★オランダ
オランダ対イギリス戦争
Anglo-Dutch Wars
第1次1652−54、第2次1665−67、第3次1672−74

大航海物語
参考資料★
NEDERLAND ニューアムステルダムを割譲
ロイテル提督
ニューアムステルダム港のオランダ船








ニューアムステルダム、1667
1607ロイテル生誕300年記念1907
オランダ明治40年1907/3/23発行
1653ニューヨーク300年記念1953
アメリカ 1953/11/20 発行
1667 ブレダ条約300年記念
スリナム 1967/7/31 発行


イギリス大植民地帝国の領土地図
カナダ明治31年1898発行(200%)
←オランダ
←イギリス






オランダ対イギリス戦争
17世紀始めには英国国教会のイギリスとプロテスタントのオランダとの両国はカトリックのスペイン・ポルトガル勢力に対して協力関係にありましたが、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回り、1623年のアンボイナ事件を契機に、イングランドは東南アジアや東アジアから撤退せざるを得なくなりました。香料貿易を独占したオランダにはアジアの富が流入し、イングランドでは反オランダ感情が高まりました。

17世紀後半にイングランドが制定した航海条令を不満とするオランダとの間で戦争が勃発し、三次に渡って戦争が闘われました。海戦が中心で双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも決定打を欠き、中途半端な結果に終わりました。しかし、一連の戦争で、イギリスの海上支配が確立し、オランダの国力は疲弊し、やがてオランダは衰退していきました。

蘭英戦争(オランダ・イギリス戦争) Anglo-Dutch Wars
・第1次 (1652〜1654)
1651年にイングランドが制定した航海条令を
原因として開戦。両国艦隊が交戦しましたが、第1次ウェストミンスター条約(Treaty of Westminster)1654/4/5に締結された条約で、第1次英蘭戦争を終結させた講和条約。オランダが航海法を承認することで、公海上でのイギリスの優位を認めると共に、賠償金支払い、ホラント州からのオラニエ・ナッサウ家の排除を決定しました。

・第2次 (1665〜1667)

・航海条令を更新したイギリスが北米のオランダ植民地を侵略したのが原因で開戦。
1665/6/13、北海のローエストーフト沖にてヨーク公率いるイギリス艦隊130隻とオプダム率いるオランダ艦隊120隻が衝突した。イギリスはこの後ペストの大流行とロンドン市を焼き付くす大火に襲われたが戦争遂行の決意は揺るぎませんでした。
イギリスはブレダ条約によりニューヨーク(ニューアムステルダム)などを獲得。

ブレダの和約は1667/7/31にイギリス・オランダ間で締結された講和条約で、この和約により第2次英蘭戦争は終結。オランダ首相デ・ウィッテの提案により占領地保有主義の原則が適応され、オランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を含む北米植民地をイギリスに割譲しましたが、占領したスリナム、ギアナなどの南米北岸(後のオランダ領ギアナ)を得、他にイギリスの航海法を修正緩和し、ライン川を経由するオランダ船舶には適応されないこととなりました。

・第3次 (1672〜1674)

1672年イギリスがフランスのルイ14世によるオランダ侵略戦争に加担して開戦。3月には英仏海峡を航行中のオランダ商船が突如イギリス艦隊から攻撃を受けました。イギリスはこの時オランダ船が抵抗したことを理由として、三たびオランダに宣戦布告し、「第三次英蘭戦争」が勃発しました。フランスがイギリスが側に立って参戦し、フランス陸軍十数万がオランダ国内へと侵入し、海上からはイギリス、フランス連合軍がオランダへの上陸を試みましたが、ロイテル提督率いるオランダ艦隊の1672年「ソールベー沖の海戦」などの活躍により撃退されました。

・講和条約 (1674/2/19)
第3次ウェストミンスター条約(Treaty of Westminster)で講和が成立しました。1674年に締結され、第3次英蘭戦争を終結させた講和条約で、敗北したオランダは、イギリス・フランスに賠償金を支払うと共に、入植していたニューアムステルダム(ニューヨーク)、ニュージャージーなどの北アメリカ植民地をイギリスへ割譲することで合意しました。

イングランドは3次にわたってオランダと開戦し、オランダ経済に大打撃を与えましたが、皮肉にも1688年の名誉革命により、かつて敵対したオランダ統領ウィレムをイングランド王ウィリアム3世として迎えることとなりました。名誉革命は国際関係からみれば、クロムウェルが提唱した英蘭合邦案の実現ともいわれています。その後の王政復古でチャールズ2世には世話になった人が大勢いて、彼等に対する褒美として海外の領地を与えることを考えて、まず弟のヨーク公にアメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを与え、1664年に「ニューヨーク」と改名されました。そしてヨーク公はサー・ジョージ・カートレットにニュージャージーを分け与えました。






