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 酒害者の後悔
   
10年断酒の後、再び酒害地獄へ
      
                           
 神戸市断酒会 男性(46歳)

   自業自得

 何故? どうして私はこんな人間になってしまったのだろうか? 悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない・・・・・・。
己から選んだ酒地獄への道,アル中=Bなるべくしてなったのだ。自業自得でありました。

  高校でビヤーガーデンでのアルバイト
 初めの一杯からアル中になる者はいません。私だって初めは酒と上手に付き合っていました。否、誰よりも酒とうまく共存出来ていたと思っていました。とろが今になって昔からのことを振り返って見ると、数々の自分が犯してきた酒害が、恐ろしいほどよみがえってきます。
 飲み始めたのは人より早く、15歳(高校1年生)の頃、ビヤガーデンでアルバイトをし出した頃で、仕事が終わりましたら、樽の残りのビールを皆でただで飲んでいました。すっかり酒の旨さにとりつかれました。何の取り柄のない私が、唯一、人に負けないのが酒でした。友達間で私が大酒のみだと言うことが評判になり、それを自慢にしていました。学校近くのお好み焼き屋で酒盛りをしたり、新開地・三宮の居酒屋、ビヤガーデンで宴会をして、二日酔いで登校していたことは有名でした。学校当局に知られたのは修学旅行でした。友達と二人で旅館を抜け出して飲みに行ったのですが、相手が顔にすぐ出る奴で、そいつがつかまりバレました。学校に帰ってから停学処分を受け、初めて母を泣かしました。

  サウナから出社
 何とか卒業し、入者したものの、酒害は遅刻という形で現れ、2つ3つ転職しました。
 23歳で高校2年生の同じクラスであった妻と結婚しました。結婚式・ニ次会で潰れてしまいました。翌年長男が生まれましたが、臨月に入ってもうすぐ生まれるという時、酔っ払い運転で捕まり、呼気検査拒否でブタ箱に入れられ、身重もの妻が引受人として来てくれました。
 運転会社で勤めだした頃から変な飲み方になっていました。25歳の時でした。ハードな仕事の合間を縫って昼寝をします。その昼寝の前に飲みます。起きてから運転しますが、事故をおこしそうになったこともあります。そのような運転業務が恐ろしくなりまた転職。28歳でした。
 今度の仕事はデスクワークで、二日酔いくらいで仕事への危険はなさそうだと思い、とても満足していました。社員数も多い建築関係の会社でした。建築関係ですから酒がつきもので、行事には常に酒が用意され、ひどい時には会議室で宴会が始まり、顔を真っ赤にしながら仕事をしている者までいました。勿論私もそういう席には必ず最後まで粘って、楽しんでいました。
 仕事慣れするにつれ、仕事上の悩みが増え、家に帰らずサウナで目一杯飲む習慣がつきました。最初の頃はサウナから出勤も出来ましたが、ある朝、ひどい二日酔いのためどうしても出社する気になれず、ずる休み休みしました。ホッとした瞬間、もうビールを手に持っていました。誰にも邪魔されずに一人でゆっくり・・・・時間はある。
 朝酒、一人酒を覚えこれが酒地獄への第一歩でした。仕事の悩みが多くストレスがたまり、ついに上司と衝突! そしてお決まりのコース。居酒屋からサウナへ。この日は明日の休暇を決め込んで浴びるほど飲み続けました。死んだように眠り目が覚めればまた飲む。この繰り返しが3日続いて家路へと・・・・・。情けなく後悔しました。「明日からは酒をひかえて真面目にするぞ」と固く誓いましたが、長くは続きませんでした。

  断酒決意
 一旦覚えた逃げ道。中々抜け出せませんでした。ついに無断で会社を休み、家にも連絡せず飲み歩き、気がつけば公園のベンチにいました。意識は朦朧としているのに、探しているのは自販機で、見つけるまで必死に探しました。その執念はすごいものでした。また、酒にどっぷりつかり、金がなくなれば友達から借金してのむ。その友達が家に連れて帰ってくれました。妻は涙ながらに「よく帰ってきたね、お帰り」 子供達は笑顔で「お父ちゃんお帰り!」 こんな私でも喜んで受け入れてくれました。泣くだけですますにはあまりにも勝手すぎる。後悔なんてもんじゃない。この時断酒を決意しました。平成2年、32歳の時でした。
 知人の紹介で、宋クリニックに通院し断酒会に入会しました。例会回りをしているうち、徐々に回復し、もうこれで大丈夫と言う自信がつきました。半年ほどスリップもしもやもやしていましたが、ある時飲酒欲求が不思議とふっ切れ、スムーズに断酒出来るようになりました。将来への希望も湧いてきて、とても幸せな気分を家族皆で味わうことが出来ました。それからの私は不思議なくらい飲酒欲求もなく、酒宴に出て酒を勧められても口にすることはありませんでした。1年足らずで断酒会から遠ざかりましたが、酒を飲みたいと言う気持ちが起こらず、酒と言う物を頭の中から消せる事が、完全に出来るようになりました。私は断酒会から遠ざかりましたが、妻はかいがいしく断酒例会に通っていました。

