ガクガク岩と雨杉(古文書調査編)
  放浪記     表紙  

これは、古文書調査編。山口県文書館での古文書、古絵図を調べた結果を記録する。木地師に関してはあまり参考文献を引いていないが、木地師編で詳しく整理する。

まず、最初に山口県文書館の職員の方には心からお礼を申し上げたい。それが仕事とはいえ、大変丁寧に、また親切に対応していただいた。判らない字を教えてもらったり、 御立山の古文書が読めないと途方にくれている僕に、職員の方のほうから現代語訳の文献を紹介してくれたり、ルーペを貸してもらったり、いろいろお世話になった。 気軽に見られる複製の絵図(気軽とはいえ粗末にはできない)を、昼休みにもかかわらず出していただいた。実物の絵図を見るときは、マナーから取り扱いから片付けまで、 マンツーマンで教えていただいた。ありがとうございました。

また、以下に掲載する古文書と絵図の写真は、山口県文書館に撮影および当HP掲載の申請をし、許可を得たものです。本内容は、間違いの発見や追加情報などにより、 不定期に修正・更新します。06/11/14間違い修正(宇佐村の人口)。06/11/21追加(大倉左衛門尉の武力について)。06/11/29&12/25(微修正)。 07/01/15修正(正三郎⇒庄三郎)&追記(元服前の武器所有)(木地師による御立山での伐採)。07/01/**追加(大倉左衛門尉の祖先と智元の丸子山)。 07/04追加:御立山の面積。

参照
ガクガク岩第1回目探索:2005/10/30 広高谷〜額々山〜寂地山〜ガクガク尾根敗退
ガクガク岩第2回目探索:2006/04/23 広高谷〜ガクガク尾根〜後谷山〜三葛
ガクガク岩第3回目探索:2006/05/05 ツムギ谷右股ウサゴエ谷〜ガクガク尾根
ガクガク岩の岩質に関する考察:2006/07/15 明善川〜冠山〜傍木のキビレ〜後冠山〜寂地山〜焼山谷東谷
ガクガク岩第4回目探索:2006/09/23 広高谷 そして ガクガク岩
事前調査・考察編:2006/10/23 ガクガク岩と雨杉


湯舟から小五郎山(07/04/08撮影)

中央右の尾根は湯舟から小五郎山に向かう宇佐村と宇佐郷村の村境。尾根下部の川原が湯舟。
境目書きに"宇佐村との境は金山谷の奥湯舟と申す川より佛ノ丘山へ上がり:宇佐郷大原村"とある。下の絵図では仏の尾山と表記されている。




防長地下上申(1750):宇佐郷村・大原村 防長風土注進案(1843-4年頃):宇佐村・宇佐郷大原村 の比較
防長風土注進案宇佐郷大原村の前書きによると、宇佐郷村、大原村は宇佐村とあわせ宇佐村という一つの村だったが、慶長年間御検地のときに、宇佐村、宇佐郷村、 大原村に分かれたという。その後、明和年間に宇佐郷村と大原村が合併して、宇佐郷大原村という名前になったという。但し、防長風土注進案の凡例では、 慶長15年検地帳では、宇佐郷村と宇佐村とが一つの村で宇佐村と名乗り、大原村は別の村だったと書いている。宇佐郷大原村の庄屋さんの記憶違いか?また、 地下上申には、宇佐村の記述は無い。山口県文書館の人に聞いたが、紛失したか、損傷がひどく判読不可になっているかのどちらかだろうとの事だった。 なんと残念なこと。

(1) 人口とその内訳[1]
大原村(1750)の人口は311人、93軒。宇佐郷村(1750)の人口は711人で222軒。宇佐郷大原村(1843-4年頃)の人口は1010人で304軒。宇佐村(1843-4年頃)は、613人で201軒。 1軒あたり3-4人家族なのが、普通だったようだ。男女の内訳と、総人口が食い違っているのは、宇佐村(1843-4年頃)のみ。男女の数を足すと614人なので、614人の間違いと 解釈されているようだ[錦町史p188,7,10]。また、宇佐郷村(1843-4年頃)の女性に僧6人が含まれている。宇佐の女性に僧が含まれていたのは、尼さんだったとか何かの理由があるのだろう。 当時、僧や社人とみなされる女性が居たことには間違いが無いと思う。山口県文書館の編集者が、宇佐村の女性に僧と社人が含まれているのは不審だ、 と凡例で書いているが、当時は当たり前のことだった可能性があると思う。これは余談。

防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐郷大原村の304軒の内訳は、百姓287軒(本軒:29、半軒:73、四半軒:185)と門男(もうど)17軒。注目すべきは、職業の内訳で、 農人230軒の次に多いのが、49軒の杣木挽であること。他は、家大工(4軒)、樋屋(7軒)、宿屋(8軒)、質屋(1軒)、中買小商人(4軒)。この杣木挽、ここでは、 木地師で代表する[2]。そしてこの木地師、数の上では百姓に含まれていることになる。しかし、防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐村の201軒の内訳は、 百姓201軒(本軒:12、半軒:33、四半軒:156)のみ。隣村では、四半軒と門男は明確に区別されている。宇佐村に門男はいない?本当?また、職業の内訳は、農人199軒、 家大工2軒のみ。良材が得られる山の多い宇佐村に、木地師が1軒も無い訳が無い。隣の宇佐郷でさえ、49軒も居たのだ。必ず居たはず[3]。 この違い、庄屋さんの門男や木地師の取り扱いに依存しているのだろうと考えるしかない。

防長地下上申(1750):宇佐郷村・大原村には、前述の門男だけでなく、無縁と呼ばれる家があった[4]。農村における木地師に対する差別意識は強かったのは明らか。 宇佐村の庄屋さん、いい加減な性格の癖に高慢で、他の村の庄屋さんと比べると、木地師を一段と低く見下していたのではないか?無縁や門男に含まれる人たちを、 農人と簡単に済ましておいて、明記していないと思われる。だから、職業が農人と家大工だけだったのではないか?
宇佐郷村分を書くと、222軒の内訳は、本軒(27)、半軒(40)、門男(101)、無縁(54)。大原村分を書くと、諸士(2)、本軒(14)、半軒(12)、門男(61)、無縁(4)となる。 無縁は、大原村では93軒中4軒。宇佐郷村では223軒中54軒。両村を合わせると、総数316軒中無縁58軒となる。防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐郷大原村の内訳で これに匹敵するのは、304軒中49軒の杣木挽のみ。無縁のほとんどが木地師だったことになる。1750年から1843-4年頃にかけて、宇佐郷・大原では、家が316軒から304軒へと 12軒減り、無縁58軒が杣木挽49軒へと9軒減少した。減少分も、近い数字になっている。これは、移動した木地師が居たことを示していると思う。 また、この間、100年も同じ村で暮らしていたのだから、より親密になったか、社会的な意識が変わったか、職業の杣木挽が明示されるようになったのだろうと考える。 このことは、1750年には木地師が既に数多く住んでいること、新たな増減がほとんど無いほど飽和に達していること、 つまり、芸周石三ヶ国国境には、木地師が満ち溢れていた事を示すのだろう。

[1] このあたりの村の状況は、[http://staff.nagoya-toho.ac.jp/okabe/ronbun/nagoya.html]に要領良く解説されている。関連する項目を抜粋すると、 以下の通り。
・百姓のなかには富裕な商人・廻船人さえ居た。水呑と呼ばれた人々が実は米作をせず、漁業、塩業、薪炭業、林業、鉱山業その他多様な生業に着く人々であった。 「士農工商」という分け方は明治になってつくられたものであり、1872年に作成された壬申戸籍は、それまでの「百姓」を機械的に農民にしたため、 他の多くの生業が無視された。百姓のなかに含まれる非農民を40%とする根拠は、この分野の史料では最も整ったものの一つである『防長風土注進案』 (荻=長州藩編纂、1842年)の解析による。同史料中の周防国大島郡(30ヶ村)の記載を整理すると、百姓4,161軒の内農人は3,483軒、門男(水呑)6,949軒のうち 農人は5,029軒だった。計1万1,110人中8,512人、つまり76.6%が農人だった。この統計には当時の他の多くの統計と同様、武士、町人、僧侶・神官・医師、 被差別民などが除かれているので、それら通常20%の人口を加えると農人の比率は60%(非農民40%)という結論が導かれる。 さらに言うとこの農人の間でも活発な副業「農間稼ぎ」が行われており、これを仕事の20%と見積もると、農業の社会全体における比重は約40%にまで縮小する。
・太閤検地により土地の農民所有が明確になり、小農独立の基盤が整備された。江戸時代初期にかけての大規模開墾の時代にもうながされて小農経済が確立した。 中世までの大家族制が分解し、直系三代までの小家族制度が広がった。武士は城下町に集住し、村に一定の自治が可能となる余地が生まれた。 年貢は検見法から定免法に移行し、農民が生産を増大させるインセンティブがついた。米作以外の農業や非農業生産にはほとんど賦課がなされなかった。
・小農社会とは、農業社会において、自ら土地を所有するか他人の土地を借り入れるかを問わず、基本的には自己および家族労働力のみをもって独立した農業経営を行なう 小農が、支配的な存在であるような社会である。自己および家族員以外の労働力を用いることはあっても、それはあくまで副次的な役割を果たすにとどまる。
・東北アジア、とくにそのモンスーン地帯は夏に高温多雨であり、作物の生育も旺盛であるが雑草も繁茂する。雑草を駆除しないと作物は雑草との競争に負けて 収穫が激減してしまうが、除草をよくすると作物の収穫は飛躍的に増加する。作物が生育している耕地で除草しなければならない。つまり中耕除草であるために、 除草は人間が直接(家畜などを使用するのでなく)行なわなければならないことが多い。そのために極めて労働集約的となり、家族労働による経営面積は小さくなるが、 土地生産性は極めて高い。
・土地面積当たりの生産量は、耕地面積の増大、肥料の投与、深耕、労働集約度の増大によって、全国どこでもかなり上昇した。
・『防長風土注進案』を基にした西川俊作の研究では、1840年代の長州藩で、非農業生産は農業生産にほぼ匹敵した。農業部門出来高6万4,000貫(石高換算80万石)に対して 非農業出来高は5万8,000貫(同72万5,000石)である。長州藩が特別だったというわけではない。むしろ長州藩は、先進的な近畿、後進的な東北諸藩のほぼ中間の発展段階に あり、当時の日本の標準的な経済状態を示していると見られる。他藩の事例ではデータ量は限られるが、たとえば1820年代の広島藩では、酒、鉄、塩、木綿、紙、扱芋、 畳表の出来高54万7,900石だけで領地の石高48万7,600石を上回っていた。上州との国境に近い塩沢村では、1623年から60年ほどの間に家数が128軒から165件に増えているが、 その多くが他所から移住してきて田畑を持たない家族であった。また同村内では、農業以外の仕事をするものが多いとして、代官所が1689年にその実態調査を命じている。 その調査結果によると、40人もの男たちが塩、茶、紙、塩鯖、塩鰯、たばこ、飴などの商いに従事していることがわかった。

この解説を読んでいると、防長地下上申や防長風土注進案は、近世研究の特級資料であることがよく判る。僕も、これらの研究をリードした網野善彦氏が編集した 「日本の歴史」を持っているが、確かにこのようなことが書いてあった。そして、この解説から、1600年代の日本では、地域社会・経済が活性化し、 木地師も含めた百姓が活発に活動していたことが分かる。木地師は日本全国に広がり、活躍していた。もちろん、宇佐周辺でも。

