E S P A N A(IV)

       スペイン人のアステカ帝国征服
                 ESPANA
コルテス

1948
ケサ−ダ

1961
メンドーサ

1966
ガスカ

1964
コルドバ

1924
ス ペ イ ン 発 行 ニカラガ発行

ヌエバ・エスパーニャ古地図、1579
ニュースペイン(メキシコ)


カリフォルニア半島
←スパニッシュ
   ガレオン船




←フロリダ


←キューバ

←ユカタン半島



メキシコ 1979 発行

太陽の帝国 ”アステカ” の「石の円盤」
メキシコシティの建設現場より出土
MEXICO
石の円盤
1978年2月27日メキシコの首府メキシコシティの建設現場の地下で、配管工が”浮き彫りを施した巨大な石の円盤”を発見、メキシコ考古学会は総力をあげて発掘にあたりました。そして、世界最大の人口2000万人を擁するメキシコシティのど真ん中からアステカ帝国の大ピラミッドが出現しました。ピラミッドの頂上には双子の神殿があって、その前で生贄の儀式が行われていました。直径3.75mもあるこの石の円盤は大ピラミッドの一部で、アステカの暦で宇宙観を表しているといわれています。中央の太陽神が現在の太陽で、その周りの4つはすでに滅んだ太陽です。52年ごとに太陽が滅ぶと言い伝えられていました。アステカの人々は太陽が滅ぶのを防ぐため、生きた人を生贄として差し出しました。生きた人をアステカの大ピラミッド頂上の”生贄の台”に横たえ、人の生皮をかぶった神官が「柄の部分に青いトルコ石の装飾を施した黒曜石のナイフ」で胸を切り裂き、まだ脈打っている心臓をつかみ出して、石造”チャックモール”の腹の上の皿にのせました。その流れ出る血が太陽の活力を高めると信じられていました。

上の切手は中央に太陽神の顔を描いています。太陽神の顔は舌をベローッと突き出していて、舌の上にのせているのが黒曜石のナイフです。右下の切手の右の神官が右手に胸を切り裂く黒曜石のナイフを持っていて、左手にはつかみ出した心臓があり、右上の切手は生贄となった犠牲者を横たえる石の台が描かれています。なお右の切手はマヤとの異説も有ります。いづれもメキシコ発行。

アステカ帝国は太陽神を信仰していて、太陽の活力が衰えるのを防ぐために生贄をささげる宗教儀式を毎日のようにしていました。生贄は生きた人間で、テノチティトランの大ピラミット頂上の石造祭壇”いけにえの台”で執り行われ、それを祭壇の後ろにある”双子の神殿”に捧げられました。そうすると太陽神に活力を与え、今宵沈んだ太陽が、また明日には昇ってくると信じられていました。そのあと生贄は首を切り落とされ、物干し竿のような棒に串刺しにされて、さらし物にされました。胴体は祭壇の下の溝に落とされ、飼ってあるジャガーの餌にされました。生贄には周辺の他の部族に、”いけにえ狩り”の戦争をしかけては捕虜を捕えて来て生贄としました。
生贄の台

メキシコ 1934 発行
黒曜石のナイフを持つ神官

メキシコ 1971/4/24 発行








アメリカの古代文明
マヤ、アステカ、インカ
MEXICO

王の頭

遺跡

ピラミッド

遺跡
オルメカ マ ヤ

アメリカの古代文明について
中央アメリカに最初にあらわれる文化はオルメカ文化で、前9世紀頃といわれています。オルメカの「王の顔」は直径3m推定40トンの石造です。オルメカ文化がもとになって前2世紀頃からメキシコ高原で発展したのがテオティワカン文明で、アステカ文明の1500年前といわれていて、大型石造建築「ピラミッド」などの遺跡が残されています。

ユカタン半島で生まれたのがマヤ文明(3世紀〜10世紀)。これもオルメカ文化の影響で成立したとされています。ここもピラミッドや石造りの神殿など巨大建築の遺跡が残されています。複雑なかたちをした絵文字が有り、すでに2/3が解読されています。マヤ文明は10世紀を境にして衰退して、スペイン人が来たときには、マヤ人たちは巨大な建造物を造るような力を失っていました。マヤ文明は衰えたとはいっても、マヤ人はそれまでスペイン人が知っていた原住民とは全然違う高い文明を持っていました。そしてマヤ人の情報から"富める帝国"アステカ帝国の存在を知りました。

