| 帆 船 切 手 の 特 集
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サンタ・マリア号 ”Santa Maria” 1492 |

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| サンタ・マリア号 ”Santa Maria” 1492年 サンタ・マリア号はコロンブスの第1回の航海に使用され、ピンタ号、ニーニャ号とともに3隻の船団を組んで、1492/8/3スペインのバロス港(パロス・デ・ラ・フロンテラ)を出帆、9/6にはカナリア諸島に寄港・補給、10/12 バハマ諸島中の現在のワットリング島に到達しました。12/6ワットリング島からキューバをへてイスパニョーラ島へと、ニーニャ号と 共に向かいました。イスパニョーラ島北部のグアカナガリ酋長のもとへ向かっていた時の、12/24の夜に座礁してしまいました。コロンブスはニーニャ号に乗りきれず残留を申し出た乗組員39人のために、サンタ・マリア号の木材で「ナビダーの砦」を築きました。1493/11/28、コロンブスが第2回航海で、そこへ着いてみると砦は破壊されスペイン人は全て殺害されていました。 サンタ・マリア号はコロンブスの乗船で、3本マスト、2層甲板、船首船尾楼、を持つ遠洋航海用カラック型帆船で、スペインでは ”NAO”と呼ばれていました。長さ25.6m、幅7.5m、船底から上甲板まで3.3m、185トン、約50人乗組、中古船で探検を目的として建造されたものではなかったと記録されています。 サンタ・マリア号の装備をこちらでお楽しみください。 |
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ピンタ号 ”Pinta” 1492 |

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| ピンタ号 ”Pinta” 1492年 ピンタ号はコロンブスの第1回航海の時の3隻の船団の1隻で、ピンソン三兄弟の長兄の マルティン・ピンソンが船長として、次兄のフランシコ・ピンソンが水夫長として乗り組んでいました。 1492/8/3スペインのバロス港(パロス・デ・ラ・フロンテラ)を出帆、9/6にはカナリア諸島に寄港・補給、10/12バハマ諸島中の現在のワットリング島に到達し、1493/3/15パロス港に帰港しました。 カラベル船(カラベル・レドンダ)で、名前はスペイン語で「ほくろ」を意味します。3本マスト横帆式で、ミズン・マストに三角帆を持つカラック型帆船でした。80トン、中古船で探検を目的として建造されたものではなかったと記録されています。 参考:〜 コロンブスはカスティーリャ王国のイザベル女王から資金提供を受けましたが、それだけでは航海の資金をまかなうことが出来ず、3隻の船と乗組員と追加の資金を調達するのに相当な苦労がありました。ピンタ号はクリストバール・キンテーロという人物の船でした。この航海におけるコロンブスへの主要な協力者であるピンゾン三兄弟がいなくては出発できなかったといわれています。1492年の10/12の夜明けに、後にバハマと呼ばれることとなる海域内にて、カナリア諸島から36日以上もの間陸地が見えなかったのに、ついに、この船の乗組員によってそれまでヨーロッパ人にとっては未知の島が発見され、この島はコロンブスによって”サンサルバドル島”(現ワットリング島)と名付けられました。その後、船長であるマルティン・ピンゾンの独断により、一時的に他の2隻と離れて別行動を取りましたが、明けて1493年の1月にはサンタ・マリア号を失ってたコロンブスと合流し、間もなくニーニャ号とともにスペインへの帰途に着き、3/15にパロス港に帰着しました。 |
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ニーニャ号 ”Nina” 1492 |