[2] 木地師は、木地屋とか木挽・木引の名称で呼ばれることも多かった。もちろん、杉や桧から板材を切り出す木挽きと木地師を完全に区別している場合もあるが、 混在している場合もある。当時木地師が宇佐郷大原村に住んでいたことは、木地師の資料:氏子駈帖で明らかなので、 少なくとも混在していると判断できる[錦町史p387]

[3] 後で、河津・足谷[防長歴史用語辞典 木地師]などが木地師の集落であり、 氏子駈帖で、この時代にも宇佐に木地師が居たことが確認できる[錦町史p387]

[4] 防長歴史用語辞典によると、門男(亡土):田畑を持つか持たない程度の百姓。無縁:田畑を持たず、農業を自営するわけでもない細民で、後に門男にまとめられた。 日雇いや農事に縁の無い山仕事、狩猟民をさす。これより、無縁の中に木地師が含まれていると考えてよい。

[7] 防長歴史用語辞典:庄屋とは、村の土木・治水・戸籍・救荒扶食・勧農とともに、貢租の賦課徴収や村入費の収支を責務とした。職務の性質上、 算筆の才能があり相当の資力のある本百姓から選任された。一方、村落共同体の首長であり、民意を代弁する側面があった。刀禰には検地の能力があった事から、 庄屋にも簡単な検地の能力があると考えられる。

[10]庄屋の注進を代官所で注釈を加えたことが、凡例の説明にある。チェック機構があったと考えられる。でも、代官所はこの間違いを見逃したようだ。

(2) 御立山
防長地下上申(1750)宇佐郷村の御立山は9座。大原村は6座。そして、防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐郷大原村の御立山は15座。数はぴったり。地名も15座中14座が一致する。 1座のみ、登リ尾山浴にあるという御立山(大原村1750)と相浪山(宇佐郷大原村1843-4年頃)が一致しない。別の場所にあるというわけではない。地名が一致しないだけで、 同じ山なのか違う山なのか判別できないだけ。以上のことは、御立山の指定が1750年より以前であり、しかもその後にほとんど変化していないことを示している。

防長地下上申(1750)の御立山には地名しか書かれていないが、防長風土注進案(1843-4年頃)では山の名前と面積が記入されている。このことは、1750年には、 御立山は指定されているものの、検地が行われていなかったこと、その後、1843-4年頃までに検地が行われたことを示している。これは実際その通りで、御立山の検地は、 天明山検地(1781-1785)に行われ、御立山坪付帳(土地台帳)が作成(1791〜)された。御立山は、順次指定されていったようで、防長歴史用語辞典を調べると、1721年、 それまでの札に変えて、代官札を立てたとしている。御立山は、おおむね1743年ごろまでに制定されたようだ。

防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐村の御立山の項には、地名と面積が記入されているのみだった。でも、防長地下上申(1750)宇佐郷村・大原村 防長風土注進案(1843-4年頃) 宇佐郷大原村の御立山の項には、「御代官所御札山」とか、「右いつれも御代官札」、の但し書きが書いてある。つまり、御立山には、札が立てられ、 明示されていたということ。地下上申絵図にも代官札と書いた場所が山中に何箇所かある。道が描かれていないので、山の中にポツリと代官札が書いてある。 一体何だろうと思っていた。1721年に立てられた立て札が絵図に記載されているのだろう。でも、これらの但し書きは、代官札があるところには、 御立山に行くときの必然的な道があり、明示することができたことを意味すると思う。宇佐村の庄屋さん、こういった事でもそのいい加減さが現れている。 ちゃんとまじめに書けよな!!一言書くだけで、理解が全然違うのだから。性格が悪い。なお、風土注進案(1843-4年頃)で記載された宇佐村の御立山全ての代官札を、 地下上申絵図宇佐村(1750)の中に記入されていることを確認できた。宇佐村の御立山は、全て、1750年以前に指定されていることが確認できる。 防長歴史用語辞典記載の通り。

(3) 地下絵図
防長地下上申とは、山口県地方史学会刊「防長地下上申」第一巻解説によると、1727年より1753年にかけて各村から萩藩府絵図方頭人井上武兵衛宛に上申した村勢概要、 つまり村明細書のこと。内容は、@石高その他、A由来、B境目書きが大体において共通する。さらに、一村限明細絵図が作成された。この絵図は、1720年から 1755年頃にかけて作成され、いわゆる「地下上申絵図」である[山田稔 地下上申絵図の地下図について 山口県文書館紀要12 1985]

防長地下上申(1750)宇佐郷村・大原村の最後は、境目書になっているが、その最後に以下の奥書がある。

右此度明細絵図就御用、隣村境悉ク御案内仕、懸御目候上絵図被成御調、私共ヘ一覧被仰付候処ニ相違之義無御座、隣村出入少も無之、 尤石州(芸州)境之儀は申談不仕候へ共、先年より今以相違無御座候付、奥書仕差上申所如件

地名を除き、一字一句も違わないので、絵図を書いた役人から要請されて、絵図に間違いが無いことを村人に誓約させたのだろうと思う。 まず、隣村との境は全て案内して実際に見てもらった上で絵図が作成されたこと。出来上がった絵図を村人が確認し、間違いが無いこと。隣藩との境は、 隣藩と話し合ったわけではないが、昔からの境目と違わないこと、と書いている。宇佐村の地下上申は現存していないが、同じことを書かせて村人に誓約させた のは間違いない。国境はこれでよいと村人が保障したのだ。

この誓約は重要だ。まず、実際に村人が案内して境目を廻ったということ。このことは、防長地下上申の村絵図の説明、あるいは、絵図で見る防長の町と村(平成元年、 山口県文書館 編集・発行)の絵図の解説からも確認できた。地下上申絵図は、縮尺が1/3600[28]で、村々の絵図を継ぎ合わせると、村図→郡域図が合成できる。 測量が行われたことは間違いない。貴重な原図を見るのには遠慮(恐怖)があったので全てを閲覧したわけではないが、錦町史(1987:錦町史編纂委員会)には宇佐村・ 宇佐郷村・大原村等現在の錦町に属する各村の絵図の写真が載っており、ジグソーパズルをはめ込むように見事に境目が一致することが一目瞭然にわかる。 また、これらの絵図の接合状況は、山口県文書館研究紀要に山田稔氏の詳細な報告がたびたび記載されている。接続状況は、郡域図としては見事というしかないほど完璧に近い。 郡域図どうしでは、どうしても接続できないところが出てくるという結果になっている。もともと、村境を明確にして、 多発する境界論争の解決を図るという目的からして、寂地山を含めた村境は、地下上申絵図のときに詳細に測られた。最初から絵図は、 接続して用いることを前提に作られていたのだ。そして天明山検地(1781-1785)では、少なくとも村境に含まれない寂地山の部分は測られたと考えてよいと思う。 これにより、寂地山の御立山の面積が4500町だと計算された。

この地下絵図作成時の測量の結果は、絵図に反映されただけだったのだろうか?絵図作成は、まず、絵師が村に出向いて測量をして下書きを作成し(地下図)、 それを持ち帰って絵図を完成させた(清図)という。当然測量は村人が案内して行われた。この測量の結果は、村にも残ったと思われる。宇佐村の境界は、芸州境、 石州境と大原村と宇佐郷村の境界よりなっている。もちろん、測量は精度の高い平地の村から始まり、次第に周辺の辺境の山岳地帯へ移るという手順を踏む。 従って、地下絵図作成時、大原村と宇佐郷村の境界はそれぞれの村の測量で調べられたので、宇佐村=最奥の村=最後に測量をする村に来た役人はこの部分を 測量する必要が無い。測量したのは、芸州と石州の境だけだったはず。これは、注進案では、嶽山から雨杉を通って湯舟までの芸州と石州の境界のみ距離を記載し、 大原村との境目はよく判らない、小五郎山周辺の地名はあるが地理はよく判らない、となっていることからも裏付けられる[5]。この結果、宇佐村には、 芸州と石州の境の情報は残るが、大原村と宇佐郷村の境目の情報は残らない。以上より、注進案で記載された芸州・石州境の距離は、地下絵図を書いたときに 測量された結果を引用したものだろうと推定できる。

もうひとつは、国境に対する部分。このような誓約を書かせること自体、次の二つのことを意味する。まず、国境は、村人の申告に基づいて決めたということ。 そして、今回の測量が、国境の詳細な測量としては初めてであること。そうでないと、このような誓約はありえない。これは非常に重要。1750年になって、 初めて国境が詳細に測量され、確定されたのだ。それ以前の検地は、慶長検地と寛永検地。防長歴史用語辞典で調べる限りは、生産高を調べるための検地は行われているが、 村境や国境の測量は行われていない。錦町史を見ても、慶長検地と寛永検地では石高を算定するための検地であり、境目を測量した話は出てこない。 徳川幕府が成立してから150年後にやっと国境が測量されたということか。国境確定の必要性は低かったと考えるしかない。 もちろん、国境の絵図が書かれたのは初めてではなく、幕府の命令により、慶長、正保、元禄、天保の各期に、国絵図と郷帖が作成された[元禄国絵図に伴って作成された 周防・長門両国の縁絵図:河村克典、山口県地方史研究、江戸幕府撰国絵図の研究:河村博忠、古今書院、1984]。 隣藩と協議して整合するように書かれたということであり、何らかの測量がなされたことは間違いないだろう。しかし、縮尺が大きいので、 精密な測定ではなかっただろうと、解釈している。また、山口県文書館には、石見国境周防国縁図・安芸国境周防国縁図・芸州境切図・芸防境絵図が所蔵されており、 一通り閲覧させてもらったが、国境には簡単な山の絵が書いてあるだけで、精密な測量の結果だとはとても考えられないものだった。結果として、三国境の精密な測量は、 地下絵図作成のときに行われたと考えて良いと思う。

[5] 地下上申宇佐郷村・大原村(1750)と風土注進案宇佐郷大原村(1843-4年頃)両方とも、境目書きには、地名だけで距離は記載されていない。地下上申絵図の作成時、 測定された距離が残るか残らないかは、村によって異なるのかもしれない。さらに、これは、僕の宇佐村庄屋さんへの悪口だけれど、風土注進案で境目書きに距離を書くことは 求められていなかったのだろうと思う。国境といえども。だから、他の村では距離を書かなかったし、宇佐村の庄屋さんも判らないところは書かなかった。 でも、判っているところはわざわざ付け足しで書いたのだろうと思う。要は、自分が数字に強い?村を良く管理している?などの自負を示したかったのではないか? ということ。高慢で、いい加減で、自慢したがりの庄屋さんだったのだろう。でもそのおかげで、ガクガク岩の位置を精度良く同定できるのだけれど。

[28]07/01/**追記:1/3950という数値もある。場所により精度が変わるのは当然か。 [山田稔 地下上申絵図はどうつながるのか 山口県文書館紀要14 1987]
河津

宇佐村河津からの小五郎山
宇佐村絵図の地蔵付近(06/08/27撮影)

宇佐村河津の宕社
崩壊している(07/04/08撮影)

湯舟の川原(07/04/14撮影)
川床に滑が発達し大小の穴がある


(4) 防長風土注進案・宇佐村に見え隠れする木地師と土豪の確執
注進案を書いた宇佐村の庄屋さんの悪口の続き。名前までわかっている。宇佐村庄屋、広兼藤右衛門[錦町史p198]
防長地下上申(1750)宇佐郷村・大原村、防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐郷大原村では、茶筌(ちゃせん)と呼ばれた人たちが記録されている。茶筌とは、 茶道でお茶を混ぜるときに使う竹細工の道具のこと。転じて、茶筌を作る人達の名称になった[6]。人数は村人には入っていないし、 家も村の家にはカウントされていない。 完全に別扱い。総人数でやっと一緒にしてもらっている。調べてみると、被差別身分の人達、いわゆる穢多・非人・猿飼・夙・乞胸などに属することがわかった。 農業などのほかに牛馬の死体処理・皮革業、 また罪人の逮捕・処刑・見張りなど末端の警察業務にも使役させられたそうだ。また、宇佐郷大原村の、産業のことの項に、「外に、二貫五百目、但し、芸州往来筋にて 日雇稼業者賃銭浮儲之分」と書いてある。日雇いで稼ぐ人たちが、口屋(街道筋の見張りや管理をするところ)で働いていたことになる。多分門男の人たちだろうと思う。 しかし、防長風土注進案(1843-4年頃)宇佐村では、これらの人達のことは一切記載されていない。まったく一人も居なかったのだろうか?

