★フランス
レユニオン島
La Reunion
1642、フランスの入植

大航海物語★
ルイ13世、 リシュリュー
フランス人の上陸

REUNION
フランス人と原住民との会見
1642 レユニオン入植300年記念 1942
レユニオン 1943 発行
REUNION
レユニオン島の地図

レユニオン 1907-30 発行
SEYSHELLES
インド洋の地図
アデン


セイシェル


マダガスカル


モーリシャス
レユニオン
  ここレユニオン
セイシェル 1954-56 発行

レユニオン島
 Reunion (Ile Bourbon)

面積:2,512Ku(佐賀県は2,439ku、沖縄本島(1207.87ku)の約2倍)、人口:720,294人(763,000、2004年)。コーヒーの原種の一つブルボン種(Bourbon)の原産地。県都はサン・ドニ(Saint-Denis)。レユニオン島はフランス共和国の海外県ならびに海外地域圏(レジオン regions)で、マダガスカル島から800Km東方のインド洋上に浮かぶ絶海の孤島。東経55度30分、南緯21度。大きな火山島で、島のほぼ中央にある最高峰のピトン・デ・ネージュ山(Piton des Neiges 死火山)は標高3069m、島の南東部にも標高2631mのフルネーズ山(Piton de la Fournaise 活火山)があって、火山学者のメッカとなっている。山岳地勢で住民の大半は海岸部に居住。北東約200kmにモーリシャス島がある。

1498年 ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達
1502年 ポルトラーノ海図に”Dina Margabim”、又は”Diva Morgabim”の名で掲載登場
1507年 2/9にトリスタン・ダ・クーニャが無人島を発見・接岸、その日が聖アポローニアの
      記念日だったので、”聖アポローニア(Santa Appolonia)島”と命名
1513年 ポルトガルのインド植民地総督ペドロ・デ・マスカレニャスが「公式に」発見。彼の名はマスカレン(仏語ではマスカレーニュ)諸島(レユニオン、モーリシャス、ロドリゲス)に残っている。その後、オランダの提督、英国の海賊、ポルトガルのイエズス会宣教師などが相次いで接岸
1638年 インドに向かう”聖アレクシス(Saint Alexis)号”がルイ13世の名で占有を宣言
1640年 フランスの聖アレクシス号艦長が上陸して公式にフランス領有を宣言し、
      ルイ13世に因んで”ブルボン(Bourbon)島”と命名
1642年 ブルボン王家を打倒したフランス革命でラ・レユニオン(La Reunion)島と改名
1646年 マダガスカルの反乱分子12人がラ・レユニオン島に流刑
1654年 マダガスカルの反乱分子(フランス人8人、マダガスカル人6人)がラ・レユニオン島に流刑
1663年 フランス人2人が10人のマダガスカル人(男7人、女3人)と2年滞在
1665年 フランス東インド会社はインドへの中継港として重視し、植民を開始、
      フランス人20人が入植、コーヒを栽培するも、後に失敗
1668年 サトウキビがマダガスカルよりもたらされ、砂糖栽培が重要産業となる
1671年 人口76人:白人36人、マダガスカル人37人、混血の子供3人
1674年 人口130人:奴隷75人
1686年 最初の人口調査。総人口約300人:フランス人、ポルトガル系インド人、アフリカ、マダガスカル、オランダ10家族がフランス人夫婦より、12家族がフランス男性とインド、ポルトガル女性、14家族がフランス男性とマダガスカル女性
1689年 奴隷人口102人、自由民212人
1700年 人口700人、うち320人が黒人
1709年 奴隷人口384人、自由民492人
1711年 自生のコーヒーが発見される
1714年 奴隷人口534人、自由民623人
1718年 イエーメンのモカからコーヒーがもたらされる
1735年 奴隷人口6573人、自由民1716人
1749年 コーヒー苗が虫害によって荒らされ始める
1750年 奴隷人口11893人、自由民2834人
1763年 奴隷人口15419人、自由民4267人
1779年 奴隷人口30209人(うち白人6464人)、自由民6929人
1788年 人口45000人:奴隷33377人(うち白人8812人)、解放奴隷1029人
1789年 奴隷人口42588人、自由民9211人
1791年 ハイチ革命(サトウキビ経済の崩壊)が起こる
1793年 国民公会により島名がレユニオン(Reunion)島と決定
1794年 国民公会奴隷制廃止宣言
1802年 ナポレオンにより奴隷制復活
1804年 奴隷人口50350人
1806年 皇帝に媚を売った提督によって「ボナパルト」島と改名
1806年 翌年にかけて大型サイクロン来襲、島名ボナパルトと改名
1810年 英国の統治下に入る。白人12725人、解放奴隷2840人、奴隷52141人
1814年 イギリス占領時に「ブルボン」島と改名
1815年 フランスに返還。最初の製糖工場(小屋)
1817年 最初の蒸気粉砕機導入。奴隷売買禁止令
      非合法売買で1831年までに奴隷約45000人輸入
1820年 粉砕機数91。1820年-1825年の砂糖生産量は4500t以下
      人口71703人:奴隷51213人、解放奴隷4710人、白人15780人
1821年 粉砕機数135
1823年 粉砕器数168。サトウキビ耕作面積48000ha
1826年 人口87100人:奴隷60698人
1829年 インド人契約労働者が続く3年間で3000人移入
1830年 蒸気粉砕機数84。白人と白人系混血30000人、奴隷70000人
1832年 続く3年間で奴隷45000人輸入
1835年 奴隷人口70406人
1838年 ルイ・ドゥ・エルが総督で赴任(〜1841)
1840年 奴隷人口66100人。製糖工場数140
1843/6 ピエール・パソット艦長が総督で赴任(〜1844/3)、1回目
1846/1 ピエール・パッソット艦長が総督で赴任(〜1849/8)、2回目
1848年 奴隷人口62151人、12月奴隷制廃止。「レユニオン」島と呼称が何度も変わった
1849年 契約労働者数12032人(インド11309人、中国644人、アフリカ379人)
1850年 続く10年間でインド人労働者約60000人
1852年 外国人契約労働者16585人、解放奴隷15483人
1858年 製糖工場数127
1859年 契約労働者数64403人(アフリカとマダガスカル合わせて26784人)
      アフリカ人移住禁止令
1860年 砂糖生産量73000t。サトウキビ耕作面積62000ha。製糖工場数121
1865年 砂糖生産量48000tに激減。インド・アフリカ移民74500人
      44000人の解放奴隷が契約労働に移行せず
1869年 スエズ運河開通、スエズ運河が開通するとインド方面への中継港としての役割は減少
1870年 人口21万人。うち中国系1180人
1881年 人口17万2000人。砂糖生産量2000t
1882年 粉砕機数168。インド人移住禁止令。契約労働者数46426人
1885年 最後のインド人契約労働者移住(男22人、女12人)。人口16万3000人
1887年 モザンビークから2000人以上の契約労働者移住
1889年 島で生まれた移民の子へのフランス国籍付与
1901年 中国人契約労働者受812人移住。人口173315人
1904年 製糖工場数36
1911年 人口173293人:インド人ムスリム584人、中国人844人(うち女33人)
1914年-1918年 砂糖生産量37000t
1927年 移民受け入れ再開。マダガスカルより3000人
1931年 人口197933人、うちフランス国籍192566人
1940年 砂糖生産量110000t
1946年 フランスの海外県となる。
1952年 3月15日から3月16日にかけて世界最多24時間降水量の1870mmを記録
1956年 製糖工場数13
1988年 製糖工場数4
2002年 時差の関係で、現地時間1月1日午前0時少し過ぎに、県都サン・ドニのルネ・ポール・ヴィクトリア市長が、市庁舎前の式典会場に設えられた屋台でライチ1キログラムを0.76ユーロで買ったのが、現金による世界初のユーロ使用と(公式には)されている。しかし現地の噂では、それより数分前(2001/12/31:午後11時57分という説も有)に、一人のクレオール人男性がATMから20ユーロ紙幣を1枚引き出すことに成功したと言われている
2001年 製糖工場数2
2002年 ユーロ流通
2003年 海外レジオン設置に伴い、「レユニオン海外県ならびに海外レジオン」となる

リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ枢機卿 (1585/9/9〜1642/12/4)
 Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu

リシュリュー公爵は、カトリック教会の聖職者にしてフランス王国の政治家。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。

ルイ13世、 (1601/9/27〜在位1610〜1643/5/14)
 Louis XIII de France

ルイ13世はブルボン朝第2代フランス王。初代アンリ4世の子。母はマリー・ド・メディシス。ブルボン朝創生期の王。父アンリ4世の暗殺後、8才でフランス国王に即位。成人になるまで、母のマリー・ド・メディシスが摂政として政治を補佐。また、宰相リシュリューに支えられ、貴族の勢力を抑え、直接知事を任命するなど王権の強化につとめた。当時の身分制議会である三部会も、1615年以来開催されなくなった。こうして、続くルイ14世の時代に確立した絶対君主制の基礎を作った。国内では新教徒(ユグノー)へ圧力を加えたが、三十年戦争では自国の国益を優先して新教徒側を支援し、宿敵ハプスブルク家の牽制を図った。クラシック曲の「アマリリス」を作曲したとされている。

大西洋中央海嶺
大西洋中央海嶺スバールバル諸島の西の北極海からアイスランド島を経て大西洋のほぼ中央を南北に走り、さらにアフリカ大陸と南極大陸の間を東西に走り、インド洋レユニオン島の南東まで続く世界最大規模の海嶺で、総延長はおよそ1万8,000km。

参考HP:〜
 ・レユニオン島の場所地図
 ・レユニオン島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       09/3/12
スタンプ・メイツ
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