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「墓所の幽霊」
藩政時代は色々変わった商売があったが、中でも最右翼は「墓所の幽霊」だろう。墓石の下より亡者の幽霊が現れるさまを形に顕したと云うから、なんとも凄まじい。
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その様子は左図のように、高さ二尺(=約60ab)余りの墓石を紙で作り、長期にわたって草に埋もれ苔むしたような色合いに設える。その上で別に作っておいた台石を腰へ括りつけ、先ほどの墓石を台石の上へ載せるのである。 この際、正面からは墓石を抱えた人の体が隠れて見えないようにするのがコツである。つまり正面からだと、墓石に足が生えて歩いているような状態である。 さて、今度は墓石を抱える人の風体である。当然のことだが亡者もかねているので、髪を振り乱し顔色は青白く幽霊に作り、墓石に身を隠す。すると、遊んでいる子供たちが興味を示して走り寄って来たり、場合によっては墓石の方から近づいていくこともあった。 いずれにしても子供たちが十分に近づくのを待って、 「アラ怨めしや」と云いつつ、突然墓石を前へ倒すと、凄まじい血潮に染まった幽霊が現れる仕組みである。 子供らは肝をつぶして逃げまどう。と、これを追いかけながら、再び墓石を引き起こして幽霊は隠れる。 サア、今度は子供が怖れながらも喜ぶ。後をついて歩くようになる。 そんな状態になった頃を見定め、どこからともなく乞食が二人ばかりあらわれ、 「エッ、ご評判ご評判、大仕掛けの幽霊でござい」 と、口上を述べながら、道の両側に並ぶ店先を、一軒一軒歩き廻って銭を乞い歩いた。 とうきたり 灌仏会は、四月八日に釈尊の誕生を祝う法会のことである。寺院などが花御堂(=季節の花で飾った小堂)を作って水盤に誕生仏を安置する。参詣者は、誕生仏の頭上から柄杓で甘茶を濯ぎ、或いは家へ持ち帰って飲んだり墨をすったりした。 この甘茶ですった墨で、 「千早ぶる卯月八日は吉日よ神さけ虫を成敗ぞする」 と云う歌を書いて、厠(=手洗い、トイレ)に貼っておくと、毒虫を除くと云う言い伝えがあったからである。 「とうきたり」は、そんな釈迦の灌仏像を持って、家々を廻り、お布施として一文ずつ貰って甘茶をかけさせた乞食のことである。 百取るうちに 濡れくさる釈迦 一回一文では百文稼ぐまでには、お釈迦様はびしょ濡れになるだろうがやむを得ない、と。 なお「とうきたり」の語源意味について考えてみたが、まるでわからない。潅仏会は推古天皇十四年(606)に大陸から伝わり元興寺で行われたのが最初とされるから「唐来たり」かとも思ったが、その頃は「唐」ではなく、まだ「隋」であった。 どなたか御存じの方がありましたら、是非ともご教示お願い致します。 「熊野比丘尼」から「けころ」へ 比丘尼とは女性の出家者、つまり尼さんのことである。高野山が女人禁制を貫いたのに対し、熊野三山(本宮、新宮、那智)は古来から女性を取り込んだ。その女性に信仰を勧め、熊野詣でに誘ったのが比丘尼である。「熊野那智参詣曼荼羅」「熊野牛王」「酢貝」を三点セットに持ち歩き、布教や信者獲得の手だてとした。 酢の中に入れると、猛烈な勢いで回転するので、見ていて面白い「酢貝(=二a程度の巻き貝)」は、人集めの手段に利用。「曼荼羅」は集まった人へ「絵解き」をするための道具。描かれてある熊野や那智の信仰に関する説明を加えながら、霊験あらたかさを語り、信者獲得の手だてとして不可欠なものであった。