宇佐郷大原村では、芸石往還が通っており、藩は領境に口屋を設け、街道を管理(宿駅を維持し、橋を架け替え、道を補修)した。また、宇佐村にも、 稗原峠を通る周防北街道があり、夏焼に番所[8]があった。番所で働いていた人たちがいたはず。しかし、この宇佐村の庄屋さん、宇佐郷大原村の庄屋さんとは違い、 番所で働く人たちの賃金のことを書いていない。また、錦町史によると、藩は、畑を荒らす猪や鹿を退治するために専任の猟師を雇っていたが、 一時廃止された。しかし、農民に猪や鹿を退治する能力は無く、1791年以降、再度猟師による通年の狩を行わせている。この猟師は、宇佐に一人居た[9]。 地手子と呼ばれた人のこと。これは、注進案の御米方の項に、「同一石五斗二升 但地下猟師御心付米」から確認できる。しかし、 村人の職業に猟師や地手子は記載されていない。とにかく、この庄屋さん、村の中に居る人について、明確な記載が無い。宇佐郷大原村の記述と比べると、極端に感じる。 何か理由があるのだろうか?

ここに、木地師と土豪の確執を匂わせる記載がある。智元の丸子の話のこと。
全文を意訳しておく。
「城山は、昔の地頭の居城として有名だが、天正年間には、刀禰[24]大倉左衛門尉が住み、処務をこなしていた。ところが、この男は私欲深く、 宰判の農民は困苦していた。ある日、広兼兵衛助というものが大倉左衛門尉の所へ行ったが、口論刃傷に及び、ついに兵衛助左衛門は討たれてしまった。 そこで、兵衛の一子松之助が大いに怒り、速やかに父の恨みを晴らそうとした。そこで、一族の弘民部太夫恒国藤左衛門、国本孫太郎と三人で相談したが、 まだ、力が足りないと考えて、大原村の宇佐川孫兵衛(宇佐郷を開拓した土豪の子孫)に助太刀を頼んだ。本望を達したならば、 刀禰の給料を渡すことを約束して日取りを決めた。ところがその日になって、孫兵衛が遅れてしまった。仕方なく、三人で大倉の家に乱入して戦いを挑み、 数刻後終に左衛門尉をはじめ、その子道満と奴僕隼人弥九郎を討ち取った。ところが、嫡子の智元がその場を抜け出し、深谷に逃げ隠れた。この三人はその後を追い、 丸子山という高山で刺し殺した。ついに復讐を果たし、大倉一家と奴僕七人の死体を穴に埋めて、石を積んでその印とし、七人墓と呼んだ。 しかし、その後、大倉の霊が村民に祟って災いをなしたので、その霊を神に祭って霊を鎮めた。これを黄幡社という。その後、智元を討ち取った丸子山を、 智元の丸子と呼ぶようになった。」

智元の父親、大倉左衛門尉[11]が殺されたのは、天正年間(1573-1591)だが、河津に木地師と考えられる安村庄三郎が開墾に入った永禄年間(1558〜1569)の 直後のことになる。安村庄三郎は、この大倉ら、宇佐に先に進出を果たして定着した木地師から宇佐の情報をもらい、四国讃岐から宇佐にやってきた可能性もある。 河津がいわしのいぎ川の下流の金山谷を通じて向峠と結びつくよりも、山を越えて宇佐と結びつくには、宇佐に河津の木地師を支援する強力な力・ 体制があったと考えられる。それが大倉左衛門尉の一族だった可能性がある[12,13]

この話、木地師と土豪の確執譚としてみると、非常に面白い。まず、嫡子智元が逃げたところ。注進案には「深谷に逃れ隠れしを右三人其後を追ひ丸子山と 申高山にて刺殺・・・」とある。大倉が土豪ならば、智元の逃げる先として、近くに一族の住んでいる所があるはず。殺された広兼兵衛助の息子松之助は、 復讐に一族の助成を得ている。土豪ならばすぐ近くに一族が居るのだ。では、なぜ、深谷から高山[14]なのか?大倉一家は使用人も含めて7人だったということだが、 この7人は村の近辺に一族が居なかったと考えるのが素直なところ。村にとっては新参者に近かったのだろう。
また、智元が住んでいた城山は、地頭職の居城だったというから、宇佐の中心部にあったと推定できる[錦ふるさと散歩に、大原の上と記載されている。 大原は、寂地川と宇佐川本流に挟まれた狭い三角地帯にあり、 後は寺床から下ってくる尾根の末端になる。地下上申絵図のこの部分には、古城山という山名が記載されており、ここが智元の棲家の城山だったのだろう]。 村人総出でリンチにあったわけではないので、 逃げる道は四方八方ある。権力の届きにくい他国に逃げる道もすぐそばにある(周防北街道)。智元は何処に逃げたかったのだろうか? 深谷・高山に逃げ込むには必然性があるはず。その必然性とは、智元が生き延びるためには、例え深谷・高山であっても、親族など、 自分をかくまってくれる人の所へ早急に行く必要がある、ということ。鬼ごっこじゃないのだから、深谷や高山の藪の中に しばらく隠れていれば良いということにはならない。「逃れ隠れしを」となっているが、本当に藪に身を潜めたのなら、猟犬でもいない限り 見つけ出すことはほとんど不可能になる。この場合、宇佐の中心部から丸子山に向かったその先には、智元の命を保障してくれる人たちが居る、 そう考えるのが素直だと思う。丸子山から行くことができる最寄りの人里、それは、河津の木地師の里、あるいは、寂地山を越えた三葛のツムギ谷、 広高谷、三葛(既に木地師が住み着いていたとして)の木地師の里しかない。智元が木地師出身ならば、最寄りの木地師の所へ逃げ込めば、 木地師の道のネットワークを利用して生き延びるのは簡単なことだっただろう。土豪に対して、まさに雲隠れすることが可能になる。 普通の人里ではだめなのだ。そこには敵に味方する土豪が居る。山奥の木地師の里に逃げ込むしか助かる道は無いということなのだろう。
智元は何処を通って逃げたのだろうか。道の無い藪の中を通ったならば、その跡を追跡することはほとんど不可能になる。とにかく登り進むよりも、その痕跡を同定し、 追跡するほうが時間を要するから。猟犬でもいない限り高山で追いつくことは不可能に近い。逆に猟犬がいるのなら、藪に入るのは自殺行為になる。 まず間違いなく、道を辿ったことだろう。この時代、山奥に入る道、それが木地師の道だったとしてもおかしくない[15]。そして、智元の一家を殺害した三人は、 どうして智元が深谷から高山に向かったことを察知できるのだろうか?三人に味方する目撃者が居たことは考えられる。でも、ある道を辿ったからといって、 その後何処に行くかはわからない。延々と一本道なら可能だが・・・。例え一本道であったとしても、高山で追いつくための最も有利な条件、それは、 目的地を知っていること。智元が、例えば焼山谷に入ったということを知ったなら、この追跡者は、その行く先を、例えば三葛だと理解することができたのだろうと思う。 だから追い付けた。挟み撃ちや待ち伏せなどの効果的な策も使うことができる。智元は、自分の行く先を追跡者が知っていると了解していた。生き延びるためには、 追跡者よりも早く目的地に逃げ込む必要がある。だから道を辿って急ぐ。それしか選択肢は無い。そして、三人の追跡者は、智元の行く先を知っていたからこそ追いつけた、 そう考えるのが順当だろうと思う[16]。いずれにしても、大倉左衛門尉・智元親子殺害の状況は、彼らが木地師出身であったという可能性ときれいに整合する。

そして、この話が木地師と土豪の確執譚だと考える理由。「私欲深く宰判の農民困苦し」というのが単純に信じられない理由。それは、大倉の霊が祟りをなしたので、 村民が神として祭り、霊を鎮めたと言う所[17]。宇佐の村人達は、この大倉一家斬殺をやましいこととして捉えていたのだろう。大倉一家殺害には、 勢力争いに起因する正当性の無い敵対心が潜んでいる。「私欲深く宰判の農民困苦し」は、正当性を主張するために後から言い訳として付け加えられたと考えられる。

この話を注進案に書いた庄屋・広兼藤右衛門。殺され、復讐した広兼兵衛助・松之助親子と姓が同じ。高々600人程度の閉鎖社会。直系の子孫だった可能性が高い[25]。 先祖を殺されて復讐を果たした一族の末裔、木地師に恨みこそあれ、同等に取り扱う理由は無い。言い訳を書くのは当然であり、社会環境からしても、 木地師を賤視しても当然。だから、庄屋・広兼藤右衛門は、そういった人たちのことを明確に書かなかったのだろうと思う。

この話、土豪から見れば確執譚だが、木地師側から見ればそうではないだろう。木地師の移住の目的は、あくまでも良材を求めてのことであり、 地方に進出してのし上がるという目的は無い。定住化した木地師の中に、チャンスに乗じてのし上がろうとするものが出てくるのは、当然としても、 木地を求めてやってきた木地師のほうから土豪に挑むことは考えにくい[18]。この結果、この確執譚、土豪側の一方的な勝利に終わり、 その後木地師側が復讐をするようなことにはならなかったのだろうと思う。木地師は、大倉の霊が祟りをなしているという話を聞き、また、 社を立てて神として祭ったのを見て、知らんふりをしながら、内心、ざまあみろ、と思って済ましていたのではないか。

これは僕の想像。広兼藤右衛門という庄屋が、代官所に注進案として、昔、広兼兵衛助が殺されて、息子が一族と復讐を果たした話を書いてきた。 そりゃお前の先祖か?という話になるに決まっている。広兼藤右衛門は、説明するだろう。嘘であれ、本当であれ、 自分の一族が宇佐にどれだけ貢献してきたかを。自分が庄屋であるのはどれだけ正当なことかを。代官所にしても、その話をひっくり返す理由は何も無い。 庄屋と敵対して、何も良いことはないから。大政奉還まであと20年たらずの時期、日本の歴史が唸りを上げ始めていた。藩体制の立て直しは急務なのだ。 関が原以来の毛利氏の幕府に対する恨み。年来、年賀の口上は、今年こそ倒幕か?いや、時機尚早!だったそうだ。必要な事がきちんと書かれているなら、それで良い。 細かいことには構っていられないのではなかったのか?

06/11/21追記:また、この話は別の観点で見ることができる。この大倉左衛門尉は刀禰という職にあり、日頃の職業内容は庄屋と変わりない。 しかし、錦町史によると、大倉左衛門尉がいた1500年代では、刀禰は大内氏・陶氏・尼子氏・毛利氏の支配下で、地侍として各氏の兵力に組み入れられていた。 また、1543年、宇佐の土豪、恒国太郎左衛門は、宇佐八幡宮のご神体彩色により、大内氏による尼子攻めの戦勝を祈願している[錦町風土記p144, 1965]。 刀禰だけではなく、地侍化した土豪も大内氏の家来になっていたのだろう。また、刀禰大倉左衛門尉が武力を持っていたことは、防長風土注進案の記述から明らか。 つまり、大倉左衛門尉に殺された土豪の広兼兵衛助の息子松之助は、弘民部太夫恒国藤左衛門、国本孫太郎と復讐を果す際に、三人では不足と考えて 、隣村から助人を一人頼んでいる。合計四人。これに対して、大倉家七人のうち、少なくとも男子であるのは、大倉左衛門尉本人と、息子の道満・智元と 奴僕隼人弥九郎の四人。隼人弥九郎は、隼人と弥九郎で、合計五人かもしれない。四(五)対三では力不足なので、せめて四(五)対四に持っていこうとした、 ということ。但し、智元や道満という名前は、元服前の名前のようなので、武器を持っていたかどうかは不明とするしかない。まあ、広兼松之助も 元服前のようなので、元服前でも武器を持っていたと考えても良いかもしれない。この助太刀の話は、大倉家を急襲したとしても、 大倉家の男は常に武器を持っていたための措置と考えられる。大倉家が武器を所持しないのなら、また、所持していても常に身に付けていなければ、 このような入念な人数合わせは必須では無いからだ。智元の丸子の伝説は、まさしく、地侍化した木地師と土豪の争いだったと考えられる。 農家や木地師が土豪化し、地侍になるという道筋はあったことは確か。しかし、地侍になるのは、社会情勢からやむをえなくそうするのであり、 江戸時代に入って世が安定化すると、常国氏や広兼氏は元の土豪に戻っている。なぜなら、錦町史の記載では、常国氏や広兼氏は庄屋や宇佐八幡宮の願主としてしか 登場せず、例えば代官や毛利氏の家臣にその名前が見出せていないから。それがこれらの一族の本来の姿なので、当然だと思う。

07/01/**追記:2006年錦町から発行された「錦ふるさと散歩」に、この大倉左衛門尉の殺害の話が「宇佐七人畔(ぐろ)物語」として収録されていた。 同じ話は、昭和45年発行の 「錦町風土記」にも記載されていたが、「錦ふるさと散歩」には追記がある。これは、大倉左衛門尉の祖先は、 「応永年間(1394-1427)に大倉の先祖が平を開墾したという口伝がある」というもの。 この話が本当だとすると、大倉家は、1300年代に宇佐に移住してきたと考えられる。時期としては、木地師編で出てくる、吉賀高尻河野弥十郎の移住の後ということになる。 河野弥十郎が木地師だった可能性があることから考えると、同時期に移住してきた木地師が居てもおかしくは無い、と言うことになると思う。 また、おなじく「錦ふるさと散歩」の寂仙坊の話の中に、木地師が登場していた。但し、昭和40年発行の「錦町風土記」の寂仙坊の話には登場しない。 本当にそういう話があるのか、お話として単に創作して挿入したのか、よくわからない。筆者は、山口県地方史学会でも活躍している人なので、 単なる創作だとは思わないのだけれど・・・。

07/01/**追記:また、大倉左衛門尉の居城であった城山の位置がわかった。同じく、「錦ふるさと散歩」に記載されていたが、宇佐中央部の大原の北の山麓に 城山があったということだ。 宇佐村清図では、ここに古城山があり、話が整合する。また、同じく古城山の山麓に大倉が祭られた黄幡社ヶあり、納得できる。そうか、ここか!

07/01/**追記:智元の丸子山が同定できた。詳しくは、山行記録の"智元の丸子山〜錦ヶ岳〜旧智元の丸子山〜竜ヶ岳観音"を参照のこと。 これより、智元は、焼山谷を通り、本流の黒滑谷を登って逃げたと推定できる。僕も黒滑谷を歩いたが、登りやすい谷だ。たとえ道が無くても、登るのに大きな支障は無い。 そこで、智元の逃避先、つまり目的地は何処か?という問題に一つの推定が加わる。 河津か寂地山を超えた三葛(ツムギ谷と広高谷を含む)のどちらか。智元は、逃げ出す際に、周囲の状況からやむを得ず焼山谷に逃げ込んだとしても、 意図的に焼山谷に逃げ込んだとしても、どちらに考えてもかまわない。ここで、地図を見ると、黒滑谷を登ったということは、川津から遠ざかる方向に 逃げたことを意味する。河津に行きたければ、タイコ谷から藪が峠を目指すだろうと考えられる。また、焼山谷から河津を目指すと、宇佐中心部から 藪が峠に向かう道を使って追っ手に先回りされる可能性が高い。この宇佐中心部から藪が峠に向かう道は、宇佐村絵図にも記載されており、宇佐の主要な道の一つであった と考えられ、焼山谷を通って河津に向かうよりも早く河津に到着できるはずだから。焼山谷を登った時点で、先回りをされないためには、河津に向かうと言う選択肢は 無くなることになる。ならば、智元は、寂地山を越えて、三葛に向かったと考えるのが素直な結果だろうと思う[26]。僕自身としては、 1500年代に木地師が既に三国境に展開しており、宇佐から寂地山を越えて三葛に通じる道があった可能性を考えたい[27]。 ツムギ谷から、宇佐への最短コースが出来上がるから。道の必然性はあると思う。但し、この、焼山谷−寂地山ルートは、 1600年代から1700年代初めにかけて寂地山が御立山に指定されると、御立山内部を通ることになる。従って、御立山指定の後は、木地師の道は、寂地山から 寺所を通って、おふが浴尾から寂地川を下る御立山境界に沿った道に変更せざるを得なかっただろうと思う。焼山谷−寂地山ルートは放棄せざるを得なくなる。 三ツ岩―河津ルートも宇佐中心部へ行けるが、山越えを二度しなければならず、専ら吉賀へのルートとして用いたと思う。

宇佐村中央部


1750年当時、現在の寂地川は焼山谷と呼ばれていた。ただし、1843-4年頃の防長風土注進案では、 寂地川の名前が登場するし、
明らかに、焼山谷は現在の焼山谷になっている。宇佐村のは現存しないが、他の村の地下上申奥書より、
この絵図の焼山谷が誤記であるとは考えにくい。この100年間で名前の指し示す位置が変わったと考えるべき。


焼山谷

宇佐キャンプ場からの五竜の懸崖(観音岩)
観音岩の下が焼山谷の入り口(05/08/28撮影)

焼山谷入り口
五竜の滝(05/08/28撮影)

焼山谷智元谷入り口
この右上の山が智元の丸子(06/08/27撮影)


「岩頭に観音の石像を安置す此所智元の丸子山の巽の尾折り下りて岩頭に接す」

観音岩へ行く

観音さん

観音岩から鬼ヶ城方面

[6] 竹細工を扱う仕事は古来より貧しい賤民の仕事だったらしい。竹材は木材と違い、竹林全体の発育のために茂りすぎた成年竹を間伐するので、 貧しい民でも比較的安い値段で手に入った。忍耐力と器用さが要求されるが、その丹念な仕事の割には収入があまり得られない仕事だった。 しかし資本がかからず、簡単な道具と腕さえあればできたので賤民には適した仕事だったそうだ。彼らは竹細工を内職として茶筅やささらを作って売ったり 配ったりしていたのでこのような名称がついた。そういえば、裏社会に生きた山の漂流民サンカも竹細工(籠や笊)、特に工程が非常に複雑で専門的な技術を要する 「箕」で生計を立てる者が多かったと聞いた事がある。

[8] 防長歴史用語辞典:番所は口屋と同じで、国境の要衝に設けられた見張所。通行人の取り締まり、運上銀の徴収などを業務としていた。

[9] 地手子:単純な猟師ではなく、特産の楮による製紙業の管理や農地開拓の推進などの役目もあった[山代地手子について:渡隆光、山口県地方史研究]。

[11] 木地師で最も使われた姓は、小椋・大倉・藤原姓の三つ[因幡の木地屋:荻原直正、牧野出版、昭和51年]。この大倉姓は小椋性と並んで 木地師の代表的な姓。 この時代で大倉性を聞くと、まず、木地師出身の可能性を考える。時代が後になるほど、姓の多様化が進み、姓から単純に木地師を仮定することは意味が無くなってゆく。 しかし、この大倉左衛門尉は1500年代の人なので、大倉姓であることは木地師出身の可能性を十分に示す。また、木地師の定着化は室町時代には始まっているので、 大倉左衛門尉かその祖先が宇佐村に定着していた可能性は十分ある。錦町ふるさと散歩には、応永年間(1394-1427)に大倉の先祖が平を開墾したという口伝があると書いている。

[12] 現在の地図を見てわかるように、いわしのいぎ川(深谷川)の両岸に、開拓可能な平坦地がある。現在は、両岸とも開拓され、双方とも河津という地名になっている。 しかし、安村庄三郎は開拓当初、わざわざ日当たりの悪い、宇佐側の岸、右谷山の北面の麓を選んでいる。自給自足のために農業をある程度するにしても、 意図して条件が悪い土地を選んだことになる。国境がどうなっていたかに関らず、安村は宇佐に属することを選んだ可能性がある。また、吉賀記によると、いわしのいぎ川 右岸、つまり石州の河津のほうは、この1500年代には既に人が入って開拓していたと考えられる。

[13] 錦ふるさと散歩:錦町昔話編集委員会・2006によると、宇佐には、常国・広・広兼一族など、この地に昔から住みついていた豪族が居たことはわかっているが、 大倉の一族についてはよく判らないという。前述のように、応永年間(1394-1427)に大倉の先祖が平を開墾したという口伝があるとも。宇佐村に入った木地師が台頭して、 刀禰にまでなり、地頭職の居城に住むようになった可能性がある[23]。このほか、木地師で台頭した可能性がある者としては、 徳山藩宿老だった小椋氏がある[杉本 寿:周防国の木地師制度:山口県地方史研究47 p14-19]。また、錦町史p76に、「文安三年(1446)の財物注文に、 山代庄宇佐の大蔵が安芸厳島神社に、紺紙金泥法華経一部を奉納した」と記載されている。ここに登場する大蔵は、字が異なるので、 大倉左衛門尉の祖先かどうかはわからない。しかし、大蔵が大倉と同じく、木地師に多い姓であること、漢字は適度に書き換えられることが 多かったことを考えると、関連している可能性はある。また、大蔵は「紺紙金泥法華経一部を奉納」するくらいなのだから、そこそこ資産を持っていたと 推定できるにもかかわらず、吉賀(六日市町)や錦町関係の歴史を見ていると、大倉・大蔵姓が全く登場しない。これらの事を考えると、大蔵が大倉左衛門尉の祖先であり、 大倉左衛門尉の代で大倉家が断絶したことを伺わせる。どうだろうか、僅かには可能性があると思うのだけれど。

