が飲めれば死んでも本望や」と強く見せていた。36歳の時会社が倒産した。酒にだらしないところがあっても、仕事ぶりを評価してくれていた会社だった。骨を埋めるつもりだっただけに、失望し落胆した。

 アルコール依仔症は本人だけの問題ではない。周囲も巻き込む。一番の被害者は妻と2人の子供だった。晩酌の邪魔になれば子供たちを追い出し、持ち金がなくなれば子供たちの小遣いやお年玉を盗んで飲んだ。酒を飲みながら息子の野球の練習にしゃしゃり出たり、泥酔して学校の正門で寝込んで、パトカーのお世話になり家族に恥をかかせた。自責の念にさいなまされないように常にアルコールが体内にあった。アルコールがなければ正常と思えない身体になっていた。酒に救いを求め、心身は酒にむしばまれていった

 43年前、16歳だった。ゴールデンウィークの初日、オートバイで事故。同乗の友達の死亡。仕事に打ち込んだが事故の記憶は振り払えず、酒をあおった。泥酔すれば一時的には心痛から逃れられたが、酔いが覚めればむしろ鮮明によみがえった。「あの時、調子に乗ってスピードさえださなければ・・・」ますます酒にはまった 

結婚して二人の父親にはなった。が、酒の魔力には勝てなかった。酒びたりの毎日の中、福岡へ追い返されてしまった。誰もいない実家で、食事も取らず酒だけの生活で、水も受付なくなった。姫路にいた姉が親戚から連絡を受け、呼んでくれた。幻視幻聴のうちに何とか姫路にたどり着くが、気が付けば揖保川病院で手足を縛られていた。さらに離婚成立の連絡を受けた。

 精神病院へ放り込まれたと母や姉を恨み、妻を憎んだ。「退院したら働いて見返してやる」と決意したが、退院して仕事を始めると「一杯ぐらいは」という甘い考えで再飲酒が始まった。「関西がだめなら関東があるさ」で東京へ行くが、酒のために逃げるようにして元妻のいる尼崎に帰ってきた。新幹線の中から酔った勢いで電話した。家に行くと子供たちは逃げていた。妻もすぐいなくなった。腹が立って家中をひっくり返し、暴れまくって疲れて寝てしまった。

 帰ってきた元妻に二人で死ぬことを望まれたが、断った。死ねば酒が飲めなくなると思ったからだ。節酒してまじめに働く約束で小さなアパートを借り、一人暮らしが始まった。毎日食事を運ぶ元妻に、まずい、冷たい、遅いと難癖をつけ、食事を投げつけたり、ぶっつけたりの悪行三昧だった。

 1年が過ぎた昭和63年11月、酒が止められなくなり、栄養失調で一般病院に入院した。長女が見舞いに来て言った。「お酒を飲んでるお父さんの命なんて、私達にはどうでもよい」「離婚しながら面倒見てきたお母さんの気持ちを考えて下さい」「私達はぜいたくを言っているのではない。ただ、普通の生活がしたいだけ」。

 あれから17年。断酒会のお蔭で妻とも復縁し、2人の孫にも恵まれている。
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惨めで・恥ずかしい体験談を話して
13、
流れ出る熱湯のような涙


        NPO法人兵庫県断酒会 副理事長 松田圭司

  貧しい生活
昭和19年、戦時中樺太から東京へ引き揚げて来ましたが、空襲が激しくなり、父の故郷の大分県佐伯市へ、さらに熊本県阿蘇の山村に疎開しました。昭和20年7月「松田為夫36歳、6月17日沖縄仲座にて戦死す」の通知が来ました。