  あっと言う間に地獄へ転落
 十年近くの歳月が流れました。ある時、ふとした気持ちの弛みで酒を飲んでしまいましたが、上手に飲めましたので、断酒継続がストップしたことを余り気にせず、明日から大丈夫と高を括っていました。昔、断酒会の先輩が「長い間断酒していた者が再飲酒すれば、キツイぞ!」「死が近づくぞ」 と言っていましたが、「わしは絶対大丈夫や」と深くは考えませんでした。ところがあっという間に元通りの地獄に落ちました。いくら足掻いても這い上がることが出来ず、奈落の底へ落ちて行きました。46歳でした。
 飲酒して街を放浪しました。同じ馬鹿なことを周期的に繰り返します。どうしてなのか? 酒が原因だと解っています。それなのに・・・・・否、酒だけではない。自分自身が悪いのだ。そんな自分が嫌になります。自暴自棄になって再び酒びたりに陥り、この世から自分を抹消したい・・・・・。
 こんなことばかり考えていると正常な判断が出来なくなり、ひたすら“死”を考えるようになります。しかし、簡単に死ねるわけもなく情けない面を下げて詫びを入れに家路につきます。懺悔の値打ちもありません。自分は何処へどう向かって行ったらよいのか分かりませんでした。苦しくてもいい。簡単に死ねるのが一番の望みになっていました。精神も肉体もボロボロでした。

 私は、若年での飲酒。酒に対しての卑しさ。異常なまでの執着心がこのような結果をもたらしました。兎に角、酒に対してピリオドを打ちたい。ジ・エンドにしたい。自分のため、家族のため、親族のために。今病院で断酒を誓っています。
                    平成15年12月執筆
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   離  婚
         

          自責の念に苛(さいな)まれる
                          神戸市断酒会 男性(52歳)

 数え切れない失敗を繰り返し、周りに迷惑をかけて来た。仕事も家庭もなくしてしまった。現在両親の下でわびしい居候暮らしを送っている。腰が曲がり小さくなってしまったお袋の後ろ姿を見る時、親不孝をしてしまったと反省させたれる。妻子と別れた寂しさをまぎらせ、現実から逃れるように貪欲に飲み続けた。もうどうにでもなれと、ヤケクソの状態がつづく。  
 真夜中、情けない自分を責めるように、左手を剃刀で切りつけた。鮮血がほとばしった。今でもその血痕が黒いしみとなって壁に残っている。そんな姿を見てお袋が「私より先に死んだらあかんよ」と溢れる涙を拭きながらか細い声で言った。今の自分があるのもお袋の助けが大きかったと思う。こんな馬鹿息子でも、親にすればいい子供なのだろう。92歳と84歳の老い先短い両親には、もう酒での失敗は許されない。
 思い返してみると、どういうわけか4年ごとに問題を起こしている。人事異動のストレスからの異常飲酒で、内科入院が36歳の時。家庭不和から別居し、専門治療したのが40歳。義母の不幸によって無事もとの鞘におさまった。自分がアルコール依存症であることを、素直に認めることが出来た。病気だと知らされた時、周りから「節制しろ」とか「意思が弱く、だらしない」とか耳にタコが出来るほど言われただけに、気が楽になった。初めて体験談を聴いた時、強い衝撃を受け、真剣にやめようと心に誓った。しかし、一人断酒には限界があった。。ビール一口無意識に口にしてしまった。44歳での再飲酒。平穏ながらそれなりの充実した生活が送れていたが、再飲酒して家の中がおかしくなり始めた。
 長男が高校退学した。自分も勤労意欲をなくし、次のあてもないまま会社を辞めてしまった。家庭内別居となり、やがて離婚の判を押すことになり、再びもとの鞘に収まることはなかった。子供の教育に悪いから、酒びたりの醜態を見せてくれるな、私達の前から姿を消してくれ、と言うことらしい。確かにごもっともな言い分ではある。
 実家に戻ってから、酒代のため日給の力仕事についた。誰に遠慮もせず好きなだけ飲める。しかし、酔いがどうしても別れた家族のことを思い出させてしまう。それを払いのけるような飲み方に変わって行く。48歳での2度目の入院である。
 
思えばヨメさんを随分泣かせてきた。こちらが駄目男のなっていくにつれ、相手は一段と強くなっていった。口より先に手が出るようになる。肋骨(ろっこつ)にひびが入るほどビール瓶でどつかれもした。顔面パンチをくらって鼻血ブーの時もあった。やばいと思ったのは、包丁を向けられた時だ。目が違っていた。包丁を取り上げる時、怪我をしてしまった。本気だったかもしれない。また、激昂のあまり、過呼吸で失神して倒れたことも何度か合ったその度に子供が心配そうに声を掛けていた。辛い思いをさせてしまった。
 いつか何処かできっと偶然の出会いがあるものと信じていた。ようやく駅のホームで娘と8年ぶりの再開となった。容姿もすっかり変わっていた。喫茶店で話をすることが出来た。他人行儀な言葉が、歳月を感じさせる。少しでも長い空白の時を埋めようと話し始めるが、まもなく娘の目から涙が零れ落ちた。ついこちらも目が潤んでしまう。万感の想いがこみ上げて来たのだろう。そしてショックなことを聞かされた。AC(アダルト チルドレン)の治療で2年余り通院したという。それほどの悩み・苦しみを与えていたとは・・・・。今更ながら酒害の大きさを痛感せざるを得ない。しかし、こうも言ってくれた。「すべてお父さんが悪いのではない」と。心の重荷が少し取れた気持ちになった。
 別れ際、改札口で娘の方から手を差し出してくれた。握った手の温もりは一生忘れないだろう。語りつくせなかったところは、手紙で素直な気持ちを伝えることにした。断酒しているお蔭でこうした出会いがあった。一生リハビリの気持ちで断酒を継続し、いつか幸せと感じる時を迎えられると信じている。