[14]07/01/**追記:この智元が殺された丸子山という山、詳細な記述があり、焼山谷の源流にある、黒滑谷源頭から右谷山にかけての四つのピークのうちどれかだと考えられる。 注進案の記述からは、黒滑谷の源頭のピークが最も可能性が高いと思う。07/01/**追記:神祠之事の「龍が瀧 観音堂」に「岩頭に観音の石像を安置す此所智元の丸子山の巽の 尾折り下りて岩頭に接す」という記載があり、やはり、黒滑谷の源頭のピークが智元の丸子山だったことがわかった。しかし、桑原氏が地元の古老から聞きだした 智元の丸子山は、主稜線には無いが、焼山谷の源流・錦岳のふもとのP975であり、宇佐の人の認識に変化があったことを示している。

[15] 後述するように、宇佐村地下上申絵図には、寂地山と小五郎山の間で唯一、右谷山の所にカラスバ山というピークの名前が書いてある。 このことは、村人はこのピークを識別する必要があること、つまり、この山に向かう道があったことを意味する。この道は、おそらく、 現在の焼山谷からミノコシ峠に向かう・あるいは右谷山の南尾根にある道だったと思う。道は山頂で途切れる訳が無い。 カラスバ山あるいはミノコシ峠から河津に行く道があったと推定できる。智元の時代には寂地山(まだ御立山ではなかった)に向かう道もあったのかもしれない。 07/01/**追記:前述したように、智元は、黒滑谷から寂地山を越えて三葛に向かったと推定できる。

[16] 猟犬がいれば、完璧だが、討ち入りに逃走を予想して猟犬を連れて行くとは考え難い。猟犬を用意したとしても、かなり時間差が発生するだろう。 第一、1800年代でも雇われ猟師が一人しか居なかった宇佐村[渡 隆光 山代地手子について 山口県地方史研究]。1500年代に猟犬が居たとは考えにくい。

[17] この話の構造は、聖徳太子、菅原道真、そして、この村の総鎮守宇佐八幡大神(応神天皇)など日本の歴史で何度も繰り返されてきたの"祟り神""怨霊"の構造と 全く同じ。政治的、社会的に迫害された人が祟り神となって復讐を始め、心にやましい所のある人たちが祟りを鎮めるために神として祭ったという。

[18] 土豪からの差別や迫害を避けるために、平家や天皇家につながる家系だと名乗り、免状・古文書・烏帽子などの正装など、 木地師の七つ道具を所持していた。また、土豪と良好な関係を保つことに勤めたほうが良策なのは当然。だから、木を切るのに代価を払ったり、 代官所に普通の人には無用材だから切らして欲しいなどの申請をしたりした[山村社会経済の構造分析:杉本 寿著、巌南堂書店 1973]

[23] 木地師は、本質的に貧乏人だったのだろうか?しかし、山奥で暮らすことと、貧乏であることには必然的な結びつきは無い。 木地師が本質的に貧乏ならば、木地師を希望する人・跡を継ぐ子孫が居る訳が無い。被差別身分ではないので、家業を強制的に継がされることはないからだ。それに、 免許状まで整備して轆轤の技術を秘密の技として伝えた、また、 全国組織を運営していた、等の組織の特徴とも矛盾する。そこそこ儲かった。農家より儲かった、という可能性は当然高い。 当時の木地師の収入を示す直接的な証拠を見つけたわけではないが、関連する事項がある[山村社会経済の構造分析:杉本 寿著、巌南堂書店 1973]。 まず、木地師の組織は生産・加工・流通・販売まで含めた総合産業の組織で あったということ。京都や大阪に住んで豪商になった木地師も大勢いる。地方の元締めをしていたものもいる。大儲けするチャンスはいくらでもあった組織なのだ。 また、具体的な例としては、いわしのいぎ川下流の金山谷に住んでいたという木地師小椋余右衛門(1830前後)がある。彼は、本職の傍らに熊をとり、 その肝を売って大金を儲け、石州の同業者と賭博に興じて(注:木地師のことか?それなら木地師は一般に裕福だったことになる?)、たいそうな羽振りだった [木地師小椋余右衛門、錦川第2号 山口県立広瀬高等学校 平成元年]。実際に小椋余右衛門はかなり裕福だったらしく、金山谷の鎮守・河内神社を寄進したのも 彼だった[西中国山地の木地師:金谷匡人 木地師・光と影 日本木地師学会編、牧野出版]。小椋余右衛門の住居跡は木地屋屋敷と呼ばれた、また、 墓や社寄進の記録を見ると小椋余右衛門はかなり裕福だったと思われる[六日市町史第2巻p569-570]。河津出身の木地師河村徳雄氏(1995年時点で存命)は、 農家の人の3倍位儲けていた[錦町史 民俗編 山と里と人と暮らし1995 p167]。などの具体的な記述がある。裕福になり、社会的にのし上がる余地は当然あった。 但し、1600年代以降、木地師が不況に見舞われ、木地師を止めて帰農する者が増えたこともわかっており、全ての木地師が裕福だったというわけではない。 当然、農家よりも稼ぎが悪いもの大勢いただろうと思う。また、この不況がきっかけで、木地師の制度・組織が衰退していったこともわかっている。 1500年代は、戦国時代であり木地師の不況は生じていないことを考えると、1500年代の木地師は農家より裕福だった可能性がある。もちろん、木地師の才覚次第だけれど、 庄屋になれるくらいの基盤はあって当然。杉本寿著 山村社会経済の構造分析(巌南堂書店S48)を読むと、国の棟梁・庄屋・村長・豪商・大地主など、 経済的に成功した木地師の話しは随所に出てくる。1600年代に始まる不況の前は、木地物は作った端から売れる商品だったとも書いてある。 また、村人から見れば、半定住生活をするために、村にとっては常に新参者であり、小屋がけ程度で土台のある家に住まなかったし、服装は粗末だった。さらに、 山奥に住んでいて素性が知れなかったという卑賤な一面を持つ。しかし、比較的裕福であり、ほとんど納税の義務を負わず、 木を勝手に切り出すことも多かった。また、貴人の子孫だと名乗る事に対して、村人は妬みも感じたはず。木地師を差別し、賤視する土壌はいくらでもあった。 だからこそ、村の中で木地師が下手に成り上がると、自分たちの精神的拠り所を侵された土豪との軋轢が生じたと見ることもできる。

[24]とね:村役人の一種:検地技術並びに警察力を有したとされる[日本中世の村落(岩波文庫) 清水三男著]。山代では、職業上庄屋と同じ:防長歴史用語辞典。 錦町史によると、戦国時代に大内氏や毛利氏に仕えた地侍の頭領のような存在でもあった。

[25]07/01/**追記:宇佐には広兼の一族というのがいた。六日市史によると、厳島の神主の一族佐伯氏が、平清盛により所領を得て姓を広兼氏と改めたこと、そして、 その次男が宇佐に住んだという話がある[六日市町史p555]。但し、佐伯・広兼氏の出自は、朝鮮系採鉱冶金技術者であったという[奥山代の小五郎山について:恵本洋嗣、山口県地方紙研究]。 錦町史によると、宇佐の広兼氏は、何代も庄屋を務めている土豪のようだ。

[26]07/01/**追記:寂地山を越えて三葛に向かうという行動は、当時としても、突飛な行動ではなかったと考えられる。なぜなら、 1100年代に平家落人として平家ヶ岳山麓に入った 松前隼人一行の一部は、吉賀に進出し、さらに金山谷から河津を越えて匹見に入って行ったと伝えられているから[錦町風土記、錦ふるさと散歩、 平家落人の伝説と島の谷 木下功 錦川8]。この話は、山行記録の”木谷峡〜尾茂越〜平家ヶ岳”を参照のこと。

[27]07/01/**追記:大倉一族は、前述したように、木地師が成り上がった可能性があり、智元は、木地師の道を通って寂地山越えをし、三葛を目指したのだろうと。 この寂地山越えの道は、地図を見て判るように、三葛と宇佐を繋ぐ最短コースになる。もう一つの最短コースとして、寂地川も候補になるが、多分これは無い。 なぜなら、焼山谷は滝の数が少なく、しかも、下部の龍ヶ瀧には既に観音道や拝所に行く道があるので、犬戻しの滝をはじめ巨瀑の多い寂地川と比べて、 安全な道をつけることが可能だから。

■江戸時代後期における測量技術
防長地下上申の頃(1750年代)の測量技術はどういうものだったかを調べた。以下に示すような例が見つかった。
(1)徳島及周辺絵図:http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/~archive/004/t43/text_a.html
徳島藩では享和2年(1802)〜天保2年(1831)にかけて,実測分間絵図を作成した.その中心となったのは,測量方の岡崎三蔵らであった.三蔵らが用いた測量方法は 「紅毛流規矩(きく)術」と呼ばれ,磁石や矢倉を用いて地点間の距離や方位,高低を測り,縮図を作成した.三蔵らは阿波国内580余の村々を測量し, 各村ごとに分間(縮尺)2寸1丁(約 1800分の1)の村図を作成し,村図をもとに2分1丁(約18,000分の1)の郡図,8厘1丁(約45,000分の1)の国図を編集した. 本図はそうした分間絵図を増補再編集したとみられる吉野川および勝浦川下流域の実測図である.本図は,山地を山吹色,田を黄緑色で色分けするとともに, 正確な郡界・村界が引かれていて,「絵図」から「地図」への過渡的役割を果たしている.

(2)江戸時代 加賀藩の測量について:http://tomicho.com/special/index.html
新湊市博物館には江戸時代後期を代表とする和算家・測量家の石黒信由以下4代の遺品(高樹文庫)が展示されています。信由は、宝暦10年(1760)射水郡高木村 (新湊市高木)に生まれ、最高水準の和算・測量術・絵図作成技術を身に付けていました。文政2年(1819)加賀藩から越中・加賀・能登(富山県・石川県)の測量を 命じられ、5年後にきわめて正確な絵図を藩に提出しました。その精度は高く、同時代の測量家で日本全図を作製した伊能忠敬の業績に並ぶものです。 信由の学問・技術は息子信易、孫信之、北本半兵衛、ひ孫信基に受け継がれ発展しました。高樹文庫資料は和算書・絵図・古文書など1万2千点余にのぼり、 調査研究が進められています。
信由の初期の測量術
信由は、測量の目的やその場所の広さ、作製する絵図の縮尺の大小によって、さまざまな測量術を使い分けました。例えば、検地や新田開発など、田畑の面積を求めるには、 十字法・三斜法という二つの方法を用いました。また、村や潟、屋敷などの絵図を作るときは、廻分間(廻検地)という測量を行ないました。 信由は、いろいろな測量方法の使い分けを経験するなかで、測量器具の工夫・改良を重ねていきました。
十字法:その土地の形に近い長方形をいくつもつくり、タテ・ヨコに直角に交わる縄を十文字に張って面積を計算します。
三斜法:土地をいくつかの三角地に細かく分けて、面積を求めます。十字法と組み合わせ、その精度を高めました。
廻分間:土地の外周を順番にまわって、距離と方位を測り、一周して元の地点にもどります。この方法は、能登半島などの広い地域を測るときにも役立ちました。