 当時母(29歳)、姉(9歳)、私(8歳)、妹(6歳・3歳)の家族でした。父の戦死の通知の翌月、戦争は終わりました。8月15日、天皇陛下の玉音放送が何度もラジオから流れました。内容はよく分りませんでしたが、次の文句がいまだにシコリの様に頭に残っています。『シカレドモ、チンハ、ジウンノオモムクトコロ、タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ、モッテ、バンセイノタメニ、タイヘイヲヒラカムトホッス』 私は「これ以上耐え、これ以上忍べというのか」と思い、この放送をたまらなく憤りの気持ちで聴きました。 終戦から間もなく、私たちは親戚でもある、父の勤めていた建設会社の社長のお世話で、別府市内の社宅に住まわせて貰いました。しかし、母の収入はほとんど無く、質屋通いで食いつなぐ生活でした。新聞やラジオは、ネコイラズによる一家心中を報道していました。母は、「あの様にして死のう」と姉と私に何度も言っていました。私は「こんなに貧しく苦しいのなら、死んでもよい」と思っていました。

非行に走る

 私は社会に対する異常な反抗心が沸きあがり、非行に走りました。よその畑の農作物を盗んできて「これよその人に貰った」と嘘をついて母に渡しました。万引きや空き巣狙い、引ったくりなど何度もやり、警察官やMP(軍隊の警察)に捕まり、別府の警察署に連れて行かれました。 その頃、母は韓国の人と結婚し、二人の弟と妹が出来ていました。義父は警察署まで、何度も身柄引き受けに来てくれました。しかし、私の非行は止まりませんでした。非行少年ということで、別府市立青山中学校を一年生の終わりごろ退学処分になりました。

    勘当され祖父を頼るが・・・・

 親戚中の人達が「圭司を家に置いとったらいかん。親戚中の恥さらしや」と母に迫り、家から勘当されました。ボストンバッグと風呂敷包みを持って父方の祖父を頼って、佐伯市の近くの蒲江町という漁村に行きました。母が祖父の反対するのを聞かずに韓国の人と再婚しましたから、祖父とは絶縁状態で、孫の私も受け入れてくれませんでした。昼頃祖父の家に着いたのですが、どうしても家に入れてもらえませんでした。私は「自分の行き場所はここしかないんや」と思い、夜になっても、寒さに震えても立ち続けました。

 家の前の道からすぐ横は蒲江港でした。道行く人は不思議そうな、哀れそうな目で私を見ながら通り過ぎて行きます。悲しさと恥ずかしさと寒さで堪りませんでした。六十余年の人生の中で一番つらい出来事でした。夜の8時頃、家の隣の漁師の奥さんが助けてくれました。祖父と交渉してくれて、その奥さんの屋根裏に住まわせてもらうことになりました。漁に使う網や、浮きに使うガラス玉やロープが干してある所でしたが、天国にでもたどり着いた様な気持ちでした。

 私はそこで自炊しながら中学校に通い、一生懸命勉強して、大分県立工業高等学校に合格しました。そして、サツマイモとジャコだけ食べての苦しい、淋しい2年間の生活に別れを告げ、母たちとの生活に戻ることが出来ました。2年間で一粒の米も口に入れておりません。

高校生、焼酎を飲む

 ところが、高校に入学した頃から義父の作っているヤミ焼酎を盗み飲みするようになりました。高校の授業についてゆけなくなり、焼酎を飲んでは学校をサボりました。朝飲んで酔って学校へ行き、何度も謹慎・停学処分を受けましたが、ある日酔って机を投げ倒すというとんでもない騒動を起こして、高校3年の時、退学処分を受けました。しかし、市の有力者や友達の支援によって、3年後に卒業証書を受け取りました。当時は、たかが1枚の紙切れと思っていましたが、資格取得では大変役立ちました。友達には感謝しております。 前述の親戚の建設会社に就職し、現場監督として10年ほどトンネルを掘ってきましたが、酒癖が悪いという理由でクビになりました。東京から別府までの切符を買って夜行列車に乗りました。大阪駅で途中下車して大阪の町を飲みまわりスッテンテンになりました。