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アメシストの悔恨

自分を責めない

 アメシスト(30歳)

アルコール依存症の診断を受けて12ヶ月、断酒3ヶ月です。小学生の時分から父の晩酌に付き合うようになり、ビールをいただいていました。中学、高校時代は二日酔いで登校するようなことはなかったのですが、大学に進学してからおかしくなりました。

 大学に進むと、おおっぴらに飲める機会が増え、お酒に強いことが格好いいと思っていた私は、多め多めに飲みました。

 いつの頃からか一人暮らしの私は、一日中部屋に引きこもって飲んでいました。幼い頃から家で飲むことに慣れていた私は、何の違和感も持ちませんでした。多少酔って外に出ようが、バイトに行こうが、大学生は強い非難は受けなかったように思います。多少の問題を起こしましても、親をはじめ周りの人のお世話になり、何とかしのいでいました。そんな生活に強い疑問も持たず、不安を感じなくなるまで飲んでいました。

 どうにか大学を卒業し、就職しましたが、自分のお酒に問題を感じ始めました。常に頭痛などの体の不調感がありました。それは運動不足だと思っていましたが、飲めば元気になりました。記憶が飛ぶようになりました。飲み方について人から非難され、とまどいました。確かに毎日二日酔いは良くないと思い、節酒を考えましたが実行出来ませんでした。「今日は飲むのはやめよう」と思いながら、結局酒に手を出し、いったん飲みだしたら止められませんでした。

 焦り、怒り、自暴自棄がたまりに溜まり、周囲に怒りをぶちまけていました。さほど美味しく感じなくなっても、止めないといけないと思いながらも、お酒がなくなると家族に喚いて買ってきてもらったりしました。家族は腫れ物に触るようにしていたのだと思います。周囲に与える悪影響も、自分を省みる能力も欠如しておりました。今もまだありませんが・・・・。

 自分には現実を生き抜く強さがありません。常に緊張し、人との対話が苦手です。不安や萎縮して、リラックスすることは困難です。お酒はそんな私の強い味方でした。緊張を解いて明るい雰囲気を作り、自分を調子に乗せることが出来ました。辛いことも麻痺させて、何も考えない時間が作れました。

 現実は、息苦しく、身動きが取れず、岩のような屍状態です。「24時間飲んでいて体を壊した訳ではない。飲んでいた私の方がマシだったのではないか」と、思う時もあります。しかし、飲んでも何も変りません。事態は悪くしかなりません。

 断酒は私が生きるために選んだ道です。生きて、少しずつやり直して行きたい。今の私がなすべきことは、一日断酒と、自分を責めずに、今の自分にやれることを確実に実行することです。とは言っても、今までの自分は言うだけで行動は飲むだけ! 口先で生きてきた私の言葉には重みがありません。しかし、生きていることを受け入れてやれる自分になりたいです。断酒例会は、「私一人じゃない」と感じられる場であり、自分の過去を無理のないペースで浄化してくれる、大切な場であると思います。平成18124日 記

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 家族の叫びそして胸の内

 「たかが酒くらい」甘かった!
    男性(四十歳代)

阪神大震災の後、しばらく自転車で通勤していました。須磨から長田まで急いでも三十分かかります。土ぼこりの漂う中、防塵メガネとマスクは欠かせません。仕事を終えると、懸命にぺタルをこいで家路を急ぎます。妻の酒が気になって仕方ありません。飲んでいるかいないかはもう通り越して、家にいるかどうか、「フラフラして出歩かれたらかなわんな」 そんな心配の中で全力疾走でした。

 出会った頃の彼女は、明るく元気でした。病気がちな母と無口な父との間で育った私は、元気で明るい女性を求めていたのでしょう。一緒に飲みに行くようになり、彼女の身の上話を聞きました。人妻であり、二人の娘がいると分かっても、彼女に惹かれて行く自分をどうすることも出来ませんでした。彼女の酒が普通でないと気付くのが遅れたのも、そういう甘さにありました。気が付いた後も、「酒くらい、俺がやめさしたるわ」と、簡単に考えていました。彼女は離婚、娘達は父親の元へ・・・・という大変な事になって行きました。

 「たかが酒ぐらい」が、次第に重たくなって行きました。「興奮させたらあかん。子供のことを忘れさせな」と、妻の望むがままに服を買い与え、バッグを買い、「仕事を辞めて暇があり過ぎるからや」と、クラビノーバ(電子ピアノ)を買ってやりました。独身生活の長かった私は小金があり、貯金を下ろして使っていました。

 「妻の酒をまず何とかせなあかん。酒の量を徐々に減らして行こう」と考え、毎日決まった数の缶チュウハイを買って、一週間で一個減らして行くことにしました。この作戦はうまく行っていると思っていました。ところがある日、ずれた蒲団をなおしてやろうと、敷き蒲団を持ち上げたところ、ベッドのマットの横に空き缶がズラー・・・・。

「ここまでやるか!」

 説教が始まりました。妻をなじりました。「子供の話は決してすまい」との思いはどこへやら。子供のことでも責め続けました。「お前は鬼じゃ。子供を捨てて、酒をとった鬼じゃ」 手を上げるようになっていました。もはや夫婦ではありません。「そんなに飲みたきゃ飲めや」と、取り上げた缶チュウハイを妻の頭から浴びせかけ、また、真冬に窓を全開してクーラーをかけ、「そこで反省しとれ!」

