|
|
||
| ★イギリス | ジョージ・コックバーン提督 Napoleonic Wars & War of 1812 第2次米英戦争で1814年ワシントンDCを焼討ち |
大航海物語★ |
|
|
||
| DOMINICA 1782年当時の3層甲板軍艦 ![]() 英領ドミニカ 1976 発行 |
ACSENSION ISLAND ジョージ・コックバーン提督 ![]() アセンション島 1988/2/20 発行 |
第1次サンヴィセンテ岬沖の海戦![]() モントセラット 1992 発行 |
←イベリア半島 |
ワシントンDCの焼打ち![]() セヴァーン川(Severn River)川口 アメリカ 1949 発行 |
チ ェ サ ピ | ク 湾 |
||
|
|
|||
| ナポレオンが島流しにされた 1817年のセントヘレナ古地図 ![]() ↑セントヘレナ島→ |
→ |
![]() |
|
コックバーン提督はナポレオン戦争中のスペイン派遣艦隊、新大陸派遣艦隊の第2次米英戦争でのチェサピーク湾封鎖・ワシントンDCの焼討ち・通商破壊作戦などで活躍して、バス勲章を受章し、ナポレオンのセントヘレナ島輸送作戦の指揮を執って成功しました。 |
| サー・ジョージ・コックバーン提督 (1772/4/22〜1853/8/19) Sir George Cockburn, 10th Baronet、準男爵。 コックバーンはジェームス・コックバーン卿(Sir James Cockburn, 8th Baronet 1729-1804)の次男としてロンドンで生まれ、14才で海に出て、間もなく海軍に入隊しました。やがてスループ型帆船、フリーゲート艦、戦艦へと乗組んでゆきました。基地隊勤務から、西インド艦隊勤務をへて、地中海艦隊勤務となり、1769年には艦長としてミネルヴァ号(Minerve 38砲搭載)に乗組み、イタリアのレホルノ(Leghorn、海)を封鎖し、スペイン・フィりゲート艦サビーニャ号(Sabina 40砲搭載)とあいまみえて戦いました。1797年にはポルトガルのザグレス州サンヴィセンテ岬沖で海戦(Battle of Cape St. Vincent 1797/2/14第1次)をスペイン艦隊と闘いました。1809年にはマルチニーク(Martinique)島の戦いで上陸して海岸戦の指揮官として活躍し、イギリス占領文書にサインしました。オランダのスヘルデ川(Scheldt)作戦勤務の後、1811年スペイン・カディズに、アメリカ植民地でのスペインとの和解のために派遣されました。1812年に海軍少将(rear admiral)に昇進して、ナポレオン戦争(Napoleonic Wars、1803-1815)中の主力艦隊であるスペイン方面艦隊の司令官になりました。その他の艦隊はヨーロッパの海上封鎖に従事していました。 第2次アメリカ独立戦争(米英戦争War of 1812 、1812/6/18-1815/2/18)では、1814/3の終わりまでウォーレン提督(John Borlase Warren)の副司令官を務めました。その後は戦争終結まで、ウォーレン提督の後継者コチレーン提督(Sir Alexander Forrester Inglis Cochrane GCB RN)の副司令官を務め、チェサピーク湾を巡航し、また一方では1813〜1814年の間、大西洋岸のアメリカの港を襲っては通商破壊海戦を実施して、チェサピーク湾を封鎖しました。1814/8/24にはワシントンDCの焼き打ち作戦を実施しました。1815年のはじめにバス勲章を受賞し、終戦後にヨーロッパに戻ると直ぐに、ナポレオンを絶海の孤島セントヘレナ島のノーザバランドに運ぶ任務を命じられ成功し、ナポレオンは島から一歩も外へ出ることもできずにそこで生涯を終えました。 その後、北アメリカ派遣艦隊の総司令官になりました。1827年には枢密顧問官(Privy Counsellor)になり、その後は各地のトーリー党(Tory)議員(ポーツマス 1818-1820, Weobly 1820-1828, プリマス 1828-1832, Ripon 1841-1847)に選出されました。海軍長官(First Sea Lord)に3回(1828-1830; 1834-1835; 1841-1846)なり、1852年には難破船員共済会の総裁を勤め、81才でイギリスで亡くなりました。 参考地図HP:〜チェサピーク湾、ワシントンDC 2007/11/15
・コンスティテューション号(USS Constitution):〜:性能諸元:〜
ニックネーム:: オールド・アイアンサイズ ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |
|||||||