お父さん、一緒に死んで下さい

 昭和40年代は人手の売り手市場で、黒四ダム・奥只見ダムの現場監督と言えば、中小企業はどこでも採用してくれました。この大阪で、私は酒のせいで三十数社の建設会社を転々としました。やがて現在の妻と結婚し、子供が二人出来た頃から酒を止めんといかんと思うようになりました。しかし止まりませんでした。サラ金で莫大な借金をして飲んでいたのを妻に見つかり、「お父さん、私と一緒に死んで下さい」と妻に頼まれ、妻の運転する車に乗りました。妻は、川西市一庫ダムの知明湖に、車ごと飛び込むと言って知明湖の周回道路を走っていましたが、急に車を止めて「お父さん、もう一回頑張って酒止めてくれない?」と言うので、「うん、そうする」と答えました。助かった!と思いました。しかし、家の駐車場に帰りついた途端、「二百二十円ちょうだい」と言っていました。

嫌な断酒例会

 それからは前にもまして荒れた生活になりました。三十数回入退院を繰り返し、一般病院はもう受け入れてくれません。妻が池田市の保健所に相談し、高槻市の新阿武山病院へ入院が決まりました。妻は病院まで連れて行き「あんたは一生、この病院から出て来んとき」と言って帰って行きました。観察室のベッドに茫然と座っていると、「もう、自分の人生は終わってしまった」と言う絶望感がこみ上げて来ました。今は亡き主治医の今道先生や坂本ケースワーカーに言いました。「入院は承諾するけど断酒会には入りたくない」と。それでよいと言われましたが「入院中、最低三十回は例会出席しないと、退院させられませんよ」と言われました。仕方なく印鑑をもらうために病院から例会通いを始めました。二時間がとても長く感じられ、他人の話を聞く気になれませんでした。ただ、自分の名前だけを言って座っていました。

熱湯のような涙で覚醒

 そんなある日の例会で、何とももの悲しく、たどたどしい一人の酒害者の話を聞きました。私もつられて、思い出したくも無い、哀れで、惨めで、恥ずかしい話を少しずつしゃべり出しました。次第に涙が溢れ、声がつまり、聞いている人には何をしゃべっているのか、分からなくなったと思います。ついに絶句して座ってしまいました。不思議にも会場の皆さんから、絶大な拍手をいただきました。他人に、自分の過去をしゃべってしまった事と、涙を流した事の恥ずかしさで、顔を上げることが出来ませんでした。

 例会が終わり、逃げるようにして会場を後にしましたが、電車の中でも涙が止まりませんでした。眼球の奥が焼けるように熱くなり、流れ出る涙は、熱湯のようでした。しかし、なぜかとても爽やかな気持ちになりました。何かが身体の中を下から突き上げて来るのを感じました。「そうや、断酒会に入って酒をやめるんや!」と言う強い気持ちになりました。

 思い出したくも無い悲惨な、そして恥ずかしい過去を語ることで、心が洗われてゆくように思いました。入会して丁度満十二年になります。お蔭様で一度の失敗もありません。これからも断酒し続けて、新しい人生を生きて行こうと思っています。

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阪神淡路大震災で再飲酒の危機

仲間の力でふんばれた

                     神戸市断酒会 男性50歳代                 
 断酒会に入会したのは、平成5年4月8日。あれから3年10ケ月がたった。長いようで短かかった。
 断酒断酒、例会出席例会酒席、嫌な毎日だった。
酒を止めるだけでもしんど
いのに、嫌な過去を思い出させる。
 私は話をするのが苦手。小さい頃から
どもり″。素面で人前で話すのは嫌だった。

 抗洒剤を飲んで酒がとまった。宋神経科クリニックで抗酒剤の説明を聞いたが誤解して、「明日から断酒で頑張るぞー。今日が最後や」と、夜飲んだ。七転八倒すること4時間。死ぬ目にあった。やっと抗酒剤の怖さが分かり、酒がとまった。

