わたしは、神が全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

罪の数々がわたしを圧倒しましたが、神に背いたわたしたちを、神は贖ってくださいます。

いかに幸いなことでしょう、神に選ばれ、近づけられ、神の庭に宿る人は。

恵みの溢れる神の家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りています。

わたしたちの救いの神、神の恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えです。

遠い国、地の果てに至るまで、すべてのものが神に依り頼みます。

御力をもって山々を固く据え、雄々しさを身に帯びておられる方。
 
大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを静める方。

お与えになる多くのしるしを見て、地の果てに住む民は畏れ敬い、朝とゆうべの出で立つ所には、喜びの歌が響きます。

神は、眠りから覚めた人のように、酔いから覚めた勇士のように奮い立ち、御自ら油を注がれた人の敵を撃って退かせ、とこしえに嘲られるものとされました。












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主なる神の証し
~主なる神に救われた息子~
終わりの日の預言 

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平成4年、マスコミで「霊視商法詐欺事件」として取り沙汰されている寺がありました。

その寺は宗教法人「厳修山本覚寺」で、事件の少し前まで私が信者として通っていた寺の本山でした。

この事件がどのようになってゆくのか、この事件がどのような意味を持っているのか、この時点では誰も知る由もありませんでした。

 

本覚寺は霊視商法であるとして、損害賠償請求訴訟が提訴されました。

被告となっていたのは本覚寺N管長と一部の教団幹部で、本覚寺総務本部長S・M氏が裁判を一括管理していたため、他の僧侶たちが訴状を目にすることはありませんでした。

本覚寺N管長(後のN門主)と総務本部長は、自身が召喚されていた裁判への出廷を逃れるため、ただそれだけのために僧侶らの詐欺性と脅迫性を勝手に認めてしまい、ほぼ100%に近い金額で和解しましたが、それによって損害賠償訴訟は落着するどころか、むしろ拡大していきました。

そのため多額の和解金の支払いが見込まれ、教団の活動を活発化させて収益を増大させる必要に迫られていました。

 

一方高野山では、供養本山として「高野山奥の院命源寺」の建立が、信徒の寄進によって進められていました。

平成5年3月、N管長は買収した和歌山県海南市にある廃寺「明覚寺」の代表役員にY氏を就任させましたがが、Y氏にはその廃寺の住職との説明しかしておらず、「明覚寺」として何も活動してはいませんでした。

また、N管長は本覚寺を休眠法人にし、本覚寺の僧侶を明覚寺に移籍する手続きをとりました。しかしN管長はこのことを隠し、教団は「真言宗菩提心派」になるとしたのです。

 

平成6年春、N管長は北海道、東日本へと末寺を拡大しました。

同年7月、N管長はY氏を「真言宗菩提心派」の宗務総長として別院を任せ、自身は古参僧侶らと共に横浜に「僧侶養成院」を設立し、新しく得度した僧侶らの教育の中心に据えたのが、N管長考案の「供養料発生システム」です。

「供養料発生システム」は、別院とは全く異なる独自の指導方針で、Y氏をはじめ別院の僧侶たちは、この「供養料発生システム」のことを知りませんでした。

同年10月頃から、N管長は、「供養料発生システム」を実行する鑑定施報院グループ(横浜霊験寺・名古屋満願寺・大阪大運寺・大阪開運寺)を、続けざまに開設しました。

N管長は「鑑定施法院」のことを別院に対して「戦艦道場」と呼び、自らを誇示していました。

後に、その中の1つ「名古屋満願寺」で刑事事件が起こります。

 

平成7年4月末、N管長から、高野山本山の落慶と同時に教団は「高野山明覚寺派」となり、それまで宗務総長を務めていたY氏が明覚寺管長となること、自分は「真言宗覚王院門門主」となること、本覚寺管長S・T氏が代表役員を務める本覚寺は協力寺院となることの発表がありました。

そして同年8月、「高野山明覚寺」が落慶しました。

 

同年10月、「鑑定施法院の僧侶らが、霊能がないのに霊能があるように装い、金員を搾取した」との詐欺容疑で、満願寺の僧侶数名が愛知県警に逮捕されました。

名古屋満願寺で詐欺が実行されたとする時期は、平成6年11月から平成7年4月頃とのことでした。

その後、名古屋満願寺に在籍したことのある僧侶がいる全国各地の系列寺院に、捜査の手が入りました。

 

