★フランス ラ・ペルーズ船長
1785
北西航路発見の航海に出帆
船乗り物語★

RF NOUVELLE-CALEDONIE
ラ・ペルーズ船長の終焉の地
ヴァニコロ島への航海地図

ヴァニコロ島




ニューカレドニア島→


ボタニー湾→


←ペルーズ船長
ラ・ペルーズ探検隊200年記念
ニューカレドニア 1988/2/10 発行

POSTES FRANCAIES
ラ・ペルーズ船長

2f50+7f50=10f寄付金付切手
フランス 1942/3/23 発行
REPUBLIQUE FRANCAIES
ラ・ペルーズ船長の航海地図

2f+0.5=2.5f寄付金付切手
フランス 1988/2/20 発行

オーストラリア→ RF NOUVELLE-CALEDONIE

ペルーズ船長とフィリップ総督とのボタニー湾での出会い200年記念
1788 La Perouse & Commdoore Phillip 1988
1788/1/24 Botaney Bay
ニューカレドニア 1988 発行
←ポート・ジャックソン



←現在の
←シドニー市街地




←ボタニー湾



      DDR
 マミヤ(タタール)海峡↓



ロシア






←樺太(サハリン)
北方4島(千島列島)
←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡
←北海道







小笠原諸島


マリアナ諸島
北朝鮮 2001/10/23 発行
小型シートより

ペルーズはフランス国王ルイ16世の命を受け、1785年北西航路発見の航海にブレスト港を出帆、1787年ペル−ズ(宗谷)海峡を発見しましたが、翌年47才で消息を絶ち、不帰の客となりました。
伯爵ジャン・フランソワ・ドゥ・ガロゥプ・コンテ・ドゥ・ラ・ペルーズ船長
 Jean Francois de Galaup, comte de La Perouse (1741/8/23〜1788)

フランスの太平洋探検家で、南フランスのアルビ(Albi,)で1741年に生まれました。プロテスタントのJesuit collegeで学び、1756年に15才でブレストの海軍学校に入隊しました。
その頃、7年戦争(1756-63)がヨーロッパで勃発しました。7年戦争はプロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争なのでしたが、新大陸ではボストン茶会事件(Boston Tea Party)が1773/12/16に起こり、その後、米国の独立革命(1776-78年)が勃発して、フランスは独立軍の支援をしましたので、1776-78年は北米からカリブ海方面へ遠征しました。1776年ペルーズ艦長はアメリカ独立戦争(1775 - 83年)にフランス海軍艦隊を率いて独立軍を支援するべく、西インド諸島でイギリス艦隊と交戦しました。1782/8月ハドソン湾のイギリス交易所攻撃で、かなりの犠牲を出しながらも交易所を破壊、陥落させました。 ロドニー提督 と ラ・ペルーズ船長

アメリカ独立戦争 200年 記念
ポリネシア 1976 発行
1778年にラ・ペルーズ探検隊が南太平洋(オセアニア)方面の探検航海中に、1774年にキャプテン・クックが発見していたニューカレドニア島を調査しました(同島は1853年よりフランス領)。1782/4/9〜12に起ったセインツの海戦グラス提督が指揮するフランス艦隊ル・トリオンファン号艦長で参戦しましたが、敗戦となりました。

フランス革命2年前、1785/8/1にルイ16世の命を受け北西航路発見のためフリゲート艦2隻、ラ・ブソル(La Boussole)とラ・アストロラープ(La Astrolabe、500t Fluyt)でブレスト軍港を出帆、南米大陸沖ホーン岬から太平洋に向いました。その後ソロモン諸島のサンタクルーズ諸島で消息を断つまで、1786/4/9にイースター島到達、サンドウィッチ諸島(ハワイ)からアラスカまで北上中に、1786/11/6の深夜にフレンチ・フリゲート礁(French Frigate Shoals、北西ハワイ諸島で最大の環礁)を発見、その後、北米沿岸をカリフォルニアまで南下、太平洋を横断し、1787年マカオ着。再びマカオから北上し対馬海峡から日本海に入り間宮海峡まで航海。ラ・ペルーズ(宗谷)海峡を発見(1787年)通過し日本近海を測量しました。1787年にデ・カストリ湾を発見、海軍大臣デ・カストリーに因んで命名。
ルイ16世
・ペル|ズ船長
ノーフォーク 1987-88 発行