 昼は、宋神経科クリニック、夜は断酒例会、土曜・日曜は記念大会・研修会など。断酒2年4ケ月に危機が訪れた。
 平成7年1月17日、阪神淡路大地震。その日早朝5時に起きて、自転車に乗って神戸市断酒会の事務局に
急いでいた。2日前にサブグループ・シングルの一泊研修会を終え、その時のスピーカー・マイクを返しに行く途中だった。ドーンときて自転車ごと転んだ。乗ってもまた転んだ。
 飲酒時代は自転車で転んだことがよくあったが、「酒を飲んでいないのに、何で転ぶんやろ」 さっぱり分からなかった。その場で棒立ちになった。何がなんだか分からなかった。茫然と自転車を押しながら信号を渡ったが信号は全て消えていた。道路がピラミッドのように盛り上がっていた。
こからともなく、「地震や、地震や」と声が聞こえてきた。やっと地震だと気付いた。
 アパートに帰ってみると、倒壊はまぬがれていたが建物は傾いていた。夜の9時10時になり、余震が襲う度に弱気が頭をもたげてくる「酒を飲んだら楽に寝られるのに。飲もうか。待てよ。せっかく2年もやめているのに、もたいない」
 夜になるたび苦しんだ。そんな時、シングルの仲間から電話。「飲んでへんか。大丈夫か」普段の例会が電話に替わった。お互い電話を掛け合い近況報告しあった。昼は仲間の家に行き励ましあった。

 例会場に使っていた公共の施設は、みんな被災者の避難所になった。例会が開けなくなった。先輩達が駆けずり回って、精神保健センター、光風病院、垂水病院を借りて例会が再開された。地震の2ケ月後だった。
 支部の旗と出席証明のゴム印を持たされ、仲間と一緒に例会回りをしているうちに危機″は、どこかに去っていた。その内ポートアイランドの仮設住宅が当たり、しばらくして復興住宅が当たった。飲酒時代の
ドロドロであったらと思うと、ゾツとした
       神戸市断会『のじぎく』 平成9年2月

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16、子供の涙の跡を見て断酒を
      決意した

                                         尼崎あけぼの断酒会会長  島本康則

 
私は、百貨店の販売の仕事をしていたのだが、晩になると金に糸目をつけずに呑みまくっていた。サントリーレッドのWサイズを酒屋で呑み、帰りに尼崎の大物歩道橋で、上から下まで転げ落ちた。血まみれになったが、サントリーレッドが割れていないのを見て、にっこり笑っていた。ついに岸和田の精神病院に入院した。
 嫁さんはそんな生活が嫌になったのか、私が世話をしていた男と逃げてしまった。私は男と嫁を殺そうと一生懸命追っかけまわした。そんな中、私の乗った乗用車がトラックと衝突し、顔は変形し、鼻や口がぶらさがるという重傷を負った。八歳、三歳、一歳の男の子供がいた。退院して酒を買いに二階から階段を降りかかると、子供たちが私を見つめていた。涙の乾いた跡がはっきりと判った。これが断酒のきっかけとなった。
 仕事をしながら子供の面倒はみれないので加古川の養護施設に預けた。断酒会に入会していてもそれほど真面目ではなかった。しかし、たまたま交通事故の現場に立った時、子供が「何で家に帰れんの」と泣いているのを思い出し、「これではいかん」 それからは例会に真面目に取り組むようになった。まもなく今の嫁さんが来てくれて、子供も引き取った。今では三人とも独立し、九人の孫が出来た。断酒継続三十二年のお蔭である。 

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 デジタル人間から

     アナログ人間へ

                  
               前兵庫県断酒連合会会長 田所溢丕

   白か黒か、灰色はない

 
 デジタルカメラがもてはやされているが、私は50年も前からデジタル人間である。つまり白か黒か、YESかNOか、ゼロか1かという価値観を持って歳を重ねていったのである。
 白と黒の間、灰色という考えがない。白と黒を混ぜれば灰色になるが、混ぜ具合によっては無数の灰色が出来る。これがアナログである。何故デジタル人間・デジタル思考になったかと考えると、どうも母親の影響が大きいと思う。