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| ニーニャ号 ”Nina” 1492年 2本マスト三角帆のカラック型帆船(カラベル・ラティーナ)で、スペインでは”ピンネス”と呼ばれていました。60トンの軽走帆船、中古船で、探検を目的として建造されたものではなかったと記録されています。 ニーニャ号はコロンブスの第1回航海の時の3隻の船団の1隻でピンソン三兄弟の末弟のビセンテ・ピンソンが船長として乗り組んでいました。1492/8/3スペインのバロス港(パロス・デ・ラ・フロンテラ)を出帆、9/6にはカナリア諸島に寄港・補給、10/12バハマ諸島中の現在のワットリング島に到達、1493/3/15パロス港に帰港しました。 「ニーニャ」とはスペイン語で「小さな女の子」を意味しますが、これは船の本来の持ち主であるフアン・ニーニョという人物の名前に由来したといわれており、コロンブスの航海に参加する以前の名前はサンタ・クララ(Santa Clara)でした。持ち主であるホアン・ニーニョ自身はニーニャ号の航海長としてこの航海に参加しています。3隻の中で、コロンブスが最も好んだ船がニーニャ号であったことはよく知られています。ニーニャ号は船長ビセンテ・ピンゾンを筆頭に18名のクルーによって操船され、バハマ諸島に到着後ピンタ号が船団から一時離脱し、その間の12/24にサンタ・マリア号が座礁によって失われてしまい、コロンブスはニーニャ号に移乗しました。明けて1493/1月にコロンブスは帰還の途につき、その後はニーニャ号に乗船したまま、パロス港に帰着しました。 その後のニーニャ号は1493/9月、イスパニョーラ島に植民地を建設することを目的に計画されたコロンブスによるインディアスへの2度目の航海にニーニャ号も再び加わり、その中でキューバへの探検行においては旗艦を務めました。1495年に船団が遭遇したハリケーンにおいてはニーニャ号ただ1隻が生き残り、翌年にはスペインに再度の帰還を果たしました。 その後、ニーニャ号はローマへの非公式な航海に貸し出され、その旅路の過程、サルデーニャ島のカリャリの港を発ったところで海賊によって拿捕され、プーラ岬まで曳航されるという災難に見舞われましたが、当時の船長アロンゾ・メデルは数人のクルーとともに海賊からのがれ、ボートを盗んでニーニャ号へと取って返して出帆し、スペインのカディス港まで逃げ延びました。 1498年、コロンブスの3度目のインディアス遠征に伴い、その先遣として再びイスパニョーラ島へと向かいました。 その後、1500年にはサントドミンゴにおいて特に任務もなく停泊しており、1501年に商取引のためパール・コーストへの航海を行った記録を最後に、この船のその後については明らかではありません。ニーニャ号は、記録によればコロンブスの指揮下における航海だけで少なくともおよそ25,000マイル(40,200km)もの距離を航行しました。この距離はほぼ地球一周に相当します。 ニーニャ号の復元が、1992年のクリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸到達500周年にあわせて、コロンブスの船団を成した船として、サンタ・マリア号、ピンタ号とともに、ニーニャ号も復元されました。この復元計画は1986年に開始され、復元された船体は1992年にスペインで開催されたセビリア万博において展示されました。 |
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サン・ガブリエル号 ”St.Gabriel” 1497 |
ヴァスコ・ダ・ガマ没後400年記念![]() ポルトガル領ニャッサ会社 大正9年 1920 発行 |
サン・ガブリエウ号とヴァスコ・ダ・ガマ![]() ギニア・ビサウ 1981 発行 |
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| サン・ガブリエル号 ”St.Gabriel” 1497年 サン・ガブリエル号はバスコ・ダ・ガマの乗船で、インドの香料・シナモンなどの産物を求めて、1497年7月8日(土)に170名の乗組員と4隻の船団(横帆式の旗艦サン・ガブリエル号、同じく横帆式のサン・ラファエル号、第三角帆式カラベル船ベリオ号、大型補給船一隻)で、ポルトガル・リスボンのテージョ河口・レステロを出帆しました。そして5月18日(金)インドのマラバル海岸、カリカット王国に達しました。 ポルトガルを出帆して実に10ヶ月以上かかってインドの香料原産地カリカットへ到達、大量の香辛料を持ち帰るという成果をあげてインド航路の発見・開拓をなし遂げました。出帆時の乗組員約60名と一隻の船(乗員不足でサン・ラファエル号を廃船)を失っていましたが、彼のもたらした香辛料とインド情報はポルトガル全土を興奮のルツボと化しました。 横帆に三角帆を装備した3本マストの帆船で、200トンくらいの船でした。 |
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ヴィクトリア号 ”Victory” 1519〜1522 |