メキシコ高原ではテオティワカン文明のあとトルテカ文明が引き続いて栄えました。いろいろな民族が興亡を繰り返しましたが、スペイン人が来たときに栄えていたのがアステカ帝国でした。アステカ帝国は、第11代皇帝モンテスマ2世の治世下で繁栄の絶頂にあり、支配地域の各王国に貢納義務を課していましたので各地からの産物が都に集められていました。都はテノチティトランでした。アステカ帝国の繁栄ぶりをしめしているテノチティトランはテスカカ湖の中に浮かぶ島にありました。島に渡るための堰堤が三本造られていて歩いて渡っていました。テスカカ湖は3000Ku琵琶湖の4.5倍もある人造湖だったといわれています。そこの島には400m四方の中央広場に45mの大ピラミッドがそびえ、神殿、祭壇など100以上が建ち並ぶ神域があり、運河や上水道がめぐらされた壮大な都が築かれて、20万人以上の人々が生活していました。当時の世界ではヨーロッパをもしのぐ最大級の都市でした。テノチティトラン内の北部には”トラテロルコ”市場があり、商品の種類ごとに整然と区分けされいて、ありとあらゆる品物が並べられて商われており、アステカの金細工もありました。1日6万人の市民で賑わっていたと伝えられています。そこへ供給される農産物はシナンパと呼ばれる、水路を張り巡らせた人口農地に水底の滋養に富んだ泥土を汲み上げておこなう農法で、豊かな実りが生産されていました。この農法は現在もソチミルコ地方に残っているそうです。初めてテノティチトランを見たスペイン人はその壮麗さに驚いたといわれていますが、アステカ帝国はスペイン人によって滅ぼされ、テノチティトランも破壊されました。現在では湖はなくなってしまって、テノチティトランの上にコルテスが再建したメキシコの首府メキシコシティがあります。アステカは自らを「神に選ばれた民」を意味する「メシカ」と称していましたが、それがメキシコの語源となりました。

南アメリカ・アンデス高原にはメキシコとは無関係に独自の文化が発展しました。前10世紀にはチャビン文化が誕生しました。7世紀にアンデス高原一帯に都市を建設したのがティアワナコ文明。トウモロコシやジャガイモを栽培し、家畜はアルパカやリャマを飼育していました。この文化をうけて15世紀に成立したのがインカ帝国。首都クスコを中心にして道路網を整備し中央集権的な国家を建設していました。クスコの町に今も残っている石積みの壁は全然隙間がなくてカミソリの刃一枚通らないといわれています。そういう高度な石造建築が残っています。このインカには文字がありませんでした。ただ、文字の代わりにキープと呼ばれる記録方法がありました。キープは「結縄」と訳されています。縄を結んでコマをつくり、その結び目の形や数で数字をあらわし、税の徴収を記録するために使われたといわれています。

メキシコ高原のマヤとアステカはオルメカ文化の流れをくんでいますが、お互いには直接の交流はありませんでした。これらの文明とアンデスのインカ文明は、基本的には孤立していました。高度な石造建築術や複雑な暦法をあみだしていましたが、金属器は、金、銀、青銅の利用で、鉄器はありませんでした。また、車輪を知りませんでした。回転するという技術を利用しなかったようです。動物では馬がいなかったので当然ですが騎馬を知らない。だから、マヤ人はスペイン人が騎馬で来たときに、それを人馬一体の一つの動物だと思ったといいます。鉄器も持たず馬に乗ることもないアメリカ先住民がスペイン人が来たときに簡単に征服されてしまったのはある意味では当然といわれています。石器時代(古代)と鉄砲時代(近世)の戦いだったわけですね。

アメリカ大陸原産の農作物では、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、唐辛子が有名です。トウモロコシやジャガイモは旧大陸にもたらされて、あっという間に世界中に広がりました。特にジャガイモは寒くてやせた土地でも収穫できたので、世界中でどれだけ多くの人を飢餓から救ったかわかりません。唐辛子がアメリカ原産でコロンブスがアメリカに行ったのが1492年、その百年後、戦国時代を統一した豊臣秀吉の朝鮮出兵、日本が朝鮮半島に攻め込みました。この時に日本軍が朝鮮にもたらしたのが唐辛子だといわれています。それまで「キムチ」には唐辛子は入っていなかったのだ!







