slow life
blueview - sukumo okinoshima island
PART.4
*月日は流れて・・・「乾燥風景」の現在の姿
手にした花
昭和9年3月27日 - 昭和9年3月下旬、ごく小さい郵便船に便乗させてもらって、はじめて沖の島へ渡った。狭い谷間にひしめく母島集落の風景1つ1つ、特に干棚に興味を覚えてカメラを構えていると顔を出した老人が「写真屋さん、写真屋さん、私の写真をひとつ撮ってくれませんか」と声をかけられた。生まれて初めてカメラを持ったのが3日前。長兄からカメラの操作を教わり、試写してこれが4枚目という素人も素人、正真正銘の素人である、渋っていたのに早合点したのか、出てきた老人は余所行きの着物、羽織まで着て現れた。右手に花まで持って、早くも干棚にきちんと正座しての構えである。これには少々たまげたのである。写真屋に間違われるなんてとんでもない事だ。ともかく、その時の写真がこれである。それにしても妙に気になるのがあの花である。老人が部屋の中で着替えた時、ふと仏壇の花にでも気づいてのことなれば、なかなか機転のきく御仁である。沖の島へ渡った初っ端から、こんな珍事に出くわそうとは、やはり思い出に残る島である。
*月日は流れて・・・「干棚(ひだな)トンネル」の現在の姿
沖の島最大のアコウ
昭和28年3月31日 - *沖の島の宿毛市合併時にアコウのあった場所に保育園が建てられ、このアコウの雄姿は見られなくなった。

母島集落
昭和28年3月31日 - 今日も、また爽やかな母島集落の朝だった。母島は、沖の島北西部にある島内唯一の漁港を持つ主邑で、村役場もある。谷川と呼ばれる渓流ぞいには民家が密集し、前方には港の突堤が蟹のはさみのように伸びていた。今日は西風が強いのか白波立つ沖合いには、その名の如く愛らしい姫島が浮かんでいた。いつ見ても、素晴らしい風景である。母島には幅1.6m程の狭い石段路が谷川ぞいに貫通し、これが母島と並び称される弘瀬や東岸の谷尻へと通じていた。母島は藩政期宇和島藩領であったので、宇和島との関係深く、紅殻塗りの柱や板戸の民家が多かった。また宇和島商人の往来繁く、旅芸人も訪れていた。島は黒潮分派を受ける豊魚海域で、カツオ・ムロアジ・キビナゴのほかアカバ・チイキ・ハゲなどの磯魚多く、沖縄糸満漁民の追い込み網漁業の来島に、偶然出会ったのである。今日は弘瀬へ出発する朝。3月末日であるのに、稀らしく夜来の雹がまだうっすらと屋根に残っていた。南海の島には、このような異常現象が時たま起こるのであろうか。
段畑の弘瀬
昭和34年8月18日 - 櫛ケ鼻灯台からの帰途、南西から弘瀬漁港を望むと6年の年月はながれてはいても港にはさして施設はなされず、例の突堤がただ2つ寂しく突き出していた。だが背後には段畑が百段余りも作られそれが数条に分かれて勢いよく山中深く食い込んでいた。耕して天に至るこの風景は、宇和海沿岸共通の耕作風景だとすれば弘瀬はまさしくその南限に当たる事になる。その段畑は花崗岩の石垣を築いて造られ帯状の細長い畑が、等高線状に模様を描いてなかなか美しい眺めだった。その段畑では主食の芋と裸麦が夏作、冬作として長年に渡って作られており、その作業が留守を守る老人や女性とすれば並々ならぬ苦労が思いやられてくる。いやそれにつけても思い浮かんでくるのは、父祖幾世代にわたる浦人たちの段畑への愛情である。
*月日は流れて・・・「鵜来島へ」の現在の姿
山崎 修(やまさき おさむ)1909 - 2006
明治42年高知県安芸市に生まれる。京都大学文学部卒。教壇に立つかたわら高知県全域を巡り歩き、全国都道府県・ヨーロッパ各地を旅する。風土的風景に関心を持ち、その風景写真を撮る。平成元年より写真展を3回開催。平成18年に死去。著書:随筆紀行「土佐を歩く」「喫茶店を歩く」「ヨーロッパを歩く」、そして、写真集「土佐を歩く - 風景は語る -」(上下二巻)は第42回高知県出版文化賞を受賞している。
*このページの画像・文章は故・山崎修氏の御親族の承諾を得て掲載しています。一部の画像は平成19年現在の画像と対比させています。沖の島の風土を愛した山崎氏のご冥福をお祈りいたします。
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| 写真・随筆紀行家の故・山崎修氏の残した書籍「土佐を歩く」より |