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| ヴィクトリア号 ”Victory” 1519〜1522年 ヴィクトリア号はマゼランが1519年にスペインのサンルカル・デ・バラメダ港から、世界一周航海に出帆した時の乗船です。5隻の船団で出帆して、1520年に南アメリカのマゼラン海峡を発見・通過しました。1521年に太平洋を横断して、フィリピンに到着しましたが、マゼランはマグダン島の戦いで戦死しました。その後を引き継いだエルカノが1522年にスペインに帰港できたただ1隻の船です。 3本マストで、90トンの帆船だったと記録されています。 |
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エメリョン号 ”Emerillon” 1535 |

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| エメリョン号 ”Emerillon” 1535年 エメリョン号はフランスのカルティエの第二回探検航海に使用された帆船で、1535/5/13に、”グランド・エルミン号”他一隻の3隻編制、110人の乗組員でフランスのサン・マロ港を出帆しました。9月7日イロコイ族の村落スタダコナ(Stadacona, 現在のケベック)に到達、1536/7月フランスに帰港しました。 3本マストの帆船でした。 |
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ゴールデン・ハインド号 ”Golden Hind” 1577〜1580 |

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| ゴールデン・ハインド号 ”Golden Hind” 1570年頃 ゴールデン・ハインド号は英国のフランシス・ドレーク船長が1577年から1580年にかけてスペイン船やスペイン領を略奪しながら世界を周航した船。この当時は、国ごとに外形や飾りに違いが有りましたが、この船はスペイン船をだますため、外形や飾りをスペイン船の様に改造(様式はスパニッシュ・ガレオン)したものです。 この船の記録は殆ど無く帆装も大きさも確かではありませんが、80〜120トン程度と言われています。ゴールデン・ハインドとは「金の子羊」の意味で、ドレーク船長の後援者の大貴族八ットン家の紋章に因んだものです。 |
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メイフラワー号 ”The Mayflower” 1620 |

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| メイフラワー号 ”The Mayflower” 1620年 ・メイフラワー号はピルグリム・ファーザーズの乗船で、1620年9月16日102人の移住者(清教徒)を乗せてイギリス・プリマスを出帆、2ヵ月後、北アメリカのプロビンズ・タウンに入港して修理補強を行った後、12月21日プリマスに到着。翌年4月帰国の途に着きました。 ・3本マストの商船で、長さ約27m、重さ180トンだったと記録されています。 ・アメリカ合州国から、大正9年(1920)12月21日に「清教徒プリマス上陸300年」を記念して発行された記念切手3種の中の1c切手に「メイフラワー号」が描かれています。この切手には「USA」等の国名表示がありません。メイ・フラワー号は「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれている清教徒の一行102人が亡命地オランダから本国イギリスを経てアメリカへ渡るときに乗船した船です。一行は3ヶ月以上の航海の後アメリカのマサチュセッツ州プリマスに上陸して、アメリカ建国の先駆けとなりました。上陸直前に船上で交わされた「メイフラワー盟約」は宗教上の契約に基づく政治上の契約として、アメリカ歴史上重要となっています。 |
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エンデバー号 ”His Majesty's Bark Endeavour” 1768〜1771 |

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| エンデバー号 ”His Majesty's Bark Endeavour” 1768年 国王陛下のバーク型”エンデバー号”は キャプテン・クック の乗船で、ベンフローク伯号を調査船に改装したもの。クックの第一回世界周航の時に用いられた帆船です。この船はホイットビーで建造された築40年の石炭運搬船を改修したもので,砂浜での補修に都合のよい平底で,大きな貯蔵スペースを持ち,長期航海に適したものでした。クックにとっても見習い水夫時代の航海で馴染んだものでした。 マスト数 : 3本マスト横帆 ・フォア・マストの前に2枚のヘッドスルーと、 ・メイン・マスト後ろのミズン・マスト下部にスパンカー縦帆を持ち、 排水量 : 378トン 全 長 : 29.77m 全 幅 : 9.8m 深 さ : 5.88m ・1762年進水のオーク材使用のバーク型帆船だったと記録されています。 |
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ヴィクトリー号 1805 ”HMS Victory” |

