大航海物語
エリザベス I世 女王
在位 1558〜1603

参考資料
エリザベス1世女王

英領ヴァ−ジン諸島 1980/9/26 発行
エリザベス 1世

バーブダ 1970/10/15 発行

エリザベス1世 と アルマダの海戦

セントヘレナ 2005/9/7 発行

エリザベス一世 女王
 Elizabeth Ist (1533/9/7〜在位1558/11/17〜1603/3/24)

エリザベス1世は、別名グロリアーナ(Gloriana)で、ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの子として生まれました。父ヘンリー8世はアン・ブーリンと結婚するため、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚をローマ教皇庁に要請しましたが、キャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世が横槍を入れたため許可がおりなかったので、ヘンリー8世は新たに「イングランド国教会」を創立しました。そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけ、 ここまでしてアン・ブーリンと結婚したものの、誕生したのが王女エリザベスであったことと、すでにジェーン・シーモアへと心移りをしたこともあり、1536年に王妃となってわずか1,000日余りで母のアンは反逆、姦通、近親姦及び魔術という無実の罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられました。
アン・ブーリン

イギリス 1997 発行
母の処刑後エリザベスは姉メアリー1世同様に私生児扱いとされましたが、父王の後妻となったキャサリン・パーの嘆願により、王女に復権され、キャサリンの元で養育されました。父王の死後にエリザベスは一時ロンドン塔に幽閉されるなど冷遇され続けましたが、過激なプロテスタント優遇政策をとらせたエドワード6世、カトリックへの回帰を宣言してプロテスタントを迫害したメアリー1世らが死去し、1558/11/17に国王として即位し、イングランドとアイルランドの女王で、テューダー朝最後(6代目)の女王となりました。当時は弱小国家であったイングランドの独立を維持し、「よき女王エリザベス」と慕われました。

女王になると、エリザベスは父の政策を踏襲して再び「国王至上法」を発令、「礼拝統一法」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけました。1569年にはカトリックを信仰する北部諸侯の乱を鎮圧し、1570年にローマ教皇ピウス5世から正式に破門宣告されました。以後エリザベスは何度となく、国内のカトリック勢力による暗殺の危険にさらされました。一方、この時代にはフランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなど優れた航海家が排出しました。1568年にフランス育ちで、かってフランス王フランソワ2世の妃でもあったスコットランド女王メアリーが、スコットランドの内紛でイングランドへ逃げてきました。始めは賓客扱いでしたが、メアリーはエリザベスの伯母マーガレット・テューダーの孫であり、イングランド王位継承権を持っていたため、側近達が生かしておくには余りにも危険な存在だと主張して、イングランドに18年半滞在した後、メアリーを北イングランドで処刑しました。エリザベスはメアリーを処刑したがらなかったと伝えられています。

エリザベス1世は財政難を補うため私掠船に掠奪許可証を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪をさせていましたのと、カトリック教徒だったメアリーの処刑で、スペインとの対立が深刻化しました。そして、スペインのフェリペ2世は、スペインの植民地だったオランダからイングランドへの上陸をもくろみ、 1588年にスペイン無敵艦隊アルマダを侵攻させ、英西戦争が始まりました。イングランドは十分な海軍を持っていなかったので、私掠船などをかき集めた寄せ集めの艦隊で、海賊上がりのドレイク提督以下、機動力の高い小型艦と射程距離の長い大砲を駆使し、スペイン無敵艦隊アルマダの海戦において大勝利を収め、スペイン無敵艦隊を撃破してスペインのイングランド上陸を阻止しました。スペイン艦隊は北海で嵐にも巻込まれ、スペインに戻ることができた軍艦はほとんどなかったと伝えられています。このアルマダ海戦での大勝利以後、スペインに代わりイングランドが世界貿易を一手に握るようになっていきました。

晩年は「囲い込み」によって発生した農民の大量難民に対処しきれず、発布した「エリザベス救貧法」も効果が上らず、また、対スペイン戦やアイルランドの反乱鎮圧のために軍事費が増大して重税を課し社会不安が増加しました。逼迫した財政立て直しのため独占許可状を乱発しましたが、議会の猛反対にあい、やむなく撤回するはめとなりました。しかし、この際の演説は「黄金のスピーチ」として今も語りぐさとなっています。文化的にはエリザベスの時代には、ウィリアム・シェイクスピアを始めとする文筆家を多数輩出して一大文化を築きました。1603年3月に後継者にスコットランド王ジェームス6世(メアリーの息子)を指名し、70才でなくなりました。