 私は酒を憎み、酒屋を恨みました。「俺の家だけやで、こんな家は」と嘆く日々。自分だけが頑張っている、自分だけが不幸、そう思っていました。逃げ出したくなりました。妻も何もかも放り出して、全てを忘れてゆっくり眠りたい。何度も何度もそんな思いが湧き上がって来ました。でも、「俺が頑張らなあかん。こいつを助けられるのは俺だけや」と、自分を奮い立たせました。タンスも押入れも、本棚も水屋も全ての家具は、ただ、酒を隠している場所としか見えなくなってしまいました。説教ばかりするから、妻は私が帰る時間になると、家を出て行きます。酒をやめさせたい思いに囚われていた私は、そんな単純な事も分かりませんでした。

 「何で心配ばっかりかけるんや。何で酒が止められのや」 説教も暴力もエスカレートするばかりです。「おのれなんか、出てゆけ!」言葉どおり妻はフラフラ出てゆきます。もう心配になる。矛盾した自分の感情に気付くことなく、どうすることも出来ません。

 とうとう精神病院を考えるようになりました。何とか妻を説得して、垂水病院に入院させることになりました。私は卑怯で愚かな男でした。「僕は仕事があるから連れて行けません」と義母さんに頼みました。慣れない電車に乗り継いで、実の娘を見張りながら精神病院に連れて行かねばならなかった義母さん。明石フェリーから海に突き落とそうとしたこともあったそうです。私は、自分の妻であることを忘れていました。《問題飲酒》と知っていながら入籍し、「私が酒をやめさせてみせます」と義母さんに宣言しておきながらの、残酷な所業です。いったい何度、「○子がまた行方不明になりました」と、義母さんに電話したことか。それなのに、「戻りました」の電話は一度もしていません。自分はどういう男なのか。

 妻の二人の娘は小学生でした。上の娘は必死に妻に何かを訴えていました。下の娘は階段の下で、母親と姉をジッとみつめていました。今も胸に焼き付いている光景です。私は傍らで無関心を装っていました。罪の意識を打ち消そうと、必死で冷静さを取りつくろっていました。妻の家出で分りますが、『待つしかない』ということは辛く、残酷です。私はそんな、辛く残酷な苦痛をズゥーとあの娘達に味合わせてしまいました。朝起きて母親を探す、何度その辛い作業をさせてしまったのか。母親のいない日々。母親の見えない姿を、どうやって心に仕舞い込んだのか。今更ながら罪の重さに身の置き所がありません。

 今、妻と二人で断酒会に通わせて頂いています。あの妻の《酒》がありません。私自身に問題があったことも、家族全員が巻き込まれていたことも教えて頂きました。一人前の大人とは言えなかったことを知ることが出来ました。『今日、一日断酒』してくれている御蔭で、妻とその娘達と四人の家族で暮らすことが出来ています。両親に注いでもらった愛情を、精一杯、家族に捧げます
『夜明けまでの長い旅』 平成十三年

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わが想いを伝えたい

ひどい酒乱やった

         NPO法人兵庫県断酒会 理事長 松谷 至博

私は、ささやかながらケミカル(靴)の自営業を営んでいます。最近の不況や日々の生活の中で、時には不安や、生きているが為の諸問題に遭遇する時、飲酒時代の自分を思い浮かべるようにしています。そうする事で、今の苦境なんて、昔の事に比べると楽なもんだと思え、勇気とやる気が湧いて来るのです。

30年前はどうだったのか? 会社の儲けは、ほとんどネオン街に消えて行きました。それ故に、私を取り巻く全ての人々に苦労や悲しみ、そして計り知れない迷惑を掛けていました。飲んで帰っては妻や子供をたたき起こし、茶碗を割ったり服を破ったりしました。

また、夜の夜中もわきまえず、「近所の皆さん」から始まり、「お前らアホばっかり住みゃあがって、この辺の土地は俺がみな買い占めてやるからな」と大声で喚き散らしました。借金だらけで親戚にも迷惑を及ぼしました。

人生設計も立てず、一家の長としての責任、夫として父親としてのまともな姿は、微塵もなかったのです。酒乱の私は最低の人間で、今さらながら恥ずかしい限りです。酒以前に、人間性に欠けていました。

人を思いやる心、責任感、奉仕の心、計画性、金銭感覚、忍耐、反省などなどは、本来の松谷至博にはほど遠いものでした。

断酒会に入っても酒がやめられないため、妻は必死に断酒会通いをし

てくれました。今日断酒継続が出来るのも妻のお蔭です。妻は幼い子供四人を残し、嫌がる私をせっせと断酒例会に引っ張って行きました。雑巾をたくさん作り、例会場に早く行って椅子や机を拭きまわり、お茶を沸かしたり、皆さんの世話を積極的にやっていました。 

 体験談発表の時は、私がまだ酒をチョコチョコやっていながら、「頑張っています」と嘘をつくと、その後で妻は、「あなた、昨日飲んだでしょう。どうして嘘をつくんですか」とバラスので、しまいには嘘がつけなくなりました。先輩方からは、「ご主人が一所懸命断酒しようと努力しているのに、金槌で頭を打ち付けるような発言はいけません」と たしなめられていました。家に帰ってからトラブッているのではないかと心配だったようです。妻はそれほど真剣でした。

入会当初、何も分からなかった自分は、「酒さえやめたらえーんやろ」ぐらいに思っていました。断酒会は奥が深いものです。児玉正孝故和歌山断酒道場長にお目にかかった時、始めてお聞きした、「柔道や剣道には道があるように、断酒も断酒道と言う道がある」という言葉が、感銘深いです。また、「これまで、親の子として、子の親として、妻の夫として何をして来ましたか。その責任をどのように果たして来ましたか・・・」

頭から水をバケツでぶっ掛けられた様な、暗いトンネルから急に明るい所に出た様な、あるいは、魂が蘇ったような気がしました。「自分は一体、これまで何ひとつとして責任を果たして来なかった。断酒会に入りながら妻にも感謝せず、子供達に大きな迷惑を掛けながら反省せず、なんという馬鹿な人間だろうか・・・」 反省! 