★オランダ
イギリスの航海条例
1651
オランダ船を英国から締め出し

大航海物語
参考資料★
Duth Buccaneer
ダッチ・バッカニア船・カリブの海賊船
17世紀オランダの海賊船


ヴァージン諸島 1969/1/15 発行
新大陸への移住船
ダッチ・ガレオン船
ニューネザーランド号、1624


USA 大正13年 1924/5/1 発行
ドレーク船長の乗船
ブリティッシュガレオン船・カリブの海賊船
エリザベス・ボナベンチャー号
、1585

英領ヴァージン諸島 1969/1/15  発行

英仏海峡の地図

ジャージイ 発行

・航海条令、1651年 Navigation Acts
イギリスで、オランダの仲介貿易圧迫と自国海運の保護および貿易の伸長のために制定した法律。輸入する商品はイギリスまたは産出国の船舶のみに積載すべきことを定めた。
1849年に廃止された航海法で、大百科事典より引用。

航海条例(こうかいじょうれい、Navigation Acts)は、狭義にはクロムウェルが実権を握っていた1651年にイングランド共和政府が発布した条例である。「航海法」「航海条令」ともよばれ、オランダ商人による中継貿易の排除を目的とした。英蘭戦争のきっかけとなり、またイギリス商業革命の要因ともなった。Actsと複数形で呼ばれるのは、航海法が制定されたのが複数回(1381年から1696年にかけて9回)だからである。ここでは、歴史的に最も頻繁に言及される1651年の航海条例についておもに言及する。

1651年の航海条例
この条例の目的は重商主義にもとづき、植民地との中継貿易からオランダを締め出すことにあった。植民地およびヨーロッパ諸港との貿易を、以下の条件を満たす船に限定し、それ以外の入港を禁止した。ただし、植民地の船の乗り入れは許された。 乗務員の四分の三以上がイングランド人であること。 イングランド製の船であること。 所有者がイングランド人であること。 明文化はされていないが、フランスや当時中継貿易の主役であったオランダの排除が狙いであることは明白であり、この法案の起草者・支持者もそれを狙っていたといわれる。

制定の経緯
オリヴァー・クロムウェルが実権を握っていた時期にこの法案が議会を通過したため「クロムウェル航海法」とも呼ばれるこの法案には、実際はクロムウェルは関わっていない。1651年10月に議会を通過したとき、クロムウェルは国王軍討伐の遠征の途上にあった。法案はピューリタン革命で議会に残ったランプ議会が通過させたが、この発案者や推進者が誰なのかは分かっていない(1)。クロムウェルは、プロテスタント勢力が相争うことになると思われるこの法案に批判的であり、クロムウェル率いる軍と議会の溝は深まっていった。

航海条例の影響
1651年の航海条例は、対内的・対外的に影響を与えた。その主なものを列挙する。 それまで同じプロテスタントとして比較的友好状態にあったオランダとの関係が決定的に悪化し、翌1652年に始まる英蘭戦争の引き金になった。この勝利により、イギリスは世界帝国の形成および重商主義政策に向かうことになった。 オランダとの戦争は、逼迫していた国家財政をさらに悪化させた。財源に窮したランプ議会は、教会や王室および国王派の領地没収を行った。それでも財政を賄えず、議会は軍隊の縮減を要求するにいたった。これに反発した軍は実力行使におよび、ランプ議会を解散させた。その後しばらく国政は混乱することになり、クロムウェルの護国卿就任へとつながった。 上に関連して、国情の混乱が結果的にピューリタン革命の終焉と王政復古への道を早めた。

その他の航海法
Navigation Actとよばれる法は9回制定されている。1381年・1485年・1540年の航海法は、たんに海運を盛んにするとともに海上防衛を強化させるためのものであった。1650年の共和政府による航海法は、イングランド植民地における外国船の交易を禁じた。1660年には、砂糖などの植民地の主要産物は本国にのみ輸出できるとし(他国への輸出を禁止)、さらに1663年、ヨーロッパから植民地への輸出はイングランドを介して行うものとした。これによってイングランドは植民地との交易を完全に掌握するに至り、密貿易を取り締まる目的で1672年にも制定された。最後の1696年航海法は、商務植民地庁(商務省の前身、Board of Trade and Plantations)を設置し、貿易の統制・監督を行わせるためのものである。 これら諸航海法は、19世紀に入って自由主義経済とその思想が広まりを見せると、それにあわせて1854年廃止された。
スタンプ・メイツ
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