生涯独身であったため処女王(the Virgin Queen)と呼ばれましたが、実際には数人の愛人を持っていました。レスター伯ロバート・ダドリーや、エセックス伯ロバート・デヴァルー(レスター伯とエセックス伯は義理の親子)、サー・ウォーター・ローリーなどでした。特にダドリーとは一時は結婚まで考えましたが、その妻エイミーが階段から落ちて死亡する事件が起こり、ダドリーとの共謀説が流れたため、結婚を断念しました。ローリー卿は新大陸(アメリカ)にエリザベス女王に因みヴァージニアを建設するなどして好意を得ていましたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉されました(後に放免)。エセックス伯に対しては女王が老齢に達していたこともあり寛容でしたが、1601/2にエリザベスに対して反乱を起こしたので、処刑を命じました。

未婚の理由については諸処の説がありますが、 国外の王族と結婚すればその国の属国になり、国内の貴族と結婚すればその貴族が国王となってしまうというジレンマによるといわれています。また、未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にありました。なお、肖像画に影(=しわ)を入れないよう命じたため、彼女の肖像画にはしわは描かれていません。 これは日々老いる姿を国民に見せないようにして安心させるためであり、政治的な配慮だったといわれています。





大航海物語
ヴィクトリア 女王
在位 1837〜1901

参考資料
ヴィクトリア女王

イギリス 天保10年 1840/5/6 発行の
世界最初の郵便切手 ”ブラック・ペニー”
晩年のヴィクトリア女王

バーブダ 1970/10/15 発行


クゥィンズランド州100年記念
オーストラリア 1960/11/2 発行

”WE HOLD A VASTER EMPIRE THAN HAS BEEN”
ヴィクトリア女王曰く、「我が領土に日の没するところ無し」


ヴィクトリア女王時代のイギリス領土(一大植民地帝国を築)
カナダ 明治15年 1898 発行 (200%)

ヴィクリア女王 (1819/5/24〜在位1837/6/20〜1901/1/22)
  Queen Alexandrina Victoria Wettin

ヴィクトリア女王は初代インド女帝(在位:1877/1/1〜1901/1/22)で、ジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘。ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法を取っており、女性の統治が認められなかったため、ヴィクトリアはハノーファー王位を継承せず、叔父エルンスト・アウグストがその地位を継ぎました。ファーストネームであるアレクサンドリナの名は代父であるロシア皇帝アレクサンドル1世に名付けられ、ヴィクトリアは母親の名でした。1820/1/23に、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公が亡くなりました。母ケント公夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアは3才までドイツ語のみを話す生活を送り、そのためかヴィクトリア個人は生涯ドイツびいきでした。ウィリアム4世の死後にヴィクトリアは18才で即位し、首相ウィリアム・ラムの助言により政治を行いました。

ヴィクトリア女王の時代には、イギリスでもっとも輝かしい時代が訪れ、その時代はヴィクトリア朝と呼ばれています。それは世界中の王室のモデルとなりました。その時代にイギリスは世界各地を植民地化して一大植民地帝国を築き上げ、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号も得ています。「君臨すれども統治せず」によって議会制民主主義を貫き、彼女の寵愛するベンジャミン・ディズレーリ、そして良き夫であるアルバートの助言によってイギリス帝国は繁栄しました。ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン・コーブルク・ゴータ公子アルバートと初めて会ったのは16才のときでした。血縁関係の他に2人は同じ主治医にかかっており、そこから交際が深まりました。ちなみに、女王に求婚することは許されなかったので、ヴィクトリアは自分からアルバートに求婚しました。結婚式は21才の時の1840/2/10に行われました。アルバートが政治に関ろうとしたため、2人の間にははじめ軋轢があったものの間もなく妥協が成立し、2人の結婚生活は極めて成功した幸福なものとなりました。趣味は乗馬と日記でした。乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開しました。競走馬は持たないという夫との約束で生産した馬はすべて売却していましたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュ号の生産者としても名を残しています。

結婚21年目(1861/12/14)に42才で夫アルバートが亡くなりました。夫の没後は悲嘆にくれ、王室牧場も1894年に閉鎖、常に喪服を着用し、公の場に出ることは殆どなくなりました。1899年にヴィクトリア&アルバート美術館建築に着手しました。1901年に81才で亡くなりました。その在位64年間はイギリス史上最長です。子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至りました。しかし女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病しました。ヴィクトリア女王の傍系の親族には血友病保因者はいないため、ヴィクトリア女王が血友病の突然変異を持って生まれたといわれています。

なお、1840/5/6にはサー・ローランド・ヒルの手によって世界最初の郵便切手”ブラック・ペニー”が発行されました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2007/12/20
スタンプ・メイツ
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