「名古屋満願寺」は、門主となったN管長が教育した「供養料発生システム」を実行していた寺院です。

当時「供養料発生システム」のことを知らなかった別院の明覚寺Y管長、高野山主管、別院の僧侶らは、何故このような容疑をかけられたのかを理解できず、言いがかりだと思っていました。

N門主は、「事件は、当局の誤解から始まった宗教弾圧事件」と主張し、皆それに同意していました。

 

この明覚寺Y管長が後の「主の民」の預言者エリエナイであり、高野山本山主管が後の「主の民」の大祭司ハナンエルです。

 

平成8年2月1日、名古屋満願寺を指導していたとして、N門主、本覚寺S管長、本覚寺幹部数名、明覚寺Y管長が逮捕されました。

「供養料発生システム」が名古屋満願寺で行われていたことを知らなかった明覚寺Y管長は、N門主の「事件は、当局の誤解から始まった宗教弾圧事件」との説明を信じ、宗教弾圧事件を闘う覚悟でした。

本覚寺S管長及び本覚寺幹部らは全員起訴保留ということで釈放されましたが、明覚寺Y管長は身に覚えのないN門主との詐欺の共同共謀正犯の容疑で起訴され、2人は名古屋拘置所に移管されました。

これを機に、多くの僧侶、信徒が去っていきました。また、民事の損害賠償訴訟も全国に拡大し、多くの僧侶たちが被告人となっていきました。

 

全国の末寺は次々と閉鎖されましたが、信徒組織「大師報恩講」が結成され、元僧侶たちも講で活動していましたが、釈放されたS氏の意向によって東西に分裂していました。

一方、先に逮捕された満願寺僧侶らには、次々と執行猶予付の判決が下されていきました。

同年5月、名古屋満願寺で唯一人、容疑を否認していた女性僧侶とN門主、そしてY管長の公判が名古屋地裁で事件の公判が始まりました。

 

同年9月上旬、拘留中の明覚寺Y管長より本山主管に手紙が届きました。

その手紙には、次のように書かれていました。

「平成8年8月29日早朝、聖なる父である『大いなる存在』が、このように言われるのを私は聞きました。

『彼らを恐れるな。覆われたもので現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
わたしが話すことを明るみで言え。
耳にささやくことを言いひろめよ。
しばらくしてわたしは、いま一度、天と地と人を震う。
その後、わが宮の栄光は前の時よりも大きい。
あなた方は宮の基を据えた日のことを心にとめよ。9月24日以降のことを思え。

わたしはその日からあなた方に恵みを与える。』」


その頃、本山主管は新しい弁護士を探していました。

当時参議院議員であり元札幌高検検事長だった佐藤道夫氏は、新聞紙上でも著書でも次のように論評していました。

「大の大人がご利益があると信じて金を出したんだから、宗教で『騙す』『騙される』は適用しない。
決して僧侶を弁護する気はないけど、捜査機関は起訴した以上、まともな宗教とインチキ宗教をどう区別するのか、どこで線引きするのかを、裁判の過程で明らかにすべきである。」

 

教団の僧侶・信徒の多くは、事件を「宗教弾圧」であり「誤解」だと信じていました。

本山主管は、佐藤氏なら事件の真相を明らかにし宗教弾圧であるという本来の裁判を争って下さるかもしれない、そう思い、主なる神が言われた「924日付」で、佐藤氏宛てに書簡を送りました。

 

佐藤氏からは名刺を同封した手紙が返信されてきました。
そして、佐藤氏の門下生の弁護士たちによって新たな弁護団は組織されることとなりました。

しかしN門主は、新しい弁護団を自分に都合のいい嘘で洗脳し、Y管長に全責任を負わせ始めました。
新弁護団は、N門主の嘘にすっかり洗脳されていき、Y管長は孤立させられていったのです。

 

同じ頃、私に「高野山お導き行院」から一通の手紙が届きました。
そこには「もう一度信じませんか」というような内容が書かれていました。その発信源は、本山主管でした。
私は迷いましたが、連絡をとってみることにしました。
ただ、この時点では、生きて働かれる神がおられるなど、想像もできないことでした。

 

平成9年2月末~3月初めにかけて、拘留中の明覚寺Y管長に「本覚寺S管長が預言者や大祭司、そして大いなる存在を信仰する人々を排除抹殺するために印鑑と文書を用いて策略を計るが、旧約聖書の『エステル記』と同じくそれが逆転される」という内容の幻が示され、さらに「彼らの悪事を証明する数々の書類が明るみに出され、Y管長はその文書によって捕囚から解放され、無実が明らかにされる」という内容の幻が示されました。