   厳しい家庭教育
 
 昭和20年代の貧しい時代であったが、母親は今で言う教育ママ。私は姉1人男4人の末っ子で、母親から可愛がられると同時に厳しく育てられた。「努力すれば必ず報われる」「絶対あきらめたらいかん」「山中鹿之助の、願わくばわれに七難与えたまえ、を見習え」と小学校低学年から言われて来た。

 母親がなぜか私に期待をかけたのである。当時私は、左利きで器用に自分のおもちゃは自分で作っていた。それを見ていた母親が、私を外科医にしようと考えた。そのため大学まで一貫教育のある中学校(慶応義塾・普通部)に入れようと考えた。それはかなり難関であった。家庭教師までつけられて勉強に励んだ。その甲斐あり見事合格するのであるが、外科医にはならなかった。歯科医である父親が、なぜか医者は儲からないから別に医学部にいかなくてもいい、と言ったことと、化学が嫌いであったという単純な理由であった。
 母親の期待に報いたいと小学校・中学校は母親の方ばかりに目が向いていた。多分中学生で反抗期は無かったのでないかと思う。このため大学生になってもなにか空虚感があった。その空虚感をうめるためか酒を飲むようになった。それより早く空手部であったので、高校生の頃から酒を飲んで、深夜他人の庭に侵入し番犬を追い回して、警察のお世話になることもあったが。
 さて、デジタル思考で世の中を渡っていくのは大変である。なぜなら世の中の大抵のものは、アナログ思考で成り立っているからである。理想と現実、適当なところで妥協しないと物事は進まない。物事には「正論」と「正解」がある、とある上司から言われたことがある。問題にぶち当たった時「正論」は小学生でも口を尖がらせて言うだろう。しかし、解決可能な「正解」を考えるのが大人であると。が、妥協という言葉は、私のデジタル辞典には載っていなかった。


   灘の生一本を求めて神戸に就職

 私は学生時代から日本酒が好きだった。昭和三十年代後半、東京の新宿で全国の銘酒を売っていた。一合五十円だった。また、居酒屋では地方の銘酒を売り物にする店が多かった。いろいろの酒を飲んでみて、やはりおいしいのは灘の生一本であった。地元で飲めば、もっと新しくもっとうまいだろう、ということで就職を神戸の川崎重工に決めてしまった。さすが酒どころ、居酒屋では大きな樽からボンと栓を抜き、枡にいれてもらう。粗塩を枡のふちにのせ、ググッと喉に流し込む。あー、生きていて良かったと至福の時間であった。
 こうして毎日毎日、灘の生一本を冷で飲む。迎え酒をおぼえたのが二十三歳、連続飲酒が二十五歳。お決まりのアルコール性肝炎で川崎病院に入院。入院中泥酔してこわい婦長さんに怒鳴られた。その様子を見ていたのが、入院していた断酒会の古参会員。入会を勧められた。一応名刺だけはもらっておいた。それからは一人でやめたり飲んだり、血を吐いて入院した一般病院で幻視・幻聴を体験した。

   大失敗をする

 断酒を決断したのは、会社での大失態である。私にも遅ればせながら課長昇進のチャンスがきた。候補者を集めて二泊の研修会をするのである。私は初日の朝から二日酔いであった。迎え酒をしたいのを我慢して、なんとか一日目の夜になった。幸か不幸か、研修所の中に酒の自販機があった。一本飲んでは、調子よくなって会社の将来を語る。どんどん調子よくなって十本以上飲んでしまった。翌日は完全な二日酔いである。講義があるのに、自室でちょっと休もうと横になって、気が付くと既に夕方になっていた。すぐ自宅に送り返された。自宅に上司が来て始末書を書かされた。帰っていく上司の背中がまだ見えているのに、自販機に走った。