その「曼荼羅」よりも更に大事なのが、獲得した信者へ「牛王宝印」のお札を信者へ売る事であり、売上げの多寡は三山での身分にも影響した。 そんな比丘尼を統制していたのが「本願坊(寺院)」で、三山それぞれにあった。 ところが徳川藩政時代も中期近くになると、徐々に衰退し、それに伴い統制も弱まった。その結果、全国を廻っての布教活動も宗教的なものから、歌舞音曲を聞かせて布施を乞う「歌比丘尼」へと変化した。「八百比丘尼」の話が語られるようになったのも、その頃からである。 ある長者の娘が人魚の肉を食べたため、いつまでたっても年を取らず若々しいままであった。そのことを恥じた娘はやがて尼となり、諸国行脚の旅に出たが、八百歳に達した時、漸く大往生を遂げる事ができたという話である。 その行脚の際に立ち寄った場所がそれぞれ名所となり、証拠として手植えの松や腰掛け岩などの由来として残され今に伝わると聞く。 人魚の肉が長寿薬であるという話は長く人々の間に浸透しており、山東京伝の『箱入娘面屋人魚』(寛政三年(1791)刊)も長寿に関する人魚の話である。 但し こちらの人魚は、 《はや歳も十七八にて、ほんまの人間なら色盛 り(略)紅白粉でぬた にしたる如くに美しければ、なんぼ体が魚でも、釣舟の平次(=人魚を釣り上げた漁師の名)、少し浮かれの色見へて、まんざらでもなひと思ふ……》 とある通り、大変な美女で色っぽかった。肉を食べるなどは思いもよらず、『異物志』に「人魚を舐めたる者は千歳の寿命を保つ」とあるのを幸い、「寿命薬 人魚御舐所」という看板を掲げたところ、人魚の体を舐めたい男がドット押しよせ、偽物が出るほど繁盛したという。もっとも偽物の方は、隣家のブス女房に白粉を塗りたくり、鯉のぼりを 袴にはかせて人魚に見立てたと云うから、お粗末なものである。 舐め賃も本物が、ひと舐め一両一分であるのに対し、二百文の大安売りであったが、唯の一人も客が来なかったから、とうとう夫婦喧嘩になったという。 熊野比丘尼も同じ事姿形は似ていても、どうしても美人の方へ人気が集まる。また比丘尼にとって「牛王宝印」の売上額の多寡は、熊野三山での地位に影響した。 売上が多く、本社への奉納額が多ければ多いほど地位や身分が上がるから、競って増やそうとした。当然のことだが、お札よりも体の方が高く売れる。いつからか、そちらの方が主になった。 《いつの間にか唱へ失うて、熊野伊勢へは参れども行をもせず、戒を破り、絵ときをも知らず、歌を肝要とす。みどりの眉細く薄化粧、歯は雪よりも白く、手足に臙脂をさし》と、『東海道名所記』(浅井了意(?〜元禄四(1691)年)著)小田原宿に記す。 同じ頃に出た『人倫訓蒙図彙』(元禄三(1690)年)も、巻一の【比丘尼】は、《律戒の尼を云ふ也》と、まだ宗教者の尊厳を保っているが、巻七の【歌比丘尼】になると、次の様に変わる。 《もとは清浄の立流にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し、歯を磨き、頭をしさいに包みて、小歌を便りに色を売るなり》 また『只今御笑草』(二代目 瀬川如皐(1757〜1833)著)は「歌比丘」の出現場所や衣装等について次のように云う。 「今は絶えてなし。昔の紫にも出てくる。いづみ町や八官町などの余波で、天明の頃までは新大橋の東詰、浅草三島神社門前などで葦簀張りの花売り、江口の宿にいたが、勧進に出るのは春。飛鳥山、日暮らしの里、目黒不動、雑司ヶ谷など、人の集まるところへ出た。 十六七から廿歳ぐらいの比丘尼が薄化粧して、無紋に浅黄ねずみ色、紡ぎのような小袖を着て、幅の広い帯を前結びにしていた。 頭には納豆烏帽子とかいう、黒木綿を折った帽子を被っていた。牛王箱なのだろう、たい箱という黒塗りの文庫みたいなものを小脇に抱え小唄を唄いながら物乞いをすることもあった。 この比丘尼にも小比丘尼が二三人連れている。また小比丘尼は粗末な木綿布子に手甲脚絆をつけ、黒木綿で作った角頭巾を被ていた。 五合ほども入る短い柄杓を持つ、六歳から十一二歳までの小比丘尼を連れているのは、御寮比丘尼という。四十余歳だが色っぽい姿で牛王箱を抱えて付き添い、町々や門々へ立って歌う。その唄は良 く覚えていないが、 鳥羽の港に 船が着く 今朝の追風に たがら(宝)の舟か 大黒とおゑびすと にっこりと チトくわんおやんなん と、愛らしい声で歌いおねだりした」。 『盲文画話』(水野廬朝(文政十年(1827)著)は比丘尼の変遷について次のように云う。 《「往古より衣を着ざる比丘尼の地獄極楽の巻を持ち歩行、老婆婦女子らにその巻の絵解きして、極楽地獄 の有様を物語りて渡世せり。是を「絵解き比丘尼」と唱へし が、後は熊野の牛王を持ち(来)たり入用の者へ売る。是を「熊野比丘尼」と云ふ。此の比丘尼売色と変じて、専ら身を売ることとなる。 其の頃「唄比丘尼」とて、異風なる頭巾を冠り、紅(白粉)をほどこし、幅広の帯胸高に結び、(下駄を)履き、美しき甲掛けして、左に牛王入りし箱を抱へ、右にはびんざさらと云ふ物を指にはめ、是を鳴らして唄を諷ひ、町々の角へ立ち、手の内を貰ふ。…其の比丘尼すぐに売る者にて、浮かれ男共是を買ふて楽しむ》 また、「宝暦(1751〜1764)末年、市村座で中村富十郎が歌比丘尼の風俗を演じたところ、大当たりした。その結果、比丘尼が爆発的に流行るようになった。 中でも浅草門跡(=東本願寺)前に出来た比丘尼屋は、品川などの遊女屋に似て大層な店構え。客を迎えるのに、吉原の花魁道中のむこうを張って比丘尼道中を仕立てた」 しかし、そこまでするなら、伝統があるだけ吉原のほうに分がある。僅かなお布施で、御仏の愛に接する事が出来たからこそ、男達が通ったのである。吉原と同じなら比丘尼で我慢することはない。 皆がそっぽを向いたから、みるみる衰退し消滅した。 その時期について諸書は、次のように述べる。 《安永(1772〜1781)末には、小比丘尼まで跡なく無く成りて、今は衣着ざる比丘尼と云ふもの絶へてなし。大勢の比丘尼、何と成(けむ)。還俗せしか、又直に売女になりしか云々》(『盲文画話』) かくして隆盛を誇った比丘尼もあっけなく姿を消し、新しく「けころ」の時代へと移るのである。なお「けころ」の意味について『蜘蛛の糸巻』(山東京山編/弘化四年(1847)刊)は次のように云う。 《けころと云ふ名義は、此の頃浅草、両国、橘町、石町辺に、ころび芸者と唱へ百疋(=百文)づつにて転寝の枕席したる者ありし故、此の名あり。けころの名は蹴転の儀なり》 元々「転び芸者」であったものが、「転び」専門になったのが「けころ」であり、「蹴転ばし」の意味である。その発祥は、上野広小路から山下にかけての一帯と云われ、「比丘尼」と入れ替わるように現れた。 《安永・天明(1772〜1789)の頃までは、ケコロと唱へし売女、上野広小路、同山下、広徳寺前(=現台東区役所一 帯)、浅草三島町などに有りて流行せり。 綺麗なる九尺間口の店に、一人二人随分美敷茶屋女の風体ながら、店に茶釜様の道具もなし。多くは店先にて髪結化粧などする也。どれどれも美顔を撰て出すにや。見苦敷女はなし。 尤も、何も其の時々の当世姿也(=最新流行のファッションである)。一切二百文づつとかや。怪敷硯蓋(= お盆)に酒一銚子(=一本)出す。銚子替れば直しの旨也。 泊まりは取らずと見へたり。暫時の間に早契り。蹴転しの略言にや可笑。是もいつしか止みて、今(=文政十(1827)年)はふつに見えず。 …十六七歳美敷女壱人居て(お客を)迎ひては送り出る事、度々故、友と興じ一人一人と数へ見れば、少しの間に六人送り出し、七人目の客を迎へたり。驚き入りて茶屋の少女に問へば、あの子は大流行にて、一日に十五六人、廿人。物日には廿五六人も売りますると答ふ云々》(『盲文画話』) けころは余程評判が良かったらしく『続飛鳥川』(著者著述年未詳)も次のように記す。 「(けころ屋は)寛政(1789〜1801)頃まで、上野山下など大通りを始め、横町に多かった。とりわけ横町にはずらりと店が並び、一軒につき二人づつ店に出ていた。大抵前垂れを着けた娘姿であったが、時には人妻らしい姿も見えた。 何れも美人ばかりである。白昼に店を張っているから、料理等は出さなかった。後には、けころ屋はほかの地域にも沢山出来たが、何れも値段は二百文であった四ツ時(=夜10時頃)からは泊まり客をとっていたが、飲食なしで金二朱(=1/2分=1/8両=約500文)であった」 当時の二百文が現在だとどのくらいになるのか誰でも気になるが、これがなかなか難しい。 卑近な例では「二八そば」が十六文、最下層の売笑婦・夜鷹が二十四文と云うところから推察してみる。 「二八そば」は「かけそば」のことだから、高くても六百円ぐらいだろう。すると、夜鷹は「かけそば」一杯半分だから九百円前後となる。こちらは安すぎる気がしないでもないが、 鵺(ぬえ)よりも 化鳥(けちょう)の多い 吉田町 妙なもの へのこでするに 鼻が落ち (註) ・ 鵺=源頼光が退治た化け物。頭は猿、胴は狸、手 足は虎、尾は蛇、声は虎鶫であるという。 ・化鳥=化け物 ・吉田町=墨田区石原四丁目附近。夜鷹の名所であった。 と云うような状態であれば、二十四文というのも頷ける。それでも需要があったのは、江戸の町は単身赴 任の武士や出稼ぎ労働者が目立つ極端な男社会だったからである。 現在の役人なら、ふんだんに出張手当が出るうえ交通手段も発達している。いつでも家族の元?へ帰ることはで きる。しかし、参勤交代の大名は大抵貧しかったし、彼等に仕える家臣たちはもっと貧しかった。交通手段も自分の足で歩く以外にはないから、どんなに寂しくとも帰ることは出来ず。膝を抱えて我慢するしかなかった。 そんな単身赴任の武士たちを慰めるために開設されたのが、江戸の吉原である。ところが商品経済が発展するにつれ、商人たちに占拠され、武士たちは岡場所と云われた私娼窟で我慢するしかなかった。岡場所にも、それぞれランクがあり、夜鷹の本場、鮫が淵(=四谷付近)は次のように云われていた。 音羽での 屑を 目抜きの 鮫が淵 つまり、護国寺門前の音羽では最下等の女(=屑)でも、鮫が淵へ連れてきたなら、忽ち目を惹くほどの上等になる。そう思われていた。 それだけに他所では引退するような年になっても、まだ現役を続けていた。更に年を重ねて足腰が立たなくなると、舟に寝転がしたまま客の相手をした。これが「舟まんじゅう」だが、値段は夜鷹と同じ二十四文のままだった。 そんな女たちの最後の様子を『甲子夜話』(平戸藩主松浦静山著)は、或る婦人の話として次の一話を載す 《妾或日船行して深川に往とて、三又(=隅田川と箱崎側との分流地点)あたりを行きたるとき、船傍に、やや大なる船に病者と覚しき婦人を臥したるまま載せたり。この婦苦しげなる声して、 「せつなやせつなや」 と云ふ。その側を、五六人とり囲みゐたる者云ふには、 「程なく医者につれ往くなり」 と云ふを聞きつつ、妾が船 十余間も漕離るる時、何やらん大に水に投ずる音したれば、妾、何かに問ふに、同船の人云ふ。 「あれは今の病人を水中に投じたり」 と。…かの病婦は、世に、よたかと云ふ最も賤しき売婦にて、(以下略)》 「けころ」の二百文は、九十六文を百文に通用させていた当時の風習に従うなら、丁度夜鷹の八倍、七千二百円位である。こちらも高くはない。しかも美人揃いとなれば、繁盛しないはずはない。けころ店が徐々に広がったと云うのも頷ける。 また、発生した理由について『江戸売笑百姿』(花咲一男著/三樹書房)に、「諸聞集・三村竹清引用より」と、次の引用文を示す。 《浅草並木広小路に女川奈飯とて、奈飯田楽の一膳飯売、十二銅(=文)づつにて売。しかれども一膳二膳にては中々大碗に一ツも無、依之飽ほど食せんと思者は、七八 膳ほど食すに付百文ほどの中食となり、甚高値なり。給仕人に女を致、相対して売女にも致す故、時人是を蹴ころかしと名付。享保(1716〜1736)中ごろより出る。》 これほど人気と話題を振りまいた「けころ」が、突然姿を消したのは、質素倹約を旨とした寛政の改革の影響である。前任者・田沼意次が重商主義に偏り汚職収賄事件を誘発したのを見た松平定信は、その反動もあって取締りを厳しくした。 その結果、 白川の清き(=松平定信)に 魚も棲みかねて もとの濁りの 田沼(=田沼意次)恋しき などと云われるほど極端であった。「けころ」などは風紀を乱すと、真っ先に取締の対象にされた。『武江年表』(斎藤月岑 嘉永元(1848)年序)も、次のように記す。 《ケコロといへる茶屋女、下谷広小路御数寄屋町、同提灯店、仏店、広徳寺前堀田原辺、其外諸所にありしが、寛政以来これなし》と。 |
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「書評」
光田憲雄『江戸の大道芸人ー庶民社会の共生』つくばね舎
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野毛の大道芸をはじめ、変遷を経て現代に受け継がれている伝統芸能、大道芸。ジャグリングやパントマイムなど、西洋の大道芸が最近は注目されていますが、江戸時代から続く日本大道芸は、そもそも芸そのものと云うよりは、人の注目を集める手段でした。集まった人を相手にたんかばい(啖呵売)を始めたり、霊験あらたかなお札を売ったり、店先で騒いで小銭をせびったりと、金もうけの方法はさまざまですが、必要なのは人目をひくこと。そのため、非常に多くの種類がありました。 本書は、多くの一次史料を用い、当時の大道芸人の姿を点描するとともに、それを許容した江戸庶民による共生社会のありようを見つめた一冊です。 (神奈川新聞/2009.8.30 ) いまから40年も前に大道芸人と出会い語らったことから、みずから日本大道芸の伝統保存に情熱を傾けた著者が、江戸期・明治期の史料を渉猟して、江戸期の大道芸人の実像をたぐり寄せた一書。綿密に同時代史料に依拠し、根拠のない憶測は一切排した、大道芸人に関する確かな論究。 実際にどのような大道芸人がいたかという基本情報から、大道芸人と被差別の関わり、「がまの油」は落語の創作、南京玉すだれは近年の名称などなど、実践者であるがゆえの地についた考察が興味深い。 この分野では根拠のないままの断定や推論がきわめて多く、矛盾と混乱が目立つ記述も多いが、本書は日本大道芸の実像、大道芸人を許容していた庶民の生活を探るのに格好の内容だ。当時の絵画史料も豊富でかつて道ばたをにぎわしたひとびとの姿が思い浮かぶ。(光田憲雄著・つくばね舎・1800円+税) |
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