Y管長は本山主管に、心ある者は共に断食して祈るように手紙で伝え、拘置所の中で「エステル記」に記されている通りに3日3晩断食し祈りました。

ユダヤ歴第12の月のプリム祭は、その年の(西暦1997年)の4月にあたっていました。

まもなく4月になろうとしていました。

そして3月下旬、本覚寺S管長による明覚寺代表役員印と明覚寺Y管長の署名を利用しての「乗っ取り」の企てが発覚したのです。

 

明覚寺Y管長の名で署名捺印した書類が文化庁宗教法人課に提出されたため、文化庁宗教法人課が「拘留中の明覚寺Y管長が、どうやって署名捺印したのか」と不審に思い、高野山の本山に問合せしてきたのです。

文化庁から取り寄せた書面には、次のように書かれていました。

「当宗教法人は他の都道府県内に境内建物を備えないこととなったので、境内建物を備えないこととなった理由を添えて、その旨お届けします。宗教法人明覚寺代表役員  Y.K ㊞」

 

この書面は、宗教法人明覚寺の法人印と代表役員の印を管理していた本覚寺S管長が、明覚寺Y管長の許可なく作成し申請したものでした。

S管長は、末寺を明覚寺から切り離し、その支配権を握ろうと企てたのです。

明覚寺Y管長は同じ拘置所内に拘留中のN門主に、この件について手紙を送りました。

N門主からは、「S氏が勝手にやったことで、S氏を解任し、教団の一切の権限を明覚寺Y管長に委任する」という委任状が返送されてきました。

 

S管長の「謀りごと」は失敗に終わり、逆にその「謀りごと」は「エステル記」の悪者ハマンと同じく自らの頭上に臨むこととなりました。

まさに「エステル記」のままに展開していったのです。

この件以来、本覚寺S管長によって東西に分断されていた民は、主なる神のもとに一つとなり、主なる神によって導かれようとしていました。

 

主なる神が明らかにされたことは、その事だけではありませんでした。

教団の権限を一任された明覚寺Y管長は、事件後の教団内の状況を把握するため、本覚寺S管長が管理していた関東の講の経理台帳の提出を命じましたが、S管長と彼を補佐していた元僧侶はそれを強硬に拒み、姿を消してしまいました。

S管長が姿を消した本覚寺本部の机の上に、鍵の束が残されていました。
その鍵のロッカーには、S管長が保管していた教団の膨大な秘密資料がありました。

それは、平成5年3月に和歌山県海南市にある「明覚寺」の代表役員にY氏が就任以降、明覚寺とY氏の名や印鑑を無断で使い交わされていた契約書の数々と通帳でした。

Y氏が知らないところで、署名の筆跡も明らかに他人のもので、代表印と署名が使用されていた事実が明らかになったのです。

その資料は数回に及ぶ愛知県警・富山県警の強制捜査の際にも押収されることなく、どこかに隠されていたものでした。

 

平成4年に本覚寺に損害賠償訴訟が提訴され、ほぼ100%に近い金額で和解し、その後訴訟は拡大していきました。
そのため、多額の和解金の支払いの必要に迫られ、N門主と側近の総務本部長S.M氏は、責任を負わずに和解金を捻出し、利権を得る方法を考えたのです。

彼らは、和歌山県海南市にあった廃寺「明覚寺」を買収し、その代表役員にY氏を就任させ、本覚寺を休眠状態にして本覚寺の僧侶を明覚寺に移籍し、明覚寺の末寺を増やし、明覚寺に収められた浄財を本覚寺に寄付するという経理操作を行って自分たちに金銭を集め、損害賠償責任と教団の借財などの一切の法的責任は、Y氏の知らないところでY氏に負わせていたのです。

その集めた多額の金銭の多くが、宗教名目以外のことに費やされていました。

教団の信徒たちは、「宗教」という名のもとに、まんまと搾取されていたのです。

この資料こそがN門主と教団の真の姿であり、「隠されている事」であり、Y管長の無実を証明する証拠でした。
このことは、「エステル記」で、明るみに出された書面によってモルデカイが解放されたのと同じく、Y管長が解放される証拠となったのです。

こうして次々と、幻の通りに成っていきました。

 

 

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