   断酒会入会と再飲酒の危機

 いよいよと止め時がきたな、と観念した。五年前にもらった古参会員の名刺を出し、電話をした。名刺を大事にとっておいたということは、いずれは断酒会に入るのではないかと思っていたのだろう。
 三十七歳で入会。断酒会ではいい先輩達にめぐまれていた。当時はソフトボールが盛んで、私も俊足・好守・好打のセカンドで大活躍。断酒人生は順風満帆にみえた。だが、ソフトで動くとどうも足の付け根が痛い。そのうち歩くだけで痛くなってきた。大腿骨骨頭壊死だった。酒のせいで肝臓が悪くなり、その結果血がネバネバになり、骨に血がいかなくなる。骨が死んで崩れてくる病気である。美空ひばりがそうだった。人工骨頭の手術が必要である。
 この病気を宣告された時、頭に浮かんだのは再飲酒である。自宅で飲むか飲まないか、布団をかぶって悶々としていた。断酒会会員の顔が浮かんできた。皆やめているのだ。私だけ飲むわけにはいかない。再飲酒しなかったのは、仲間であるという一本感からであった。まだ入会して半年余り、アル症の自覚はなかったのであるが。
 アル症の自覚はある日突然やってきた。入会して三年ぐらいたったある例会である。いつものように体験談に耳を傾けていると、あー私は死ぬまで酒を飲んではいけないのだ、という思いが胸に広がり、人前で涙を流してしまったのだ。それまでは、皆と違って上手に飲めるのではないか、他の人のようにひどいアル症ではない、と心の片隅に思っていたのだ。だから断酒会にいてもなにか居心地が悪かった。この涙は酒と惜別の涙ではない。やはり私には断酒会が居場所なのだ、という安堵の涙であった

   今後はアナログ人間で
 
 断酒会に入会して五年目ぐらいまでは、随分親のこと恨んでいた。今は恨むとか、恨まない、とか言う次元を超えている。子どもは何歳になっても親から愛されている、と思いたいものである。もちろん、私の両親は既に他界している。私は酒のためと、親から結婚に反対されたこともあり、親が他界する30年前から一度も会っていない。 しかし私には大事な想い出が2つある。1つは父親に対しての想い出である。私が東京から神戸に就職する直前、歯科医である父親は、私の歯の悪いところをこの際全部治しておこうと言い、私を診察、虫歯に金を詰めた。そしてタバコのヤニで茶色くなった歯をクリーニングした。少年時代、父親との交流がほとんどない私であったが、今から考えるとあれが父親の私に対する精一杯の愛情表現であったかな、と思うのである。
 もうひとつの想い出は、兄からの話による。母親が認知症になって施設に入居していた時、介護の女性に私のことを非常にいい子だったと何回も自慢していた、ということであった。それを聞いた時、こみ上げてくるものがあった。
 
私はこの2つの想い出を大事にしている。正直に言うと、無理に大事にしていると思う。いじらしいとも思う。そして親から見守られて暮らしているのだ、と思うようにしている。これも、いじらしい。いい意味の親からの呪縛が解けないのだ。私には2人の子どもがいる。このような2つの想い出を彼等に、伝えたいと思う。
 母親の影響は恐ろしい。私は今年で六十四歳になるが、いまだに母親から言われたことを何気なしに実行している。その一:ツケで物を買ってはいけない。その二:階段を降りるときポケットに手をいれてはいけない(倒れた時の用心)。その三:家の中で倒れやすいものは柱にくくっておけ。おかげで阪神大震災のとき、高く細長い本棚の真下で寝ていたが怪我をしないですんだ。
 私がデジタル人間にあなり、アルコール依存症になったのは、生い立ちにも原因があるだろう。今後は、デジタル思考を改善し、アナログ思考を取り入れて幅広い人間に成長しようと思う。そうしなければ再飲酒の危険性があるからだ。アル症になったお蔭でデジタル人生とアナログ人生の二つを生きられるなんて、豊かな人生だと思う。
  
