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| ★スペイン | キロス
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大航海物語★ | |
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NORFOLK ISLAND
キロスとサン・ペドロ・パウロ号 1605〜06の太平洋航海地図 ノーフォーク 1994 発行 |
POLYNESIE FRNCAISE![]() キロスと太平洋のポリネシア付近の地図 ポリネシア 1995 発行 |
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| サン・ペドロ号 | サンペリコ号 | |||
ヴァヌアツ→ |
![]() 1606 キロスのヴァヌアツ発見400年記念 2006 キロスとトレス |
←アカプルコ ←カヤオ |
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キロスはメンダーニャの第2回探検航海に参加して、太平洋を西へと航海しソロモン諸島を目指しましたが、その航海の途上、マルケサス諸島のサンタクルス島にてメンダーニャが亡くなりましたので、残った一行を率いて、フィリピン・マニラへ到達しました。その後の探検航海でニューヘブリデス島を発見(1606)しました。 |
| ペドロ・フェルナンデス・ド・キロス (1560?〜1614) Pedro Fernandez de Queiros ポルトガルの船乗りキロスは若い頃の事は不明です。彼が歴史に登場するのは35才頃、一攫千金を夢見て、1595年4月メンダーニャの第2回探検航海に参加した時からです。6隻の船団に入植者の花嫁候補の女性を多数乗せた船団と共にペルー・リマ近郷のカヤオ Callao 港を出帆し太平洋を西へと航海、ソロモン諸島を目指しました。太平洋を3ヶ月も航海して、7月にマルケサス諸島のマグダレ−ナ島に到着しました。島の住民のポリネシア人とは最初は上手くいったのですが、その後は流血の惨事が起こりました。メンダーニャとキロス一行はマグダレ−ナ島を後にしてサンタクルス島へ行き、今回の航海はここで打ち切りとなりました。目指すソロモン諸島はまだはるか先ですが病気や上陸した島での戦闘で、すでにかなりの人数を失っていた上に、サンタクルス島へ着くと参加者の間での対立や不和が一気に表面化してしまい、隊としての統制が取れなくなっていたのです。メンダーニャは10月半ばに亡くなってしまいましたので、残った一行は”キロス”に率いられて、1571年より スペイン領となっていたフィリピンへ向い、1595年にサン・ヘロニモ号に乗船していたキロスはミクロネシア南部にあるカロリン諸島ポンペイ島(現ミクロネシア連邦)を発見し、3ヵ月以上の航海の後に、1596年2月やっとのことで、フィリピンのマニラ港に入港できました。1605年12月にキロスは一攫千金の夢が忘れられず、45才頃、サン・ペドロ・パウロ号に乗船、幻の南方大陸”テラ・アウストラリウス”の探検航海にペルーのカヤオ港をトレスらの船と共に、3隻でふたたび出帆しました。 |
| そして、翌年の1606/1/26に南太平洋のほぼ真ん中で、絶海の無人島”ピトケーン島”を発見しました。そこはヘンダーソン島(Henderson Island)で、南太平洋に浮かぶ島のピトケアン諸島に属するイギリス領の無人の孤島。バウンティ号の反乱事件で一躍有名になったピトケアン島から約190Km離れた所にあり、面積約37kuの珊瑚礁の島で周囲は岩礁に取り囲まれている。この孤島にはかつてポリネシア人による社会が存在したが、後にその社会は消滅し(いわゆるミステリー・アイランドの一つ)。キロスによると、上陸した際は無人島であったが、古代ポリネシア人が生活していた思われる痕跡があったという。 08/1/25追記 | ピトケーン島![]() ピトケーン 1969/9/17 発行 |
| デュシー島(Ducie Island )は、イギリスの海外領土であるピトケアン諸島に属する島で、面積約6.50 kuの無人のサンゴ環礁で、1902年からピトケアン島に属するイギリス領になり、ピトケアン諸島の中では一番東にあり、ヘンダーソン島からでも350
kmも離れた所に有ルこの島を、1606年にキロスが発見し、エンカルナシオン島と名付けました。また、同じく1606年にキロスがピトケアン島から約190Km離れた所にある、面積約37ku2の珊瑚礁の島で周囲は岩礁に取り囲まれている孤島のヘンダーソン島を発見し、上陸した際は無人島でしたが、古代ポリネシア人が生活していた思われる痕跡があったと報告していました。 そして、さらに西へと航海して、1606年の4月ごろにニューヘブリデス諸島に到達しました。ニューヘブリデス諸島(New Hebrides Islands、現バヌアツ、Vanuatu)のエスピリトゥ・サント島に到着したキロスは、その地が南方大陸”テラ・アウストラリス Terra Australis”の一部であると信じて疑わず、「聖霊の南方大陸」"Australia del Espirita Santo"と、興奮しながら命名したと伝えられています。また、別説では「1606/4/27にポルトガル人のキロスが現在のエスピリトゥ・サント島(Espiritu Santo)に上陸し、聖なる大陸と勘違いして”Tierra Australia del Espiritu Santo”と名付けた」と有りました。この誤認報告がヨーロッパにもたらされ、ヨーロッパ人に南方大陸の存在説として知られるようになりました。54才頃に亡くなりました。現在では、キロスはバヌアツ共和国の発見者として記録されています。日本の外務省HPでは1605年発見となっていました。 なお、別説では、キリスト教の布教を条件にスペインの援助により3隻の”ピンネス”で1605年の航海に出発したとなっているのもあります。どうやら、彼はフィリッピンからローマへ行き、前回の航海の物語をカトリック教会関係者に話してローマ法王に謁見し、その「つて」でスペイン本国で国王に働きかけて一攫千金の夢を実現するべく船を貰ったようです。そして、マニラへ到着して9年余りたってから再びペルーのカヤオ港を出帆したわけですね。その内の1隻の船長がルイス・B・トレスだったわけです。 なお、ニューヘブリデス諸島は、1774年のキャップテン・クック第2回航海の時、クックが祖国イギリス・スコットランド西方のヘブリディース諸島にちなんで、ニューヘブリデス諸島と名付けました。ニューヘブリデス諸島は、1906年に英仏の共同統治下に入り、1980年に独立(英連邦の一員)バヌアツ共和国、サント島反乱鎮圧となりました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 04/3/3 |