★ロシア
帝政ロシア首都、サンクトペテルブルグ
1712年、遷都

(フィンランド湾の港湾都市)
大航海物語
 参考資料★
CCCP
ペテルスブルグ〜モスクワの地図
ペテルブルグ モスクワ
フィンランド湾→

ソ連 1966 発行

POCCUST ROSSIJA
ピョートル大帝の新首都計画
サンクトペテルブルク創建

ロシアの歴史・ピョートル大帝
ロシア 1997/8/15 発行
ピョートル大帝

ロシア 1997/8/15 発行

帝政ロシアの首都、サンクトペテルブルグ
 Saint Petersburg

  面積:市域:1431ku、人口:市域 4,568,047人(2008)
サンクトペテルブルクは1703/5/27(ロシア暦:5/13)にピョートル大帝が創建に着工、1712年遷都。ロシア・レニングラード州の州都で、かつてロシア帝国の首都でした。第1次世界大戦以降(1914-1924)はペトログラード、ソ連時代(1924-1991)はレニングラードでした。サンクトペテルブルクはロシア西部でバルト海のフィンランド湾最東端にあって、ネバ川河口デルタに有。ロシア有数の港湾都市でもあり、鉄道・国際航路の要衝。モスクワに次ぐロシア第2の都市。行政上はモスクワとともに連邦市を形成。ロシア連邦を構成する86連邦構成主体のひとつ。市街はネバ川河口デルタの島々と両岸に広がり運河網が発達。バルト海の重要な港湾都市。ネバ川は運河や河川などにより、白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ボルガからの船舶のバルト海への出口となっています。港は冬季の11〜4月は凍結、厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持しています。また、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「北のヴェネツィア」と呼ばれています。都市名は「聖ペテロの街」の意。これは、建都を命じたピョートル大帝(ラテン語でペテロ)が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。隣国フィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ(Pietari)の名で呼称。

第1次世界大戦でロシアがドイツと戦争状態に入ってからロシア語風にペトログラード(1914)と改められ、さらにソビエト連邦時代にはレーニンにちなんでレニングラード(1924)と改称され、この名称が半世紀続きました。しかしソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称サンクトペテルブルクに再び戻りました。ロシア人の間ではピーテルの愛称で呼ばれます。なお、州名は従来どおりレニングラード州。

大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営され、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われました。その数は1万とも言われています。スモーリヌイ修道院はソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢でした。ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こりました。その後、ソヴィエト政権は首都をモスクワに移転し、1922年に正式に定められたことで、この街は政治の中心地から外れました。

ロシア・フィンランドの国境に近いため、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求。フィンランドはこれを拒み、1939年の冬戦争が勃発。フィンランドは善戦後、結局翌1940年に当該地域の割譲で講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招きました。第2次世界大戦中はフィンランド、ドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約400日にわたる包囲を受けました(レニングラード包囲戦)が、凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜きました。戦後もレニングラードはソ連第2の都市として存在しましたが、その歴史的経緯からモスクワとは違った文化や風土を保っています。


参考:〜
大北方戦争
  Great Northern War
、(1700〜1721)
大北方戦争をこちらでお楽しみください。

参考HP:〜
 ・サンクト・ペテルブルグとクロンシュタット湾の地図
 ・サンクトペテルブルク市の場所地図
 ・ロシアの地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        10/6/27

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