(3)江戸時代の測量術:http://www.f2.dion.ne.jp/~ats_alfa/Rekishi.htm
伊能忠敬以前:1648年、長崎の樋口権右衛門はオランダの医師カスハルより学んだ洋式測量術を「規矩元法」と称して、免許状の形式で門人に伝えた。 この内容の大半は村上昌弘の「量地指南」(1733)、「量地指南後編」(1754)により公刊された。この著書は三角法を応用し、 コンパスと定規を用いて距離と高さを測り、現地を縮図して地図作成を行う方法を示している。その後、時代と共にオランダ人を通じ様式測量術が漸次導入され、 多くの測量書が出版されるに至った。
建部賢弘は和算の大家関孝和の門人で、見盤(今日の平板に類似するもの)及び磁石を用いて、諸国の高山などの位置を交会法により求め、 元禄国絵図を修正しながら編集接合して享保日本図(享保:1716-1736)を作成した。寛文年間(1661〜72)には我が国でも地図が印刷されるようになり、そのため、 上記の官撰地図のほかにも、民間の日本全図や京都・大阪・江戸などの市街図が数多く出版された。水戸の藩士長久保赤水は安永七年(1778)に 日本興地路程全図を作成した(図)。この地図は享保日本図をはじめ多くの絵図や資料に基づいている。一里一分すなわち1:1,296,000の縮尺で、 経緯線が描かれた我が国最初の地図である。方位記号が点在するのはポルトラノ海図の影響である。伊能図は幕府の秘図として公開されなかったので、 幕末に至るまで日本全図の代表とされた。

(4)測量の歴史:http://www.tomei-survey.com/history.htm
測量技術の年表が記載されている。

[26]07/01/**補正:ここまで調べれば十分。1700年代には、測量術が既に実用化されており、(3)の三角測量(交会法)と(2)の廻分間と合わせれば 地下上申絵図や御立山検地で、かなりの精度の測量ができたことは明らか。ここで、山地の測量がどの方法で行われたかを考えると、基本が三角測量で、 補正が廻分間だったと考えられる。この廻分間、距離は比較的正確に測定できるが、地図にするときに、方位測定に起因する誤差を生じやすい。 一言で言えば、長さの違う棒を使って多角形を作るのに等しい。例えば、同じ長さの4本の棒を使って四角形を作ることを考える。このとき、棒の角度が微妙に違えば、 面積の異なる四角形を無限に作ることができる。同じ棒から、正方形でも平行四辺形でも作ることができる。誤差は、最終的に面積に現れやすくなる。

三角測量は、見晴らしの良い場所で、出来るだけ多くの目印に対する方角を記録するという事。例えば、鬼ヶ城山の上から、宇佐八幡宮、寂地山、 小五郎山等多くの地点から見える特徴物の方角を記録する。これと合わせて、鬼ヶ城山からできるだけ近い次の目標物、たとえば隣の山のピークの方角を測定しておく、 というもの。距離が正確に測れるわけではないが、これらの多くの方角を合わせこむことにより、最も確からしい多角形を一つに定めることが出来る。 この方法を小五郎山など見晴らしの良い多くの山から行えば、角度に関してかなりの精度の測定ができる。そして、これを、廻分間で距離を補うことになる。 同様に、宇佐村の中心部から、周囲に見える山を三角測量しておくことも、効果的な補正方法になる。

■防長地下上申 宇佐村絵図
百聞は一見にしかず、とはまさにこれの事。複製と、昭和13年の書写、清図を閲覧させてもらった(特別閲覧許可が必要)。複製はビニールシート状の上に 写真印刷したものだと思う。比較的気楽に扱えるが、本図が極めて大きいため、0.38倍に縮小されている。全体を概観するには良いのだが、 細かい字はルーペを使ってもなかなか読めない。書写した絵図は、紙が薄くて今にも破れそう。それに、字の間違いが多い。朱で修正されている箇所もあるが、 修正されていない箇所もある。字を読むには、いまいち。

しかし、清図には感動した。本当に美しい絵図。地下図を基に、絵師がその技を駆使して完成させた最終版。 字もはっきりと読める(理解できるかどうかは別)。しかし、書写も清図も貴重すぎて、腫れ物を触るよりも恐ろしい。古文書の原本も同じだが、 閲覧用に複製を作成することの重要性がよく判る。大きすぎるのなら、分割で複製してほしい。そうすると細かいところも良く判るのに。 貴重な絵図を直接見る必要も無くなる。予算しだいか。

防長地下上申 宇佐村絵図(清図:複製)


まず、絵図全体を示す。写真では判らない細かい地名を記入しておいた。興味の無い地名・字が読めない地名は省略してある。は 山のピークのことで、一つもらさず記入した。代官札も同様。地名で、例えば、河津(8)と書いてあるのは、絵図の河津には8軒の家が書きこんであったという事。 実際の家の数に近いように書いてある可能性が高い。ただし、宇佐の中心部の家の数は多すぎて、はしょってあるらしい:絵図で見る防長の町と村(平成元年、 山口県文書館 編集・発行)。は寺社、木地師の里?周辺のものを記入した。河津の宕は、今では崩壊した社だけが残っている。 愛宕社のことか?は岩、三ヶ所全て記入した。桑原氏の西中国山地の読者なら見たことがある地名がいっぱい記載されている。 ファン必見といったところか。また、各部の拡大写真を示す。これらの写真は、複製品を写したもの。また、"じゃくじ山"の"じゃ"はひらがなで表記しているが、 実際は、"志に濁点"がうってあり、これで"じゃ"と読む。

この絵図から判ることは以下の通り。
(1)この絵図は、桑原岩がガクガク岩であることの証拠にはならない。逆に、桑原岩は野猪の尾の西側にあるので、この図と整合しているとはいえない。 また、当然、ガクガク岩?がガクガク岩であってもおかしくはないし、この絵図はそれを妨げるものではない。
(2)後冠山は、雨杉ではなく、雨杉山と記載されている。雨杉のある山という解釈が成り立つ。
(3)桑原氏が、大沼田としていた寂地山と雨杉の間のP1315は、大沼山になっている。大沼が原、あるいは、大沼田のある山と解釈できる。
(4)東西南北が、左回りに45度ずれている。傍示峠が東という認識。注進案の宇佐村の庄屋さんの認識と同じ。
(5)黒嶽山から傍示峠を通り、雨杉、寂地山、ガクガク岩、猪尾山までの国境の山岳地帯の名称が細かく記入されている。短い所では、500m以下毎に名前が付けられている。 国境を認識するために、それだけ記入する必要があり、また、それだけの地名が存在していたことがわかる。地元の村人は、国境を非常に細かく識別していたことがわかる。 寂地山周辺はそれだけ知られたところだったと結論できる。逆に、大原村や宇佐郷村との境目の山や地名の記入は少ない。地名が無かったのではない。逆に、非常に細かく、 地名がつけられていたと考えられる。但し、この絵図に記入する必然性が少ないのだろう。
(6)寂地山には、尓い谷山という名が併記してある。この山が寂地山の別名か、別のピークの名前かはわからない[19]
(7)寂地山から小五郎山にかけての主稜線で唯一書き込まれている山の名前は、カラスバ山のみ。この地図には書き込まれていない山名がたくさんあることは判っており、 カラスバ山を書き込んだ特別な意味があると考えられる。ただし、その意味は今のところわからない[20]
(8)現在の寂地川が焼山谷と記載されている。現在の焼山谷には、こぞが浴という地名が書き込まれている。谷の名前は書かれていなかった。但し、僕が思うに、 地名のあるところには、例え踏み跡程度でも道があったはず。村人が行かないところに名前を付ける必然性は非常に少ない。
(9)いわしのいぎ谷(深谷川)の支流としては、とちごや谷と足が谷のみ記載されている。とちごや谷、足が谷に何らかの重要性があったと考えられる[21]
(10)多くの直線近似の跡がうかがえる。廻分間を用いた可能性が高い。極端なのは、ガクガク石から猪尾山を経ていわしのいぎ川に下る野猪の尾。ほとんど直線に近い。 実際の地図を見ると、こんな直線にはならない。この区間の測量は非常にラフで、尾根通しに測量されていない可能性を強く示す。西中国山地のp161には、 三ツ石から野猪の丘(P1227)を経由しないで直接野猪の尾に下る踏み跡が書かれているが、この道を真っ直ぐに野猪の尾を下り、その踏み跡に沿って測量したと推定できる。 測量がラフだったことは、防長風土注進案に、三ツ岩から湯舟までの距離が、50丁余りと、ラフな数字であることと整合する。
それ以外にもいろいろあるが、関係することはこれくらいだと思う。


防長地下上申 宇佐村絵図(清図:複製) 各部拡大

ガクガク岩


よけ岩


右が寂地山:三角形の頂点に"じゃ=志に濁点"右下に"くじ"左下に"山"
左に尓い谷山


大沼山:三角形の頂点に"大"右下に"沼"左下に"山"


雨杉山:三角形の頂点に"雨"右下に"(杉)"左下に"山"
"三ヶ国三ッ合"とある



みやうせんの横瀧

さすがにここまで来ると、桑原岩がガクガク岩である可能性はほぼゼロになる。桑原氏は間違ったのだ。そう結論できる。

この絵図を見ていて思うことは、なんといびつな村境・国境をしているか、ということ。例えば、絵図の右下、鬼ヶ城山の下にある相波。村境を鬼ヶ城山から高鉢山へ 尾根通しで繋いで、相波を宇佐郷大原村の管轄にしたほうが行政区画上はすっきりとする。尾根を越えた向こうの村に属するよりも、 道が通じやすい川沿いで管理したほうがやりやすいからだ。でも、現実はそうなっていない。これは、相波の住人は、生活上、 宇佐郷・大原村より宇佐村と強く結びついていること、また、相波の住人の宇佐村への帰属意識が高く、また、宇佐村としてもそれに呼応した体制であることが 理由だろうと思う。行政区画の都合よりも、住人の都合を優先させているのは明らかだ[22]
同じことは、河津にも言える。河津はなぜ宇佐に所属しているのだろうか。問題は、当時国境がどのように認識されているかに依存する。 いわしのいぎ川が国境であると認識されていたのならば、河津は自動的に宇佐に属する。しかし、国境が、いわしのいぎ川からガクガク尾根あたりと、 ぼんやりと認識されていただけなのならば、河津の住人は、宇佐に属することを選択し、そして、いわしのいぎ川を国境だと主張したことになる。 どちらであったかを判断する資料は見つかっていない。いわしのいぎ川周辺に人が住み始める1500年台かそれより過去のことに属するから。
しかしながら、いわしのいぎ川(深谷川)下流は、非常に侵食の進んだ峡谷・険谷になっている。この下流部のことを考えると、河津に人が住む前、下流部の人が、 いわしのいぎ川を国境だと考えていたという考えには必然性があると思う。河津に人が住み始めたとき、この考えを上流に拡張したとすると、 いわしのいぎ川が国境であると認識されていたという考えになる。実際の国境の境目書きを読むと、いわしのいぎ川下流部の峡谷部に直接国境が引かれている訳ではない。 しかし、これは、引けるところに引いただけのことのように思うが、どうだろうか?また、宇佐郷村の村境が、湯舟まで細長くいわしのいぎ川左岸に伸びているが、 これは、小五郎山西面が向峠の人々によって銅の採掘に使われていたことを示すものだろうと思う[奥山代の小五郎山について:恵本洋嗣、山口県地方史研究]