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| ヴィクトリー号 ”His Majesty's Ship Victory” 1805年 国王陛下の戦艦(HMS)”ヴィクトリー号”は、1758/12/13に発注され、1769年に試験帆走航海を終えました。1778/7/23にケッペル(Keppel)提督のもとで、英仏海峡での”アーシャントの海戦”(Ushant)にフランス艦隊と最初の海戦を戦いました。その時の装備は; ・3本マスト、 ・重さ2162トン 3層甲板の戦艦(Ship)で、 ・ローワーデッキ (下甲板の砲列甲板) に、42ポンド大砲を30門、 ・ミドルデッキ (中甲板の砲列甲板) に、24ポンド大砲を28門、 ・アッパーデッキ (上甲板の砲列甲板) に、12ポンド大砲を30門、 ・クォターデッキ (後甲板の砲列甲板) に、6ポンド大砲を10門、 ・フォアーキャッスル (艦首の甲板) に、6ポンド大砲を2門と 合計100門もの大砲を両側の舷側に備えていました。 最初の大海戦は1797/2/14にジャーヴィス提督(Admiral John Jervis)のもとで”セント・ヴィンセントの海戦”をスペイン艦隊と戦いました。1805/10/21にはネルソン提督のもとで”トラファルガーの海戦”をフランス・スペイン連合艦隊と戦い勝利して、ナポレオンのイギリス上陸を阻止しました。その後、数々の海戦に赴き、1922/3/20からポーツマス港に係留して記念艦として保存されることになりました。2005年はトラファルガーの海戦200周年の記念日として盛大な記念祭が開催されました。 参考:〜:イギリス海軍の軍艦(Sailing Ship)の区分は、おおよそ次のようだったようです。 ・戦 列 艦、”Ship Of The Line” シップ型で、複数の砲列甲板を持つ。 ・フリゲート艦、”Frigate” 砲門28〜44のシップ型快速帆船。砲列甲板は単層。 ・スループ艦、”Sloop” スループとは本来は一本マストの縦帆式の帆船のことです。 型別区分; ・シップ(Ship)型:三本マストの横帆式帆船。 ・ブリッグ(Brig)型:二本マストの横帆式帆船。 ・スクーナー(Schooner)型:二本(または三本以上の)マストの縦帆式帆船。 ・スループ(Sloop)型:一本マストの縦帆式帆船。 ・私掠船(Privateer):自国から敵国艦船の捕獲免許を与えられた民間の武装船。 免許を持たないと、ただの海賊になる。 艦載艇の種類: ・ランチ(Launch)大型の艦載艇。 ・カッター(Cutter) 艦載艇。ランチよりは小型のボート。 ・ギ グ(Gig)艦長が使用する艦載艇。カッターよりも小型。 ・雑用艇(Jolly Boat)オール2〜4本程度の小型のボート。 参考:〜 ・横帆(Square Sail):”艦首ー艦尾”の線に交差するように張る帆。 ・縦帆(Fore And Aft Sail)”艦首ー艦尾”の線に対して平行に張る帆。 |
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コンスティチューション号 ”USS Constitution” 1810 |