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 酔生夢死の人生遍歴

 
                      尼崎西断酒会 渡辺和宜
 昭和16年、愛媛県の伊達宇和島藩生まれで、現在植木屋をしております。15歳で飲み始めた酒は、最初から止まらない酒でした。ながぁーい独身生活でしたが、やっと断酒が出来るようになって、仕事ボッボツ増えてきた頃に、断酒会の中で
アメシストと結婚。その時48歳。

遅すぎた春でしたが、物事は考えようで・・・今は、笹の露ほどのアルコールも、アルコール入りのチョコレートも舐めないで、一日断酒、例会出席をしています。一人ぼっちだった私が、今では大勢の仲間に支えられて、元気に暮らすことが出来ています。

     酒が飲める大人にあこがれる

子供の頃に、田植えの後や、結婚式で酒を呑んだり、タバコを吸ったりしている大人の人を見て「早く大人になり、大人のしていることをしたい」と考えていました。

私は母親に育てられ、貧乏でいつもひもじい思いをしながら過ごしていました。腹いっぱいおいしいものが食べたい。早く働いて「親孝行がしたい」と思い、卒業式を待ちかねて神戸のダンボール会社に就職しました。

入社してすぐに夜桜に連れて行ってもらいました。はじめてアルコールを口にしたのですが、合成酒を吐いてもはいても呑んでいたんです。そして、タクシー乗り場までオンブをしてもらって、会社の寮まで連れて帰ってもらったそうです(まったく覚えておりません)。 十五歳でブラックアウトを経験したわけです。

祝い事の席で、私は、『からし味噌』を付けて食べる、フカを蒸した料理が好きで、よく食べていましたが、これを見て叔父さんが、「お前は、大人になったら大酒飲みになるぞ」と、言っていたことをずっと覚えていました。それと、父親が大酒飲みだったのを、母親が無理やり止めさせたら甘党になって、黒砂糖をご飯の上に乗せて食べていて、胃潰瘍になって死んでしまったと聞いていました。

自分は酒を飲める人間なんだと思い込んで、まったくアルコールには無防備なまま大人になってしまったわけです。

    酒を飲みたいために家出する

二十歳になって、結婚をした姉の近くで、念願の母と二人の生活を始めました。長距離の運転手になり最初はまじめに働いて、幸せな生活をしていましたが、一年余りで母を置いて家出をしてしまったのです。

その訳は、職場の先輩にネオン街へ連れて行ってもらったのがきっかけで、街の赤い灯青い灯の中で飲む酒の味を覚えました。時々嘘をついては夜中に帰ってくるようになり、母の小言を聞くのがイヤになったことや、会社の車で事故を起こしたこと、付き合っていた彼女に結婚を断られた事など色々ありましたが、今になって思えば「ただ自由に酒が呑みたかった」だけのような気がします。少年時代の純粋に母親を思う気特は、酒の味を覚えた私にはもうどこかへ行っていたんです。 

それからの私は、各地を転々としながら働いた給料はほとんどが酒代になっていました。二十歳代も半ば過ぎた頃には、大酒を飲んでは仕事をサボる癖が付いてしまい、職場の人たちともうまくいかなくなりました。

「又、メガネに蜘蛛の巣を張らせて寝ていたのか」とか「あんたは、幸せ者だよ、好きな酒を腹いっぱい飲んで働いたお金は全部腹の中へ入れてしまって」などと冷やかされても、私は、「自分は、35才迄生きれば良いんだから、これで良いのだ、太く短く生きるんだ」とうそぶいていました。 

二日酔い、三日酔いで仕事を休む時、職場にする電話もだんだんと理由が無くなり、無断欠勤をするようになっており、何日も仕事をサボった時、特に給料日の後などは職場へ出る時が大変でした。