吉賀記の国境の項にただ一言、深谷、と書いてあるのを見つけた。単純で明快な国境の認識。これにより、深谷川の右岸は石州吉賀に、 左岸は周州宇佐(宇佐郷)に属すると理解できる。下流部の険谷部分の国境は、やはり、現実的に国境を引けるところに引いたと考えれば良いのだと思う。 但し、吉賀記が書かれたのは、1804年。1500年代の認識はわからない。吉賀記には、当然金山谷と河津の記載があるが、錦町史でも、関が原以前から 金山谷・河津の記載がある。これは、深谷を境にして、周州側にも石州側にも金山谷と河津があったのだから仕方が無い。 関が原以前は、鎌倉幕府による地頭職任命以来、津和野・吉賀は吉見氏(後に大内氏、さらに毛利氏に従った)の領地だったことからすると、宇佐や宇佐郷の間に それなりの境目の概念はあったと思われる。この概念は想像するしかないが、江戸時代に深谷川という天然の地形で、必然的な所に引かれている事からしても、 関が原以前でも、国境の概念は深谷川だったと考えてよいと思う。

07/01/**追記:国境の定義が、寂地山を境にして、南西が深谷川であり、東が雨杉山へ伸びる稜線であったにもかかわらず、宇佐村清図にも注進案の境目書きにも 記載されているように、 国境が寂地山からよけ岩−ガクガク岩(三ツ岩)−野猪の尾に迂回していることは興味深い。迂回しているからには、寂地山から深谷川に向かって直接国境を ひくことができなかった、つまり、寂地山から深谷川に下ることが出来なかったことを意味していると思う。なぜそうなのかは、簡単で、深谷川源流が 険阻だから。今でも、かなり山慣れした人で無いと、技術的に行けない。宇佐村の庄屋が注進案に、「じゃくじの西面頗る険阻にして古木鬱蒼樵者も不得入コトヲ」 と書いているのは、このことを意味しているのかもしれない。そして、野猪の尾には、河津からツムギ谷・広高谷・三葛に向かう道があった。木地師の道に違いないと思う。 今でも野猪の尾にはその道の痕跡が残っている[西中国山地]。寂地山から深谷川に下れなかった地下上申の測量役人(絵図方)に、野猪の尾経由で深谷川に下ることを 提案できるのは、案内した村人しかいない。当然、村の一員だった木地師だったとしてもおかしくは無い。なんせ、この辺りは、木地師の生活の場だったから。
いわしのいぎ川−猪尾山−ガクガク岩−よけ岩−寂地山


[19] 現在の2万五千図では、寂地山周辺でこの尓い谷山に相当するピークは見出せない。気にする必要があるかどうかは分からない。 現在はピークに対して何とか山という言い方をするが、当時は、山地のある区画を何とか山と呼ぶ呼び方も一般的に行われていた。 注進案や地下上申の山の名前の説明では、山地にある平らなところやその他特徴のある区画を、何とか山と呼んでいる例が非常に多い。 07/01/**追記宇佐村清図の寂地川中流域に、「惣(総)名じゃくじ山」と書かれているので、宇佐の人たちは、山も他にも山腹の全てをじゃくじ山と読んでいたようだ。 確かに、広高の林道終点で出会ったおじいさんも、自分の山葵田がある沢や山全体を大立山と呼んでいた。 大立山は、山のピークの名前ではなく、ピークを含むその区画全体の名前なのだ。

[20]人が行かない場所の地名を認識する必要はほとんど無いと思う。焼山谷からミノコシ峠を通って、あるいは右谷山の南尾根を通ってカラスバ山に通じる道があったのだろうと 推定できる。また、焼山谷は智元が逃走のときに辿った道だろうと思う。ちなみに、この地図に記載されている道は主要道のみ。 例えば、寺床から宇佐に直接下りてきている尾根の支尾根上に代官札があり、そこには道が通っていたはずだが、その道自体は記載されていない。 この道は、現在の地図と比較することにより、寂地峡遊歩道、犬戻りの瀧に向かう入り口の東屋のあたり(この東屋の下は、当時、"おふが浴"という地名だった。 浴とは、谷間の狭い平坦地のこと。確かにこの東屋の下には浴という地名にふさわしい狭い平坦地がある。)から"おふが浴尾"という尾根を登って寺床に通じていたと 考えられる。

[21] 足とは、悪しの意味だが、字相が悪いので足と表記したそうだ。小五郎山東面の足谷も同じ。木地師にも、小椋の小の字相が悪いので、 巨椋姓に変えたという話があった(何処で読んだか覚えていない)し、小椋の椋の木偏は筆で崩すと手偏のようになり、 手偏の掠は他人のものを掠めるという意味なのでよくない。だから小倉にするといった話がある[木地師 光と影p50]。足が谷は、寂地山御立山の境界である。 桑原氏によると、とちごや谷は栃の木が多く、 村人が栃の実を採りに良く通ったところだという。1750年当時でも、栃の実を採りに通うという習慣があったことを意味していると思う。 僕は、栃の実を取りに行ったと言うより、栃ノ木を切り出して加工する小屋があったのではないかと思う。栃小屋谷。この出先の小屋のことは、 山村社会経済の構造分析:杉本 寿著、巌南堂書店 1973に書いてあり、実際あって当然だと思う。もちろん、通ったのは、河津の木地師達。 ところで、風土注進案・宇佐郷大原村の往還の事の項に、"金山谷から宇佐村の河津を経て、石州濱田御領への通路"があると書いてある。 また、吉賀記にも同様の記述がある。しかし、風土注進案の庄屋さんは、いわしのいぎ川の奥は、樵でも入ることができないと書いている。 両方とも、間違っているわけではないだろう。でも、庄屋によって捉え方が違い、記述も変わるということか。この記述、宇佐村の庄屋さんの木地師に対する悪口 (木地師は、樵も通えない辺鄙な山奥で生活をしている)だったのだろうと想像する。

[22] 村境にしても、国境にしても、尾流川流が大原則。支配・管理上は、そのほうが筋を通しやすい。でも、現実にはそれができない。 武士が村に住んで直接支配しているのではなく、庄屋等地下の村役人を通じた間接支配をしている以上、住人の意向に合わせざるを得ないのだろうと思う。 このような、行政上の都合よりも現地の状況に合わせて境を決めて測量する、という基本姿勢は、天明山検地の指示書にも明記されている [萩藩天明山検地の研究:田中誠二、瀬戸内海地域紙研究第7輯]。尾流川流とは、尾根に沿って川に沿ってという意味。尾根や川を横切るのは尾切川切という。 そのほかにも、道切・浴切・谷切・岸切などいっぱいあった。これらの切を境界にするのは変則的な状況であり、後で境界が判別しにくくなるので、掘割を作ったり、 目印の木を植えろ!という指示も出されている。この*切という言葉は、注進案や地下上申の境目書にも多用されている。

■御立山
御立山に関する古文書は、山口県文書館に多く保管されている。しかし、僕が解読できたのは、御立山坪付帖のみ。表紙と寂地山の部分を写真で示す。
御立山坪付帖

表紙


寂地山

御立山の資料に期待したのは、御立山の境目書きにより御立山の範囲を確認すること、同じく境目書きにより雨杉などの地名に関する情報が得られるかもしれないと 考えたこと、御立山の測量がどのような方法で行われたかを確認することの3点。本文をここに書き写す。

御立山坪付帳 山代宰判 寛政3年 玖珂都濃郡山代諸村御立村坪付根帳 亥 5月
1.山代宇佐村御立山坪付根帳
1.じゃくじ山 4500町
但、東は寺床と申所よりおふが浴尾限り、南は川限り、西は阿しが谷より猪尾限り、北は安芸石見境がくがく石より寺床迄大峰尾限り

たったこれだけ。期待したほどではなかったが、ガクガク岩の記載があることには驚いた。よほど、多くの人の心に残っている名前なのだろう。 まさしく、国境の代名詞といえる。おふが浴尾は、具体的な場所が分からないが、絵図の代官札があるところだと判断する以外に無い。また、川限りの部分の川は、 宇佐川本流だと考えるわけにはいかない。村人の家まで御立山の範囲に入ってしまうから。また、この川限りが、足が谷につながることを考えると、この川とは、 今の寂地川から焼山谷のことだと判断できる。足が谷の続きは、国境沿いに寺床までつながる。これで雨杉が御立山に含まれていることを確認できた。 これは、予想通り。

とりあえず、御立山の境界を書いてみた。おふが浴尾を何処に採るか、また、焼山谷と足が谷の接続をどう引くかで、この境界は変わる。とりあえず、 面積が大きくなるように、智元谷経由で引いてみた。黒滑谷から智元の丸子山経由のほうが尤もらしいとは思うのだけれど・・・。 だから、ここに書いた境界が正しいとはいえない。但し、ここで問題にするのは、境界ではなくその面積。カシミールで測定すると、一周15.5km、8.6km2 (867町)しかない。4500町=45 km2のわずか1/5。あまりにも測定精度・計算精度の低いことに驚いてしまう。不安になって何度も計算を確かめたけれど、 間違いない。どこに線を引いてもこの差は埋まらない。 中途半端な数字なので、誤記とも考えにくい。実際の5倍も大きな数値が出ても納得してしまうほど、寂地山は大きな山というイメージを、 人々が持っていたのだろうと想像する。 また、前述した、廻分間という方法の欠点が現れた結果だと考える。計算した人の能力も関係するだろう。ガクガク岩を安芸石見境(実際は雨杉が安芸石見境) としている記述の安易さからも、この境界線に精度を求めても無駄なことがうかがい知れる。寂地山御立山の指定・測量は、かなりいい加減だったのだ。 そうせざるを得なかったのかもしれないし、これで十分だったのかもしれない。また、治水には役立つが、藩の財源としては何の役にも立たない [錦町史p390、また、萩藩天明山検地の研究:田中誠二、瀬戸内海地域紙研究第7輯では、藩には、山代の御立山からの収入がなかったことが判る]、 どうでもよい御立山だったことも理解できる。

御立山の測量が行われた天明山見地に付いては、萩藩天明山検地の研究:田中誠二、瀬戸内海地域紙研究第7輯に詳しく解説されている。 しかし、検地の方法は、村の庄屋が一次的主体あり責任者が代官であるとあるだけで、詳しくは分からない。 庄屋が測ったのなら、精度が低いのも仕方ないのかもしれない。また、絵図のある御立山もあるようだが、寂地山の絵図は無い。 現実問題として、この天明山検地は、地下上申絵図作成より約30年後に始まっている。実際の測量はほとんど行われず、地下絵図作成時の記録から、 庄屋が寂地山御立山の面積を計算したのではないかと思う。藩からすれば御立山に指定しているだけで何の見返りもないし、村人からすれば境界が分かればそれで十分。 寂地山御立山の面積は誰にとっても興味が無く、何らかの数字さえあればよい事柄と言える。どうせ計算違いをしても、誰もそれが間違っているなんて言えないのだから、 そのまま通用してしまったのだろう。

また、錦町史p390には、寂地御立山の木が自然と立ち枯れ・朽捨りになっていたのを、1862年に代官の発案で木を15本伐り出すことを許可して木地師に挽いてみさせたと 記載している。このことは、木地師といえども、許可がなくては木が伐れなかった事、1862年以前には、木地師は積極的に寂地山御立山の木を切っていなかったことを 意味する。まあ、寂地山周辺には、十分な木があるので、必要なかったということだろう。それに、宇佐村の庄屋は、注進案に、「佳木無之雑樹鬱蒼と立篭り、 猟人も深く入て途方を失ふはかり」と書いており、有用材は多く無かったようだ。これは予想通り。