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| コンスティチューション号(USS Frigate Constitution)、 1810年 第2次アメリカ独立戦争・ノバスコシア海岸沖の海戦。 ・コンスティチューション号は、マサチューセッツ州ボストンのエドマンド・ハート造船所で、ジョージア州セントシモンズのギャスコイン・ブラフで切り出され製材された2,000本のサザン・ライブ・オーク材を使って建造されました。側板の厚みは7インチ (178 mm)。船の構造は当時としては特徴があり、船殻の対角線上に交差する筋違いがあり、船体強度をかなり上げていました。側板を止める銅製の釘やボルト、および船腹を守る銅被覆はポール・リビアが鍛造。1797年にボストン港に進水させるまでに何度か失敗を重ね、1798/7/2に初めて出帆し、フランスとの疑似戦争で合衆国南東沿岸の警戒にあたりました。 第2次アメリカ独立戦争(米英戦争War of 1812 、1812/6/18-1815/2/18)では、1812年の早くにイギリスとの関係が険悪なものとなり、米海軍は戦争の準備を始め、米英戦争の宣戦布告は6/20になされました。1810年に指揮官に任命されたアイザック・ハル艦長(Isaac Hull 1773-1843)の指揮で、6/12に命令無しで出港し、港湾封鎖に備えました。ハルの考えはロジャース艦隊の5隻と合流することでした。ところが、コンスティチューション号は7/17にニュージャージー州エッグ・ハーバー沖で5隻の船影を発見しました。翌朝、見張りがそれらの船はイギリス海軍の艦隊であることを確認。イギリス艦隊もコンスティチューション号を視認し追掛けてきました。ハル艦長は風が凪いでいることを感じ取り、ハルと熟練した乗組員はボートを下ろして船隊を曳航させ、小錨を使って船の向きを良くし、帆を濡らして重たくし少しの風でも仕えるようにして、緩っくりですが追いかけるイギリス艦隊との距離を離しました。7月の過酷な暑さの中での2日2晩にわたる骨折りによって、コンスティチューションは遂に追跡者をまきました。 1ヵ月後の8/19にコンスティチューションはノバスコシア海岸沖で、イギリス艦隊の1隻で、やや小さなフリゲート艦HMSゲリア号(HMS Guerriere 18pdsX38guns)と遭遇。イギリスのフリゲート艦は着弾距離に入ると砲撃を開始。ハル艦長は搭載大砲による攻撃を止めておき、2つの船がわずか25ヤード(23 m)まで近付いたときに舷側の大砲の砲口を全門開かせました。戦闘の間に両船は3度衝突したが、海兵隊補助隊員のマスケット銃攻撃が交わされ、乗組員の乗り移りを妨げました。3度目の最後の衝突のときに、ゲリア号の斜檣がコンスティチューション号の艤装に絡まりました。両船が引き分かれると、ゲリア号の斜檣を引く力が艤装を通じて衝撃を与え、ゲリア号はフォアマストを折られ、続いてメインマストも引きずり倒され、その結果ゲリア号はマストが無くなり、ひどく損傷を受けたので、港への曳航もかなわなくなりました。ハル艦長は舷側の武装の強さと優れた帆走能力を持っていたのに対し、イギリス艦の水兵も驚いたことに、彼らの放った砲弾がコンスティチューション号の強いライブ・オーク製の側板に跳ね返されて損傷を与えられませんでした。コンスティチューションは「古い鉄の船腹 」("Old Ironsides")と呼ばれました。 この年の12月にウィリアム・ベインブリッジ指揮となったコンスティチューション号はイギリスの別のフリゲート艦HMSジャバ号と遭遇。3時間におよぶ戦闘により、ジャバ号は修繕も出来ないほど破壊され焼却処分にされました。コンスティチューション号の勝利はアメリカの市民の士気に大きな昂揚感をもたらしました。その後1815年の終戦までに、修繕や港湾封鎖の影響で長い月日を港の中で過ごしたにも拘わらず、コンスティチューション号はチャールズ・スチュワート艦長の指揮で他に8隻の船を捕獲、その中には船隊を組んでいたフリゲート艦HMSシアン号とスループ船HMSスループ・レバン号を同時に捕獲していました。 その後6年間の大改装を経て大西洋船隊の旗艦に戻り、1828年にボストンに帰港。こうして、米艦コンスティテューション号は日本の三笠、英国のヴィクトリーと並んで、世界三大戦艦の1つとして有名となりました。現存・現役艦です。なお、1814/8/24にイギリスのコックバーン提督がワシントンDCの焼き打ち作戦を実施しました。 :〜:性能諸元:〜 艦 型: アメリカ海軍フリゲート艦(USS FRIGATE) 進 水: 1797/10/10、就役: 1797/10/21 排水量: 2,200トン 全 長:: 62 m (204 ft) 全 幅: 13.3 m (43,5 ft) 吃 水:: 4.4 m (14.31 ft) 機 関:: 帆走(3本マスト、全横帆)、最大速: 13 ノット (24 km/h) 乗 員:: 士官、兵員 450人 兵 装:: 24ポンド(11kg)長砲30門、32ポンド(15kg)カロネード砲20門、4ポンド(11kg)船首砲2門 ニックネーム:: オールド・アイアンサイド"Old Ironsides"。 参考HP:〜 ・ニュージャージー州エッグ・ハーバーの地図 ・ワシントンDCの地図 2007/11/20 |
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ボーハタン号 ”Powhatan” 1854 |