ウィーン絵文書(えもんじょ)
アステカの絵記録
Tlaloc 雨の神

国立中央気象台100年記念

メキシコ 1977/11/4 発行
古代アステカの商人

メキシコ商工会議所100年記念

メキシコ 1975/4/18 発行
1519年コルテスが上陸したメキシコのベラクルスで待っていたアステカの使者より贈られた宝物の中に有った「アステカの絵記録」は、現在ウィーンの「オーストリア国立図書館」に保存されていて”ウィーン絵文書”(うぃーん・えもんじょ)と呼ばれています。その絵記録を図柄とした切手がメキシコより発行されました。

スペイン人のアステカ帝国征服
16世紀の初め、スペインはコロンブスが発見した新大陸への渡航ブームの熱に浮かされ、多くの人が新世界へと船出しました。まずはイスパニョ−ラ島に渡り、島の開発に従事しました。開発は原住民を使役して砂金の収集や豚、牛の牧畜が中心で、1515年頃からサトウキビの栽培が始まりました。イスパニョーラ島周辺はインディアス総督領としてコロンブスが失脚してからスペイン国王の命で 総督が派遣されてきました。最初の総督は1498年5月フランシスコ・デ・ボバディリャが任命され、1500年8月 イスパニョ−ラ島に到着し、コロンブス兄弟を鉄鎖につないで本国へ強制送還しました。1502年にはニコラス・ド・オバンドが新総督に任命され、2500人のスペイン人入植者と共に赴任してきて「原住民のキリスト教化を実現するためとスペイン人植民者の生活を保障しインディアスからの歳入増加を図るため」にとエンコミエンダ制の導入をイサベラ女王に提案し許可を受けました。

1511年6月にはインディアスのディエゴ総督がイスパニョ−ラ島での金産出量減少とインディオの人口減少による苦境を打開するためと、キューバ島での金発見との知らせで国王が征服を命じてきましたので、キューバ島への遠征を計画しました。インディオとの戦いで勇名をはせたイスパニョーラ島一の有力者ドン・ディエゴ・ベラスケス・ド・クエージャルを指揮官に任命しました。1511/6/28ベラスケスはキューバ南岸の入り江に上陸.国王の守護聖人の名により「サンチアゴ」と名付けました。1513年ベラスケスはカオナオで原住民を大虐殺しました。「天然痘」や「ハシカ」「風邪」「結核」などの疫病の流行もあって、30万人の原住民を抹殺してキューバが征服されました。キューバには「マタンサス」という地名が有りますが、スペイン語で「大虐殺」という意味で名付けられたといわれています。

この頃コルテスはエンコメンデロとしてキューバのサンチアゴに腰を落ち着けていました。

1515年頃になるとキューバ島で労働力不足が深刻になりました。キューバ島でも開発は砂金の収集と豚・牛の牧畜が中心でサトウキビの栽培も始まりました。こうして開発が行われましたが労働力不足が深刻でした。1515年キューバ総督ベラスケスはホンジュラス沖に2度にわたって奴隷狩りの船を送りました。その中の船が嵐でユカタン半島付近に漂着して、他の原住民とは明らかに違う「マヤ人」に出会い“富める帝国”の話を聞いたといわれています。

1517年“富める帝国”の噂を聞いたベラスケスはエルナンデズ・ド・コルドバ・バルディビアの指揮する奴隷狩の艦隊を西方探検に派遣しました。1517/2月ゴルドバの第1次メキシコ探検隊がキューバを出発、ユカタン半島の東北の角からカンペチェあたりを沿岸航海し、「木綿の服を着てトウモロコシ畑を耕している人」を見たり、「見事な石工技術を示す都市」を見つけて“大カイロ”と名付けたりしました。「マヤ人」と出会ったわけですがユカタン半島北東部のコスメル島に漂着しました。原住民の襲撃にあいコルドバは負傷し、数回戦って大部分の仲間を失い、僅かな乗組員がキューバへ戻りました。コルドバはキューバに着いてから戦いの傷のため亡くなりました。

1518年4月ベラスケスは甥のホアン・ド・グリハルバを再び探検に送り出し、ユカタン半島よりも先の中央アメリカ海岸を探検しました。第2次メキシコ探検隊はカトーチェ岬付近からホンジュラス湾に入った後、北上しユカタン半島西岸をホアン・デ・ウルア島まで南下,アステカ帝国の使者と接触、現在のメキシコ沿岸をタンピコまで航海しその土地を”ヌエバ・エスパーニャ”と命名しました。この航海でアステカ帝国や統治者モンテスマ、アステカの絵文字、アステカの伝令制度などの情報を得てきました。グリハルバは交戦を回避するため内陸には入リませんでしたが、カンペチェで原住民と遭遇し戦い13人を失っただけでキューバに戻りました。こうしてメキシコが発見され、1519年エルナン・コルテスの率いる第3次メキシコ探検隊がスペイン人6百人と16頭の馬などを準備してキューバ島から出発することとなりました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       11/4/30追記

スタンプ・メイツ
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