和歌山断酒道場の教えのなかに、『素心・反省・感謝・報恩』があります。この初心に戻らねばならないと思い、この原稿を書きました。私達は、断酒会の中で多くの断友と交わり、例会で体験談を話すことで自己洞察を深め、自然に酒害から脱出でき、人間らしく生きて行けるような気がします。そう考えた時、断酒会に感謝、そして仲間の皆様に『有難うございます』の言葉が、素直に出て来るのです。

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やってやれないことはないことはない、
   やらずに出来る訳がない


                          神戸市断酒会 園田親臣
  生い立ち

19509月生まれの現在57歳です。故郷は九州の片田舎の出身ですが、育ちは神戸です。昭和30年に実母を失い、幼稚園を宮崎、小学校1年生を九州で過ごしました。

小学校2年生より新しい母が来るのですが馴染めず、まして住んでいた所が余り環境の良い地域でありませんでした。父は、真面目一本の大工をしており、5歳で母を失い私の養育に片親では可哀想と親戚の勧めで再婚したと後に話してくれました。

 子供の頃は、父、義母共に働きに出ておりましたが、再婚してまもなく父が病に倒れ入院しました。その時、義母は私を一人残して田舎に帰ってしまったのです。父が退院後には又、帰ってきました。その後、小学校、中学校の頃はいわゆる鍵っ子で、近所の悪い青年達から毎日の様に虐められていました。恐くて父親にも言い出せませんでした。言葉や、文章に出来ないくらいの虐めにあっており、何時か大人になったら一人々仕返しをと常日頃から思っておりました。

 高校に進学する頃になりますと、虐めていた奴らを1人、1人呼び出して決着を付けました。その頃より学校にも行かず、最初、滋賀県近江八幡市に鉄筋工としてバイト(飯場)に1ヶ月程行き、その時にお酒を覚えました。(丁度ボクシングの藤猛が活躍している頃です)滋賀県より帰って高校を勝手に辞めてしまいました。父が工務店を経営しており、大工として働くのですが学校は出ていなくては社会に出てから困るぞと父に言われ、夜は夜間の工業高校、昼は経理学校に行くようになるのですが、この経理学校も夜間高校も中途で辞めてしまいました。(今考えればこの頃より優柔不断な性格でした)16歳からバイクに乗り、毎夜の様に六甲山などを走り回っておりました。当時16歳で軽四輪の免許が取得でき、父親に車を買って貰い、今度は車で走り回っておりました。カミナリ族・・・今の暴走族の走りだったのでしょう。

 新車の車を神戸の有馬街道でひっくり返し、知り合いの車屋で直すのですが、その頃、私は何でも臭いを嗅ぐ癖がありました。車の汚れを落とすのにシンナーを使い、その臭いを嗅いで倒れてしまい、幻覚を覚えました。この幻覚が当時の私を酔わせたのです。お酒もそうです、ある程度までは素面で居られるのですが、限度を超えると見境がつきません。非常にハイな気分になってしまうのです。アルコールの限度を知らず、若さも手伝って、毎夜、毎夜飲み歩いておりました。負けず嫌いで我も強く、ですが仕事(大工)だけは休むことはなかったです。朝から晩まで働いて得た金は全てアルコール、ギャンブル、お金なんて働いたら幾らでも稼げると、先の事も考えずに遊び回っておりました。物事におぼれ易く仕事でも、遊びでも何でもかんでもやってみたい性格でした。ですがお酒だけは飽きなかったのです。酒、酒、酒浸りでその頃より家に居つかなくなりました。19歳です。

 青春

 成人する頃には、知人たちと各地で飯場暮らし(当時は出張と言っても旅館なんて使いませんでした)昼食時間には、どんぶりで酒を飲む、夜は酒が先、毎夜のように飲み歩く、そんな生活が続き今度は男ばかりの生活に飽きて、名古屋に行きグランドコンパでバーテンをする事になりました。1年ほどそこで調理等を覚え、神戸に帰り福原でスナックをするのですが、客は友人ばかりで収入も上がらず、自分も酒浸りあっという間に潰れてしまいました。実家にも帰ることが出来ず、一人アパート暮らし、色んな職種を転々と替えながら遠慮なく酒を飲み続ける生活を送っておりました。

 酒で何度も失敗を繰り返すようになり、仕事も行ったり、行かなかったりで、段々と生活や自分自身に不安を覚えるようになって来ているところに、長期出張の話し、それも外国に行くとの事、行きますと二つ返事で言い又、飲み続けていました。

 再出発

1979年の12月でした。中近東イランへの出張、何が何か判りませんでした。何度も飛行機を乗り継ぎイランのテヘランまで4人で行き、そこから汽車でペルシャ湾側のバンダルシャプールと言う町まで行きました。道中長かったです。言葉も、風土も、空気も何もかもが違う、異国の地で頭が変になっているのに、羽田税関で買った4人分のウイスキー、道中の汽車の中で12本が空いてしまいました。

キャンプ着いたら直ぐに現場に行ってくれと監督の話に頭に来ているのに、先に来ていた関東の連中と言い合いになり大喧嘩になりました。幸いな事にその関東の連中(鉄筋工)が業者の目に余る集団でしたが、何も言えなかったらしく監督連中が喜んでくれ、私たちにとって居り易くなりました。仕事の内容は石油精製プラントの建物を作る仕事でした。イランは禁酒国と聞いていましたが、全然そんなことは無く、毎日お水代わりにビール、夕方になるとウイスキーを1本ほど飲んでおりましたが、日中は気温が50度近くまで上がり暑いの、暑くないのって茹だる暑さってこの事を言うのでしょう。頭が変になってきていました。半年ほどで帰国しましたが、会社から継続してほしいと言われ、神戸には帰らず大阪の西成区の寮に住み込みで働くことにして、仕事をするのですが飲酒欲求が更に酷くなっており、朝、仲間が集まる前に自動販売機で1.2本ワンカップをぐい飲みし、車に皆を積んで現場に行く始末でした。

 交通違反

 ある、どしゃ降りの日の夕方、一杯呑んでいると尼崎の知人より電話があり迎えに行くのですが、道を間違えてパトカーに止められ、そのまま大正警察の留置場です。今回の逮捕は初めてでは無いです。神戸で何度も飲酒運転で捕まっており常習犯と言う事で2日泊まっても直ぐに帰してもらえず、そのまま天満警察で1泊、裁判を受け、懲役3ヶ月、執行猶予1年の判決を受けました。2回目の免許取り消しでした。

そのまま無免許で福井県の和倉温泉へホテルの建設に行きました。ここでの生活は不自由な面はありましたが、アルコールが切れる事が無く和倉温泉の仕事が修了すると、千葉、東京、埼玉と次から次に出張ばかりでした。今度はまた中近東のサウジアラビアに出張に行く事になりました。19813月です。

 再び灼熱の国

 今度は、紅海側のヤンブという町で、海水から真水を作るプラントの建設です。前回、イランに行った時は不安だらけでしたが、これまで4.5カ国を訪れており、前回ほど不安は無く、約1年間、色んな国の方々と和気あいあいに仕事をして過ごしおりました。サウジアラビアは特に禁酒国です。イランで仲の良かった監督連中が来ており結構わがままを聞いてくれました。市場では食料等何でもあり、果物は豊富で、ぶどうジュース90%を多量に買い、監督にアイスボックス10個ほどもらい、ジュースをイースト菌で発酵させ、ぶどう酒を作り毎日飲んでいました。

 休日、町に出ればレストランなどで食事をするのですが、アルコール類は無く、有るのはノンアルコールのビールばかり、休日に行く紅海の海水浴は素晴らしく、遠浅でサンゴ礁が何処までも続いています。作ったぶどう酒を持って行くのですが、ラマダン月などは現地の警察官が回って来て、空砲で脅かすので持って行きませんでした。

 1年余りで帰国して東京で生活をするのですが、蓄えた金が無くなるまで仕事をしませんでした。この頃になると知り合いの連中も居なくなっており、まして運転免許もなく、飲み屋の付けが溜まるばかり、日雇いの仕事をして旅費を作り逃げるようにして大阪に帰りました。(結局付けは払っていません)

 4再々出発

 大阪に着いたのは良いが、金もない、どうして良いか判らない、仕事仲間から大酒飲みで通っていた私ですが、仕事は真面目で社長からも(お前は酒さえ飲まなかったら良いんやけど)とよく言われていました。ある親方に金が無いと連絡すると、(阿保か〜こっちに来て仕事を手伝ってくれ)と言ってくれ、部屋も借りてくれ、父に帰って来たと連絡すると、家財道具を持って来てくれました。凄く嬉しかったです。今度は頑張る、頑張るぞ〜と仕事はするのですが、アルコールが止まりません。前にも増して量が増えていました。

 初めての入院

1983年夏 初めて体の不調を感じました。それまでに手足、体の痙攣や、幻覚もありました。内科的に初めての病院でした。肝臓が悪い。2ヶ月ほどで退院ですが、身体が良くなるとアルコールが欲しくなります。今度は会社よりクビです。

借りていた部屋も追い出され行くあてもなく、2.3日野宿しながら神戸に帰りました。

 

 入退院の繰り返し

 神戸に帰っても、相変わらずアルコールを欠かせない毎日でした。父の会社で仕事をしたり、休んだり、身体の不調を感じると入院。退院するとアルコール。
 強制退院これの繰り返しが2年余り続きました。この頃になると一般病院はどこも受け入れてくれません。父が仕事帰りに断酒会の看板を見て、お前も断酒会に行って酒を止めれと言ったのを覚えています。1986年頃です。

精神病院

父が、こいつは一般病院ではダメと思ったのでしょう、今度は精神病院、神出病院です。最初は身体がフラフラで感じなかったのですが、アルコールが抜けて来ると、なんでこんな所にと思いました。先生や看護師からも此処は貴方が来る所ではありませんと言われたのですが、1ヶ月強居たのではと思います。退院後、父がマンションを借りてくれ仕事に行くようになるのですが、やはりアルコールが止まりません。父の知人のトラックを持ち出して飲酒運転で捕まり東灘警察署2泊、これで運転免許3回目の取り消し、自分でも情けないと感じていました。

留置場で2晩夜明かし、何度目なのだろう。親父がよく口にする言葉に(お前は懲りない奴)がありました。自分でも判らなくなっていました。帰宅後、隠れて飲酒、又へべれけです、1987年、西区の垂水病院に2回目の入院です。入院直後は今度こそは酒を上手に飲もうと思うのですが、退院と同時に忘れてしまいます。

退院すると新しいアパートを借りてもらいます。酒を飲んで無茶をしているので元の所へは帰りにくいのです。何回引越しをしたでしょう?代わる度に家財道具が要ります。仕事に行かないから金が無い、親に言えない、金目の物は売ってしまうか質屋に持って行き酒代にする。免許証、部屋の契約書をポケットに入れて酒屋に行く、

(お金を忘れました、後で持って来ますのでこれを置いておきます)帰ってもお金が有る訳がありません。金が無いのに毎日酔っ払って帰宅する。当時を振り返ると不思議でした。食事も摂らない風呂にも入らない、体がおかしくなり実家に帰ります。その頃に親父が、県立光風病院を探してきました。3度目の入院です。この頃になると精神病院も慣れて来ていました。

光風病院は2日アルコールを抜かなければ入院させてくれないとの事でしたが、飲まずにいると寝られません。病院に行く朝の午前4時頃に垂水病院で貰った睡眠薬を一週間分全部飲んで寝ようとするのですが、何故か荷物を持って家を出て行き、気が付いたら一般病院の集中治療室でした。溝にはまっているのを新聞配達員が見つけて救急車で連れてこられたそうです。光風病院でもじっとしておらず、新開地までパチンコに行ったりして3ヶ月を過ごしました。

退院する時は親父が迎えに来るのです(もう懲りたやろ、酒も程々にしなかったら死ぬぞ、頑張れよ)と言ってくれ美味しい物でも食べて来いと1万円くれて新開地で降ろしてくれました。が、気が付くと酒屋の止まり木に腰掛けていました。飲んだらあかん、飲んだらあかんと頭では思うのですが、口からはビールと注文していました。

ビールだったら良いと思ったのでしょう。貰った1万円全て飲んでしまいました。家に着いた頃にはふらふらで、こんこんと説教されてまた垂水病院に逆戻りです。

 2回目の垂水病院、父親が3ヶ月は退院させてくれません。外泊も出来ません。退院後は暫らく大人しくしているのですが一緒です。又逆戻り合計9回の入退院を繰り返しました。9回目は199710月から19981月まで、親父がもう直らないだろうと思い、少しでも病院代が安くなるからと4ヶ月の入院。これが最後の入院になりました。退院後、やはり酒は止められませんでした。

 心機一転

19982月頃より親父が入院をするのですが、それでも酒は止められませんでした。2.3.4月と飲み続けていましたが、幻覚、幻聴が現実になって行き恐くて本気で酒を止めなければ死ぬ、飲まなければ寝られない、自分が何を仕出かすのか怖い、葛藤の中で酒の無い日が1日、2日と過ぎて3日目に何時の間にか寝てしまいました。アルコールに頼らなくても眠れる、4日、5日と飲まない日が続いて行きました。1ヶ月を過ぎた頃より、一人で止め続けるのには限界を感じ、以前、院内例会に出席した事があり、神戸市断酒会の相談役に手紙を書いていたのを思い出して、訪問して入会をさせて頂きました。

親父が入院する前に私の行く末を案じ住所を変更してくれていました。保険証が出来ましたと通知があり、と同時に保健所の主査より話がありますから来てくださいと言われました。園田さん、生活はどうされていますかと訊ねられ、身体も疲れ食事も余り摂っていませんと言うと、生活保護が使えますよとの話しでした。今まで掛かれなかった生活保護、有難い話しでした。病院で治療を受けてくださいと言われ、神戸協同病院に毎日通院することになりました。昼はアルコールリハビリテーション施設に通い、夜は断酒会廻りと楽しくて酒を飲む間が無く忘れておりました。

断酒会、施設に通いながら、自分を振り返るようになり、これで良いのだろうか、甘えていて良いのだろうか、自問自答する中で考えるよりも実行に移した方が早いのではと、1999年にヘルパー2級を取得し、特別老人ホームの非常勤として勤めるようになりました。生活保護も切りたかったのですが、担当職員がまだ無理では言われました。意欲は充分ありましたから、福祉関係の仕事をと決め、ヘルパー1級、他の資格も次から次に取得していきました。もちろん断酒会の大会、研修会にも出席させてもらい、多くの仲間達から勇気と希望、笑顔を頂きました。

私の一番好きな言葉(やってやれないことは無い、やらずに出来る訳が無い)があります。アルコールで苦しみ、信用も、友人も、最愛の人も失い、生き地獄を体験して来た自分ですが、現在飲んでいた時と180度違う生活習慣を送っています。断酒会や介護の仲間から励まされ、自分に何か出来ることは無いだろうかと思案する日々の中で2006年、金も力も何も無でNPO法人 信親(母と父の名から一字を貰い)を立ち上げ現在は、皆さんの力を借りて訪問介護ステーション(かりん介護サービス)を運営しております。

これからも断酒継続を維持しながら必ず実ると信じて一日一歩で行きます。

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無知の苦しみから脱出して

堺市東断酒会・家族 

私たちが結婚して37年になります。二人とも愛媛県出身です。夫は中学絞の体育、私は小学校教員でした。           

初めの10年は、夫のお酒も楽しいお酒でした。「ご主人お酒強いね。」と言われても、「そうやろ。強いやろ。」と自慢に思うくらいでした。中学生の非行が激しくなってきた頃から夫のお酒の量が増えてきました。熱血教師の夫でしたから悩みながらもがんばっていましたから、同じ教師として「飲む気持ちも分かるわ。」と私はまだ寛大でした。 

私が「おかしい。」と思うようになったのは、ウイスキーをストレートで飲むようになった頃からでした。そんなある日、朝元気に出て行った夫が職場に行っていないことが分かりました。ショックでした。二人とも真面目に仕事をしてきていたので信じられませんでした。

それからの10年余りは出口の見えない真っ暗闇のトンネルに迷い込んだ様な毎日でした。生徒のことや職場のことで悩む夫に「それは、あなたのせいじやないやろ。仕方ないことやんか。」と何度言ったか知れません。人のいい夫はたくさんの仕事を背負い込んで、人間不信になりながらお酒に逃げる毎日でした。

私たちは二人とも、父が戦死して戦争未亡人になった母に苦労して育ててもらいました。母に心配はかけたくありません。私は一人っ子です。相談する姉妹もなく唯一人で悩み苦しみました。保健所へ行けばいいとか、アルコールの専門病院があるとか、何も知りませんでした。

お酒は止めなくてもいいけど、どうしてそこまで飲むのだろう。そうなる少し前に止めればいいのに。問題の原因はお酒だと分かっているのに、とことん飲んでしまう夫が理解出来ませんでした。職場に迷惑をかけて、子どもや周りの人との約束を平気で破る、トロンとした眼の夫がたまらなく嫌になりました。顔を見るのも、同じ空気を吸うのも嫌というところまで行きました。

また、こんなに飲むのは私に不満があるのだろううかと「私に悪いところがあったら言って。」と頼みました。泣いたり、怒ったり、説教したり、手紙を書いたり思いつくことは全て実行しました。私は、小さい頃から何事も努力すれば出来ると信じて頑張ってきました。でも、もうお手上げでした。夫の人格が変わったのだと、あきらめ軽蔑の眼で見ていました。

夫は、お酒を止めたくても止められず、泣きながら飲んでいたとは知りませんでした。夫は職場でも家庭でも益々孤立し、孤独になって行きました。夫はアルコール依存症になっていて、自分でアルコールをコントロール出来なくなっていたのです。そんなこととは知らないで、私は夫を恨み一人でもがき苦しんでいました。本人がコントロール出来ないのに、夫婦とはいえ他人の私がコントロール出来るはずがないことなど知る由もありません。 

そんな私たちを専門病院・断酒会に繋いでくれたのは、皮肉にも夫の『アルコールてんかん』でした。
『アルコールてんかん』で一般病院、アルコール専門病院、断酒会と繋がることが出来ました。倒れて救急病院へ運ばれ、そこで幻聴・幻視が出て精神病院へ。手足を縛られ、オムツをされ、幻覚で暴れる夫のベッドの側で、何日過ごしたか、覚えていません。
飲まず食わずでわたしもふらふらでした。それでも、これで体の中からアルコールが抜けたら治るのだと思っていました。そして、PTAの方たちが見舞いに来られるというので、知人の紹介で別の一般病院へ移り、この病院で退院間際にアルコール病棟のある精神病院を教えていただき、少しだけ通院しました。

退院後少しは酒量が減りましたが、すぐ元の状態になり、1年後にまた職場でアルコールてんかんで倒れました。私も少しは賢くなっていて、運ばれた一般病院の先生に、幻覚が出たら、前に紹介していただいたアルコール病棟のある病院へ移していただくようにお願いしていました。すぐに移ることになりました。ここで初めて「アルコール依存症」と診断されました。

ずいぶん遠回りをしました。夫は入院中から断酒会に通いました。家族も一緒に行った方がいいというので、私も断酒会に行くことになりました。初めて断酒会に行った時のことは今でもはっきり覚えています。家族の方が、「よく来たね。ここへ通っていたらお酒は止められるからね。」と言って下さいました。

あの真っ暗闇のトンネルの出口が見えてきた思いでした。その後二人で通い始めました。でも1年間は飲んだり切ったりで完全断酒は出来ませんでした。103日に退院して、次の年の103日にまた入院することになりました。でも、私は、慌てませんでした。

1年間、アルコール依存症の本をたくさん読み、断酒会や家族会の例会に出席していました。アルコール依存症のことを何も知らなかった私ですが、いろいろ学びました。初めは、体験談を聞いても、話しても涙が止まらなかった私でしたが、仲間の中でタクマシクなって行きました。 

2回目の退院後から今日まで完全断酒が継続されています。断酒13年の間に、娘が二人とも結婚しました。孫も2人出来ました。途中から同居していた私の母は3年前に亡くなりましたが、断酒している夫をいつも褒めていました。葬儀も喪主として立派に果たしてくれました。夫の母は92歳でまだ元気に暮らしています。

去年の春、故郷の四国ブロック(松山)大会には出席してくれました。断酒会の冊子や本も読んでくれています。励ましてくれています。喜んでくれます。あんなに軽蔑していた夫を今では尊敬しています。断酒継続だけでなく、会の活動をし、学校や地域の中で体験談を話しボランティア活動もしています。

家事もたくさんしてくれています。タバコも止めています。すごいなあと思います。お酒を飲んでいた時は、「私の人生はもう終わった。」と思っていましたが、今まさに第二の人生が始まっています。

お酒で悩んでいる人が、少しでも早くアルコール専門病院やクリニック、断酒会に繋がれるように、そして、アルコール依存症のこと、断酒会のことをもっともっと一般の人に知らせる活動をしたいと思います。私のように無知のために長い間苦しまないように。

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