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| ボーハタン号 ”Powhatan” 1854年 ・ポーハタン号はペリー提督の第二回来日の時にアメリカ東洋艦隊の旗艦として1854年に「下田」に来航しました。第一回は四隻でしたが、第二回は七隻に増強されていました。艦隊の構成と船名は下記の通りで、外輪式のフリゲート艦で、詳細は下表(5)の通りです。名前の由来は原住民の”大酋長ポーハタン”です。 幕末の江戸湾に来航した「黒船」の艦隊構成:〜 |
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| ・第1回〜1853年 サスケハナ号〜旗艦 ミシシッピ号 サラトガ号 プリマス号 |
・第2回〜1854年 ポーハタン号〜旗艦 サスケハナ号 ミシシッピ号 サラトガ号 マセドニア号 ヴァンダリア号 サザンプトン号 |
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| ・来日したアメリカ艦船の列伝:〜 (1)サスケハナ号 Susquehana 1853、1854来航、 1853旗艦、外輪フリゲート。1850/4/5進水。 全長78.3メートル、排水量2450トン、 乗組員300名。 (2)ミシシッピ号 Mississippi 1853、1854来航、 外輪フリゲート。1841/5/5進水。 全長68.6メートル、排水量1692トン、 乗組員268名。 (3)サラトガ号 Saratoga 1853、1854来航 スループ。1842/7/26進水。 全長45.7メートル、排水量882トン、 乗組員210名。 (4)プリマス号 Plymouth 1853来航 スループ。1843/10/11進水。 全長44.8メートル、排水量989トン、 乗組員210名。 (5)ポーハタン号 Powhatan 1854旗艦として来航 外輪フリゲート。1850/2/14進水。 全長77.1メートル、排水量2415トン、 乗組員300名。 武装:11インチ砲1門, 9インチ砲11門 初出航:1850/2/14ノーフォーク軍港を出港 後に、咸臨丸とともに、太平洋を渡った。 1887/8/5廃船解体。 (6)マセドニア号 Macedonian 1854来航 スループ。1836/11/1進水。 全長50メートル、排水量1726トン、 乗組員380名。 |
・来日したアメリカ艦船の列伝:〜 (7)ヴァンダリア号 Vandalia 1854来航 スループ。1828/8/26進水。 全長38.7メートル、排水量700トン、 乗組員190名。 (8)サザンプトン号 1854来航 輸送船。全長47.5メートル、 排水量567トン、 乗組員45名。 (9)レキシントン号 Lexington 1854来航 スループ/輸送船。182/.3/9進水。 全長38.7メートル、排水量691トン、 乗組員45名。 (10)サプライ号 Supply 1854来航 輸送船。1846進水。全長43.0メートル、 排水量547トン、 乗組員37名。 (11) コロンバス号 Columbus 1846来航 戦列艦。1819/3/1進水。 (12)ヴィンセンズ号 Vincennes 1846来航 スループ。1826/4/27進水。 |
蒸気船の動力は、石炭を燃やしてボイラーで蒸気を起こし、その蒸気でエンジンを動かして、船体両側面にある外輪を回転させて推進力としていました。ただ、非常に燃費が悪いので、港に出入りするときや無風状態の時しか使われず、航海のほとんどは帆を張って風力を利用して帆走しました。 |
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千石船 江戸時代の中期以降〜明治時代の初期 |