寂地山御立山の範囲:点線は境界の他の候補(地名はできる限り、注進案と地下上申の記載を再現した)


07/04/**追記:寂地山御立山の境界に関する考察
これまでは、寂地山御立山の境界は、おふが浴からいったん寂地川を下り、観音岩を回り込むように焼山谷に入ってそこから足が谷に接続すると考えてきた。 これは、4500町という面積にあわせ、可能性のある限り最大の面積になるように、境界線を引こうとした結果。ところが、これでは不都合のあることに気付いた。 何が問題なのかというと、
(1)寂地山御立山を示す代官札は、おふが浴尾の中間点付近にあるが、この場合御立山境界から代官札がずっと山奥にあることになる。 これでは、代官札は、その役目を十分に果たせないことになる。例えば、誰かが観音岩に行ったとしても、その非を責められない。藩側からしても、村人からしても、 御立山を示す代官札は、宇佐村から御立山領域に入ったすぐの場所に必要なのは明らか。つまり、代官札は、御立山領域のほぼ村側に存在しなくてはならない。
(2)観音岩は、霊場であり、御立山ではない対岸に拝所があるにしても、ある程度村人による維持管理が必要なはず。観音岩が御立山に含まれてしまうと、 観音岩に近づけなくなり、霊場の維持管理が不可能になる。注進案には、観音岩の観音様は玉蔵寺にあると書かれているが、観音様を観音岩から移すことは不可能。 もちろん、御立山が指定される前に観音様を移してしまったのなら、何も問題は無いのだが、観音様を移した時期は不明。移した理由も不明。 いずれにしても、観音岩に近づけない事は、霊場を無管理状態で荒らすことになり、信仰心の深かった近世以前では考えられないことだと思う。 決定的な理由は、宇佐村注進案に観音岩の行き方が書いてあること。梯子を登るような険路を行けば、観音岩に出ると。観音岩は、 御立山には含まれていない。これは確実なこと。
(3)御立山境目書きの「南は川限り」は、誰にとっても明確に境界線を示す記述であるはず。それで無いと記述した意味が無い。ところが、 焼山谷には智元谷やタイコ谷などの支流がいくつかあるので、もし境界線が支流を通るならば、境目書きの記述は境界線を明確に記述したことにならない。 仮に、境界線が焼山谷を通るならば、その境界線は、本流の黒滑谷を通る必要がある。しかしこの場合でも、境界線は、寂地川を遡り、支流のワル谷か マゴヒチ谷を通って旧智元の丸子山を越えて足が谷に接続するという可能性が残り、記述があいまいであることには変わりが無い。
(4)旧智元の丸子山の東南面に「垰き山」という地下山があったことが注進案に書いてある。「同断(松雑木立交りの意)、智元山の麓巽(南東)向の平」と。 寂地山御立山の境界は旧智元の丸子山を通るので、峠き山は、寂地山御立山にほぼ隣接していたということになる。そこで、この地下山の場所だが、 焼山谷黒滑谷周辺ではありえない。なぜなら、焼山谷源流域:智元谷・タイコ谷・そして本流黒滑谷流域は、営林署の第68・69林班でぶなの保護林になっている。 「松雑木立交る」場所ではない。しかも、注進案に、「焼山谷川 但水上智元山の南より流れ出」:川敷七ヶ所付大瀧之事と書かれており、 旧智元の丸子山の巽:南東面にあったという垰き山が黒滑谷周辺にはあったとは考えられない。

以上の不都合に対し
この「川限り」が、寂地川だけを指し示す場合のみ、この記述に明確性が出る。地下山「峠き山」との組み合わせで、村人に明確性が出ることになる。 これと同じ意味で、足が谷に接続するということは、足が谷にある境界線は足が谷本流でなくてはならないこと(支流ではないという意味)、その結果、 必ず、旧智元の丸子山の山頂を通らなくてはならないことになる。これが、境目書きの単純だが、明確な境界の記述である、ということを保障すると考えられる。

次の課題は、寂地川の何処を通って旧智元の丸子山に線が引かれたか?という事。候補は二つある。まず、犬戻りの滝落口付近に出会うワル谷と、 寂地林道終点より先に出会いがあるマゴヒチ谷。両支流共に、旧智元の丸子山に線を引ける位置にある。しかし、マゴヒチ谷だと不都合な点がある。
(1)寂地川マゴヒチ谷も、黒滑谷とほぼ同じ林相になっている。旧智元の丸子山から観音岩に至る尾根上で、松の木が生えているのは、 観音岩周辺から標高1000m以下に限られる。特に多いのは、標高800m付近以下。マゴヒチ谷出会いの標高は、約900m。そして、林道終点付近では、 松の木はほとんど見た事が無い。マゴヒチ谷右岸に接してその下部斜面に垰き山があったとすると、そこは、やはり、「松雑木立交る」場所ではない。
(2)マゴヒチ谷右岸に接してその下部斜面に垰き山があったとすると、もう二つ不都合な点がある。村から遠いという事と、切った材木を、 犬戻りの滝や龍神の滝という険谷を越えて運ばなければならなくなるということ。
(3)マゴヒチ谷右岸からワル谷流域にかけては、露岩が多く、急斜面なので、木が切れるようなところはほとんど無い。
(4)マゴヒチ谷は、旧智元の丸子山に突き上げてはいない。旧智元の丸子山の北、1309m峰に突き上げている。旧智元の丸子山側は、特徴的な谷筋の無い斜面になっている。 これでは、マゴヒチ谷から旧智元の丸子山まで、明確な線が引けない。
(5)注進案では、「焼山谷川 但水上智元山の南より流れ出」と書いてある。この方角に対して、マゴヒチ谷は、明らかに東にあり、南東面では無い。 ここに、旧智元の丸子山の巽(南東)に接する地下山:垰き山を想定するのには無理がある。

これに対し、ワル谷に境界線があったとすると、多くの点で辻褄が合う。
(1)御立山の境界は、険谷に沿って引かれたと言える。まず、寂地川は竜神の滝・犬戻りの滝など、最も険阻な部分を境界線が通ることになる。 次にワル谷。名前の示すとおり、二股上部、本流の右股には屏風のような滝が何段にも重なり、とてもここには木材を搬出できる安全な道は引けない。 また、旧智元の丸子山北部の足が谷も名前が示すとおり、険谷である。このように険谷に沿って線が引かれたということには、具体的なメリットがある。 まず、村人にとっては通常行かない部分であり、また、その流域より上は、注進案に記されたとおり、「佳木無之雑樹鬱蒼と立篭り、 猟人も深く入て途方を失ふはかり」の場所だったと考えられる。もちろん、「松雑木立交り」の場所はほとんど無いので、村人にはほとんど興味が無かったし、 たとえ入り込めなくても、生活に支障はなかった。また、藩にとっても、庄屋という村人の代表を通じて、村を支配する以上、 村人の生活に影響しないように線を引く事は重要であったと考えられる。同時に、村人は立ち入らないと考えるだけの根拠があるために、 村人の進入に常に目を光らせておく必要は無いというメリットも生じる。
(2)ワル谷より下部の山腹に垰き山があったとすると、その山腹は、巽:南東の方角にあるといえる。つまり、注進案の記述と一致する。
(3)ワル谷より下部の山腹に垰き山があったとすると、その植生は、「松雑木立交り」だといえる。
(4)ワル谷より下部の山腹に垰き山があったとすると、村人は、おふが浴から垰き山に入り、斜面で木の伐採などをしたと考えられ、 村人が伐採した木を搬出するなどの安全なルートを設定できる。
(5)ワル谷より下部の山腹に垰き山があったとすると、そこは現在多くの場所が山口県造林公社が管理する植林された場所であり、地下山が明治以後公有林になり、 開発されたと解釈できる。この解釈は、昔から村人が木を切ってきたので、国定公園として保護する必要が無く、開発するのになんら問題が無いので、 地下山の明治以降の姿として素直である。

ワル谷に御立山の境界線が引かれていたとする場合の不都合点はひとつある。それは、ワル谷の源頭は、旧智元の丸子山に直接突き上げていないこと。 ワル谷は、旧智元の丸子山の南、1196m峰に突き上げており、そこから約400m、境界線は旧智元の丸子山まで稜線を通る必要がある。これは、 「川限り」の表現と矛盾するのでは無いかと反論できる。
これに関しては、次の二点が指摘できる。
(1)マゴヒチ谷から線を引くよりも、明瞭な境界線を引くことが出来る。
(2)あるいは、次のように考えることも出来る。つまり、「南は川限り」と書かれた以上、村人は、寂地峡からワル谷を通る境界線を思い浮かべるので、 後は、足が谷に接続するように稜線に沿って境界線を思い浮かべる事は、必然的に可能だった。稜線に沿った境界線は、わざわざ書く必要はなかったということ。 この考えかたは、そう間違った考え方だとは思わない。なぜなら、北の国境線に関する記述は、「ガクガク岩より寺所まで大峰尾限り」という単純な表現で、 国境が御立山の境界だったと認識できるから。村人は、簡単な表現でも、その意味を察知するほど、山の地理には長けていたと考える。これを裏付けるのは、 神祠之事の「龍が瀧 観音堂」に、「岩頭に観音の石像を安置す此所智元の丸子山の巽の尾折り下りて岩頭に接す」と書いてあること。村人は、 この尾根の地理について、良くわかっていたことになる。もちろん、地下山垰き山には、おふが浴からだけではなく、観音岩からも登ったと考えることも出来る。

では、ワル谷を通る場合、御立山の面積はどの位になるかというと、5.5km2、周囲12.0kmだった。実に、1/9程度。

寂地山御立山領域:ワル谷の場合


ところが、地下上申宇佐宇佐村絵図をベースに考えると、まったく反対の結論になる。宇佐村絵図は、明善川流域が現在の地図とは大きく異なっているが、 旧智元の丸子山から龍が瀧観音堂に至る尾根周辺は、現在の地図と綺麗に整合するように書かれている。 ここで、マゴヒチ谷は、旧智元の丸子山に突き上げるように書いてある。つまり、寂地山が御立山であった頃、宇佐の村人はマゴヒチ谷が旧智元の丸子山に 直接突き上げていると認識していたことになる。宇佐村絵図をベースにして考えた場合、宇佐村風土注進案の記述は、絵図と良く一致する。
ここから得られる結論を纏めると、以下のようになる。
(1)おふが浴は、犬戻滝上部のワル谷出会い周辺の平坦地である。
(2)地下山「垰き山」は、ワル谷流域より下部の山腹であり、旧智元の丸子山の南東に位置する。これは、旧智元の丸子山から東(傍示ヶ峠)の方向を考えるとよく判る。 また、この方向感覚からすると、焼山谷黒滑谷は、旧智元の丸子山の南から流れ出し、注進案の記載と一致する。上記、ワル谷とする考え方は、垰き山と御立山境界が 隣接していたと考えていたが、点接触する程度で、ほとんど離れていたと考えると、御立山境界はマゴヒチ谷でも良いことになる。
地下上申宇佐村絵図の分析


では、マゴヒチ谷を通る場合、御立山の面積はどの位になるかというと、4.9km2、周囲13.0kmだった。実に、1/10程度。

寂地山御立山領域:マゴヒチ谷の場合


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