乾燥風景
昭和28年3月31日 - *制服姿で写っている子供は平成19年現在母島区長として活躍されている宮本氏で、その後ろに宮本氏の母親が見える。

*月日は流れて・・・「手にした花」の現在の姿

干棚(ひだな)トンネル
昭和28年3月31日 - 母島集落へ入って真っ先に目にとまったのが干棚であった。部落の階段道路には干棚トンネルが数箇所も作られ、谷川にはこれが上流へ上流へと延びて、干棚ゾーンを作っていた。申すまでもなく干棚とは、物干場である。母島では急斜地に敷地一杯家を建てるので干場がほとんどなく、勢い道路上や谷川すじを利用したのである。干棚は日常に必需の食料や燃料の干場、置場として優先的に使われた。その端の方には薪がうず高く積まれ中央部に島の代表的作物の裸麦と芋の他、大根や豆類、更に魚や海草類が干された。特に芋は戦前芋飴にし、菓子原料となって宇和島へ出し戦後は芋焼酎をつくり現金収入源となった。また干棚は家族団欒の場として夏の夜を賑わし、島の人々には忘れ難い舞台となっている。島を訪れる度、目に飛び込んできた干棚。島民の生活に深い関わりを持ってきたこの干棚は、けだし祖父伝来の風土的風景の傑作といえる。

*月日は流れて・・・「沖の島最大のアコウ」の現在の姿

用水の竹樋(たけとい)
昭和28年4月1日 - 荒倉神社の上流に源を発する渓流ぞいには、早くから多くの民家が集まってきた。弘瀬開拓の祖といわれる三浦氏も、その邸宅を左岸の高台に構えていた。しかし弘瀬は、母島の様にV字谷の両斜面に民家密集するのではなく、渓流両側のゆるい丘陵に拡散する様に家を建てた。その為多くの民家は、長い竹樋を繋ぎ足して水を引き入れたのである。竹樋は坂道ぞいに下方へ、また左右へ斜めにと走り下るように家々へと引かれたのである。部落を歩いてみると狭い坂道には必ずといってよいほど竹樋が通り抜け、仲には十数本の竹樋の集中する要所もあって凄まじい。会するもの3人。人は水を求めて集まると言われるが、それは生物全てに通ずる原理でもある。

*月日は流れて・・・「母島集落」の現在の姿

2つの突堤
昭和28年3月31日 - 母島部落から石ころ道を歩いて4km近く、前方に突堤2つが無造作に海に突き出し、背後の斜面に民家が雑然と拡がっていた。ちょっと空しく、淋しくさえあった。これが母島と並称される漁村、弘瀬である。突堤の間が港かと思っていたがそうではなかった。そこには小船一艘も見られず、手前の突堤の外側に、十数艘が浜に引揚げられていた。ここでは船は港に停泊するのでなく、浜で休んでいたのである。残念ながら弘瀬にはまだ港が出来ていなかった。確かに弘瀬は海岸地形の点では恵まれていなかった。海岸は急崖で出入殆どなく、それが港の建設を遅らせていた。母島や鵜来島は自然の良港であるのにここにはそれが無かった。昭和9年3月初めて弘瀬を訪れた時、突堤1つない寒々とした浜辺に艀で降り立った。以来19年、今またこの貧寒とした風景を目にすると、この2つの突堤がせめて築港への一里塚となられん事を祈るのみである。

鵜来島へ
昭和34年8月19日 - 昭和34年8月、初めてこの島へ渡った。昭和9年沖の島を訪れてから3回目である。島は面積1.3ku、周囲8km。沖の島北西の沖合いにあり、部落は島名と同じく鵜来島である。港は北西を山地に保護された北西風陰で自然の錨地である。民家は背後の山地に階段状に密集しているが、湾奥の広い緩傾斜の浜辺は部落共通の漁船引揚兼乾燥場で海草類の乾燥と共に小船7艘も並んでいた。そこには子供達の遊び戯れる姿もなく、彼らは軒下や路地で遊んでいた。ちょっと淋しげな漁港風景であった。その背後に狭い石段路を登ってゆく。ここでは沖の島に多かった干棚は随所に見かけたが、弘瀬のような竹樋は無かった。芋畑に立って南望すると、姫島と沖の島は間近に、大月半島は遠くかすんでいた。その背後の宿毛湾は、かつて漁民達がイワシやカツオ漁業で活躍した豊漁海域である。内海漁業不振の今日、島の島民たちは県内外への出稼漁業に出るものも多くなった。夏期、この閑散はそのためであろうか。
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