タクシーの運転手をしていましたので、一週間も仕事を休んでいると他の人が、私がのる車に乗っているので、いつから乗務出来るか分らず、恐るおそる電話をかけるわけですが、ダイヤルを回すまでに時間がかかっていました。今度は、何を言われるかと億劫になり一日伸ばしに休むわけです。「もうこんな事はイヤだ」と思うんですが、その時だけのことで、十年近く同じ事を繰り返していました。 

    一人寂しく涙ぐむ

二日酔い、三日酔いで寝ている時には、時間の過ぎるのが遅く、いつまでたっても時計の針が進みません。天井の節穴を見ながら考えていた事は、「何でこんな自分になってしまったんだろう。人に馬鹿にされ、さげすまれても平気で生きている。同年代の人たちが、結婚をして家庭を持ち、子供を何人くらいつくってと真剣に話をしている時にも、私は、鼻で笑って『この世の中何が起こるか分からんのだから、好きな酒を飲んで、太く短く生きていれば本望だ』などとうそぶいていたのに、とても寂しい自分をみつめて涙ぐんでいる。

こんな生き方をするために大人になったんじゃあない。と思いながら自己嫌悪に陥ってしまって、どうにもならないでもがいている。そして、死体が見つからない死に場所を、一生懸命に考えている」

何日も寝ながらどうどうめぐりをしているだけで何の解決も出来ません。「あの時に一軒の店だけで帰っていればこんな思いをしなくて済んだのに」と思っても、飲みに行く時は必ず「今日は早く帰って寝て、明日は仕事に出なければ」と考えていましたが、ひとロアルコールが入ればどうしようもありませんでした。
ひと口のアルコールで考えが変わってしまう情け無い自分に、愛想をつかして自己嫌悪は増すばかりです。それでも懲りずに飲みに行くんです。 

    飲み屋で塩をまかれる

もうこうなってしまった頃には、飲ませてくれる店も少なくなっていました。入り口を入るなりママさんが「あんたに飲ませる酒はないよ!」と金切り声を上げるのに、まだしつこく止まり木に座ろうとする私を、抱きかかえて表に連れ出される。それでもまだしつこく「酒を飲ませろ」と言う私。

すごすごと立ち去る後ろで、「塩を蒔いとき!」と叫ぶママさんの罵声。私の飲酒は、お金があれば大酒を飲み何日も寝ては酒を切る、いわゆる渇酒症タイプの飲み方で、素面でいる時もありましたので、真剣にこの生き方を変えなければと考える時もありました。

丁度そういう時に、知り合いから仕事の誘いがあり、転職をして果物屋の店番をすることになりました。住み込みで、深夜まで店を開けている仕事なので、これなら酒を飲みに行く暇が無いから酒を飲まないだろうと思い、頑ってみました。それも、半年たった頃には、朝起きれなくて店が開けられなくなってしまいました。店のオーナーには、大変な迷惑をかけてしまい辞める事になりました。

丁度この年が、三十五歳になったところで、二十歳過ぎに考えていた死亡年齢でした。体は元気でも、世の中からは見放され住む所も無い。助けてくれる友達も居ない。一人ぼっちで行くあての無い私になってしまいました。断酒会にたどり着く五年前の出来事です。

    断酒のお蔭で喪主をつとめる

「あの子は、逆子で仮死状態で生まれた子だから、死んだものと思って諦めている」と言っていた母親は、姉夫婦の家で最後まで看て貰いました。断酒して七年目の一月に他界しました。

断酒が出来ていたお陰で、喪主をさせてもらいました。そして、渡辺家の墓を作る事が出来て、これから先は、老後の生き方を考える年になりましたが、与えられた命を大切にして、断酒精進して、寿命を全うしたいと考えております。

限られた紙面で語りつくす事は出来ませんが、ひとまず終わります。

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