浄土真宗?
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 浄土真宗とは(親鸞聖人像)

 親鸞聖人が開いた仏教のことを言います。
佐々木月樵(げっしょう)先生は
“真実をこれ宗(いのち)とする仏教”
と明確に示していらっしゃいます。

 真実と言うところに真宗のいのちがあるということです。
真宗において、もっとも大切なことは信心です。
信心とは 如来に目覚めた心のことです。
そして 自己の命が生かされていること知り
真実に向かって歩きはじめるのです。

 親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておわします」
とおしゃっています。

 浄土真宗において 真実なるものは 如来の名号 
“南無阿弥陀仏”の六字によってあらわされています。
親鸞聖人様ってどんな方?
 
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は 承安三年(1173)京都・山科の日野の里にお生まれになりました。

 安元二年(1176)にお父様を 治承四年(1180)に お母様を亡くされます。
 養和元年(1181)9歳の時 今は京都・粟田口にある青蓮院で得度されました。
そして比叡山で修行されますが、28歳で山を下りて京都の六角堂に籠られます。
 六角堂に籠られてから95日目に、聖徳太子の夢のお告げにより吉水の法然上人のもとへ通い、念仏の教えを学ばれます。
31歳の時 恵信尼さまと結婚し、肉食妻帯を断行されます。

 しかし、念仏が弾圧されたことによって 越後へ流されます。
建暦元年(1211)流罪は解かれますが、その後、京都へ戻らず、関東の常陸の国へと向かわれます。

 常陸の国(小島の草庵に住まわれる)で 20年ほど過ごされますが、その間 人々にお念仏の道を説き、ひたすら 教化・伝道の生活を送られます。
こうした中で 『教行信証』6巻の執筆をほぼ終えられます。

 60歳になられたころ 京都へ帰り、浄土真宗の教えをわかりやすく説いた書物を数多く書き残されています。
弘長二年(1262)11月28日 末娘の覚信尼さまや多くの門弟にみとられ息を引き取られました。
 90年のご生涯でありました。
蓮如上人ってどんな方?
  
 本願寺第8代 「真宗再興の祖」 本願寺中興の祖とも呼ばれる 蓮如上人は、1415年(応永22年)2月25日 存如上人の長男として、京都・東大谷の地でお生まれになりました。

 本願寺は その当時 参詣の人も少なく 閑散としていたということです。
 6歳の時 お父様の存如上人が 正妻を迎えることになった為 侍女という身分であったお母様とお別れすることとなります。
お別れするときに お母様は 蓮如上人に「親鸞聖人の念仏のみ教えを伝えひろめてください」と言い残されたそうです。
以来、蓮如上人のつらい幼少期が始まりました。

 17歳で得度し、苦しい生活の中で 『教行信証』などの親鸞聖人の書物を通して浄土真宗の教えの勉強に没頭していきます。

 43歳の時、父・存如上人が亡くなり 本願寺第8代目を継職されました。
蓮如上人は これまでの儀礼や形式にとらわれず、人々と膝を交えて仏法のお話し、「南無阿弥陀仏」の六字名号(みょうごう)や「帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の十字名号(みょうごう)などを人々に書き与えました。

 こうしてお念仏のみ教えは、混乱の世の中の民衆に広く受け入れられていきました。
しかし、蓮如上人の布教をよく思わない比叡山・延暦寺の衆徒によって 寛正6年(1465)大谷本願寺は打ち壊されたのでした。

 蓮如上人は、近江の堅田・金森の地を転々され、文明3年(1471)越前吉崎に拠点を移され、この地で、親鸞聖人の教えをわかりやすく手紙の形式でつづった「御文(おふみ)」よる伝道を行われましたが、その御文(おふみ)は 生涯に二百数十通にも及びました。

 また、仏前のお勤めを『正信偈・和讃(しょうしんげ・わさん)』に改め、門徒の人たちとともにお勤めをし、み教えをわかりやすく理解できるようにされました。
これが、現在の真宗門徒の日々のお勤めの作法のもととなりました。
4年後、吉崎から大坂河内出口、京都山科へと移り、文明12年(1480)には山科本願寺御影堂(ごえいどう)が完成しました。

 75歳で後継を実如に譲り、82歳の時に大坂石山御坊を建立しました。
明応8年(1499)3月25日 山科本願寺にて85年の生涯を閉じられました。