ラ・ペルーズは北海道に上陸して5日間過ごしましたが、日本の鎖国政策はフランスとの接触を許さずオランダ商館が仲介したと記録されています。その後、カムチャッカやアラスカの沿岸を経て南太平洋へ向いニューヘブリデス諸島のヴァヌアツから、サモアノーフォーク島を経て、1788年に最後に寄港したことの確認ができるシドニー近くのボタニー湾までの海域を調査し、イギリスの総督フィリップ提督と会見した後、シドニーを出帆して消息不明となりました。

1787年にはラ・ペルーズ船長の探検隊がカムチャッカのペトロパブロフスクに寄港し、ここで下船させたバルテルミ・ド・レセップス(Jean-Baptiste Barthelemy de Lesseps 1766:仏エロー県セット(Sete)生-1834:リスボン没 )に日本列島やサハリンの近海調査の結果をフランスののパリまで報告させ、その後、ラ・ペルーズ探検隊は遭難し全員が船と運命を共にしたので、この町からヨーロッパにもたらされた地理的知識は非常に大きな価値を持つことになりました。
ラ・ブソル号と
アストロラーブ号


ノーフォーク1987-88発行

1827年英のピーター・ティセンがソロモン諸島サンタクルーズ諸島のバニコロ島で一行の遺品の一部を発見。翌年(40年後)の1828年になって仏のデュモン・デュヴィルという人物が船体の一部(座礁した2艦の残骸)を確認したといわれていますし、さらに1964年には多数の遺品が発見されました。「世界航海記」、本書の原著は、遭難に至るまでに本国へ送られていた資料をもとに1797年に刊行されたもので、調査海域の諸状況が著されています。また、この英語版は翌年にイギリスで出版されており、彼自身の名前も同国方式で表記される中、随所に51枚の海図やスケッチを挿入した2巻本。

地理的に最も関係が深い日本ではあまり馴染みがありませんが、外国では宗谷海峡の発見者の名前に因みラ・ペルーズ海峡と呼びます。我が国で鎖国政策が施行されている真っ最中の1787(天明7)年に、この海峡を発見しました。ラ・ペルーズはロシアのクルーゼンシュテルンやイギリスのブロートンとならび世界の三大航海士の一人に数えられるようになりました。London、1798「世界航海記」”The voyage of La Perause round the world”「GAIDAI BIBLIOTHECA」129号。1776年にはキャプテン・クックも北西航路発見のため第3回航海に出帆しました。 日本の古地図

シドニー出港の1788年から、3年後の1791/9/28にダントルカストウ提督ラ・ペルーズの捜索のために、3本マストのフリゲート艦”ラ・ルチェルシュ号”と同型艦の”ル・エスペランス号”と共に、フランスのブレスト港(Brest)を出帆しましたが、2年弱に渡る捜索にもかかわらす消息をつかめぬまま、1793/7/21にニューカレドニア島で亡くなりました。

ラ・アストロラープ号の装備:〜
  La Astrolabe
、Frigate、1781
船 型 フリュート型輸送艦(Fluyt) アストロラーブ号、1785

ラ・ペルーズ船長       .
ヴァヌアツ 1999/2/17 発行
帆 柱 3本マスト、1784年フリゲート艦(Frigate)に改装
全 長 32.87m
全 幅 8.5m
喫 水 5m
重 量 500屯
武 装 6ポンド砲20門
乗組員 110人(士官10人)
進 水 1781年、ル・アーヴル(Le Havre)
最 後 1788年、バニコロ島(Vanikoro)で座礁・沈没

参考:〜
・チハチョーフ湾

  Tsjichatsjovbaai
日本海の湾で、間宮海峡の西岸、北緯51度28分、オルロヴァ岬(クロステル=カンプ岬とダッサ岬の間)、アムール川流域のキジ湖付近に有。1952年までの旧名はデ・カストリ湾(de Castries)。長さ約12.5km、湾口の幅9km、水深9m。湾を取り巻く断崖と3つの島々により全方向の風が防がれる天然の良港。結氷期間は5ヶ月で、夏季の水温は14℃に達する。潮汐は半日周潮で、1m差。
ラ・ブソル号とアストロラーブ号

ノーフォーク 1967-68 発行

参考HP:〜
 ・ぺルーズ(宗谷)海峡の場所地図
 ・ボタニー湾の衛星写真(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     07/11/20、08/10/20、11/5/25追記
スタンプ・メイツ
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