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| 日本の「千石船」 江戸時代の中期以降〜明治時代の初期。 江戸時代の中ごろには経済が活発化し航路が開発され、物流が進み船舶の大型化がはかられました。 ・北前船(きたまえぶね)や;〜江戸時代の回船の一つで、江戸時代中期から明治時代初期にかけて、北海道の海産物や北国の米などを日本海・瀬戸内海回りで上方(かみがた)へ、上方の酒・塩などを北国に運搬しました。 ・その他に、桧垣回船(ひがきかいせん)、樽回船(たるかいせん)などと呼ばれる廻船問屋がありました。1769年「淡路島」生まれの「高田屋嘉兵衛」は兵庫の津の西出町で店を開き、函館にも店を開いて北前船による航路をエトロフ方面に開拓してロシアとの交易などもしたことでも知られています。 米を千石積めるので「千石船」と呼ばれた荷船 1本マスト;縦帆 長さ:約20メートル、 重さ:約100屯。 和船と黒船を比較すると;〜 黒船は和船の20倍以上の大きさのため、このように巨大な蒸気船を見て、当時の日本人には「伊豆大島が動き出したような巨大な船だった」と言う人もいたといわれています。 参考〜 ・戦艦「三笠」;全長132m、(ボーイング777;63.73m)。 ・戦艦「大和」;S15/8/8進水・64000屯・27節・全長263米・全幅38.9米・46cm主砲9門。・米戦艦:”アイオワ”:57450トン・33ノット・全長270m・主砲40cm9門。 |
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咸 臨 丸 ”Knrin Maru” 1860 |

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| 咸 臨 丸 ”Knrin Maru” 1860年。 咸臨丸は安政二年(1855)黒船の来航に驚いた幕府がオランダから購入した軍艦でした。 1860年、日米修好通商条約批准に渡米する日本初の遣米使節団はアメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦しました。その護衛のため選ばれた幕府の軍艦が咸臨丸だったのです。提督には、木村摂津守喜毅、安房守義邦、艦長は勝海舟で、士官17名、水夫、従者併せて総勢96人が乗り組んでいました。 そのなかには福沢諭吉、中浜万次郎(後のジョン万次郎)がいました。 1860年(万延元年)2月10日、桜田門外の変が起きる一ヶ月前、遣米使節団の出発三日前、浦賀を出帆してサンフランシスコに向けての壮挙に挑みました。咸臨丸は、日米和親条約の批准のために随行した日本人によるクルーズだったのですが、現在の豪華客船のようにはいきません。艦長の勝海舟は船酔いのために、航海中はずっと船室に閉じこもっていたそうです。福沢諭吉は懇願して渡米使節随員として乗船、船中では英語の勉強に励んでいたといわれています。浦賀を出帆した咸臨丸は37日間の苦難の航海を終え3月17日サンフランシスコ湾に入りました。そして咸臨丸一行は、サンフランシスコで連日大歓迎を受け、サンフランシスコ市民は日本から来た珍しい一団の冒険心を褒めたたえたそうです。 「咸臨丸」の建造当時の装備は、ほぼ次の通りでした。 総トン数 : 300屯 マスト数 : 3本マスト 全 長 : 50m 全 幅 : 7.3m 主 機 : 補助蒸気機関100馬力での速力6ノットの外輪船 備 砲 : 12門のスクーナー型コルベット艦 |
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開 南 丸 ”Kainan Maru” 1910 |

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| 開 南 丸 ”Kainan Maru” 1910年 開南丸は白瀬中尉が明治43年(1910)10月に199屯の木造帆走漁船「第二報效丸」を購入。11月21日に「開南丸」と命名。18馬力の補助エンジンを装備し機帆船に改装して、品川沖で試運転しました。総トン数204屯でした。命名は「東郷平八郎」提督によるものと言われています。11月29日 「開南丸」は東京の芝浦から、南極へと出帆しました。 「開南丸」の装備は、ほぼ次の通りでした。 総トン数 : 204屯 マスト数 : 3本マスト マスト高 : 32.0m 全 長 : 46.0m 全 幅 : 7.6m 喫 水 : 3.8m 補助エンジン:18馬力の機帆船 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |