な気分!
−セレブな気分だけじゃ〜ものたりな〜い!−


○○の探究


18歳の頃、頃といっても、もう数十年も前の頃ですが、
地方の大学に入学した時に、教授から
「君たちは、何のために大学に入学したのか?」と問われたことがあります。


その時、「大学に入ったら時間も自由だし、遊ぶぞ〜!」と思っては僕はその答えを見つけることが出来ませんでした。


その内に、友達の間でいろいろ考えた結果、
便利な言葉にたどりつきました。
それは「真理の探究」という言葉です。


それ以来、「君たちは・・・?」と問われたら
「真理の探究のために、ここの大学に入りました」というとにした訳です。


いかにも崇高で、非の打ち所もない言葉だった訳です。
もちろん、言葉だけを便利に利用し、遊びほうけた訳ですけど、

今、改めて「真理の探究」と言う言葉に出会ってみると

懐かしく思う反面、こんな重要な言葉に、再度出会うのに
数十年もかかってしまったという複雑な念にかられています。


今「真理の探究」ということを考えてみると

「真理の探究」とは「自然の摂理の探求」ということになります。
「自然の摂理」とは自然の法則ということになり。

自然の法則を学び、自然を体現することが人間らしいということになる訳です。


ある人が
「人間は自然を生きれば、自然が現れ、不自然を生きれば不自然が現れる」
これが自然の摂理である。
と言う風に述べています。


自分に起こる現象は、その摂理によるものである。と最近は考える様になりました。


武道の極意は「自然体」とよく言われますが、
自然体とは、どこにもとらわれがなく己の最高を発揮するための体勢だそうです。


ある剣豪に、弟子入りした町人が、師匠に武道の極意を尋ねたところ
「畳のへりを真っ直ぐにあるけ!これが極意だ!」

そう言われた弟子は、畳のへりをスイスイと歩いた!
こんな簡単なことが極意とは?
師匠の武道もたいしたことないな!と思っていた。

ある時、師匠に同行して山での修行が始まった。
師匠が弟子に
「あそこに、谷にかかっている橋がある」
「それを渡ってみろ!」と言われた弟子は

橋の手前まで行くと、谷は深く、落ちたら命がない程の
奈落の底である。
そこに丸太の橋が一本かかっている。
弟子は、それを見るなり足が震え一歩も先に進めない。

それを見た師匠が
「お前は、畳のへりをあんなにスイスイと歩いたではないか!」
「畳のへりより広い丸太をどうして渡れぬ!」

「そう言われましても・・・・」と弟子が答えると

師匠は
「お前は邪念が多すぎる。」
「いついかなる時でも、平常心をもって、余計な妄想にとらわれるな」
「自分で作り上げた妄想に、振り回されている間は、一流にはなれぬ!」




なるほど、自分が作り上げた妄想か?

自然体も難しければ、真理の探究も奥が深いですね。






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